ジェズイットがボッシュ=1/64という人物を初めて見たのは、その男がまだ幼児と言ってもいいくらいに幼い頃だった。
 時間が普通の人間よりも大分ゆっくり流れるようになった身体のせいで、正確な年月は良く解らないが、それほど昔ってほどでもなかったろう。
 職場――――中央省庁区の廊下を、自分の背丈よりも長い剣を引き摺ってよちよち歩いていく姿を良く見かけることがあった。
 どうやらその子供は人見知りが激しい性質のようで、通り際にジェズイットと目が合うと、ぎゅっと目を閉じ、手を引いている人間――――男の顔なんか覚えてはいないが、確か双子だった――――の後ろにぴゅうっと隠れてしまう。
 極端に引っ込み思案で、もしかすると対人恐怖の気があるんじゃあないかというふうにも見えた。
 正直に言ってしまえば、その子供には剣なんて物騒なものは、まったくと言って良いほど似合っていなかった。
 だが剣聖なんて呼ばれている同僚、その子供の父親は、気弱な息子にかなりの期待を掛けているらしかった。
 あのおっさん、怖い顔して親馬鹿だよなあ、というのがジェズイットの感想だった。本人を目の前にしては、怖くて言えたものではなかったが。
 ともかく他人の育児に口を出す気はないが、漠然と、このガキゃあ駄目だな、とジェズイットは考えていた。
 これから訓練に向かうのが、嫌で怖くて仕方ないって顔をしていた。
 ただ訓練をすっぽかしたり、ろくな結果を出せなかったりして、父親に見限られてしまうほうがもっと怖いので、仕方なく剣を振ってる、というふうに見えた。
 ジェズイットの読みは、大体が当たるのだ。
 人間を見る目があるってわけでもない。ただものすごくカンが鋭いのだ。
 これは生まれ持っての才能のひとつだと、ジェズイットは密かに誇らしく思っていたし、そいつを信頼し、自分の命を預けることができた。



 まあ、半分はあの剣聖の血が流れているのだ。
 適性がないってことはないだろうし、竜殺し本人直々にしごいているらしい。強くはなるだろう。
 だがその子供には、剣聖みたいな殺し合いバカの気負いってものがまるでなかった。
 大きな屋敷で絵を描いたり、楽器を演奏しているほうが似合いに見えたし、本人もどうやらそっちのほうが好みのようだった。
 人やディクを殺したり殺されたりする理由がまるでわからず、なんでこんな野蛮なひっぱたきあいなんてしなきゃならないんだろうって思い悩んでる顔だった。
 ジェズイットは遠ざかっていく子供の小さな背中をちらっと見て、可哀想にあのガキきっとろくな大人になりゃしねえな、と考えた。






◇◆◇◆◇






 そしてそれから何年も経って、あの時の俺は間違ってなかったなあ、とジェズイットはぼんやりと考えていた。
 セントラル中心部のオリジンの自室は、文句なしに壊滅していた。
 まるでガルガンチュアが気が済むまでバスターソードを振り回して暴れたという感じだった。
 コードの類はあらかた引き千切られ、本棚は胴体から真っ二つになって、花瓶は粉々になって水浸しの絨毯の上に散らばっていた。
 天井のシャンデリアはあらかたガラスが割れた状態で、床の近くまでだらしなく垂れ下がっていた。
 窓ガラスも割れて、高層階に吹き込んでくる強い風が、分厚い遮光カーテンをはためかせていた。
 その中で奇蹟的にベッドは比較的軽傷で、足が一本折れただけの状態だった。
 部屋の主は大嵐みたいに暴れ回った後で疲れたらしく、傾いたベッドの上でふて寝を決め込んでいるようだった。
 ベッドシーツが一人分膨らんでいる。
 そりゃ疲れるだろうよ、とジェズイットは考えた。
 細っこい身体で、もう竜も宿していないはずなのに、どれだけの体力と根気を使えば、ここまで徹底的な破壊を行うことができるのだろうか?
「……こりゃまた、すげーがんばっちゃったなあ。メイドさん泣いちゃうぞ、どうやって片付ければ良いんだろうって」
 返事は返ってこなかったが、部屋の主が覚醒していることは、なんとなく解った。カンは鋭い方なのだ。
「起きてんだろ。あーあー、イヤぁねえ、男のヒステリーって。おまえこれ何度目だよ。しょーがないだろ、造っちゃったものは仕方ねーし。墓が空っぽのまんまってのも、具合悪いんだよ。わかってやれよ」
「……嫌だ」
 シーツ越しのくぐもった声で、ボッシュが応えた。
 気のせいかもしれないが、その声は少しばかり湿っていた。
 もしかしたら泣いていたのかもしれないが、あんまり似合わなくて笑い出しそうになるので、想像するのはやめておこう。
「返せ」
「だーかーらあ、なにもおまえさんから取り上げちゃったわけじゃあないんだって。ちょっと歩けばすぐ会える。どうってことないだろ?」
 今回ボッシュの怒りの原因は、街に建設されたセメタリーに関してのことだった。
 竜の間に寝かせてあったリュウの遺骸が、正式にセメタリーに安置されることに決定したのだ。
 オリジン代行は許可を出さずに駄目だと駄々をこねていたが、結局他の多数の判定者の意見が一致し、ことは決まってしまった。
 まさかオリジン代行が、先代オリジンの遺体と毎晩同じベッドでお手手繋いで一緒に寝てます、なんて言えたもんじゃないだろう。
 なにか言い訳をしてやろうにも、上手い方法が思いつかない。
 そんなこんなで、ボッシュは無理矢理リュウと引き剥がされたことを怒っているのだ。
「いいかい、ボッシュくん。リュウちゃんは今死体やってるの。見た目がキレイなまんまだから紛らわしいけど、そんなあいつをいつもぬいぐるみみたいに抱っこしてべったりくっついてるおまえさんってのは、客観的に見るとものすごくアレなんだよ。変態的なんだよ。ネクロフィリアだ。徘徊防止用にベッドにチェーンで縛り付けられて、メディカル・センターの精神病棟に放り込まれてたって文句は言えないと思うし」
「……人を病気扱いするな」
「病人はみんなそう言うんだよ。まあそれに関しては悪いとは言わないぜ、人の趣味をとやかく言うのは好みじゃあないし、リュウちゃんもどうやらおまえさんが大好きだったらしいからな。ただ問題は、あいつはオリジンだった。それからおまえさんもオリジン代行だってことだよ。世界の王様が変質者だとアレだろ、さすがにいろいろマズいだろ」
「なら他の奴がやれよ。真っ当で真面目で人間が大好きな奴。俺はこの世界も人間も大嫌いだ。欲しいものなんかなんにもない。もういいだろ、出てけよ。解ったふうなこと言うおっさんの説教なんて、この歳になって聞きたくもないよ」
「だからさあ、こないだ言わなかったっけ。次おっさんって呼んだらぶん殴るってさあ」
 ジェズイットは頭を掻いて、奈落の底にまで届きそうな深い溜息を吐いた。
 子供の面倒を見るのはあんまり得意じゃない。
 他に面倒を見る奴がいないから、仕方なくやってるだけのことだ。
 しかし最近そいつがどうも板に付いてきたようにも感じる。
 このままじゃそのうちメベトみたいなじいさんになっちゃうなと考えて、辟易してしまった。大体性に合わないのだ。
「おいガキんちょ、お兄さんが優しく言ってるうちにちゃんと言うこと聞いてくれよ。そうだ、まずメシ食いに行こうぜ。せっかくおまえようやく肉が付いてきたってのに、このままじゃこないだの動く骸骨男に逆戻りだ。遺棄坑のスケルトンみたいなアレ。しっかし、あの格好で森の中で出くわしたらさあ、俺ならまず逃げるね。脱兎だね。ものすごい怨念を残して死んだせいで生き返ってきたカロンみたいだったぞ」
「……それそのものは間違ってないよ。俺は憎んだ。だから生き返ってきた」
「そんで死んだのも生きかえっちゃうくらいに憎いあんちくしょうと、ずーっとお手々繋いで一緒に寝たいって駄々こねてんのかおまえは。バカじゃん。人生舐めるのもいい加減にしろよこの野郎。なあ、俺ほんとはお説教とか大嫌いなんだぜ。思い通りにならない奴は、ぶん殴って言うこと聞かせる主義なんだよ。でもそれやると、クピトのオンコットで三日三晩屋上逆さ干しの刑とかされるのが怖いから、仕方なくグチグチ言ってんの。わかる? さあ起きてメシ食うんだよ。全部それからだ。おまえさん今日また朝から何にも食ってねえんだろ」
「……コーヒーを飲んだよ。何も食ってない訳じゃない。ただ腹が減ってない。ほっといてくれ」
「そんなもんが食ったうちに入るって思ってんのか? だからおまえはいつまで経ってもひょろひょろの貧弱なんだ。ハイハイ、もー頼むから言うこと聞いてくれって。悲劇のヒーローぶるのはそろそろアレにしてくれ。おまえ統治者になりたかったんだろ?」
 いつまで経ってもボッシュが動き出す気配はない。
 肩の辺りに重苦しい疲労を感じながら、ジェズイットは仕方なく、ベッドで布団の芋虫みたいになっているボッシュからシーツを引っぺがし、首根っこを引っ掴んだ。
「……放せ……!」
「もー、癇癪持ちのガキは嫌だ嫌だ。食堂だ、行くぞ。メシを食ったら、愛しいリュウちゃんに会いに行ったらいい。その間に部屋はなんとかしといてもらうから」
 ボッシュは暴れたが、何てことはなかった。
 彼から竜の気配が消えると、そこに残っているのはただの一人の人間だった。
 腐っても適格者なので油断はできないが、それにしたってもう火も吹かないし、化け物じみた力もない。
 竜への依存からか、それともこれまでのろくでもないらしい生活のつけでも回ってきたのか、今のボッシュには大した能力は残っていなかった。
 大体見積もってみて、新米判定者一人分ってところだ。彼は化け物じゃない。
 ボッシュは濁った殺意でどんよりと曇った目で、ジェズイットを睨んだ。
 その顔は大分迫力ってものがあった。
 造作が整っている顔で怒られると、大分怖いものがあるのだ。
「オマエだって、あいつらとおんなじだろうが。俺を殺したいだろう? 何たって、オマエらのあの落ち零れで能なしの主をぶっ殺しちまったのは、俺だものな」
「ああそれ」
 ジェズイットは頷き、ボッシュを見た。
 怒りはなかった。
 いや、良く解らない。麻痺してしまっているのかもしれない。
 何せもう長いことこういう仕事に就いているのだ。感慨ってものも薄まってくる。
「別に怒ってないぜ。ただおまえが、おまえの立場に見合った仕事をこなしてくれればさ。リュウだって、おまえの親父さんがたを殺したんだろう? あいつ俺の知り合いもあらかた殺しちゃったし、俺やおまえには十分あいつを殺す権利があったんだ。しょうがない。そのかわり、おまえを殺す権利を、リンやニーナや俺は得たことになる。リュウを殺したんだからな。なあ、ややっこしいだろ? 統治者……おっと、判定者ってのは、そういう仕事なんだよ。肉親や惚れた女を殺した相手が、明日から仲良しの同僚ってことになる。そういうのがそのうち当たり前になる。好きになった女を殺した奴を、上手く憎めなくなるんだ。そんで、いつのまにか当たり前にそいつのことが好きになっちまうんだよ、それなりに。自分の中から一番大事なものがごっそりなくなっちまって、そこに上手い具合に「世界」そのものが嵌り込んじまうんだ。かぱっとな。おまえはそういうものになりたがってたんだ。覚悟が決まってなかったなら、たぶん一回リュウに殺されて、そのせいで竜に目を付けられなきゃあ、うだつの上がらないファースト・レンジャーで終わるのが関の山だったろーな、1/64のボッシュくん」
 ボッシュはジェズイットを殺しそうな目で睨んでいたが、その目には大分覇気がなかった。
 表面には出さないが、大体のことを、本当は理解しているのだろう。
 1/64なんてD値が、それほど世界にとって特別ではないことや、竜がもうどこにもいないせいで、特別な適格者なんだって言う自尊心まで消え去ってしまったことだ。
 彼は空っぽに見えた。
 ボッシュはなりこそ大きく育ってはいたが、まだナゲットのぬいぐるみを大事そうに抱いて歩いている幼児の頃の彼に見えた。暗がりが怖くて仕方ない子供に。
「ま、特別なもんがない人生ってのも、それなりに快適だ。大体大人なんてみんなそんなもんだよ。俺もメベトも、ガキのなりこそしちゃあいるが、クピトもそうだ。あいつは昔から先代のそばで汚いもんを見過ぎたんだよ。そのせいで随分おまえさんみたいな甘ったれよりも大人だ。たぶんな。おまえはそろそろいい歳でいい身分なんだから、ガキを卒業するべきだ。特別なもんだけでできてる世界で生きるなんてのは、リュウでもなきゃできないことだぜ。あいつは特殊なんだ。特別な。おまえさんと違って、ちゃんと正式に、混じりっけなく、世界に選ばれてる。まあ血が血だってのもあるとは思うが、きっとあれは竜なんかなくたって空を開けたと俺は思うぜ」
 肩を竦めてジェズイットはぼやいた。
 リュウは確かに特異だった。
 どのオリジンにも似ていない。
 エリュオンやデモネドや、このボッシュにある、あの気だるげなどこか諦めた空気を、彼は纏っていなかった。
 真っ直ぐ過ぎた。
 彼という人間は、ごく普通の、どこにでもいる少年に見えた。
 特別に魂が美しかったわけでもない。
 泥臭く、融通がきかないところがあり、頭が悪かった。だが誰よりも優しかった。そして職務に忠実で、自分自身の信念にも忠実だった。
 彼は正義や大儀を理由にしなかった。頭が悪かったせいかもしれない。そいつを上手く理解することができなかったのかもしれない。
 死に掛けているひとりの幼い子供を救う為に、彼はためらいなく自分の生命を蝋燭の芯のように使い、暗がりの地下世界を照らし出した。空を開けた。
 そして一瞬の光のように眩く輝き、ものすごいスピードで駆け抜けて、消えてしまった。
 今はもうどこにもいない。
 そしてボッシュ=1/64という、あんまりに間近でその光を見てしまったせいで、目が眩んで何にも見えなくなって、歩くこともできなくなった男が残されたわけだ。
「今はおまえがオリジンだ。その打たれ弱さは正直どうしようもないなーって思うけど、仕事に関しちゃおまえさん、歴代の中でピカイチだよ。リュウは論外、先代もぼーっとし過ぎで、会議中に毎回しつこくコーヒーを零してあのメベトをキレさせちゃうくらい要領悪かったし、先々代なんてムキムキマッスルでなんかこうオリジンの方向性とか間違ってる感じだったし。まあなんとかなるだろ。なあ、おまえさあ、人間嫌いとか世界が嫌いとか言うけどさ、人間はどうか知らんが、世界は大好きだろう。割と好奇心旺盛だしな。知ってるぞ、プラントに顔出したんだって?」
「リュウが」
 ボッシュが、何か言おうとして、そして口篭もって、結局何も言わずに黙り込んでしまった。
 そしてしばらく沈黙が訪れた。
 ジェズイットは辛抱強く待ったが、ボッシュがその後を続ける気配はなかった。
 だが、大方の察しは付いた。
 リュウが笑って言っていた。
 ヒトを憎んで1000年過ごすなんて寂しいことだと言った。
 リュウという人間が消え、ボッシュの憎しみの対象がなくなり、彼が綺麗な空を手に入れて笑えるようになることを望んで、そして彼は世界に還ってしまった。
 笑えるなんて論外だな、とジェズイットは考えた。
 ボッシュはもう自分の足で立って歩いていくこともできない。
 ただ遺骸に取り縋って、うずくまってるだけだ。
 リュウはジェズイットと真逆の性質をしていた。カンが死ぬ程鈍いのだ。
「……まあ、時間は沢山あるんだ。いや、オリジンは仕事仕事でそんなにないかもだけど。ゆっくり大人になれや、大将。おまえさんの部下は有能な奴ばっかりだ。すごいぞ」
「……嘘だ」
「さて、もう限界だ。メシだ。おまえさん、たらふく食ったらそのうち筋トレでもしたほうがいいと思う。地下栽培のバイオ植物みたいだぞ。後でリュウちゃんに会いたいんなら好きなだけ一緒にいりゃいい――――いや仕事はしろよな。そんでいろいろ話をしてこいよ。大丈夫大丈夫、今のあいつは世界で一番聞き上手だ。絶対反論したり、話の腰折ったりしないし」
「だから死んでるんだろ」
「うん、まあそうなんだけどね……ところで大将よ、これは個人的な興味からのアレなんだけどさ」
 ボッシュが不機嫌な顔で、なに、と言った。
 彼にしてみれば、こうやって説教されたり苛められたりするなんてことは、今までほとんど無かったろう。
 なにせ父親のヴェクサシオンは剣の訓練には力を入れてはいたが、息子とはほとんどろくに話もしていないようだったし、逆に彼の世話係は、過剰に甘やかす傾向にあるようだった。
 そしてどういう気まぐれを起こしたのか、レンジャーになるとか言い出して下層に降りた後は、容易に想像できる、1/64なんてものすごいハイディのエリートだともてはやされたのだろう。
 そんな感じでここまで歪みきった性格ってものが出来上がるのだ。
 ちょっと賢くなった気分だった。
 俺にこの先もしガキなんてできることがあったら、とジェズイットは考えた。
 ヴェクサシオンみたいな真似だけはしないでおこう。
 それに、もしできるなら可愛い女の子がいい。
「アレだけど、死んでからのリュウちゃんとは、もういたしちゃったの?」
 リュウを誘拐してひどいマニアックなプレイを試みていたらしいので――――なにせあの潔癖症のリュウを色々と目覚めさせてしまうくらいだ――――死体姦なんて軽いものなんだろうな、と考えたのだが、ボッシュは顔を顰めて、うるさいよ、と言った。
 あんまり大したことはしてないな、とジェズイットは見当を付けた。
 カンは鋭い方なのだ。
「下世話なこと聞いて悪いねー。ちょっと気になったんだ。それだけ。それにしても、なんかおまえさんと話してると、できの悪い息子ができたみたいな気がしてきた」
「オマエみたいな下品な親父なんて持った覚えはないね」
「多分さ、クピトのやつも思ってるよ。あとメベトもな。ガキの頃から知ってる人間が、いつのまにかでかくなっちまってるってのは、やっぱ変な気がするもんなんだよ、うん」
「ハア? 何それ良くわかんない」
 ボッシュは嫌そうに顔を顰めていた。
 彼自身気付いていないのかもしれないが、昔馴染みの人間の前では奇妙に幼い顔を覗かせることがあった。
「お父さんがいなくなって寂しいなら、俺のことお兄ちゃんって呼んでもいいからねえ」
「ふざけんな。あと放せ。引き摺るなよ。俺は自分で歩く」
 今回の主も完璧じゃないなとジェズイットは考えていた。
 皆どこかしら欠けていた。
 だが、不完全な人間の主だ。
 こんなものだろう、という気分だった。
 世界はまたいくらか持つだろう。
 ヒトはうつろっていくだろう。
 もう巨大な地下室に中から鍵を掛けて、嵐が過ぎ去るのを待つように、じいっとしている必要はなくなったのだ。
 空は綺麗だった。
 肺を浄化されたって人間は汚いものもいたが、そう、それはリュウの言うとおり、レンジャーの役割だ。
 日々はそうして過ぎていくだろう。
「そう言えば、さっきは言い忘れたんだけど」
 ボッシュの襟元を掴んでいた手をぱっと離して、切り出してみた。
 彼は渋々と言った顔で嫌そうにしていたが、のろのろと自分の足で歩き出した。
 望む望まざるに関わらず、彼の身体はタフに出来上がってしまっているようだった。
 情緒面ではまるで駄目だが、剣聖にしごかれて今まで生き残ってきたのだ。何がしかの根性はあるだろう。ただやけくそになっているだけなのかもしれないが。
「あわよくばお近付きになりたいなーって考えてる知り合いの奴をぶっ殺した奴がいたとしてさ、俺はそいつを別に憎んじゃいないよって話。あれちょっと嘘吐いてた」
「…………」
「ほんのちょっとだけな、はじめは寝首とかかいてあげちゃおうかなって考えたこともあるんだ。そいつが大事にしてる女の子に、俺がされたみたいに、なんかしてやろうかなー、とか。思っただけだぜ、なんにもしてない。うん、なんにもできなかったんだな。俺はそいつが怖かったし、それにもういい歳だから、物分りが良いってふりをしなくちゃいけないような気がしたんだ。だからせめてイロイロ意地悪して苛めてやろうかなって思ってたんだけど、困ったことに、話してみるとそいつすっごい良い奴だったんだよ。人殺しってのは、悪い奴ばっかりがするもんじゃあないんだ。気がついたらそいつのことが結構好きになっててさ、いなくなっちまうとやっぱり寂しいわな」
「…………」
「おまえさんばっかりじゃあないんだ。そのよお、あの馬鹿正直な男の特別になってみたいって思ってたのは。リンもニーナもクピトも、街の奴らだってそうだと思う。無理だったけどな。あいつは特別を作れない奴でさ、不器用でしょうがない奴だったんだ。でも、本気であいつのことを殺したいくらい憎んでたのは、たった一人だけだった。おまえさんじゃあない、あいつ自身のことだ。最後まで、まるで自分がゴミクズみたいに思ってやがった。その点だけはものすごく気に入らない。最後にぶん殴ってやりたかったが、もうなんにもならない。なあボッシュ君よ、あいつがおまえに依存しちまうくらい大好きだったとか聞いてさ、ちょっとほっとしてるんだ。潔癖症を通り越して聖人みたいに振舞うのが当たり前になっちまってる奴だったからさ、最後ばっかりはあいつの目を覚ましてやってくれて、方法は置いといて、礼を言おうと思う。ありがとうな。別に俺が言う事でもないんだけどな」
 ボッシュは不思議そうな顔をしていた。
 まさかこんなところで礼なんて言われるとは思ってもみなかった、って顔だ。
 例によって、そんな表情はすぐにいつもの整った無表情――――仏頂面だ、ようするに――――に戻ってしまったが、彼は肩を竦めて、なあ、と言った。
「それで今日のディナーは何なの。言っとくけど、半端なものじゃあ食べないよ」
「食う気が出てきたんなら良いことだぜ。お堅いところは面倒だろう。いつもの食堂でもいいが、会議室に残ってる奴誘って、街に降りるのとかどうだ? リュウの奴を良く連れてってやってた店があるんだよ。おまえさんが知らないあいつの話でもしてやろう。どうしてたか知りたいだろ?」
「……べつに、そんなつまんない話聞きたくも」
「いや、興味津々って顔してるから。ニーナはどうかなー、もう寝てるかな。リンは絶対ものすごい嫌な顔するんだろうなー」
「聞けよ、俺の話」
 ボッシュはふてくされたように、これだからおっさんは嫌なんだ、とぼやいた。
 どうしようもなくひねてしまってはいたが、根本がそう劇的に変化することはないようだった。
 それはジェズイットに奇妙な懐かしさを感じさせた。
 俯いて大きな剣を引き摺りながら、小さな背中が長い回廊をとぼとぼと往く姿が、今も鮮やかに目に浮かんできた。










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