その時何故自分が生きていたのかということが、彼には解らなかった。
 まるで麻酔を受けて眠っている時に見る、気持ちの悪い夢の中の出来事のようだった。
 空気が奇妙な粘り気を帯びて、身体中に纏わりついてくるような錯覚があった。
 それは、まるで巨大な生物の吐息のように、生温かく、湿った感触がした。
 ボッシュは腕に抱いているリュウの血の気のない頬に触れ、彼の頭を上向けた。
 リュウはぐったりと四肢を垂れて、目を閉じていた。
 眠っているように見えた。
 例によってだらしない寝顔だ。
 唇は薄く開いていて、表情は緩んでいた。
 とても良い夢を見ているように見えた。
 彼が覚醒していた時よりも、その身体は随分重くなっていた。
 人間ってものは、眠ると大分重くなるのだ。
 おそろしく深い眠りの中にリュウはいた。
「……リュウ?」
 ボッシュは、リュウに呼び掛けた。
 身体を揺さ振って、耳元で大声を張り上げてやれば、すぐにでも目を覚ましそうなふうに、目を閉じたリュウの寝顔には気負いってものがなかった。
 だが急速に、リュウの身体から、ぬくもりが失われていく。
 あの少し冷たい体温が、空気に吸い込まれるようにして零れていく。
 ボッシュには、その感覚に、大分昔から覚えがあった。
 訓練用のディクや、犯罪組織トリニティの構成員の脳髄に獣剣を突き刺した後に、ブーツの先で蹴っ飛ばした時に足先に感じる、死の感触だ。
 あの砂を詰めた麻袋みたいな、硬く味気ない感触だ。
「リュウ?」
 もう一度呼んでも、変わらず返事はなかった。
 あの少し気後れしたような顔で振り向き、微笑みながら、なあに、と彼が言うことはなかった。
「あ……リュ、リュウっ」
 ボッシュの腕にどんと小さな少女がぶつかり、リュウの身体に縋り付いた。
 彼女は悲鳴みたいな声を上げて何度も何度もリュウを呼んだが、ボッシュの時と同じく、リュウの返事は返ってこなかった。
 彼の眠りは、誰にも侵されない深遠なところにあるように見えた。
 リュウの心臓の音は聞こえなかった。
 そして、こんなに近くにいるのに、リュウの身体に触れているにもかかわらず、ボッシュのあの共鳴の激痛はやって来なかった。
 腹から背中にかけて、巨大な生物に食い荒らされたような凄惨な傷痕があるはずだった。
 傷は乾いていたが、痛みは生々しいものだった。
 それがいつのまにか消え去っていた。
 どこにも見当たらず、まるで長い間ろくでもない夢を見ていたようだった。
 リュウ=1/8192という架空の人物に、ボッシュ=1/64、つまり自分が運命と精神と肉体を、それらすべてを引っ掻き回されるという、趣味が悪く、滑稽で少し悲しい夢を。
 そして長い、もしかすると永遠に続くんじゃあないかと訝った夢がようやく終焉を迎え、唐突に目覚めが訪れて、リアルが還ってきたような気分だった。
 頭の中は清々しいくらいにクリアだった。
 冷たい水を注がれたグラスのように、透明で、きんと冷えていた。
 こんなのは久しく二年ぶりだった。
 あの栄光のひかりの中で生きていた時分のようだった。






 リュウの表情は、死顔ってものには相応しくなかった。
 少し微笑んで、浅い眠りについているようだった。
 じきにいつものように――――少年の彼に良くあったように――――奇妙な寝言でも、その薄く開いた口から零れそうなふうだった。
 ぜんぶおしまい、と彼の声が聞こえたような気がした。
 これで元通りになった。世界はその色をようやく取り戻し、その舵が、ヒトの常識の範疇に返ってきた。
 間違ってもドラゴンなんて得体の知れない怪物に種の生命を脅かされることはなくなった。
 ボッシュ=1/64を脅かすリュウ=1/8192という存在も消えた。
 あの日失われたボッシュの自尊心が戻ってきた。
 得体の知れない焦燥と恐怖はいつのまにか姿を消し、傷跡ももう痛まない。
 そこにあったのは、完璧な秩序だった。
 静かで、光に満ちていた。
 かつてリュウが愛していたものだった。
 世界の汚濁を知る前に彼が憧れ、そのロジックを守るために、彼はレンジャーとしていつも戦っていた。
 いつまで経っても落ち零れで弱かったが、彼にとってはそんなことは大した問題じゃなかった。
 彼の目には美しい光が宿っていた。
 まっすぐで、穢れを許さない銀色の意思の光が。
 ボッシュはもう一度リュウを呼ぼうとして、口を少し開け、それから迷って、結局止めた。
 ボッシュは知っていた。
 もうリュウが呼び掛けに応えることはない。
 彼が言っていたとおり、もう助けを求める情けない悲鳴も聞こえない。
 手が伸ばされることはもうなく、ボッシュがその手を取ることはない。
 いつか遥か昔にそうあったように、そしてそいつが義務的な任務として何度も繰り返されたあの頃のように、手を繋いでリフトへ、ふたりで潜って行くことはもうないのだ。







 ボッシュは眠っているリュウの手を取った。
 彼の手が、いつかボッシュが差し伸べてやった手のひらに縋り付き、うざったいくらいにぎゅうっと握ることはもうないのだ。知っていた。
 リュウの手のひらは、思ったとおり強張って、冷たかった。
 ニーナはまだ泣いていた。
 彼女はボッシュにも気付かないような様子で、顔中涙と鼻汁と涎でぐちゃぐちゃに汚していた。
 いつの間にかボッシュの側頭部には、硬質の感触が押し当てられていた。





――――は、……ター、急――――撃……い?!――――!!!!」





 獣人の女が紙みたいに白い顔をして、ボッシュの頭に拳銃を突き付けて、何か喋っていたが、ボッシュにはその女が何を言っているのか、まるっきりわからなかった。
 まるで全然知らない言語で喋っているみたいだった。
 ひどい眩暈がする。
 視界がぐらぐら揺れ始めた。両方の目玉が熱く、ひどく乾いていて、痛かった。
 竜の気配を感じることができなくなっていた。
 ボッシュは理解しはじめていた。
 地上において、それらはもう存在しない幽霊だった。
 プログラムが終了し、極めて事務的に消滅してしまったのだ。
 ボッシュとリンクを保っていたプログラム「チェトレ」は消えた。
 対の――――考えてみればそうだった。彼らは互いに干渉し合い、判定を終えたのだ――――プログラム「アジーン」も消滅した。
 それらと同化し、溶けて混ざり合っていたボッシュもまた、消滅の時に消え去るはずだった。
 だが生きている。
 幽霊のはずの身体は、終わりの赤光を受けても、確かに肉を持ってここにあった。
 世界のどこにも、もう幽霊はいない。
 1000年前の亡霊はいない。
 地下世界の最下層区で死んでしまった、あるいは空を開けて死んでしまった少年の幽霊も、世界から零れ落ちてしまった。
 生きて、とリュウは言った。
 彼はボッシュの悪夢と痛みと、それから死すらも取り上げてしまった。
 そして重たげに抱えて、持ち歩いて、行ってしまった。
 おれが役に立てるのってこれくらいしかないからねと困ったみたいに言いながら、二人分のきずセットを抱えて重そうに持ち歩いていたみたいに。
 微笑んでいるリュウが目の前にいる。彼の寝顔は安らかだった。
 二人分の眠りを抱えていれば、きっともう世界の騒音に煩わされることもなく、深く眠れるに違いない。ボッシュは苛立たしくそう考えた。





 リュウはもうどこにもいない。





 世界のどこを探したって見つからない。
 彼への憎しみで、折れそうなくらいに重苦しい足を前に進められることはもうない。
 彼はいないのだ。
 憎んだり、蔑んだり、嫉妬を覚え、時には哀れみ、彼という人間を否定することは、もうできない。
 何もかも無意味になってしまった。
 ボッシュは空虚がじわじわと自分の中に浸蝕していくのを感じていた。
 時折訪れる、リュウの頭の悪い言葉を耳にした時に、つい吹き出しそうになりながら覚える呆れや、彼の口から純粋な賞賛が零れた時に自尊心が満たされていくあの心地よさ、そしてリュウという人間がそこにいることで感じる安堵、そう言った、今はもう欠片すらなくなったものたちさえもが、徐々にかたちを失っていく。
 それらは変質を起こしながら、未だにボッシュの中にくすぶっていたものだった。
 だが、それが今や、まったくの空虚に食い荒らされ、消えてしまおうとしていた。
 なにもかもがなくなっていく。
 もうなんにも残っちゃいないと思っていたボッシュの中に、知らない間に溢れていた、リュウという人間に繋がる感情がなくなっていく。
 ボッシュは意識せず、リュウの手のひらを握り締めていた。
 彼の手を求めた。
 ひょっとしたら、本当に誰かと手を繋いで歩くことを求めていたのは、弱虫のリュウじゃなく、ボッシュ自身のほうだったのかもしれなかった。
 誰も答えてくれない今となっては、もうわからないことだらけだが。





 やはり手が握り返されることはなかった。
 



 段々自分というものが薄れていくのを、ボッシュは感じていた。
 空虚が物理的にボッシュを満たしたせいなのかもしれないし、リュウの仲間の誰かがボッシュに何がしかの干渉をもたらしたのかもしれない。
 どうだって良かった。
 どのみちもうなんにも残ってない。
 本当に、何にも残ってない。
 暗い死の静寂の中へ、リュウと手を繋いで、彼の手を引き、歩いていけることはもうないのだ。
 まるで世界でたったひとりきりになったような孤独と不安がボッシュに浸蝕していた。
 もう誰もボッシュに笑い掛けやしない。
 ヒーローを見るみたいな眼差しを向けることもない。
 誰も手を差し出さない。
 リュウはもう、どこにもいない。












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