それから日々は静かに過ぎていった。
 リンはほぼメベトの趣味みたいな空の生物の標本の管理とデータ整理に忙しいらしく、執務室には寄り付かないし、そのせいで顔を合わせることは少なかったが、やはりボッシュのことが気に食わないようで、出会い頭には必ずと言って良いくらい険悪な顔で睨んでくれた。
 ジェズイットは退屈そうに本棚の上で昼寝をしているか、誰かの尻を(大抵がリンのものだったが)撫でて、セントラル地下の拘置室送りになっていた。
 だが彼に割り当てられた書類が期日を切ることはなかった。
 いつ仕事をしているのかは結局わからなかった。
 オリジンの仕事は大体のところをクピトがレクチャーしてくれた。彼は先代、つまり二代目オリジンのリュウの教育係の真似事なんかもやっていたようで、なかなか教え方が上手かった。
「きみは非常に優秀ですね」
 クピトはことあるごとにそう言った。
 彼はその度に苦笑し、何がしかの思い出を頭の奥から引っ張り出してきて、くすっと吹き出し、もうあの彼は本当に物覚えが悪かった、と言った。
「統治学書の目次の読み方すらなんにもわからなかったんですよ。汎用数字がです。はじめは何かの冗談だと思っていたんですが、彼は本気も本気だった。それまで一緒に行動していたリンも、さすがに呆気に取られてましたよ。彼、いつのまにかニーナに語学書の読解を追い抜かれた時には、ほんとに情けない顔をしていました。まあ無理もない、彼女は先天的にすごく頭が良いんですから」
「……オマエ、リュウが生きてるみたいに話すね」
 ボッシュはプラントの稼動報告書を捲りながら、少し不思議に思った。
 誰も彼も――――ちょっとばかりおつむにがたが来たニーナを除いてだ――――リュウをもう過去いた人間のように扱う中で、クピトはまだリュウが今ここにいる、生きた人間のことを話題にするような話し方をした。
 まるで、さっき彼と廊下ですれ違いましたよとでも言い出しそうな感触があった。
 クピトはボッシュには答えず、ただ目を閉じて頭を振っただけだった。
 そしてさあ仕事に戻りましょうと言った。
 ボッシュも無駄話は好きではない人種だったので、そうだねと同意して、再び書類に目を落とした。
 街はどんどん大きくなっていた。
 この間まで輸送車両とクレーンしかなかったジオフロントの周りも、綺麗に舗装されていた。
 いつか空に出てしばらくした頃にリュウと再会した森も、もうなくなって、今は薬品製造プラントが無愛想な無機質さを晒して建っていた。
 日々移り変わっていた。
 変化は目まぐるしく、世界は一分、一秒が過ぎる間に、もう色を変えていた。
 そのせいで仕事が尽きることもない。
 辟易して、ボッシュはクピトに出来上がった書類を渡し、いくつか注文を付けた。
「書庫に行って、いくつか地図を持ってきてくんないかな。旧世界のやつ。いくらか地形は変わってるかもしれないけど、参考にはなるだろう」
「地図ですか?」
「ヒトが増えすぎてる。ディクがうまにくをがっつくみたいな早さだよ。こんなんじゃ、街イッコだけじゃあすぐにパンクしちゃうよ。実験期間はじきに終わるんだろ?」
「ええ」
「今のうちに、大体世界のことを知っておきたいんだ」
「わかりました、すぐに。調査班が提出した報告書はどうします?」
「ついでにそいつも頼むよ」
「はい。おいで、ラスタ」
 クピトは頷き、空いた椅子の上で丸まっていたペットのラスタを呼んで、部屋から出て行った。
 彼の小さな足音が聞こえなくなると、ボッシュは立ち上がり、執務室の窓を開けた。
 そして躊躇いなく飛び降り、すぐ下にある梁に着地して、執務室の真下にある窓枠に掴まり、柱を伝って窓から応接間に飛び込んだ。
 なにしろボッシュが普段生活している階層はひどい高さにあったので、抜け出すにも一苦労だった。
 へまをやらかしたら大怪我では済まない。
 昔ライフラインのてっぺんからどん底まで落下した時のように、遥か下の地面に打ち付けられて、潰れた果物みたいになって『即死』するだろう。
 そして今度は取り引きを迫る竜もいないのだ。
 応接間には先客がいた。
 来客用の上等なソファに寝転がっているジェズイットだ。どう見積もってもサボリだろう。
 彼はボッシュの侵入に気付くと、面倒そうに顔だけ向けて、欠伸をしながら「よう」と言った。
「なんだ代行、サボリはいけないぞ。クピトに言い付けてやる」
「オマエにそれ言う資格はないよ。まったくやってらんない。肩が凝ったんだ。後は任せる。そのための部下だろ」
「なんだか今の発言に対してイロイロ言いたいことはあるけど、ま、気を付けてな。あ、晩飯までには帰るように」
「ガキじゃない」
 そのまま応接間を通り抜け、見張りの警備兵の目を縫って、セントラルを抜け出す。
 これがほぼボッシュの日課になっていた。
 昔は確か、俺は統治者になるんだと意気込んでいたものだったが、いざすべてを手に入れてしまうと、随分退屈なものだった。
 すべてを手に入れはしたが、同時にすべてを失ったのだ。
 世界の王の地位も、なんだか空虚で、あまり感慨ってものが沸かなかった。
 もしも父が生きていたなら何と言っただろうか。





◇◆◇◆◇





 ニ年間あんなにも忌々しく耐え難かった森での暮らしが、奇妙に懐かしく思えることがあった。
 そこに深い静寂が満ちていたからかもしれない。
 木々がざわめき、虫や鳥が鳴き、遠くで大型の獣の遠吠えが聞こえる。
 だが面倒臭いことを言う人間は誰もいなかったし、いくら作業したって一向に片付かない書類の山もない。
 雨が降ってずぶ濡れになることもあったし、冬が訪れると凍て付いた風がボッシュを凍えさせた。
 前は俺がこんな目に遭っているのは全部リュウのせいだと考えて、憎しみの炎を保っていた。
 だがそれすら、奇妙な感慨を、今のボッシュにもたらした。
 少なくとも、今にも手が届きそうな場所でリュウを求めていたし、憎しみはボッシュを強くしてくれた。
 竜の絶対的な力があった。
 でももう何にも残ってない。
 悲壮な絶望感でも、なんにもない空虚よりは幾ばくかましだった。
 そこには激しい感情があったからだ。そして、明確な目的ってものがあったからだ。






 巨木の張出した枝の上で、寝転んで昼寝をしていると、見慣れた人間がそばにやってきた。
 ニーナだ。
 彼女はボッシュが頭の上でうとうとしているなんて知ることもなく、いつものように感情ってもののない顔で木の幹の根本に座り込み、花を摘んでいた。
 辺り一面、濃い黄色の花で埋れていた。
 見渡す限りだ。
 奇妙なことに、気温が一定以上上がると、地上にはこうやって花々がそこかしこに群生するのだ。
 地下で栽培されるバイオ花の弱々しさを見慣れていたボッシュには、それが驚きだった。
 空の花は生命力に満ちていて、ちょっとやそっとのことじゃ枯れない。摘んでも大分長い間みずみずしさを保っていた。
「きれいねえ、リュウ? リュウはお花好きだもんね」
 ニーナがぶつぶつと独り言を言いながら、不器用に花を束ねて輪を作っている。
 彼女は連れてきたぬいぐるみ――――身体の半身がちぐはぐになった奇妙な格好をしている――――を木の幹にもたれ掛けさせて、何がしか話し掛けていた。
「空にはいっぱい綺麗なものがあるって、ほんとなんだね。リュウの言うとおりよ。でもね、なんでもお鍋でぐつぐつ煮て、食べちゃうのはどうかなって思う。またおなか壊しちゃうよ。そんで、リンに怒られるよ。食べてみなきゃどれが食べられるものかわからないって言うけど、ちゃんと調べたらわかるんだから」
 そう言いながら、彼女はぬいぐるみの頭を細い指先でつんと突付いた。
 それからまた不恰好な花輪を作る作業に戻った。
 ボッシュは彼女を無視して眠り込むことも考えたが、身体の下でいかれた積荷女が鼻歌なんて歌っているのは正直に鬱陶しいし、あまり気分も良くなかった。
 誰とも顔を合わせずに済むから、こうやってクピトの目を盗んで抜け出してきたのに、ニーナがそばにいるのでは話にならない。
「……オマエ何やってんの」
 気だるく身体を起こし、顔を顰めて、眠気で重たくなっている瞼を擦りながら、ボッシュは下にいるニーナに声を掛けた。
 彼女はすぐに反応した。
 ぱっと顔を上げてボッシュを見付け、嬉しそうに笑ったのだ。
 そして言った。




「あ、リュウ! びっくりした、そんなところにいたの」

 



 彼女の顔には冗談を言っている気配はなかった。










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