部屋は狭かった。 ほぼ正方形のかたちをしていて、入口に取り付けられている奇妙な扉を除いて、壁はすべてが白一色で塗り潰されていた。 扉に嵌っている鉄格子の向こうは、同じく白く塗り潰されている廊下が続いていた。 まるで色というものを取り入れることが億劫だったとでもいうような感触で、その薄っぺらい白色たちはひどく怠惰に見えた。 部屋には窓がなく、天井の隅に小さな監視カメラが取り付けられていた。 白い電灯はこうこうと明かりを放っていたが、人工的なひかりは無機質で、どこか肌寒かった。 空気には僅かに湿気の気配が感じられた。 ここは地下なのかもしれないとボッシュは考えた。 四肢は脱力してぴくりとも動かなかった。 先ほど覚醒したばかりで、それまでの工程――――この白い部屋、おそらく牢獄として使われている階層へどうやって辿り突いたのかということなんかだ――――はごっそりと欠落していた。 記憶も混乱していた。 短い夢を見ていたように思うが、どこからどこまでが夢なのか、判別はつかなかった。 ボッシュはいつも目覚めてしばらくは使いものにならない体質をしているのだ。 上等な牢獄の壁に張り付けられたかたちで、手足は幾重にも拘束されていて、その上から錠前かなにかみたいに枷が嵌められていた。 牢屋で目を覚ますのは初めてじゃあなかったが、今回は一体どうしてこんな事態になったって言うんだろう? しばらく思い巡らせたが、上手い答えを見付けることはできなかった。 覚醒からほどなくして、遠くから靴の音が聞こえてきた。 それはいやに反響して、耳障りなくらい大きく、幾重にもたわんでいた。 じきに、扉の格子の向こうから、誰かが顔を覗かせた。 女がふたりだ。 どちらも見知ってはいたような気がするが、特に言葉を交わした覚えもなかった。 誰だろうとボッシュは訝った。確か、昔どこかで見たことがあるのだ。 「――――起きたみたいだね。私らがわかるかい?」 「…………」 「……駄目か」 女のひとり――――ヒトのくせに獣の耳と尾をくっつけている奇妙な女だ――――は腰に手を当てて、溜息を零し、やれやれと頭を振った。 「ニーナ、駄目だよこいつ、やっぱり何にもわかっちゃいないよ。相変わらず目が死んでるし、話すだけ無駄」 「……どうしても聞きたいことがあるの。リン、先にもどっててだいじょうぶだよ。わたしは平気だから」 「言っとくけど、部屋には入っちゃ駄目だよ。今はこんなだけど、いつ噛み付いてくるかわかりゃしないんだからね」 「うん、わかってる。もうだいじょうぶ、気をつける。……ボッシュ?」 ボッシュ、と金髪の女が言った。 確かそれは俺の名前だったはずだとボッシュは考えた。 もう何年もその名前を抱えて生きてきたのだ。 特別に誇らしいものだったような気もするし、まったく意味のない紙くずみたいなものだったような気もする。 どちらが正しいのかは知れない。 「あなたは知ってるんでしょ? 竜のこと、いろいろ知ってるんでしょ? ね、リュウはどうやったら起きてくれるかって、あなたは知ってるんでしょ。 だってあなたもリュウとおんなじなんだもの」 「……リュウ?」 ボッシュはびくっとして、顔を上げた。 とても懐かしい名前を聞いたような気がする。 リュウ。 相棒の少年だ。青い髪と穏やかな性質をしていて、そのことで彼は良く仲間にからかわれていたが、ボッシュはそれらが好きだったし、彼という人間を気に入っていた。 だがそばには見当たらなかったし、彼がどこにいるのかも解らない。 ボッシュは多大な苦労を払って顔を上げ、鉄格子を握っている金髪の少女に訊いた。 「リュウは……どこだ……」 「リュウ……」 少女の目に、深い悲しみの影が差した。 瑪瑙のようにつややかな瞳は、焦点が定まらず、なにか恐ろしい怪物を前にでもしたように震えていた。 「リュ、リュウは」 「あんたが殺したんだ。忘れちまおうったって、そうはいかないよ」 獣人の女が口を出した。 彼女の目にはあからさまな敵意が燃えていた。 そして、それに混ざって、彼女の目にも深い悲しみが宿っていたことに、ボッシュは困惑した。 リュウを殺した? 「……ちがうよ、リン。リュウは誰にも殺されてなんかないよ。ただちょっと休憩してるだけ。寝てるだけだよ。すぐに起きるよ」 金髪の少女が抑えた声で小さく言った。 獣人の女は沈黙し、目を閉じ、唇をわななかせ、わかってるよ、と言った。 「……そうだね。でもこいつは駄目だよ。なんにも無かったことにしちゃったんだ。あの子のかわりに、私が殺してやりたいくらいだよ」 「リン、リュウはボッシュを殺したいなんて言ってないよ」 ニーナが静かに言った。 「ただ手をつないで欲しかったって言ったの。ボッシュ、聞こえてる? わからないかなあ? はやくリュウと手をつないであげてよ。いつまで寝てるのって怒ってあげて。わたしにはそれはできないから」 「……ニーナ。もう上がろう。これ以上こいつの顔を見てたら、ほんとに殺しちゃいそうだ」 「ね、ちょっと待ってリン。もうちょっとだけ。ボッシュ? リュウはどうやったら起きるの。お願いだから教え」 「ニーナ、行こう」 そこで金髪の少女は、獣人の女に引き摺られるようにして行ってしまった。 靴の音が消えてなくなると、後にはまた無音の静寂が戻ってきた。 気が狂いそうになるくらい静かだった。 なんにも音がせず、なんにもない、白いだけの世界だ。 ◇◆◇◆◇ 次に現れたのは、さっきの女たちよりも幾分見知った顔だった。 何度かとりとめのない話をしたことがあったような気がする。 昔馴染みというにはよそよそしい関係だったし、他にどう呼べば良いのかもわからない。死んだ父の同僚たちだった。 ピンクの髪の女みたいな少年と、浅黒い肌の目つきの悪い男の二人連れだった。元統治者の男たちだ。 「かなりリンを怒らせたようですね。彼女の機嫌を損ねた人間は、大抵ろくなことにならないんです。こっちのジェズイットみたいにね」 少年は世間話でもするみたいに言って、クピトです、と言った。 「覚えているかな……久し振りです、ボッシュくん。きみが色を取り戻したようなので、こうして会いに来たんです。自分のことがわかりますか? ぼくらのことは?」 「よおう、クソガキ。おまえさん、やっぱりろくな育ち方しなかったな。俺はずうっと解ってたんだ、おまえさんがちっこいガキの時分からさあ、あんな狂った子育てでまともな人間が出来あがるわけないってホント」 「ジェズイット、ちょっと、先に話をさせてもらってもいいですか?」 クピトがジェズイットを手で制して、ボッシュをじっと見つめた。 その目はどこか居心地が悪くなる種類のものだった。 そして沈黙が訪れた。 彼らは、ボッシュが何がしかの言葉を発するのを待っているのだ。 しばらく静寂が続いた。 ボッシュは、言うべき言葉が見つからなかった。 今更何を喋れっていうんだ? 言葉なんて無意味だ。何の価値もないし、それは何の役にも立ちやしない。 ボッシュは目を閉じ、元統治者たちが諦めて立ち去ってくれるのを待ったが、いつまで経ってもその気配は訪れなかった。 彼らは思ったよりも辛抱強かった。 考えてみれば、当然のことだった。 彼らは地下世界において、永遠と言っても良い時間、現れるかどうかもわからない世界の破壊者を待ち続けていたのだ。代を継ぎながら、1000年もの長きに渡って。 「……俺に今更聞きたいことでも? もう意味のないものしか詰まってやしないよ。さっさと死刑にでもなんでもすれば。それとも、拷問にでも掛ける? ほら、爪剥いで、目玉を繰り抜いたり、生きたまま内臓を餌にハオチーを繁殖させたり、オマエらの好きな例のサディスティック・ショウだよ。ブースト実験は、もう足りてるからゴメンだね」 「長い間だんまりだと思ったら、急に良く喋るようになっちゃったじゃん、ガキんちょ。死にたいとこ悪いが、こっちの用件はオマエさんの想像してるのとはちょっと違う」 「そう、ただきみと少し話をしたかったんです。ほんとにそれだけだ。悪く取らないで下さい、ぼくらはあなたに危害を加えるつもりはない」 「ハア?」 ボッシュは眉間に皺を寄せ、見ようによっては引き攣った笑いにも見える顔で、険悪に二人を睨んだ。 「……馬鹿にするなよ。こんなコンテナ・ボックスに積め込むみたいに縛り付けなくたって、何にもしないよ。怖がらなくていいからさっさと殺せって言ってんの。耳あんだろ? あの馬鹿、最期まで俺をコケにしやがったんだ。……生きろだと? ふざけんな、聖人でも気取ってるつもりかよ!! 誰があんな奴の言いなりなんかに!!」 ボッシュは項垂れ、歯を食いしばった。 脳髄が熱く弛緩している。 ちかちかと目の前に白い光点が飛んでいた。 「誰が……」 「リュウは優しい眠りの中にいます。彼は幸せだ。もうきみでも、彼に干渉することはできない」 クピトが静かに言った。 「この空に、地下世界にも、どこにももう竜はいない。あなたはもう竜ではない。ただのヒトだ。竜じゃないから、もうリュウに声は届きません。彼は竜と共に歩いていってしまった。世界の外で、きっと幸せな夢の中にいます。 そして、ぼくが今グレイゴルを撃てば、きみは死ぬ。オンコットに、きみの首を折るように命令することもできる。こちらのジェズイットだって、簡単にきみを殺せるでしょう。きっと花を手折るくらいの労力しか必要としない。たやすいことです」 「俺を愚弄するのか? このボッシュ=1/64を!」 「きみこそ、ぼくらをなめないでください。このクピト=1/8を――――」 「それから俺もな。ジェズイット=1/16です。あ、俺アレだから、D値とかそんなに気にしないほうだから。あんまり気にしなくて良いよ、うん」 「……!!」 ボッシュは息を呑んで黙り込んだ。 目の前にいる二人の人間よりも、決定的にヒトとしてのボッシュは劣っていた。 1/64なんてD値は、世界の頂上ではまるで役立たずだった。 適格者――――世界に選ばれた破壊者であることは、ボッシュに暗い満足を与えてくれた。 俺は特別なんだとボッシュは考えた。 そう、特別だった。 世界中どこを探したって、ボッシュにかなう人間なんかいない。 ヒトどもなんて、被捕食者で、餌に過ぎない。弱い生き物だ。 竜がちょっと脅し付けてやれば、蟻みたいに地底深くの巣へ篭ってしまうような、弱い生き物だ。 それらはボッシュに深い安堵を与えてくれた。 それは、俺はあんな奴らとは違うという優越感だった。 人間なんてみんな馬鹿ばっかりだ。幼い頃から、そう考えて生きてきた。 ヒトであることを棄てるのに、躊躇は微塵もなかった。 むしろ、愚かなしがらみから解放されることを喜んだと言ったって良い。 そして世界に対等なのはひとりだけだった。 おんなじものだと認めてやれるのはひとりだけだった。 だが、そいつはもういない。世界から零れてしまった。 空は今やボッシュのものだった。 いや―――― 空にひとりきりで取り残されてしまったのだ。 力はもぎ取られ、脆弱でどうしようもない人間として、なんにもできないまま、牢獄に繋がれている。 「きみにはD値を棄ててもらう」 クピトが言った。 ボッシュは項垂れたまま、目を見開き、焦点が定まらないままなんにもない地面を見つめていた。 何故こうやって誰もかれもが、もうなんにも残ってやしないはずのボッシュの中から何がしか価値のあるものを掘り出して、奪い去っていくのだろうか? まるで掃除屋のディクみたいに。 「悪く思わないで下さい。ぼくらは竜を裁くことはできない。あれらに対してできるのは、ただその力を試すことだけです。でもヒトへは違う。ぼくらはヒトを裁く役割を担っているし、その義務がある。ボッシュくん、きみは空の最高統治者、ぼくらのオリジンを、セントラルに不法に侵入した上誘拐して、死に至らしめた」 「つまり、極刑ってわけだ。その上オリジンへの侮辱罪、傷害罪、冒涜罪、強姦罪――――」 「……それニーナの前で絶対言わないで下さいね」 「ともかく全部合わせると、おまえさんが何百回死んだって償いきれない重罪ってわけだ。ヒトはシステムの中で生きてる。竜みたいな、想像のずうっと頭の上を行く怪物とは違うんだ。まあかなり遅いが、というか取り返しがつかなくなってる気もするが、その中に組み込まれてるってことを知るべきだな。おまえさんが特別ななんかになりたいって気持ちはわからんでもないが、そうなったとこで、もうおまえさんを誉めてくれる親父さんはいないんだよ、どこにもな」 ジェズイットが小さい子供に言い聞かせるような調子で言い、それから肩を竦め、やれやれと頭を振った。 「ホントにどーしようもないな。俺は最近ガキに説教ばっかりしてるような気がするぞ。似合わねー」 そう彼は言った。 |
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