リン=XXにとって、その男は天敵と言っても良かった。 はじめからそう決まっていたのだ。 リンは反政府組織トリニティのエージェントで、彼は政府の犬だった。そこからもう相容れない性質だったのだ。 ボッシュ=1/64という人間がリンの目の前に現れた時には、大体ろくなことがなかった。 まず初めて出会った時には輸送リフトの銃撃を食らわされたし、次に会った時彼は仲間であるはずのリュウの喉を刃物で突き刺していた。その次は厄介なレンジャーの集団を連れてきたし、その後はもうあまり考えたくもない。 おぞましい異形の姿になってまで元同僚に復讐を遂げようと追っかけてきたし、やっとくたばったかと思えばゾンビみたいに何度も這い上がってきて、挙句の果てには本物の馬鹿でかい化け物になってしまった。 そして最終的に、彼は彼の復讐を成し遂げてしまった。 ボッシュはリュウを殺した。 そしてリュウがいた場所に土足で踏み込んできて、今はオリジンをやっている。 色々と挙げてしまえば気に入らないところはきりがないくらいに出て来たが、大体簡単に言ってしまえば、初めて見た時からいけすかない奴だった、ということだった。 もっと簡単に言ってしまえば、彼が大嫌いだった。鼻持ちならないし、リンにとって家族と言っても良い少年を殺した。 彼が憎いとリンは感じていたが、考えてみれば、今は愛する近しい仲間であるリュウだって、元はと言えばリンの天敵の政府の犬だった。レンジャー。リュウとボッシュは、相棒同士だったんだって言う。 だがリンはリュウのことが好きだった。 まだ子供と言っても良い部類に入るくせに、彼は彼のするべきことをちゃんと解っていた。 頭はあまり良くなかったが――――これはどう贔屓目に見てやっても駄目だった――――決定的なところでの判断力はリンを驚かせたし、不器用だが人に親切に接することができた。 優しかった。誰かのために、自分の身体をいとわずに、ずうっと走り続けられる男だった。 地下ではいつも張詰めたような顔をしていたが、たまに見せる笑顔は年齢相応で可愛かった。 空を開けていつも三人でいた。 世界は綺麗だった。 澄んだ空気はニーナの肺を浄化してくれたし、リュウから重荷を取り去ってくれた。 あの時鬼ごっこで負けちまったのが悪かったんだ、とリンは考えていた。 誰にも追いつかれないように、気を配っているべきだった。リュウとニーナを守ってやるべきだった。 だがそれを失敗してしまったから、リュウは巨大な牢獄のようなセントラルに囚われてしまった。 オリジンなんて役目を押し付けられ、死の病に浸蝕された身体を、更に擦り減らされて、結局最後は世界から落っことされてしまった。 私がもっと利口で強ければ良かったのにとリンは考えたが、今更どうあがいたってリュウが帰ってくるわけじゃない。 死体の重さをリンは良く知っていた。 砂袋みたいになってしまった人間は、もう二度と起きあがりやしないのだ。 もしそんなことがあったって、そこには意思の光は存在しない。 ただ身体だけが動き回っているだけのゾンビになってしまう。 昔トリニティのアジトの周りに群れていた、かつての中層区の住民たちのように。 リンはそんな姿のリュウを見たくはなかったし、本当のところは少し安堵していた。 これでリュウはこのどうしようもない世界から救われたのだ。 もう竜に食らい続けられることも、人間に求められ続けることも、世界の暗闇を見て泣くこともない。 ニーナはいつもリュウを探していた。 彼女は世界で一番大好きな人間がもういなくなったってことを、まだうまく信じられないようだった。 いつもまるで彼が生きているような話をリンに聞かせてくれた。 だが、時折リンのことを「リュウ」と呼ぶことがあった。 彼女自身、もう何が本当のものなのか、わからなくなっているように見えた。 「それでね、小さいナゲットを抱っこさせてもらったの。まだ赤ちゃんだよ。リュウにも見せてあげたかったなあ……ねえ、リン? あれ、リュウは? さっきまでいたのに」 ニーナは部屋の中をきょろきょろと見回し、おかしいなあ、と首を捻っている。 見つかるはずなんかない、リュウはもういないのだ。 リンはニーナをぎゅうっと抱き締めてやって、うんそう、楽しかったんだね、と言った。 「それは良かった。……リュウはね、すごく眠くて我慢ができないからって、先に寝ちゃったよ。起こすと可哀想だから、ふたりで話してよ?」 「うー、ざんねん……そうだね。リュウ、最近すごく忙しいもんね。疲れちゃってるのかなあ?」 「きっとそうだよ。そっとしといてあげよ」 「うん。それでねリン、この間はプラントで青いお花を見たの。すごく綺麗だったよ、リュウみたいな色で、とっても良い匂いがするの。 ……あっ、そうだ。リュウ起きたら、肩叩き、してあげようかな。きもちいって言ってくれるかな?」 「うん、きっと喜ぶよ。あの子はニーナが大好きなんだからさ、何したって喜ぶんだから」 そうしてニーナと話していると、まるで本当にリュウがそばにいるような気分になってくるのだった。 忙しい執務で疲れ果てながらも――――その大半が、慣れない頭脳労働のせいだったろうが――――彼は仕事を終えると律儀にニーナの話を聞き、遊び相手をしてやっていた。 彼自身ニーナに救われている部分はあったのだと思う。 本当に子供を持った父親みたいだと茶化してやったことがあったが、その時彼は真っ赤になって、取り乱しているのか怒っているのか良く解らない反応をくれた。 リン自身が、なんだかいっぺんに手の掛かる子供が二人もできてしまったような心境だった。 私はきっと本当にどうしようもなくあの子が好きだったんだとリンは考えた。 ニーナもそうだ。三人でずうっと空の果てまで行くべきだったのだ。 そうすれば今もどこかの空の下で、リュウがバケツいっぱい釣ってきたグミフィッシュに文句を言いながら、夕食のための火でも起こしているだろう。 そして暗くなった夜空を見上げて、星についての話をするだろう。 世界に見飽きるものなんて何一つないという話をするだろう。 今はこうして、リュウを閉じ込めていたセントラルで、二ーナが話し疲れて眠り込むまで相槌を打ち、彼女の頭を撫でて、笑い掛けてやることしかできなかった。リンとニーナが愛すべきリュウがいないせいで。 ◇◆◇◆◇ ニーナを寝かし付けてから、私もこのまま寝ちゃおうかとリンは考えたが、どうにもうまく眠りにつくことができなかった。 最近色々なことがあって、神経が昂ぶっているせいかもしれない。 少し風に当たろうかと思い付き、リンはニーナを起こさないようにそっと部屋を出た。 夜もふけて、セントラルに人の姿はほとんどなかった。 たまに警備ディクに出くわすくらいだ。 外は少し肌寒いくらいだった。 星は今日も綺麗に夜空を白く染めていた。青く燃え、時折ちかちかっと瞬いた星が、空の下のほうへ流れ落ちていった。 空の世界は相変わらず美しかったが、最近はどことなくくすんで見えた。 三人きりで見上げていた頃は、空はもっと鮮やかだったように思うが、どうとも言えない。 ナーバスになっているのかもしれない。 実際神経質になってしまっているのだろう、こんな時は昔ならディクに乗って行き先も考えずに駆け回っていたものだが、そんな気分にもなれなかった。 (私はもしかしたら大分大人しくなっちゃったのかな) リンはぼんやりと考えた。 メベトもなんだかこのごろ老け込んでしまったみたいだ。 大願を果たしたからだろうか? 空が開いてしまったからだろうか? (結局私は意志だけははっきりと貫くくせに、なんにもわかっていないのかもしれない) なんにも知らない。 世界が開かれた時にあった統治者たちの思惑もわからない。 メベトの真意もいまだにわからない。 どうすればニーナが前みたいに微笑んで「リン」と呼んでくれるのかがわからない。 リュウが何故死んでしまわなければならなかったのかもわからない。 あんなに良い子たちが、なぜ世界に苦しめられなければならないのかがわからない。 わからないことだらけだ。 考えることは、昔は好きだったはずだ。 子供のころのことだ。 数式を思い浮かべたり、機械を組み立てたりすることが好きだった。 趣味のようなものだった。 だが少しばかり身体が弱く、良くベッドで臥せっていたように思う。 昔はなにも考えずに駆け回れるようになることが夢だった。 ディクを乗り回す、早撃ちが得意なガンマン。理想のヒーローだった。 だがそれらしいことをいざやってのけてしまえるようになると、もっと深く思考できるように、利口になりたいと思うようになった。 (結局私は何になりたかったのか?) わからないことばっかりだとリンは考えた。 行き先も考えずに歩いていると、じきに大きな建物が目の前に現れた。 中央区のセメタリー。リュウの、巨大な墓標だ。 ◇◆◇◆◇ セメタリーの中は花で満ちていた。 良い匂いがした。ニーナがリュウに捧げた花だろう。 ろくにこの場所に寄り付かなかったせいで、あの夜、リュウが死んでしまった時以来、彼の遺骸を見ることはなかった。 怖かったのだ。 家族と呼んでも良い近しい人間の身体が腐り、膨れて、黒ずみ、嫌な臭いを発して、朽ちていく姿を見たくなかった。 だがセメタリーの中に、腐肉の臭いはまるでなかった。 ただ良い匂いがする。 みずみずしく咲き誇る花の香りだ。 まずリンには、「それ」がなぜそこにあるのか、わからなかった。 こんな夜中だ、暗く閉ざされているはずのセメタリーの中は、蝋燭の灯りがこうこうと点いて、明るかった。 オリジンの墓に泥棒でも入ったのかと思って覗いてみると、なんのことはない、見慣れたいけすかない金髪頭が見えた。 性悪にも程があるって男のことだ、復讐を遂げた相手を見て満足に浸ってでもいるのかと邪推したが、どうもそんな気配はなかった。 ただ彼らは手を繋いでいただけだった。 リュウの遺骸は驚いたことに、生きている頃とほとんど変わりなかった。 ただ血色がなく、土気色の顔色をしてはいるが、彼はともすれば目を開けて起き上がりそうなくらい綺麗に保たれていた。 ボッシュは何をするでもなくリュウの棺の縁に寝そべり、手を繋ぎ合ったまま、うとうととしているようだった。 まるで子供が気に入りのナゲットのぬいぐるみを抱えているような風体だった。 いつもはちょっとした気配にさえ敏感な性質をしているくせに、扉の陰に紛れたリンに気付いていないようだった。 彼はなんだか住み慣れた自分の家でくつろいでいるようにも見えた。 まどろみの中で、時折思い出したようにリュウの髪に触れたり、なにがしかの言葉を囁き掛けていた。 そこには憎しみの色はなく、むしろ、近しい隣人への親愛の情があった――――そう、リンがリュウやニーナに向ける愛情に似たようなものに見えた。 そして驚いたことに、彼には僅かに死者を悼む気配が見て取れた。悲しみの気配があったのだ。 「――――オマエが……目、覚ましてくれるんならさ……」 寝入りばなのくぐもった声が聞こえた。 ボッシュの声だ。 なんとなく、あるべきはずではないものを見てしまって、奇妙に居心地の悪い気分がリンに訪れた。 あの男の嫌味と険のない顔を今まで見たことはなかったし、穏やかな声なんて、まるで聞いたことがなかったのだ。 「何でも言うこと聞いてやるのに。1000年憎んで欲しいならそうしてやるし、もし…… ――――」 そこで声は途切れた。 後に残ったのは、やすらかな寝息だけだった。 とても仲が良い親友同士みたいに、リュウとボッシュは手を繋いで眠っていた。 なんだかもうわけがわからない。リンは混乱してしまって、額を押さえた。 リュウが憎いんじゃあなかったのか? だから殺しに来たんじゃあないのか? そして殺したんじゃないのか? 何故殺害者のはずの彼がひどく悲しんでいるんだ? 悲しんでいる、と考えて、リンはすうっと目を閉じた。 もどかしい気分だった。 じゃあ私は誰を憎めば良い、とリンは考えた。 お前が殺したんだと、リンはボッシュを罵ってやりたかった。 リュウを悲しませ、苦しめている男がリュウを殺してしまったんだと考えると、リンは彼を憎むことができたし、怒りを向けることができた。 そうすることで、リュウがいない世界に立っていられた。 なんでそんなに仲良さそうなの、とボッシュに問い詰めてやりたかった。 まるで、二人で一緒にいることが当たり前なのだとでも言うように、彼らは手を繋ぎ合い、二人共が少し微笑んで、安心したように眠り込んでいた。 そうしていれば何も怖くなんてないとでもいうように。 ボッシュの寝顔を眺めながら、ほんとに私はお前が気に入らないとリンは考えたが、胸を突き抜けるあの怒りはいつのまにか奇妙に捻じ曲がってしまっていた。
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