空気は冷たく、じっとりと湿っていた。
 そして埃や毒素で汚れていた。そのせいで視界は悪く、遠くの建物の輪郭は良く見えなかった。
 まるで雨降りの中にいるような、濁った世界だった。
 だがそのエリアを浄化するための人工降雨はつい昨日終わったばかりだと電光板には出ていたし、そこに暮らす人々は家とも呼べない粗末なプレハブから這い出してきて、広場に集まり、今日の空気が特別に綺麗なことについて話し込んでいた。
(……こんなところまで再現しなくたって良いものだと思うけれど……)
 クピトはそう考えたが、なんにしろこの世界の主にとっては、こんなような不便な世界にあるもの全てが、かけがえなく大事なものであるらしかった。
 テレビ塔の下に放置されているがたがきて錆び付いた荷台や、すすで汚れた空気や、遠くで鳴っている音の悪いスピーカー放送、そして薄汚れた身なりをした人々、常に不足している物資や食料など。
 クピトは知っていた。
 なにも人間が愛するのは、綺麗なものばかりではないのだ。




「あーっ、ピンクのおねえちゃん!」
 広場に差しかかったところで、声を掛けられた。
 昨日の降雨で出来上がった泥水の溜りで遊んでいた子供だった。
 男の子なのに髪は長く、可愛い顔立ちをしていて、誰か彼を知らない人間が見たら、もしかすると女の子と見間違えてしまうかもしれない。
 特徴的な濃い青色の髪は、今は泥水と砂にまみれて固まっていた。
 これだけ汚れてしまったら、後で汚れを落とすのは、きっととても大変だろう。
 子供はそんなことには一向に構い付けない様子で、クピトを見付けて嬉しそうな顔で笑い、駆け寄ってきた。
「ねえ、あそぼ? いっぱい水がたまってるの。かけあいっこすると、おもしろいよ」
「それでそんなに汚れちゃってるんですね……それよりぼくは男です。クピトと呼んでください。もしくは「おにいちゃん」に訂正してくれると、嬉しい」
「んん、おにいちゃん? どろんこになるの、だめ?」
「だめってことはないですよ。それをきみが好きなら」
 子供の頭を撫でて、クピトはにっこりと笑った。
「でもぼく、今から主に会いに行く所なんですよ。残念だけど、泥だらけだと、きっとすごく怒られちゃいます。……オルテンシアに」
「めってされるの?」
「うん、めってされます」
「じゃあだめだね……ざんねん。ね、またあそぼうね?」
「ええ、リュウ。またね」
 リュウという名前の子供は聞き分け良く頷いて、残念そうに項垂れ、そして短くて小さな手を上げて、「ばいばい」と振った。
 別れ際に、水辺にいたもうひとりの子供――――さっきの子供とほぼ同じ外見をしている。違っているのは瞳の色だけで、双子みたいに見えた――――が、具合悪そうな顔をしてリュウに駆け寄り、背中にぎゅっとくっついて、じろっとクピトを睨んだ。
「……リュウ、ふたりだけで遊ぼうよ」
「うん、だめって言われた。「アルジ」ってヒトに会いに行くんだって。どろんこ、怒られるって」
 クピトは苦笑して、もう一人の赤い目をした子供の頭に触り、言った。
「心配しなくても、きみからリュウを取ろうなんて考えていませんよ。邪魔をしましたアジーン。じゃあぼくは行きますから、リュウをお願いします」
 赤い目の子供は頷き、そして二人は手を取り合って、汚れた水溜りに戻っていった。
 クピトが歩き出してしばらくすると、遠く背中の向こうから、幼い無邪気な笑い声が聞こえてきた。
 彼らは幸せそうだった。





◇◆◇◆◇





 上層区の片隅にあるアパートの一室に、主のエリュオンはいた。
 なんでも彼は昔、このアパートの世話になっていたらしく――――管理者はクピトも良く知っている人物だった――――その幻想の中で、奇妙に住み心地が良さそうにしていた。
 今日はオルテンシアの焼いた砂糖菓子を頬張っていた。彼は甘い物が病的に好きだった。
 正直美味いともまずいとも取れない無表情だが、彼はそこになにがしかの幸福を感じているらしかった。
 感情の読み取りにくい男なのだ。
「外はどんな様子ですか?」
 まるで今日の空気の温度や、空の天気でも話題にするような口調で、エリュオンがテーブルに零したコーヒーを拭きながら、オルテンシアが言った。
 どう答えるべきか迷って、クピトはとりあえずそのままに取ることにした。
「いい天気ですよ」
「それは良かった。クピト、先にテーブルについていてください。今お茶をいれますから」
「ぼくもなにかお手伝いをしますよ。砂糖壷は棚の中ですか?」
「ええ、では、お願いします」
 3人でテーブルにつくと、オルテンシアはあの見慣れた静かな笑顔をクピトに向け、子供の頃、ここにいたことがあるのですと言った。
「メベトおじさま……いいえ、メベトにはたくさんお世話になりました。あの方は元気ですか?」
「ええ。ただ、そこにいるぼくの主が死んでからというもの、大分老け込んじゃったみたいです。張り合いがないみたいな感じでした」
「…………」
 エリュオンは何も言わずに、ティーカップにスプーンで砂糖を運ぶことに没頭していた。
「何か言づてでもあれば聞きますけど」
「……私は死者だ。死んだものが口をきくことはない……」
「そうですか」
 クピトは頷き、ティーカップに口を付けた。
 良い匂いが口いっぱいに広がった。
 とても美味しいと言うと、オルテンシアはにっこりして、ありがとうと言った。
「オルテンシア、そちらこそ、変わりはありませんか?」
「クピト、我々は停滞している。変化することはありえない」
 エリュオンが静かに呟く横で、オルテンシアが口元に手を当ててくすくす笑い、面白いことがあったんです、と言った。
「いつも竜に邪魔されて、あの子供に会えないんです。一度ゆっくりお話をしてみたいと言っているのに、今まで一度も、死の直前のことを除いて、口をきいたことがないの。だから「停滞している」し、「変化しない」」
「まだあの竜と喧嘩をしてるんですか?」
「喧嘩は……していない。だがあれはどうやら、私を目の敵にしているようだ。無理も、ない……私はあれを」
「一度も謝ったことがないようです。きっと、いまだに睨まれているのはそのせいだと思うんですけれどね」
 オルテンシアが、子供を窘めるような目でエリュオンを見た。
 クピトも苦笑いをして、本当に似ていません、と言った。
「リュウは悪くもないのに謝ってばかりですよ。さっき、下層区の広場で会いました。竜と一緒にいましたよ。小さな子供の姿をしていましたが、すぐにわかりました。彼は幼い頃から、何一つ変わっていませんね」
「あれは……我々とは違う。枠の外から世界を眺めていたものたちとは違い……世界に属していた」
――――そうですね。彼がいなくなって、使いものにならなくなった人が何人もいますよ。彼らはもう歩けなくなってしまった。いつかは立ち上がれるかもしれませんが、きっと長い時間が掛かるでしょう。燃え尽きる彼の光が眩し過ぎたんです」
 クピトは目を閉じ、彼らの顔を思い浮かべた。
 ニーナ。真っ当な世界が見えなくなってしまった。彼女は彼女の幻想の世界に生きている。まるでリュウのように。
 ボッシュ。彼は全てを手に入れたのに、空っぽになってしまった。ただ死んだリュウの手を握って、うずくまっていることしかできなくなってしまった。
 リュウに依存し過ぎていた人間たちは、寄る辺を失ってまっすぐに立つこともできなくなり、どこにも行けなくなってしまった。
「……たまに思うんです。ぼくには人の心を見る力がある。こうやってリュウの心を覗いて、もういない人たちに遭うことができる。ぼくだけです。空で半身を失ったみたいに悲しみ過ぎている人たちがいるのに、ぼくだけこうやって、大好きな人たちにまた遭うことができる。すごく悪いことをしている気持ちになるんです。でもぼくはまたここに来てしまう。もう会えなくなるなんて考えたくない。ぼくはきっと彼らより弱いし、空の判定なんてする資格はないのかもしれない。ずーっと考えていたんです、あの時死ぬのはぼくの役目だったはずだって。なんでぼくより世界に必要とされている主たちがいなくなって、ぼくだけ残るんだろうって」
「必要とされなくなった」
 エリュオンが、なんでもないふうに言った。
「世界の、「もういるべきじゃないから死んでもいい」という判定が下った。私は気が遠くなるくらいに長く生きてきた。いつからか歳も取れなくなったし、何より疲れていたんだと思う。死はやっと訪れた長い休暇のようなものだ。生きているおまえたちには悪いと思うが、「私は死んだんだ」。もう検体をひどい目に遭わせたり、メベトに拳骨を食らうこともない」
「苦労を掛けますね。小さいあなたには、少しばかり重かったかもしれない。でもクピト、今回の判定で選ばれたのは、あなたなのですよ」
 クピトは目を閉じたまま頷き、わかっているんです、と言った。
 それから、でも納得してしまうことがどうしてもできないんです、と言った。






◇◆◇◆◇





 目を覚ますと、眠り込んだ時点から、また二日ばかり過ぎていた。
 竜の心の中での出来事は、そこにいるうちはほんの数時間のように感じるが、覚醒してみると思ったよりも長い時間が流れていた。
 そして目覚めると決まってひどい頭痛と、重苦しい疲労が、クピトの身体を支配していた。
 このまま竜の中で生きることができたらいいのにとクピトは考えた。
 この世界に魂を繋ぎ止めている肉体から抜け出すことができれば、竜の優しい世界で生きることができる。
 そこには終わりもなく、はじまりもない。
 ただ停滞しているだけだ。循環や進歩はない。
 愛すべき人たちがいつまでも偏在している。
 彼らに生命はないが、魂は存在する。
 ずうっとあそこにいたいなとクピトは考えていたが、奇妙な後ろめたさが、彼自身をこの生命溢れる鮮やかな空の世界に繋ぎとめていた。
 それは抜け駆けだと詰られることが怖いということなのかもしれないし、死者になった近しい人間たちに怒られやしないかという不安なのかもしれない。
 どっちにしろ、どっちつかずなところにクピトはいた。
(起きなきゃ……)
 重たい身体を起こして、目を擦り、のろのろとベッドから降りた。
 喉がひどく乾いていた。
 水が飲みたいなと思ったが、あいにく水差しは空のままだった。
 リュウがあんなになる前は、誰彼かがクピトの世話を焼いてくれたものだったが――――大体が歳が近いニーナだった。眠り込んでいるうちは、いつも水差しを冷たい水でいっぱいにしてくれていた――――今セントラルにいる人間には余裕がないようだった。
 ニーナはほとんど目の前も見えていない状態で、リンは地下の仕事を終えた後はニーナにつきっきりだし、ジェズイットはクピトの代わりに新米オリジンの家庭教師みたいなことをやっているだろう。
(ほんとに、ぼくはしっかりしなきゃならない。みんなみたいに悲しむことができない分、仕事だけはちゃんと片付けなきゃ)
 腹は減っていなかったが、食堂で少し何か食べなければならない。
 温かいスープでも飲もう。
 それからオンコットと一緒に散らかりっぱなしの書類を片付けて、メべトにサインをもらいに行こう。
 ニーナは大丈夫だろうか?
 それに、ボッシュは潰れてやしないだろうか? ジェズイットは? また痴漢騒ぎなんて起こしてやしないだろうか?
(うん、ぼくはがんばります、オリジン)
 クピトは痛む頭を抑えて、ふらふら歩き出した。
(まだだいじょうぶ)
 仮にも残された判定者だった。
 仕事はきちんとこなさなきゃならない。
 そうすることで、また彼らに会いにいく口実が欲しかったのかもしれない。
(ほんとに、だめだなあ)
 クピトは溜息を吐いた。
 リュウのいないセントラルは静か過ぎた。重苦しく、奇妙に弱気な気分になる。
 彼は正直ろくな仕事もできてやしなかったが、確かにそこに存在している価値がある人だった。
 主が生きた証でもあったし、リュウ自身に眩いくらいの魅力があった。
 いつのまにか、ぼくは彼が好きになってたのかもしれないとクピトは考えた。
 はじめのうち、主にいつのまにか成り代わってしまったリュウを見ていると、クピトはたまにもどかしい気分になることがあった。
 ふっと横を通り過ぎた時に、一瞬主の面影を彼に見ることがあった。
 リュウがそこにいるのが怖かった。
 世界中のみんなが、新しいオリジンになった彼を見ながらいつか、地下世界を守り続けた先代オリジンの姿を忘れていくのかもしれないと考えると恐ろしかった。
 そしてクピト自身が、生涯にひとりきりと決めた主を忘れてしまうことが怖かった。
 だがリュウが存在する意味や価値は、そんな不安や複雑な嫉妬とは、まるで関係がないところにあった。
 人の話を聞くことが上手かった。
 なにかまっとうなことを言うわけでもない、教訓めいたことを言うわけでもなく、特別に人の心を開かせる能力があったわけでもない。
 ただ大事なことに注意深く耳を傾け、じっと目を見つめ、頷くだけだ。
 彼の笑顔を見ていると何故だかすごく安心したし、何より物静かで、人に優しい性質をしていた。
 親切だった。元レンジャーの適格者としてのリュウを知らなければ、彼が剣を持って、誰かを傷付けるために戦いに向かう姿なんて想像もできなかったに違いない。
 いつのまにか、クピトはリュウという人間が好きになっていた。
 それは主に対して抱く感情とは違っていた。
 友愛や恋愛や、忠誠、服従、そのどれにも似ていなかった。
 どれかと言えば、そう、近しい家族に感じるものに似ていた。
 クピトには家族なんてものはいなかったので、それが正しいのか間違いなのかは解らなかったが、リュウという人間は、確かにこの世界にいるだけで、人を安心させる性質をしていたのだ。
 だが彼は今はもうここにはいない。
 先ほど、夢の中で泥だらけになって水遊びをしていた青い髪の子供の姿が思い浮かんだ。
 彼は幸福そうに見えた。
 ぼくは彼が羨ましいのかなとクピトは考えた。
 そして、きっとそうなんだろう、と思った。







◇◆◇◆◇







 沈み込んだセントラルの中で、ジェズイットだけはいつもの通りに見えた。
 彼は相変わらず頬にくっきりと赤い手形をこさえていたし、食欲に微塵の衰えもないようだった。
 巨大な、分厚いナゲットのヒレ肉のステーキを、行儀悪くがっついていた。
 その向かいには珍しい姿があった。
 ジェズイットのマナーもなにもない食べ方と、テーブルに滴ったソースを交互に見て、気持ち悪そうに顔を顰めているボッシュ=1/64だ。
 最近ほとんど食欲もなく、リュウの遺体のそばを離れようとしなかった彼が、嫌そうな顔をしながらも、プリーマとぺコロスのクリームシチューをスプーンで突っついている。
「あああ、うめー。俺は食って寝て綺麗なお姉さんの尻が見られれば、他になんにもいらないよホント」
「ちょっとは現状に悩んだりしてみたほうがいいんじゃない。なんですれ違う女の尻を片っ端から触るんだよ。俺が近くにいる時にやるのやめろよ。変態仲間だと思われるだろ。それにしてもまずい。すごくひどい味だね。こんなの、レンジャー基地の薄汚い食堂のほうが、いくらか味はましだよ」
 二人はすごく正反対で、対照的に見えた。
 クピトはついくすっと笑ってしまった。
 それに気付いたジェズイットが手を上げて、クピトを呼んだ。
「オッス、起きたんだなあクピトちゃん。まあこっち座れよ、ヤロー二人で顔突き合わせてメシなんて、なんかのガマン大会みたいだし」
「……ぼくも男なんですけど」
「大丈夫だって、おまえさん顔だけは可愛い女の子なんだから、いくらか緩衝材にはなると俺は思う」
「何を緩めるって言うんですか? ぼくに一体何を求めてるんですか」
「つーかむさくるしいのはオマエだけだよ。いい歳して露出狂なんてみっともないよ。インナー着ろよ、暑苦しい」
「やだなあ、どこ見てんのよ。最近のコはツンツンした顔しながらミョーな趣味持ってるんだから、お兄さん身の危険を感じちゃうよ。代行同性愛好者なんだもんな。ヤバいヤバい。クピトも気を付けるんだぞ、こいつ多分可愛い男の子の尻とか大好きだから」
「……死んでいいよ、マジで」
「なあ、マジな話さ、何がどうなって男の尻とかに欲情できるんだ? 俺はその頭の構造とかが、どうなってるのかすごく不思議なんだが。だって硬いじゃん。オルテンシアとかリンみたいな、こうぷよっとしてボイーンとしたアレとかがないじゃん。絶対気持ち良く無いと思うんだけどなあ」
「おっさんさ、俺をどうしても変態に仕立て上げたいわけ。俺は普通に美人で胸のでかい女が好みだし、男なんか俺以外この世から消えてなくなれば良いのにと思う時がある。例えばオマエみたいな」
「えー、でもリュウ相手には勃起したんだろ? リュウにはでかいおっぱいもないし、可愛いけど美人ではないよなあ。男だし」
「……きみたち、そういう話を食堂でするのは止めて下さい。生々しくて更に食欲がなくなります」
 クピトは頭を押さえた。また頭痛がひどくなってきた。
 ジェズイットが、油のついたフォークをくるくると回して、大丈夫かよ、と言った。
「おまえさん、あんまり丈夫じゃねーんだからよー、無理すんなよなー」
「……きみたちのおかげだと思うんですが」
「まったく、付き合ってらんないね」
 かちんとスプーンが食器に擦れる音がした。
 ボッシュが疲弊した顔つきで――――その気持ちはなんとなく解った――――肩を竦め、溜息を吐いて、席を立った。
「部屋、片すように言っといて」
「ん、なんだ? 言ってるそばからリュウちゃんに会いに行くの?」
「うるさい。オマエには関係ないよ」
 険悪に言って、ボッシュは行ってしまった。
 セメタリーのリュウのところへ行くのだろうか。
 相変わらずリュウ離れはできていないみたいだ。
 彼がいるのは、本当は全然べつのところなのに、とクピトは考えた。
 この世界にあるのは、ただの魂が飛び去った抜け殻だっていうのに、ボッシュはそんなものに触って安心することができるのだろうか。
「オルテンシア、元気だった?」
 ふいにジェズイットに訊かれて、クピトは驚いて、胃のあたりがぎゅうっと締め付けられるような気分になってしまった。
 顔を見ると、彼はいつもどおりの締まりのないニヤニヤ笑いを浮かべていた。
 テーブルに頬杖をついて、じっとクピトを見つめてきていた。
 その目には悲しみの色はなく、本当にいつものままだった。
 だが彼は知っているのだ。クピトは頷いた。
「ええ。……変わりありませんでした」
「そっか。何か俺のこと言ってた?」
「いえ……」
「あ、そう。やっぱりつれないねえ。らしいや」
 クピトは奇妙な居心地の悪さを感じていた。
 それはおそらく、何故おまえだけが死んだ彼女の姿を見て、声を聞き、言葉を交わすことができるんだと詰られるかもしれないという恐怖だった。
 ジェズイットは普段どおりの顔で明るく笑い、言づてを頼んでいいかなと言った。
「な、今度会ったら言っといて。一回でもいいから夢にくらい出て来てくんなきゃ、あんたの顔を忘れちまいそうになる。ほんと頼むよってさあ。あがいても手が届かないってことを、俺はちょっとずつ理解し始めちゃうんだ。たった二年なのにな。あんたのことを諦めちゃいそうになる。あんたを忘れるのが俺は世界で一番怖いってな、伝えてくれよ。
――――いや、やっぱいいよ。オルテンシアから今なんか言われたらさ、もう諦めてとかあなたのことなんか好きじゃないですとか言われたとしたってよ、俺は多分今度こそほんとに諦められなくなるよ。奴に偉そうなこと言えなくなっちまう」
 それから彼はクピトの頭を撫でて、おまえさんはほんと便利だなあ、と言った。
「たまに彼女のことを聞かせてくれよ。それからリュウもな。あいつは元気だったか?」
「え、ええ……アジーンと水遊びをしてましたよ。下層区の街で」
「あいつ死んじまっても気楽なもんだな……なあクピトよお、それ代行には言うんじゃねえぞ。へたに教えてやると、今度こそほんとに向こうに行ったまま、帰って来れなくなっちまう」
「ええ……」
 ボッシュが消えていった食堂のドアをぼんやり眺めながら、クピトは空想した。
 今頃彼はセメタリーで、リュウの亡骸と手を繋いでいるのだろうか?
 本当にどうしようもない部下ばっかりだよと愚痴のひとつでも言っているのだろうか?
 死者に置いてきぼりにされた生者ってものは、どれもひどく悲しい生き物に見えた。

 



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