遠くから響いてくる靴の音を聞いて、意識を浮上させると、部屋の中は窓から射す柔らかい朝の光で満ちていた。
 相変わらず繋がっているリュウの手は、ボッシュの体温が浸蝕して、温かかった。
 まるでほんとに眠っているだけみたいだ。
 永遠に彼がもう目を覚ますことがないなんて、嘘みたいだ。
 ボッシュはぎゅうっとリュウの手を握り、目を閉じた。
 もう離しやしないし、誰にも邪魔させない。
 






 扉が開いて、顔を出したのは見知った男だった。
 それほど親しい訳ではなかったが、剣聖の間に訓練に向かう時に、稀にすれ違うことがあった。
 元統治者の男だった。名前は確かジェズイットとか言ったはずだ。
「よお、おはよう。少しは眠れたか?」
 ジェズイットが気安く手を振って寄越したが、ボッシュは構いつけず、ただじっと押し黙っていた。
 ジェズイットは無視されたことにも頓着せず、腕を組んで、どこか面白がるような顔で――――もしかすると、そいつが地顔なのかもしれないが――――言った。
「起きたんならそりゃあいいことだ。そこの二代目みたいに寝込んだまま起きないんじゃねえかなーって、ちょっと心配したぜ。なあ、もう具合はいいんだろ? そういう顔してるし。なら、ちょっと顔貸してくれないかなあ」
「ほっといてくれ」
 ボッシュは短く吐き棄てて、突っ撥ねた。
 もう誰にも干渉されるのはごめんだった。それがどういう種類の人間でもだ。
 何故誰も彼もが、ボッシュを放っておいてくれないのだろうか?
「邪魔するな」
「そういう訳にもいかない」
 ジェズイットは、まるでなかなか話を聞かない子供をどうやって宥めるか思案するように肩を竦めて、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「あのなあ、おまえさんはここのゲストじゃないんだ。オリジン殺害の凶悪犯ってことで、今すぐ排除することだってできる。駄々をこねたらなんだって聞いてもらえると思うなよ、おぼっちゃん」
「なら殺せばいいだろ。何度も言ってる。オマエら揃って誰も耳ついてないの? もうなんにも知ったこっちゃない。世界も、メンバーも、竜もなんにも知らない。俺はここにいる。どこへも行かない」
「だから少しは年長者の言うことを聞くべきだってば、ボッシュ君」
 ジェズイットが、宥める口調で言った。
「いくつか条件付きだが、君の望み通りにできるかもしれねーぜ。そのことでまあ、なんだ。ちょっと付き合ってもらいたいわけだ。おまえさんはリュウの身体が欲しいんだろ? それができる。おまえさん次第だ。なんなら御印付きの書類とかを付けてやったっていいかもしれない。オリジンリュウの遺骸は、正当な権利を持ってボッシュが所有します、とかなんとかさ」
「……何を企んでる?」
 訝しく、ボッシュは目を眇めてジェズイットを睨んだが、彼はへらへらとはぐらかすような笑いを浮かべたままだ。
 それからほんとにほんとと言い、にやっと口の端を歪めて、たちの悪い笑い方をした。
「企んでねえよ。なあさ、周りのやつらにがみがみ言われるのは嫌だろう? おまえさんは大好きなリュウちゃんと一緒に、お手々を繋いでいたいだけだもんな。大丈夫だよ、リュウの身体はどういう訳だか硬直もしないし、腐っちまうこともないんだ。おまえさん次第でこれからずうっとひっついてたって構わねーし、その気になれば二代目と『また』セックスだってできる。死体だけどな」
「好きじゃない」
 ボッシュは顔を顰めて、誰がこんな奴をと言った。
「そんなつまんないことを俺が望んでるとでも? 俺はただ、ひどい目に遭わせてやりたかったんだ。俺を裏切るとどういうことになるかってのを、教えてやりたかったんだ。べつに特別だとか、そんなじゃない。愛してもない。こんなのいらないよ。万が一寝たってなんにも反応しない」
「意地を張るのもいいけど、泣きそうな顔しながら言うことじゃないぞ」
「誰が……!」
 ボッシュは顔を上げ、ジェズイットを鋭く睨んだ。
 ジェズイットは相変わらずまったく堪えていないふうに、肩を竦めて、さあ来な、と言った。
「大人の言うことは聞くもんだぜ。あんまり手間を掛けさせねーでくれないかな。少なくとも、リュウはおまえさんより頑固だが、そうやって駄々こねて幼児みたいにしゃがんで動かなくなることはなかったぜ」








 連れ出された先は、セントラルの大分下層部にある、民間人用の食堂だった。
 上層より空気が和らいでいて、狂ったように白一色に塗り潰されていることもない。
 朝も早いせいか、ボッシュたち以外に客はいなかった。
「ほらよ、食いな」
 目の前にどんと皿が置かれて、ボッシュはしばらく呆然としていた。
 大皿には山盛りに食べ物が盛られていた。
 かりかりのベーコン・エッグがよっつばかり重なっていて、中にうまにくのフルーツ・ソース煮がたっぷり詰まっている楕円のかたちの大きなパンが、皿の真中に鎮座していた。
 それから皿からはみ出さんばかりのフライド・ハオチー・チップスに、大盛りのりんごのサラダ。
 おまけにナッツと香辛料入りのナゲット・ケーキが積まれていて、甘いはちみつとクリームがかかっていた。
 どれもここしばらく目にしていないまともな食材ばかりだが、あまりの量に、ボッシュの胃がずっしりと重くなった。
「こんなに食えるか」
「なんだ、ちっさいニーナみたいなこと言いやがって。リュウなら美味い美味いって泣きながら3分で食っちまうぞ」
「なんでなんでもかんでもリュウを引き合いに出すんだよ、おっさん」
「いや、おまえさんリュウちゃんのことが大好きみたいだからさあ。あ、次おっさんって言ったらぶん殴るからね」
「話があるんじゃなかったの」
「まず腹ごしらえだ。今にも餓死しそうな奴と落ち付いて話なんかできねーだろう。おまえは覚えてないかもしれないが、ここ1ヶ月、まともにものを食ってないんだ。まあ食えよ、無理なら吐き出せ。とにかく食え」
「無茶苦茶だな」
「いいから食えってば。リュウに生きろって言われたんだろ」
 ボッシュは目を見開き、ジェズイットの顔を見た。
 彼の目には、ニーナたちのような悲しみの光は見えなかった。
 クピトもそうだ。統治者なんてものを長年やっていると、近しいものの死に鈍感になってしまうのだろうか。
 今までそばにいたものがいなくなった時に、上手く悲しむことができなくなるのだろうか。
 それとも、とボッシュは考えた。
 嘘をつくのがものすごく上手くなってしまうのだろうか。どっちにしろろくでもないが。
 結局、食欲ってものはほとんど沸かなかったが、のろのろ手を伸ばして、綺麗に磨かれたナイフとフォークを手に取り、幼い頃から叩き込まれてきたテーブル・マナーのとおりに、ベーコン・エッグを小さく切り分け、ゆっくり口に運んだ。
 咀嚼して、無理に呑み込み、それを繰り返す。事務的な動作でだ。
 胃袋に少しずつものを投げ込んでいるうちに、食欲というものがようやく重苦しい眠りから目を覚ましたのか、猛烈に腹が減ってきた。
 お上品なマナーなんてものは、そうなってしまうと何の役にも立たないことを、ボッシュはこの二年間で学んだ。
 飢えて、やがて訪れる死を前にしては、美しい装飾を施された食器なんてものはまるで意味をなくしてしまう。
 殺して食うだけだ。それだけだ。
 段々味がわからなくなって、食べ物に対するこだわりがなくなると、食事がまるで呼吸と同じふうに感じられてくる。
 呑み込まなきゃ死ぬからそうする。それだけだ。
 食器を放り出して、半身をテーブルに乗り出し、手を使って、皿の上のものを口の中に放り込む。
 咀嚼はほとんどしない。そんな暇はない。早く食わなきゃ、例によって餌にムカデどもがたかってくるかもしれない。森の中では往々にしてそうあるように。
 ちらっと目を上げると、離れで仕事についていたウエイターが真っ青になって棒立ちしているが、ジェズイットは相変わらず面白そうにニヤニヤ笑っている。
 やっぱりそいつが地顔なのかもしれないと一瞬考え、それから顔を下向け、ディクが餌にがっつくような食事に専念する。
 皿を空っぽにする頃には、テーブルの上はひどい惨状になっていた。
 ソースが飛び散り、潰れた卵から零れた黄味やパンくずと混ざり合い、ボッシュの手と衣服を汚していた。
 ボッシュは顔を上げ、挑むように、低い声を上げた。
―――― 生きてやる……」
 声は震えていたが、その芯はしっかりした意思を持ち、まっすぐだった。
 ジェズイットは満足そうな顔をしていた。
 ボッシュは殺意すら篭った声で、後を続けた。
「俺は生きる。それがあいつの判定なら、俺は死んでもそうする。さあ用件を言えよ。俺は生きて、リュウを手に入れる。何だってやってやる。さっさとしろ」
「了解、ボッシュ君。……いや、このボッシュ君っての、どうなのかなあ? まずいかね」
 ジェズイットはぱんと手を合わせて、機嫌が良さそうに、奇妙なことを言った。
「仮にも俺らの上司になるわけだからね」
「……ハア?」
 ジェズイットが言っていることが呑みこめずに、ボッシュは怪訝な顔をして、眉を顰めた。
 何を言っているのだ?
 彼は例の締まりのない半分笑った顔で、まるで面白い冗談でも自慢するように言った。



「なあボッシュ=1/64よお、おまえさんには最高判定者二代目オリジンリュウの代行者として、これから1000年オリジンやってもらう」












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