何か欲しいものはありますか、とクピトが言った。 「しばらくここで過ごしてもらうことになります。不自由でしょうけど、我慢してください。そのかわり、望むものがあれば、可能な限り手配しますよ」 「そうそう、俺オススメのエロ本とかがいくつかあるんだけどさあ、こう美人のお姉さんの尻がバーン!てすごいやつ。あ、でもおまえさんはリュウみたいなのが好みなんだっけ。いや、お兄さんその方面については、ちょっと疎くて悪いんだけど」 「オンコット、少しの間、彼を黙らせておいて下さい」 ガルガンチュアの太い腕がクピトの背後からぬっと突き出し、主人の命令通り、ジェズイットを軽く摘み上げた。 そのまま大きな足音を立てて遠ざかっていく。じきに静かになった。 しばらく沈黙していたボッシュは、消え入りそうなくらい小さな声でうめいた。 「リュウ、は?」 その声には生きた感触ってものがほとんどなく、ボッシュ自身、少しばかり驚きを感じた。 まるで良く最下層区に転がっていた、干乾びたD値非所持者みたいだった。 あの老人みたいなしゃがれ声で水を要求する死にぞこないどものような。 「リュウは――――どこに?」 「……彼はもうどこにもいませんよ。きみも良く知っているはずだ」 「リュウ……」 枷に固定された腕を無理矢理上げようとすると、全身に纏わりついた鎖が身体に食い込み、ひどい激痛がはしった。 だが痛みなんてものは、もうボッシュにとって、何の価値も見出せないものになっていた。 そのまま腕を引き上げ、鎖を掴んで、ボッシュは前へ身を乗り出し、暗い目でクピトを睨んだ。 「リュウに、会わせろ。あいつはここにいる。絶対だ。俺がこうやって生きてるんだ。あいつは俺とおんなじものなんだよ。どこにもいない? そんなはずはない!!」 オールド・ディープの力があれば、鉄の鎖なんか、繋げた紙輪っかを引き千切るくらい簡単にばらばらにしてやれたはずだった。 腕に嵌められた制御装置なんかに煩わされることもなかったはずだ。 だが今や、そんなものたちにがんじがらめに拘束されているしかないことに、ひどい無力感がボッシュに訪れていた。 鎖に皮膚を裂かれ、血が零れた。 なけなしの能力も、まるで公社がディクに嵌めている例の制御装置みたいな粗末な腕輪に奪い去られてしまっている。 ボッシュは無力だった。 ただのヒトだった。 もうD値もなんにもなかった。 そしてリュウの冷たい手のひらも、どこにも見えない。 「リュウに会わせろよ! あいつのところへ連れて行け。こんなことが――――」 ボッシュは項垂れ、震え声で、こんなことがあるはずないんだと呟いた。 閉ざされたはずの未来の中にも、こんなにまで救いのない選択肢はどこにもなかった。 リュウがどこにもいない世界で、ヒトとして生きていくなんて、考えもつかなかった。 乾いた音を立てて扉が開いた。 クピトが静かな目でボッシュを見下ろしてきていた。 その目には憐憫があったが、それはもうボッシュに怒りや苛立ちをもたらすこともなかった。 もうどうだって良かった。 「……特例ですからね。リンやニーナに見つからないように気を付けてください。セントラル付きのレンジャーたちにもね。彼らはきっと、あなたがリュウに会うのを快くは思わないでしょうから」 彼らはあなたがリュウに死をもたらしたと考えています、とクピトが言った。 彼の口ぶりは、そうではないことを知っているふうだった。 そして首を振り、じっとボッシュを見つめた。 「でもそれは違う。リュウは望んで眠りの中にいます。彼はきっと、あなたに好きになって欲しかったんだ。見て、認めてもらい、誉めてもらいたかったんでしょう。ぼくが主を愛するみたいに、子供みたいに」 それからクピトは、リュウのことですけどと切り出した。 「あなたは彼を聖人だと言うけど、彼はあなたが考えるほど綺麗に生きてはいませんでした。少なくともぼくには、彼の意思のひかりはとても澄んだ銀色をしていたけど、嫉妬深く、卑屈で自己中心的なひとに見えましたよ。まるで子供みたいに、ぼくやニーナとおんなじ澱みを抱えているひとでした。ぼくには彼よりも、あなたのほうが、綺麗で純粋なひかりを宿しているように見える。自ら輝く強いひかりです。見ていると、自分の姿が霞んで見えなくなってしまうくらい。自分が強いひかりに群がる羽虫に見えてくるんです。ぼくも覚えがあるから知っています。あなたはリュウと自分がおんなじものだって言うけど、それは違うと思います。リュウはぼくらの側の人間だ。あなたとは、きっと違う種類の」 クピトはボッシュの傍に屈んで手をとり、例のセントラルへの入場を許可するプラスティック製のリング・キーを指に嵌めた。 すると今までボッシュを縛り付けていた鉄の鎖が、ぎいぎいと耳障りな音を立てて引いていった。 拘束は消えたが、両手に嵌められた一対の制御装置の手枷はそのままだった。 クピトはボッシュを一瞥し、歩き出した。 ボッシュは彼を追おうと立ち上がったが、足が震えて言うことを聞かず、転倒した。 左右の制御装置を繋げる鎖が、地面に擦れて、ぎいと乾いた音を立てた。 身体の自由が利かなかった。 まるで誰か全然知らない人間の身体に乗り移って動かしているみたいな感触だった。 見ると、拘束されている時分は気がつかなかったが、手足は異様に痩せ細っていた。 元々そう肉がついているほうではなかったが、まるで死の病に蝕まれたリュウみたいだった。 髪は乱れてほつけ、ばらばらになっていた。 いつのまにこんなひどい状態になっていたのだろうか? ボッシュは愕然としながら壁に手をつき、よろめきながら立ち上がり、歩き出した。 廊下にはもうクピトの姿はなかった。 白い回廊がどこまでも続いている。 繊細な彫刻を施された柱と、奇妙な怪物の彫像が交互に天井を支えていた。 天井は、みずみずしい木々を描いた鮮やかな絵画で彩られていた。 回廊には美しい青い色をした毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。 あまりにも長く歩いていることが、衰弱した身体にはひどく堪えたが、そのことを口にするのはなんとなく癪だったので、黙っておいた。 「綺麗でしょう? ここは天井に緑の絵が描かれていることから、森の回廊と呼ばれています。ここを抜けると、天井が吹き抜けになった空の回廊なんかもあるんですよ。ニーナの部屋のまわりは、可愛いのがいいと言い張る人たちがいたので、彼女が大好きなナゲットが天井にたくさん描かれています。あちこちにナゲットの彫像もあるんですよ」 「……誰、そんな馬鹿みたいなこと言い出す奴ら」 「彼女の保護者たちですよ。さて、もうすぐです。この先がセントラルの中心部になります。リュウは今は部屋にいますよ。彼の新しい『家』が街に造られることになったんですが、完成するまでは、彼はいつもの部屋で眠っています。一月前からずうっと」 「一月?」 ボッシュは唖然として訊き返した。 あれは昨晩の出来事じゃあなかったのか? もう一月も経過しているのか? それなら、身体がこれだけ衰弱しているのも無理はない。 「覚えていないのは仕方がないんですが、きみは今まで自分の色を見失っていたんですよ。どうして今日急にきみが帰ってきたのか、正直ぼくにはわかりません。もしかするとリュウの死と一緒にきみの自我も死んでしまって、ずうっとあのままなのかもしれないと思っていました」 「ふうん」 ボッシュは力なく頷いた。 いっそのこと、そのままだったなら、幾分救いがあったかもしれない。 セントラル中心部に足を踏み入れると、クピトは立ち止まり、この先をずうっとまっすぐ歩いて行ってください、と言った。 「じきに大きな扉があるはずです。そこが二代目オリジンの部屋です。もう一度会うことで、きみがどういうふうに彼のことを考えるのかはぼくにはわかりませんが」 「あ、そ。ありがとう」 ボッシュは礼を言い――――そのことでクピトはちょっと驚いたような顔をしたが――――歩き出した。 一人で歩くと、奇妙な考えが、とりとめなく浮かんできた。 リュウの部屋なんだって言う。 毎日リュウがあのかたちばっかりは真面目な顔で、このいかめしい廊下を歩きながら、執務室へ行き、仕事に取り掛かり、2年なんて年月で彼の無能さがどうにかなるはずもないので、きっと積まれた書類の束を崩してしまったり、難しい本を読んで頭痛を起こしたり、もっとひどければ「ねえこれなんて読むの」なんて、途方にくれた顔をして同僚に訊き、同僚を別の意味で途方に暮れた顔にさせていたろう。 ボッシュの知らないリュウがいつも通っていた道だ。 そこにリュウの残滓は感じ取れなかった。 共鳴の響きなんてものは、もう存在しなかった。 あるのは背中の醜い傷痕だけだ。 ボッシュは回廊を注意深く見渡した。 なにかリュウを感じ取れるものを探したのかもしれない。 もしかすると、リュウがボッシュを驚かせようと、柱の影に潜んでいるのかもしれない、とボッシュは空想した。 『わっ』 笑いを我慢して、口元をくすぐったそうにぎゅっと引き縛り、急に飛び出してくる。 リュウは立ち止まったボッシュに、ちょっと気後れしたみたいに、びっくりした?と聞く。 黙って冷たい目で見ていると、リュウは所在なさげに目をあちこちにうろうろとさまよわせて、言い訳をする。 『ええとね』 リュウが頬を掻きながら、ちょっと引き攣った顔で笑う。 『悪意とかは、ないんだけどね……び、びっくりしなかった? ぜんぜん? あ、ちょっとは? どうかなあ』 それから具合の悪い沈黙が流れ、やがてリュウが赤い顔でこほんとわざとらしい咳をして、そしてにこっと笑う。 今度はあのレンジャー時代に良くあったように、屈託のない顔でだ。 『やっときみを見付けた』 リュウが言う。 彼はボッシュを見付けることができたと心底安堵している。 ボッシュは手を伸ばしてリュウの肩を抱き、さっきのだけどさ、と言う。 「ほんとはちょっとびっくりしたんだ、馬鹿ローディ」 ちょうど今出てきたら全部赦してやろうって気になってたんだ、と言う。 そしておかえりと頭を撫でてやり、いくつかリュウに約束を取り付ける。 例えばもう裏切らないこと、手を離さないこと、勝手にどこかへ行ってしまわないことなんかだ。 それから最後にこう言う。 「なんかさ、俺オマエのことがすごく好きみたいなんだけど」 まだわかんないけどね、と言う。 そしてそれがただのポーズであることを自覚して、ちょっとばかり苛々する。 そんなことはもう大分前からわかっていることだった。 ほんとはずっと見てたとか、愛してるとか、そういうことを言ってやりたかった。 リュウに触りたかった。 それから、時間だけはまだまだあるんだと思い直し、ふたりで久し振りにいろいろな話をするだろう。 回廊は静かで、音もなく、リュウの気配なんてものはなかった。 たとえリュウにとってそれが見慣れた景色なのだとしても、今のリュウとボッシュの間に共有する記憶には、2年の空白と溝があった。 結局空想のようにリュウは現れないまま、廊下は終わりを迎え、大きな扉が目の前に現れた。 扉には蹲った竜の細かいレリーフが彫り込まれていた。 それらは、昔どこかで見たような、おぼろげな既視感をボッシュに寄越した。 手のひらで触れると、扉は音もなく開いた。 同時に、どこかで覚えた、見知っている匂いが鼻の先を擽った。 花のような匂いだった。 ボッシュはそれを知っていた。 昔下層区のレンジャー基地にいた時に、確か、メディカル・ルームで―――― |
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