部屋に人の気配はなかった。 例えば人の温かみだとか、生活の息遣い、主の好みそうな家具と言ったものは、そこには見て取れなかった。 殺風景な部屋だった。 まるでこうあるべきだというモデルそのままのような感じだった。 確かに豪奢ではあった。 かつて上層特区や中央省庁区できらびやかな日々を過ごしたボッシュでさえ、見たことがないような調度品がしつらえられていた。 だがそのどれもに共通して、まともに使われた気配がなかった。 どう見たって新品に見えるものもあった。 ライティング・デスクの上のテーブルランプなどは、今まで一度も点灯したことがないんじゃあないかと訝るくらいに、コードまでまっさらだった。綺麗に折り畳まれて手垢もついていない。 どれもがただそこにあるだけという感じがして、よそよそしく、それらで構成された室内はどこか薄寒かった。 誰かが勝手にオリジンの部屋ってものを作り上げて、その隅のほうで居心地悪そうにリュウが生活している光景が浮かんできた。 きっとそれは間違っていないだろう、リュウは性根がローディなのだ。 最上層民向けの調度品なんて、ろくに使い方も知らないに違いない。 彼に似合うのは、使い込まれて擦り減ったルーム・チェアや、ジャンク・ショップで叩き売られていた、柄がへこんだスタンドディスクなんかなのだ。 窓際には大きな天蓋付きのベッドがあった。 そこにリュウがいた。 一瞬、ボッシュにはわからなかった。 「それ」がリュウであることが理解できなかった。 そこに何がしかの生命活動の片鱗を見付けることはできなかった。 まるで蝋人形か置物みたいだった。 「それ」はリュウに間違いはなかったが、今はもうリュウ=1/8192ではなかった。 ただの物だった。 魂のない、リュウのかたちばかりが残ったものだった。 その死顔は、ボッシュが恐れていたようにひどくむくんではいなかった。 死臭もなかった。 四肢も膨れていなかったし、変色もしていなかった。 ただ眠っているふうに見えた。 それは、あまりに綺麗な死体だった。 セントラルの誰かが、防腐処理を行ったのだろうか? 例の花のような香りが部屋に立ち込めていた。 傷が目立たない脇腹から内臓を抜き取り、薬液に浸して硬化させ、元あった場所へ戻し、脳髄や目玉にも同じ処理を施して、それから全身の皮膚にコーティング加工を行ったのだろうか? リュウの死骸をそこまで陵辱したのだろうか? だが、そばに寄り、リュウの頬に触れると、そうではないことが知れた。 彼の頬は中途半端に温かかった。 冷たい死骸にはなりきらないでいた。 温かくも冷たくもなく、空気と同じ感触がした。 例のあの消毒薬のような匂いの元は、すぐに知れた。 リュウの傍らに、みずみずしい青い花束が置かれていた。 摘まれたばかりで香りが強く、色も鮮やかだった。 花束のそばにはぬいぐるみが置かれ、『おはよう リュウ』と書かれたメッセージ・カードが添えられていた。 ニーナの奴だなとボッシュは考えた。 毎日この部屋に顔を出しているのだろう。 彼女はリュウがもう目覚めないってことを知っているのだろうか? それとも死について漠然としたイメージしか抱いておらず、いつかリュウは目が覚めてまた一緒にいられると考えているのだろうか? しばらく、じっとリュウを見ていた。 その身体は大分昔より背が伸びていたが、ボッシュとの背丈の差は、昔よりも随分開いていた。 あの長い髪が、割合彼という人間に似合っていたのに、髪は短く切り揃えられていた。 そのせいで、なんだか違う人間みたいに見えた。 顔立ちは精悍で、温和で人の良さそうな印象こそ変わらなかったが、少年のあどけなさはその顔から過ぎ去ろうとしていた。 喉元の、昔獣剣で串刺しにしてやったあたりには、時折ぼうっと赤く不可解な模様が力なく光っていた。竜の残滓だろうか。 背は伸びたくせに身体は異様に痩せ細り――――まるで摂食障害でも起こしているみたいに――――皮膚の黄ばみは濃くなり、胸から首筋、そして四肢にまだらに奇妙な文字のような斑が浮いていた。 それはオールド・ディープの浸蝕痕に似ていたが、ボッシュにはこんなにはっきりとした症状は現れてはいなかった。 これが心まで竜に呑み込まれたものの末路なのだろうか? 優しい夢とやらの代償なのだろうか。 もともとが死骸みたいなものだったな、とボッシュは考えた。 抱いた身体は既に死の病に蝕まれていた。 良くもこんな身体に欲情できたもんだな、とボッシュは呆れながら考えた。 だが、今だって、彼を組み敷いたあの時と、感情はあまり変わらなかった。 干乾びた死体みたいな四肢に触れたかったし、まるで薄っぺらいシートを被せただけのような、骨が気持ち悪いくらいに浮き出た胸、それから腰骨が突き出していて触ると痛い腰にも、確かに情欲を感じることができた。 今だっておんなじだった。 そこにあるものがリュウなら、死体と寝ることにも躊躇いはなかった。 今の俺だってどうやら似たようなものらしいけど、とボッシュは考えた。 ふと思い立って、鏡に写してみると、そこには一匹の幽鬼がいた。 髪を振り乱して、骨と皮だけに痩せ細り、死んだディクみたいな目がぎょろっと嵌っていた。 ひどいもんだとボッシュは自嘲し、それからベッドの上のリュウに同意を求めるように彼の顔を覗き込んで、少し微笑み、彼の手のひらを握った。 「……やっとつかまえたよ」 静かに、ボッシュは言った。 リュウと手を繋ぐと、今までボッシュを畏れさせていた絶望や焦燥や、無力感までもがすうっと引いていき、空白がボッシュを満たした。 それは具合の悪い種類のものではなく、どこか安心するものだった。 「見つけた。安心しな、もう離しやしないよ……」 リュウはあの夜と同じ顔で微笑んでいた。 赤い死の光の中で、ボッシュに向かって微笑み掛けたあの顔のままだった。 死に掛けながら、どうやって誰かに微笑みかけることができるのだろうか? ボッシュはリュウにそいつを聞きたかった。 だか彼が永遠に眠り込んでしまった今となっては、もう無理なことだった。 ボッシュは少し力を込めて、リュウの手をぎゅうっと握った。 相変わらず彼の手は冷たかった。 彼はちょっとびっくりしたように、ボッシュの手ってあったかいんだあ、と言う。 そう、リュウは無駄に忙しなく、ボッシュよりも体温が高そうなくせに、触るとひやっと冷たい。 ボッシュはその冷たさが好きだった。 触っていると安心した。 ボッシュ=1/64という、誰よりも強い無敵のヒーローを演じることができた。 誰かを守らなきゃならないって気負いがそうさせたのかもしれない。 「なあ、なんかいろいろあったんだけどさあ、オマエに言いたいこととか、昔の話とか、例えばガキの頃とか俺たちふたりでリフトへ行った頃の。それからオマエがいなくなってから今までのこととかさ、話したいことがいっぱいあったんだ。俺が誰かと話をしたいなんて思うって、すごいことだよ相棒。オマエはどうやら聞く耳ないみたいだけどね」 勝手に話すからべつにいいよと言って、ボッシュはとりとめのないことを話し始めた。 うわごとでも呟くように、口から勝手にべらべらと言葉が溢れてきた。 それらに一貫性はなく、ボッシュ自身にも理解出来ないようなものが大半だった。 そうしている間、不思議とリュウの手のひらは温かかった。 ボッシュの体温が、彼に移ったのかもしれない。 そのせいで、まるでリュウが生きてそこにいて、じっとボッシュの話に注意深く耳を傾けているような錯覚が訪れた。 しばらく喋り続けていると、衰弱した身体には堪えたのか、澱のような眠気がボッシュを支配しはじめた。 リュウの手を握ったまま、床に座り込んだままベッドにもたれ、リュウの手に額をすり付けた格好で、ボッシュはうとうとと目を閉じた。 「……オマエの馬鹿みたいな顔見てると、全部が馬鹿馬鹿しくなってくるんだ。そのせいかな、レンジャーやってた頃は、すごく寝付きが良かったんだよ。きっと余計なことなんか考えなかったんだ。例えば次に目を開けたら身体が半分ディクに食われてるかもしれないとか、俺の中にいる竜に身体を乗っ取られるかもしれない、雨が降って増水した川の水が溢れてきて、水没したシェルターで溺れて死んじまうかもしれない。あの銀色の竜が俺を殺しに来るかもしれない。幽霊や、ゾンビが――――言っとくけど、怖いってわけじゃないからな―――― 出て来るかもしれない。オマエと手を繋いでると、なんにも怖くないって気になってくるね。なあこれ、絶対誰にも言うなよ。 ―――― それにしても……こうやって……、 安心したまま寝れるっての……いつぶりだっけ……」 目を閉じると、すぐに意識が暗転した。 いつも悪意を持ってボッシュを苛む眠りの暗闇が、今日は不思議と恐ろしくなかった。 |
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