目の前でジェズイットがスロー・モーションで飛んでいく残像が、ぶれて目に写った。 それから椅子をいくつか巻き込んで床に叩き付けられる激しい音、怒声、ここはいつもこんなに騒がしいのだろうか? そう考えて、ボッシュは辟易してしまった。 「ふざけんじゃないよ! 何だってんだい?! この人でなしでろくでなしのクソガキを、リュウのかわりにオリジンにする?!」 「なにもいきなりぶたなくたっていいじゃん! 俺は悪いことしてねーじゃん! 殴るならそこのそいつだろ、おい代行! おまえさんのことだぞ、前に出てきて「ぶつなら俺をぶってください」って言えよ!!」 「黙りな、あんたと話をしてるんだよ!!」 リン、例の獣人の女判定者が忌々しげに怒鳴り、倒れたジェズイットの背中を靴の踵で踏み付けて、ヒールを重心にして、ぐるぐると踏み躙った。 ジェズイットがたまらず悲鳴を上げた。彼はばんばんと床を叩き、涙目でリンに訴えた。 「おいおいリン痛えって! マジで痛い痛い痛い、あっでもちょっと背徳的な快感が」 がっとジェズイットの頭を踏み、黙らせて、リンがボッシュを鋭く睨みながら吐き捨てた。 「私おまえが嫌いだ」 「――――リン、我々判定者が個々の好みで発言するのは、あまり感心しないな」 静かなメベトの声が、リンを窘めた。 驚いたことに、トリニティの親玉が、元統治者たちと馴れ合うようにして、判定者に混ざって会議室の円卓についていた。 何がどうなっているのかわからない。 今世界は一体、どうなってしまっているのだろうか? 「しかしメベト! その男はリュウを傷付け、殺害しました。これは、個人的な感情だけではないと、思います……!」 リンが、元トリニティなだけに昔の親玉に逆らうのはあまり気分が良いものではないらしく、先ほどよりも幾分歯切れ悪く言って、ボッシュを睨んだ。 その目は敵を見る目だった。 間違っても主の最高判定者代行を見る目じゃない。 そろそろ傍観しているわけにもいかないと思ったのか、今までだんまりだったクピトが口を出した。 「じゃあリン、聞きますけど、ほかにオリジンに相応しい人間が誰かいますか?」 「メベトがいるじゃないか」 リンが確信を持ってメベトを見たが、当のメベトは目を閉じ、首を振った。 それはどこか疲れを感じさせる仕草だった。 身体的なものや、精神に作用するものではなく、それは年月の重みのように感じられた。 いつのまにか増え、重くなりすぎた荷物を眺めながら、途方に暮れて立ち尽くしているような感触が僅かに覗いていた。 トリニティの親分なんて見るのは初めてだが、ボッシュには特に感慨を抱くことはできなかった。 レンジャーをやっていた時分なら、もっとうまくいろんなものごとに感情の起伏が激しく現れたのだろうが、今はそんな気分にはなれなかった。 何故なのかは知らない。もう欲しいものが、特に何も見つからないからかもしれない。 メベトはじっとボッシュを見て、また目を閉じ、首を振った。 彼の目には少しばかりの郷愁と、懐かしむような色が見て取れたが、それが何故なのかはボッシュには解らなかった。 「私はもう、歳を重ね過ぎた。今更表に立つこともないだろう。世界の行く末は、リュウ君や彼のような若者が創れば良い。バックアップならば喜んで引き受けるがね」 「……なんかおっさん、先代が死んじゃってから、めっきり老け込んじゃったな」 倒れたままのジェズイットが、ぐるっと首だけ巡らせて、意外そうに言った。 メベトはにやっと口の端を上げて、彼に答えた。 「君のような子供が、おっさん呼ばわりをされる時代になったんだ。私も歳を食う。無理もない」 「俺はまだおっさんじゃないってのに」 「ともかく私は認めないからな、ボッシュ=1/64! あの子を傷付けたんだ。私は許さない」 「なら死刑にでもすれば。何度も言ってる」 ボッシュは気だるく、噛みついてくるリンに、醒めた目を向けた。 まったくうざったいったらないなと考えながら、なんだか彼女の物言いに、喉の奥に物がつっかえたような息苦しさを感じた。 前にもこんなことがあったような気がする。 そう、気に入っているおもちゃを持って街に出た時に、おんなじ玩具を抱えて持っている子供を見つけた時のような、後ろめたい焦燥といらただしさだった。 世界でたったひとつしかないと思っていたお気に入りが、どこにでもあるありふれたものへ変質してしまう一瞬のような、気だるい感触だ。 そして、自分が確かに何かを純粋に愛することができていたという、輝かしい誇らしさを奪い去られることへの怒りだった。 ボッシュはほとんど癖になってしまっている、せせら笑うような顔を作って、粘り気のある声で、静かにリンに告げた。 「でももう決まっちゃったんだって。しょうがない。オマエは実質俺の同僚、そして決定権は俺のが上ってことになってる。俺が主なんだよ。不満なら辞めてくれていい。そうなったらまっさきに、俺は侮辱罪で民間人のオマエを死刑にするけどね」 「……!!」 リンの尻尾と耳が、怒りのせいだろう、ぶわっと膨れて逆立った。 クピトとメベトは目を閉じて、何も見ないふりを決め込んでいる。 面倒そうな話には関わらないでおこうというポーズなのだろう。彼らは利口だった。 ジェズイットがくたびれきったように、あーあ、と言った。 「俺、知ーらない。知らないよー、代行」 「俺だって知ったこっちゃない。なんでこんな年増にイロイロ面白くないこと言われなきゃなんないの? わかんない」 「……おまえは……人の神経、逆撫ですることだけは、すごく上手みたいだね……?」 リンが、怒りを堪えるようにテーブルを握り締めた。 すると陥没するような音を立てて、硬いウォール・ナットの分厚い板に、彼女の手のひらのかたちの窪みが生まれた。 ひどい馬鹿力だ。 頭の悪い女に良くあるように、このまま逆上して襲いかかってこなきゃ良いけどな、とボッシュは考えた。 女って生き物があんまり好きじゃあないのだ。 愛してるとか言いながら言い寄ってきて、適当に応えてるうちは可愛いものだが、飽きてあんまり構い付けなくなると癇癪を起こして、棄てるとひどいことになる。 ボッシュはそれを下層区の掃溜めで嫌と言うほど学んだ。 相手がローディだったせいもあるかもしれないし、人格のせいだったかもしれない。 一人目のメイジの娘の時は部屋が火事になりかけたし、二人目のバトラーの女は夜中に刃物を持って寝込みを襲いにきた。 どれも一番とばっちりを食ったのは同室の相棒のリュウだ。 部屋の入口に仕掛けられていた魔法陣を踏んで大火傷するし、肉切りナイフを持った女を必死に宥めて三針縫った。 そして決まってその後ボッシュと三日ばかり口を聞かない。 彼は潔癖症なのだ。 口で丸め込むか、金でなんにもなかったことにするか、どっちにしろことを終わらせて、女が頭を冷やしてリュウに見舞いの品を何がしか渡したあたりで、全てがもう終わったんだと悟り、ぽつぽつ口を開き始める。任務の話や、事務的な支給品の管理の話を始める。 彼は小言の類は言わなかったし、ボッシュの性癖についても、もうそういうものだと諦めているようだった。 そう口に出して言ったことはなかったが、ボッシュは他人の口から愛してるとか好きだとかいう言葉を聞くのが気に入っていた。 それがローディのつまらない女でもだ。多少の慰めにはなった。 まるで気に入りの娯楽番組にテレビのチャンネルを回しているような感触だった。 背中のあたりが薄寒くなるくらい、馬鹿馬鹿しいことだとは思った。 ボッシュはいつも冷静だった。 それをなじられることは良くあったが、少なくとも1/64のボッシュに、下層区のローディがそんな口を聞く資格はない。 大体すぐに静かになった。 それらは多分、半分くらい自棄になっていたところがあったようにも思う。 初めて愛した少女はただの幻想の産物だった。 約束もなかったことになった。 そのせいかもしれない。 「……きっと脳味噌が筋肉の栄養になっちゃったんだね。そのカローヴァみたいな胸も筋肉でできてるんじゃあないの、巨乳?」 ボッシュの軽口に応えるように、びしっ、とテーブルに大きな亀裂が入った。 リンは怒りで顔を真っ赤にして、目が殺意に燃えている。 憎々しげに歪んだ青い眼に、皮肉な嘲笑を浮かべたボッシュが映っていた。 彼女みたいな人の言うことをまったく聞かない、それこそカローヴァみたいな女を、一体リュウはどうやって宥め付けたのだろうか? 「……逆撫でしてるの、神経っていうか、逆鱗だよなあ」 「ジェズイット、もう黙ってたほうがいいと思いますよ。きみはいつも余計なこと言って、何かしらとばっちりを食ってるんですから」 ぼそぼそと同僚が話し込んでいる隣で、大して面白くもなさそうな顔で――――難しい執政の話はまだ子供の彼女にはさっぱり面白くないものなのだろう――――椅子に座って足を揺らしていたニーナが、手を伸ばし、リンの服の裾を引っ張った。 「……リン、なんで怒ってるの?」 「ニーナ、知ってるだろう? こいつ、リュウを殺したんだよ。ね、わかる? リュウはもう起きない。前の時みたいに、起きないんだ。あの子はもうどこにも……」 そこでリンは黙り込んだ。言おうとするべき言葉を詰まらせたようだった。 まるでそれがひどく恐ろしいものででもあるようだった。 彼女はしばらく呆然と、見開いた目を宙にさまよわせていた。 その視線の焦点は、どこにも向かっておらず、虚ろだった。 「……少し出るよ。気分が悪いんだ。悪いね」 自分を取り戻すと、居心地悪そうな顔で言い、取ってつけたような無表情になり、ボッシュを見ないまま、リンは退室した。 ボッシュは顔を顰めて、不満を隠さず、不機嫌な声で判定者どもに訊いた。 「あの女、なに?」 「ん? 知ってるだろ、リンだよ。おまえさんの言ったとおり、同僚さ。悪いな、キツイこと言われて面白くないのは解るが、いつもはあそこまでじゃねーんだ。リュウが死んじまって、ピリピリしてるんだよ」 苦笑を浮かべながら、ジェズイットが立ちあがり、ああキツかったと言って服を整え、行儀悪く椅子に腰掛けた。 大騒ぎしていたくせに、彼には傷ひとつなかった。 腐っても地下世界の統治者だった男なのだ。 ボッシュは口元を歪め、リンが出て行った扉を睨み付けた。 ひどく面白くなかった。 彼女はあまりにも無礼過ぎた。 あのいけすかないゼノみたいに、脳味噌まで筋肉でできているに違いない。 「あいつ、リュウに惚れてたんじゃないの」 「……なんでそう思うんだ?」 「……べつに。なんかそんな気がしただけ。年下好みみたいな顔してたから」 「そんなこと言って、代行ったら嫉妬か? 誰かがリュウのこと考えてるだけで面白くねーんだろ。それが美人で巨乳で爆尻のおねーさんなら更に。大丈夫大丈夫、見たとこまだ多分大したこともしてないから」 「……おっさん、まだってなに?」 「なにかなー? おにーさんわっかんないなあ。なあ、リュウちゃんも健全な男の子なんだから、リンねえさんのお尻触りたいくらい考えたことがあるはずだ。あんなにすごいんだぜ? あいつロリコンだけど」 「君も十分代行の神経逆撫でしてますよ。それにしてもニーナ、意外ですね。リンを止めるなんて」 ニーナは依然として、つまらなさそうに椅子の上で足を揺らしている。 彼女はぼおっとしたままで、まるで心がそこにないみたいだった。 「……ね、まだ終わらないの? わたしお昼になったら、お花を積みにいかなきゃならないの。昨日のお花、もう古くなっちゃった。リュウには一番綺麗なのをあげなきゃ」 ニーナの声は、まるで朝方まで見ていた夢の続きの中にでもいるようだった。 ねボケているみたいな声だ。 リュウはやく起きないかなあとニーナは言った。 彼女はまるで、アジーンの優しい夢の中にいる時分のリュウのようだった。 彼女の中でリュウは絶対的なヒーローであり、彼女になにか危機が訪れれば、彼は目を覚まし、颯爽と助けに現れる。 今はただちょっと『休憩』しているだけなのだ。 死んでなんていない。 だが、そこに竜の絶対的な暗示はなかった。 ニーナはもしかしたらもう理解しているのかもしれない。 ただ信じられないだけなのだ。 リュウが相変わらず、綺麗な身体のままでいるせいだ。 ただ眠っているだけみたいに見えるせいだ。 腐り落ちてばらばらに分解されて、土くれになってしまうこともないせいだ。 「リュウは死んだよ。もう帰ってこないし、オマエが牢屋の前で叫んでたみたいに、俺があいつの目を覚まさせてやることもできやしない」 ボッシュはテーブルについたまま、静かにニーナに言った。 そのほとんどが、まるで自分に掛けているみたいな言葉だった。 「取り戻せるなら、とっくにやってる」 ぽつりとボッシュは言った。 ニーナはちょっとびっくりしたような顔をして、ボッシュを見た。 彼女の目は虚ろで、そこにボッシュの姿を見ることはできなかった。 そう、本当は、取り戻せるならとっくの昔にやってる。 リュウはアジーンに奪い去られてしまった。 彼はボッシュに笑い掛け、手を取らないまま、一人きりで歩いて行ってしまった。 さよなら、と言った。 そして過ぎ去ってしまった。 ニーナは理解しているだろう、自分がリュウに選ばれなかったものだってことを。 ボッシュもそうだ。 判定者どももそうだ。 空の世界もそうだった。 リュウは全部を諦めて、零れ落ちてしまった。 彼の目が開いてもう一度空を見ることは、もうないのだ。 ここは竜とリュウに棄てられてしまった世界だ。 |
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