街にはいつのまにか随分大きな建物が突っ立っていた。
 中央省庁区で見た図書館や美術館のような、石造りの建造物だ。
 入口の扉の横には、今はもういなくなってしまったオールド・ディープのモニュメントが、左右対になって聳え立っていた。
 そこは空において、セメタリーと呼ばれていた。
 巨大な、オリジンの墓標だ。
 内部は厳重にチェッカーが作動しており、人を寄せ付けなかった。
 交互に黒と白の正方形のタイルが敷き詰められ――――それはボッシュに、良く訓練で訪れた父の部屋を思い起こさせた――――円形に部屋を囲む壁には蝋燭の炎が燃えていた。
 まだ蝋燭立ては真新しく、あまり溶け落ちた蝋で汚れてはいなかった。
 埋葬される人間が死んだのはつい最近のことだった。建物は更に真新しい。
 赤い絨毯の上を往くと、棺のかたちに窪んだ祭壇があり、そこにはリュウが眠っていた。
 それはこの先もう目覚めることのない、永遠の眠りだった。
 その死骸は、まだ生きている頃と同じ格好で横たわっていた。
 紺色の生地に赤いラインが入ったコートに、あまりリュウには似合わない、ぴったりとして光沢のあるアンダー、それから腕にはいまだに制御装置の枷が嵌っていた。すべて見慣れたものだった。
 ボッシュは祭壇のへりに腰を下ろし、あぐらのかたちで座り込み、じっとリュウを見た。
 その顔は血の気こそなかったが、まだ生きているように、綺麗なままだった。
 もう大分時間は経っているのに、腐食の気配は微塵もなかった。
 頬に触ると、温かくも冷たくもない、奇妙な感触があった。
 土に触っているみたいな、微妙な感触だったが、まだリュウの身体には中途半端なぬくもりが残っていた。
「まったく、ここはオマエがいないと何もかもがおかしくなっちまうみたいだね」
 肩を竦めて、ボッシュは言った。
 皮肉を込めてやったが、死骸にはこたえている様子はなく、ただ静かにそこにあった。
 苦笑し、リュウの頭に触って撫でると、ローディのくせに意外に綺麗な髪が指に絡まった。
 リュウはだんまりのままだったが、ボッシュはかまわずとりとめのないことをいくつか話し始めた。
「なあ相棒、そう言えばこの間、俺またひとつ歳を取っちゃったんだよね。昔のデータ見てたら気がついたんだ。俺が生まれた日なんて、とっくに忘れてたけど。オマエ、確か俺よりちょっとだけ生まれたのが早かったよな。でも残念、今回は俺の方が巡ってくるのが早かったみたい。なあ、悔しい? オマエが俺に勝てることなんて、そのくらいしかなかったからさあ。オマエは今、俺より年下なんだぜ」
 リュウの髪を乱暴に掻き混ぜてやると、彼の耳朶に嵌っているピアスが覗いた。
 淡いグリーンの石はあまりリュウに似合っていなかった。
 そのことで、きっと彼は周りの人間にからかわれたに違いない。
「きっと来年からずうっと俺のが年上だね。オマエそのままじゃあ、ニーナにも負けるよ。良いの? そう言えばあのガキ、なんか最近ちょっといかれちゃったみたい。オマエにほったらかしにされたせいみたいだね。オマエはそれで満足なの? 良いんならべつに、俺は関係ないし。あいつ嫌いだしね」
 蓋のないリュウの棺の中は、花でいっぱいだった。
 最近のニーナはネジが飛んでしまったのか、何かにつけて周りの人間をリュウ呼ばわりするが、本物のリュウへの花を絶やすことはない。
 本当のリュウがどこにいて、どうなっているのかってことを、心の奥深いところでは理解しているらしかった。
 だが意思の表層では、なんにも理解しないという「ふり」を続けていた。
 あるいは、駄々をこねれば何でも言うことを聞いてくれる心配性のリュウが、もしかしたら帰ってきてくれるかもしれないと、いまだに甘えているのかもしれなかった。
「それにしても、オリジンってのがこんなに面倒で退屈で、どうしようもない仕事だとは思わなかったね。どうしようもない奴らの面倒を、纏めて見なきゃなんない。それも世界中だぜ? あーあー、ロクなもんじゃない。俺は確かに、偉くなりたかったんだ。でも馬鹿どもに持ち上げられて、労働アリみたいに働かされてるだけって気がするよ。俺がなりたかったのはさ、みんながみんな俺に跪いて、一番偉い奴なんだから仕事なんか何にもしなくたって、下っ端のやつらにやらせりゃいい。ようするに一番天辺の椅子でふんぞり返って、綺麗ドコロでも囲って、贅沢で快適な暮らしをやりたいわけ。なのに部下は無礼な奴ばっかりだし、ろくに寝る時間もない。寝てばっかりのオマエが羨ましいよ、ホント」
 リュウが生きていたら、ボッシュが愚痴なんて珍しいねと意外そうな顔をするだろうか。
 それとも、また文句ばっかりだ、と呆れた顔をするだろうか。ボッシュはワガママだとか何とか言いながら。
「そう、昔は偉くなったら美人でD値の高い女を集めて、ハーレムのひとつでもって考えてたわけ。俺がガキだったせいかな。でもなんだかそんな気にならないね、なに、あの山みたいにうざったい縁談話。オマエも面倒臭いって思ってたろ? それとも嬉しかった? モテないオマエがよりどりみどりだもんね。ああ、俺はさ、べつにそんなものいらないんだ。最近変に一途なんだよ。オマエは信じないかもしれないけどね」
 ふうん、とリュウは良くわかっていない顔をして頷くだろう。
 そして、ボッシュ、好きなひとがいるんだ、とちょっとびっくりした顔をするだろう。
 彼は特に何でもないふりをして、深くは聞いてはこないだろう。
 それが彼の性質なのだ。根掘り葉掘り余計なことを聞かないこと。必要なことにはじっと耳を傾けること。
 もしかしたらボッシュを愛していたらしい――――それはアジーンの精神操作によるものなのかもしれなかったが――――彼は嫉妬しているかもしれないし、ただもう諦めてしまっているせいで、ちょっと困った顔で微笑んで、上手くいくといいね、と言うかもしれない。
「オマエ、俺が自分が一番大好きなナルシストとか思ってるわけ? 俺だってヒトを好きにくらいなるよ。……ちょっと俺も自分でびっくりしてるところがあるってのは本当だけど。ずーっとそいつのことを考えてたんだ。まるで悪い夢みたいに、ずーっとさ。邪魔する奴らが多過ぎたんだ。こんがらがって、何がなんだかわかんなくなっちゃうくらいにね。例えばさ、俺の好みの女って、どんなだと思う?」
 リュウはおそらく、しばらく沈黙し、難しい顔をして考えを巡らすだろう。
 それから何人かの、同僚の女レンジャーの名前を挙げるだろう。
 そのどれもが基地で評判の美人で、リュウなんてローディで能なしの落ち零れなんて鼻にもかけられない種類の女たちだった。
 だがそれらに共通して、顔立ちは整ってはいたが、ふと顔を思い浮かべようとすると、どうにもぼんやりして定まらなかった。
 特徴ってものがなかった。
 そして何よりレンジャーなんて職業に就いているせいで、粗野で乱暴だった。
 リュウは彼女らに何がしかの幻想を抱いているようだったが、ボッシュの興味はそんなところにはなかった。
「……髪は、青いのがいい。オマエみたいなね。みんなに馬鹿にされるって? そりゃローディどもの価値観がおかしいんだよ。あんな埃を吸って生きてるせいで、ほんとに綺麗なものを見付けられないんだ。それにしても、オマエはなんで髪切っちゃったの? 勿体無い。
目も、青かな。うん、たぶん、俺はその色が好きなんだと思うぜ。
顔もオマエみたいな可愛いのが好みだね。オマエが言う美人ってのは、ケバいばっかりで頭は空だよ。……オマエも空だけどね。それも多分、世界で一番ひどい。……なんで俺、こんなのが良いって思うのかな。
それよりそうだね、オマエが女だったら、きっとすごく俺の好みだったね」
 そんなこと言われたって困るよ、とリュウは真っ赤になって言うだろう。
 おれは男なんだから、と言うだろう。むきになって、ボッシュはまたおれのことからかってるんだ、といじけてしまうかもしれない。
 ボッシュは少し笑って、もの言わないリュウの手を握り、静かに目を閉じた。
 そうしていると、じきにボッシュの体温がリュウに浸蝕し、まるで彼が生きているみたいなぬくもりを感じることができた。
「……でもオマエが男でも、俺は多分、オマエが一番好みだろうね。他にかわりのものなんていらない。好きだよリュウ。この俺が、ボッシュがだぜ? すごいことだよ。オマエはもうちょっと自分を幸せだって思ってやるべきじゃあないか?」
 そう言ってやったら、リュウはどんな反応をするだろうか?
 きっと、一瞬訳がわからずにぽかんと口を開けて、それから理解すると、顔を真っ赤に茹で上げるだろう。
 またボッシュにからかわれていると考えるかもしれない。
 だが、その後で彼は一体どういう反応をするだろう?
 いくら空想しても、その先は思い浮かばなかった。
 過去のリュウから返されたものしか、思い浮かべることができなかった。
 リュウはもう未来のないものに成り果てていた。
 それにしても奇妙なものだとボッシュは考えた。
 リュウが目を開けてそこにいれば、こんな言葉はきっと出てこなかったはずだ。
 たとえば人殺しのエセ聖人と詰るだろうし、リュウはボッシュに怯えて縮こまり、顔を蒼白にして、俯いて震えているだろう。
 ボッシュはリュウにいろんな話をするだろう。
 親を殺された話や、過去彼が裏切った時に自分がどう感じたか、栄光を閉ざされた話、そして彼の手に掛かって殺された時の話。二年間の惨めな生活のこと。
 「あれは痛かった」とボッシュは言うだろう。「ほんとに殺されちゃったもんな。なあ、オマエが俺を殺した痕がばっちり残ってるんだけどさ、見る?」
 リュウは項垂れて、ごめんと言い続けるだろう。
 もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
 そして、きっと目を閉じ、注射の痛みを我慢するような顔をして、そっとボッシュの獣剣を自分の首筋に添わせ、おれを殺してと言うだろう。
 きっと今みたいに、ただ黙って手を繋ぎ合っているようなことはないに違いない。
 穏やかな気分だった。
 眠っているリュウの顔は少し微笑んでいて、その表情は安らかだった。
 ボッシュはリュウの前髪をかき上げ、額に唇を付けた。
 リュウを目にする度に込み上げてきていた、殺意と憎しみと性欲がごちゃ混ぜになったみたいな激しい感情はなかった。
 リュウを裏切り者と罵り、ひどく陵辱して、泣かせてやりたいという欲求が、いつのまにかなりを顰めていた。
「なんでオマエが目を閉じてると、俺はこんなに素直な奴になれるのかな」
 とても不思議だった。ボッシュ自身良くわからなかったが、ボッシュは何も言わないリュウの手を胸に抱き、好きだよ、と言った。
「手を繋いでやるよ。そうして欲しいんだろ? 1000年だって繋いでやる。死体でも、オマエならなんだって構いやしないんだ。こだわりってものが、俺からどんどんなくなってくんだよ」
 時間はゆるやかに流れていた。
 リュウの時は止まっていたが、手のひらはボッシュのぬくもりが浸蝕して温かかった。
 もう誰も邪魔するものはいなかった。
 世界から零れたリュウを、ボッシュから奪い去ろうとするものは何もなかった。
 静かにふたりで手を繋いでいた。



 そうすると、世界はまるでふたりだけのもののように思えた。










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