彼は静かに佇んでいた。
 星々に照らされた中途半端な闇に溶け込むようにして、まっすぐに突っ立っていた。
 彼の目は、鮮やかな明るいブルーをしていた。
 あのどこか陶酔したようなぼやっとした光は消え去り、彼自身の意思の力と言ったものが、その瞳に還ってきていた。
「……ボッシュ?」
 そして少し笑った。
「きみだね」
 リュウはまっすぐにボッシュを見て言った。
 彼の表情には深い理解の色があった。
 そして、僅かな悲しみがあった。
 少し先の未来を知ってしまって、そこには何がしか、彼に悲しみをもたらす出来事があるようなふうだった。
 ボッシュは、サード・レンジャーの相棒同士だった時分に良くやった仕草で、軽く手を上げた。
「よお、相棒。久し振り」
「……うん、久し振りだね。会えてうれしいよ」
 リュウはにこにこして、静かな声で、きみが生きてて良かった、と言った。
 ボッシュは顔を顰めて、オマエが殺したくせに、と言った。
 リュウは穏やかな表情で頷いた。
「チェトレがおれの中にやってきたよ。きみが今どんなにおれのことを憎んでいるかとか、おれが何を忘れて、なかったことにしてしまったのか、全部教えてくれた。本当におれは馬鹿だなあ、忘れたから、全部が無かったことになるわけでもないのに」
「それで、やっと理解したの? 俺がここにいるわけってのが解った?」
「うん」
 リュウは微笑を浮かべながら、おれを殺しにきたんだねと言った。
「でもやっぱり、おれは嬉しいのかもしれない。変な話だって思うかな、ボッシュ。昔はおれのことなんか、これっぽっちも見てくれなかったきみが、おれを見てくれたのが……」
「憎まれて嬉しいって、変じゃない?」
「そうだねえ」
 返事は例によってのんびりした、あの頃のままの頼りないものだった。
「でもやっぱり、少し寂しいよ。きみは……きっともう、おれの手なんか、引いてくれないってことを、おれは……」
 リュウは口を噤んで目を閉じ、沈黙し、しばらくすると口を開いて、いろんなことを思い出してたんだと言った。
「懐かしいことばっかりだ。ねえボッシュ、おれはやっぱり、サード・レンジャーでローディっていうのが性に合ってたみたいだよ。もうきみとリフトに行けることはないけどね」
「そうだね」
 ボッシュは気を入れずに頷いた。
 リュウの声のあちこちに、遺言めいた色が見て取れた。
 彼はもう理解していた。
 終焉が間近に迫ってきたことを知り、静かにそれを待っていた。
 今手を伸ばしたらどうなるかな、とボッシュは考えた。
 リュウは驚いた顔をするだろうか?
 それからどうするだろうか。
 やっぱり駄目だ、きみとは行けないと、空を目指したあの頃のように突っ撥ねるだろうか。
 それとも、少し笑って、ボッシュの手を取るだろうか。
 リュウはそばにいる、今より少し幼い『ボッシュ』へ目を向けた。
 そいつはなんだか居心地が悪そうな顔をしていた。
 まるで今から主人に棄てられる愛玩ディクみたいな目をしていた。
「……アジーンでしょ? わかるよ、もういいから、だいじょうぶ」
 リュウは不安げな顔をしているアジーンに、にこっと笑い掛けた。
「おれはきみをひとりにしない。だいじょうぶ、ずーっと一緒だ。だっておれたちは、おんなじものなんだものね」
『リュ、リュウ?』
 アジーンはびっくりしたように目をぱちぱちとして、縋るようにリュウを見た。
 その姿は巨大なドラゴンにも、彼が形作っている『ボッシュ』にも相応しくなかった。
 それはリュウそのものだった。
 あの不安げな眼差し。置きざりにされるんじゃあないかといつもリフトの真っ暗がりでびくびくしていた彼だった。
「ありがとう。おれの願いを叶えてくれてたんだね。おれは多分、寂しかったんだと思う。みんないなくなっちゃった。時々考えてたんだ、おれが殺しちゃった人たちが、今のおれを見たらどう思うかなあってさ。隊長も友達も、きっと、ねえ……」
 リュウは泣き笑いみたいな顔になった。
「怒ってくれたかなあ……」
 リュウはその顔のまま頭を振って、でも後悔はないんだ、と言った。
「ボッシュが生きてる」
 それがすごく嬉しいことみたいに、リュウが言った。
 ボッシュを殺した彼が。
 リュウはその顔のままで、確信を持って、おれのことを殺してくれる、と言った。
 彼はずうっと、誰かが自分を裁き、死刑にしてくれる日を待っていたのだろうか?
「これで終わるんだ。ボッシュがもうヒトを憎んだまま空で生きることもなくなる。ねえ?」
 リュウは微笑んでいた。
 そこにはある種の透明な美しさが見て取れた。
 ボッシュは黙ってリュウを見ていた。
 もしかすると、見惚れていたかもしれない。
「ボッシュ、世界はすごく綺麗だったよ。ほんとはきっと、空はずーっときみを待ってたんだと思う。おれなんかより、ずっときみのことを探してたんだ。……ね、変な話だよねえ、おれのことなんていつもどうだって良さそうにしてたきみが、おれを殺したいくらい憎んでくれてる。おれを見てくれてるんだ」
 違うよ、とボッシュは言おうとした。
 オマエを取り戻しに来たんだと言おうとした。
 オマエを食っちゃったドラゴンを殺して、本物のオマエにもう一度遭いに来たんだと。
 ずーっと見てたと言おうとした。
 幼い時分からずっと追い掛けていたんだと。
 だけど、結局何にも言えなかった。
 何から話せば良いのか解らなかった。
 ボッシュは確かに裏切り者のリュウを憎んでいた。
 だが奇妙な憧憬を持って、彼に、何かしら憎悪だけでなく、強烈な感情を抱いていた。
 喉がつっかえて苦しくなってしまう種類のものだった。
 彼を憎みきる事ができなかった。
 そして、それがボッシュの敗因のひとつだったのだ。
「……でもおれは、きみに見てもらえるような人間じゃないんだ。きみはもっと、綺麗なものを見るべきなんだと思う。特別なものを。おれが知ってる昔のきみは、いつだってそうしてた。おれが知らない綺麗なものばっかり見てた。おれはそんなきみに、すごく憧れてたんだ。ね、空には、すごく綺麗なものがたくさんあったんだ。それを見たいって思うだけで、どこまでだって行けるんだ。おれはもう、これ以上きみを縛り付けることはできない」
 そうだろう、とリュウは言った。
 それは誰に向けてのものなのか、判別がつかなかった。
 ボッシュに浸蝕したチェトレへなのか、最も近しい友人の分身になのか、それともただ自分に言い聞かせているだけなのか、わからなかった。
 リュウは、そろそろだね、と言って、夜空を見上げた。
 まるで今から誰かと待ち合わせでもしていると言ったふうな、なんでもない動作だった。
「行こうか、アジーン」
 アジーンはいつのまにか、少年の時分のリュウの姿になっていた。
 リュウは手を差し出し、つないで、と言った。
 アジーンはどうすれば良いのかわからないと言った顔をしていたが、おずおずと手を差し出し、リュウの手を掴んだ。
「ヒトにもう竜は必要ないよ。ボッシュに、おれが必要じゃないみたいに。みんな一生懸命生きてる。悪いヒトはレンジャーが懲らしめてくれるよ。昔おれが憧れてたヒーローみたいに」
 ね、とリュウはボッシュに言った。
 ボッシュはなんだか奇妙な焦燥を感じていた。
 終わりが近付いてきているんだという理解は、漠然とあった。
 竜が消えようとしている。
 プログラムと共に、幽霊は消える。
 地下世界で死んだはずの適格者たちは、そこで終焉を迎える。
 やっと眠れるのだ。
 リュウはやっとボッシュを見付けて、理解を示し、笑っていた。
 これからまた手を繋いで行くだろう。
 あの暗がりのリフトでかつてそうあったように。
 だが、リュウの言葉は、まるでボッシュへ向けられた遺言みたいだった。
「おれがいなくなったら、ボッシュはもう誰も憎まなくたっていいでしょ? 誰かを憎んだまま1000年過ごすなんて、世界はこんなに綺麗なのに、すごく寂しいことだと思う。おれは嫌だ。でも、おれさえいなきゃ、ボッシュはまた笑えると思う。自信満々でさ、昔みたいに……。ヒトはきっともうドラゴンを怖がることはないし、ニーナもきっとヒトに戻れる。おれに誰も縛られることはない。歩いて行けるよ。空はもう大丈夫だ」
『……それが、判定か?』
「うん」
『死すべき時を、見付けた?』
「うん」
 繋いだ彼らの手のひらが、ぽうっと赤い光を零し始めた。
 綺麗なひかりだった。
 殺戮の炎の光ばかりに畏れを覚えていたが、淡い輝きは儚く、美しかった。
 彼らの姿をうっすらと透かして、光は徐々に強くなっていった。




「……ニーナ、風邪ひかないでね。きみは身体があんまり強くないんだから、夜中にシーツ、蹴っ飛ばしたりしちゃだめだよ」




 リュウが穏やかに言う。
 それは遺言や別れの言葉というよりも、少しの間旅に出掛けるような、とりとめのない言葉だった。




「リン、ニーナを守ってあげてね。あと、あんまりお仕置きもやり過ぎると、ジェズイットが死んじゃうと思うから、ほどほどにね……。ジェズイット、でもきみも悪いと思う。もう痴漢なんてやめなよ。ニーナに変なことしたら、ほんとに怒るよ」




 光が強く、音のない音階が鼓膜を刺激して、うまくリュウの声が聞き取れなくなった。
 ボッシュはただリュウの光を見ていた。
 漠然とした不安が胸におりのように積もっていた。
 リュウの赤いひかりは、以前のようにボッシュの身体を透かすことがなかった。
 くっきりと黒い影が足元に生まれていた。
 これは、どういうことだ。
 何故竜が消えゆく光が、ボッシュに何の干渉ももたらさないのだ?




「ボッシュ……」




 名前を呼ぶ声は、か細く、切なげだった。
 ボッシュは目を大きく開けて、リュウの姿を探した。
 視界は赤い光で満たされていて、ボッシュの目を焼いた。
 あまり光に強い性質をしていない両目は焼かれ、ひどい激痛が訪れた。
 思わず目を閉じると、静かなリュウの声が降ってきた。




「……れ……きみが……だった」




 手を離さないで、とリュウの声が聞こえた。
 ボッシュは手を伸ばした。
 当てずっぽうだったが、リュウを探すなんてことは慣れた事象だった。
 少し冷たい手のひらを見付け、ぎゅうっと掴んで、目を開けた。
 そこにはリュウがいた。
 青い目は、ひどく眠いみたいにうっすらと細められ、目は輪郭と焦点を失っていた。
「リュウッ!!」
 ボッシュは何故かひどい焦燥を覚えて、リュウを掻き抱いた。
 アジーンの姿はなく、リュウの首筋に、赤い光が強く纏わりついていた。
 リュウは虚ろな視界にボッシュを見付けると、うっすらと微笑んだ。
 そして彼の唇が僅かに動いた。
 その動きを読み取ると、どうやら彼はこう呟いていたようだった。
 生きて、とリュウが言った。
 そして光の中で眠り込むように、彼の青い目が閉じられた。













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