花はまだ綺麗に咲いていた。 空気が冷たくなり、乾燥して、冬の気配が濃くなっても、その瑞々しさは失われていたが、花々が鮮やかな色を失うことはなかった。 空の下の端まで、見渡す限り鮮やかな花の絨毯が敷き詰められていた。 いい匂いがしていた。 ニーナは目を閉じ、花の香りをいっぱいに吸い込んでから、目を開けた。 太陽のひかりは穏やかで、暖かかった。 「駄目だよニーナ。外で寝ちゃ駄目だってば。ちゃんと部屋に戻ってベッドに入って寝る。言ったでしょ? ニーナはあんまり丈夫な身体じゃないんだ」 顔を上げると、リュウがいる。 リュウはいつものように、怒っているというよりも困っているふうな顔で、静かな声でニーナを諭した。 リュウはニーナを怒らない。声も荒げないし、いつも穏やかに笑っている。 リュウはみんなに親切だったが、ニーナには特に優しくしてくれる。 とてもニーナを大事にしてくれて、ニーナはそれが嬉しかったし、彼という人間に応えるためならなんだってできるという自信があった。 なくした言葉だって取り戻してみせた。 悪いことをするとリュウが悲しむから、良い子にしている。 みんなに優しくして、目が合ったら微笑む。 困っている人がいたら助けてあげる。 食べ物の好き嫌いだってしないし、自分の身体についても、最近は大分気を付けるようになった。 つまり、ベッドに入ったらシーツを蹴っ飛ばさないこと、転ばないように前を見て歩くこと、お腹を出して寝ないこと、冬が来たら必ず外套を着込んで出掛けることなんかだ。 リュウがいなければ、ニーナはそんなような事柄は一向に気に留めなかったろう。 なんにも感じず、平坦で、虚ろな人形のままでいただろう。 事実、ニーナは人形だった。 世界を綺麗にするためにバイオ公社に造られた、コンパクトな空気清浄装置だった。 道具には心なんかいらないと「はかせ」は言っていたし、ニーナ自身もそれに関して文句を付ける気もなかった。 役割をただ機械的にこなせば良いだけだ。簡単なことだ。 でもリュウが怒るから、ニーナはそれが間違いなんだと理解した。 彼は正しく、優しいヒーローだった。 彼がそう言うのなら、ニーナは人間だ。 「はかせ」もバイオ公社も世界も、なにもかもが間違っていて、だからリュウは怒っていたのだ。 彼らが間違っていなければ、あの優しいリュウが怒るはずなんかない。 ニーナが人間だとして、その心というものに繋がっているのは、どれもリュウに関わることばかりだった。 彼が地下水が滴る水路で苦しそうに胸を押さえているのを見ると、ニ―ナの胸のほうが張り裂けそうになったし、そんなリュウが無理をして「大丈夫」なんて言いながら微笑むと、ニーナはいつも泣き出しそうになったものだった。 手を繋いでいると、その大きな温かい手がニーナの手のひらを包んでいることにとても幸せな気持ちになれた。 ニーナの心はなにもかもリュウで満たされていた。 いや、リュウが造り出したのだ。 彼がそこにいるだけで、色とりどりの感情が、鮮やかにニーナの胸に生まれた。 リュウはまるで魔法使いみたいだった。 ニーナのように、文字と数式と図式を組み合わせた、種が目に見える偽物の魔法なんかではなく、もっと純粋な意味での、例えば昔の世界ではいたらしい――――確か、去年街の図書館の絵本で読んだのだ――――神様みたいだった。 リュウは誰よりも綺麗で、すべてを持っていた。 ひかりの中にいた。 時折ニーナは、どうしてこんなすごいひとがわたしにやさしくしてくれるんだろうと考えたが、結局答えは出なかった。 いつも、そんなことはリュウの笑った顔を見ていると、いつしかどうでも良くなってしまうのだった。 「リュウ」 ニーナは、ちょっと小さい子供がするみたいで恥ずかしかったが――――なにせもうニーナは、街の子供たちに「お姉ちゃん」と呼ばれるくらい大きい子なので――――ニーナの隣に座っているリュウの腰に抱き付いて、彼の膝に頭を凭せ掛けた。 リュウはいつものように笑って、どうしたのなんてことも言わないまま、ニーナの頭を撫でてくれた。 そうされていると、ニーナはとても幸せだった。 それ以外のことが、全部偽物のように感じてしまうくらい。 「……ねえ、泣かないでね、ニーナ」 リュウが言った。 ニーナはちょっと不思議に思って、顔を上げてリュウを見た。 逆光になって、彼の顔は良く見えなかったが、リュウのことだがら、いつものように笑っているのだろう。 ニ―ナは首を振って、泣いてないよと言った。 こんなに幸せなことが他にあるはずもなかった。 嬉しいのだ。リュウがここにいる。何を泣くことがあるんだろう? 「ごめんね、ニーナ。こんなところでしか、頭を撫でてあげられないんだ。夜中に起きた時に、急に不安になっちゃう時があっても、どうしたの、って言ってあげられないんだ。でも、悪い夢はおれがやっつけてあげるよ。心配しないで」 「……リュウ? どこかへ行くの?」 「……うん。大分遠いけど……近いかな? ううん、よくわかんないなあ」 リュウは困ったように頭を掻いて、それからニーナの頭をぽんと撫でて、花輪の作り方を教えてよと言った。 「おれ不器用だから……あ、もうすぐボッシュも来るよ。彼もニーナもすごく花が似合うなあ。おれとは大違いだ」 「リュウ、花、きらい?」 「ううん、大好きさ。ただ似合わないだけなんだ。きっとみんな笑うから……」 リュウは困ったふうにはにかんで、肩を竦めた。 「とりあえず、一番簡単なの……おれにもできそうなのってあるかな?」 「う、わたしもほんとはあんまり作り方、知らないの。誰かに聞かなきゃ」 「そっか。じゃあ街の子に聞きに行こうよ。メアリなんてどうかな、きっと器用だよ」 「うん……」 ニ―ナは頷いたが、なんだか胸のあたりがもやもやしていた。 なんでこんなに、悪い事をしてしまった後のような、後ろめたい気持ちになっているんだろう? 目の前にはニーナを安心させてくれるリュウがいるのに? 「……悪いなんて思わないで、ニーナ。そっちのが、おれはずうっと悲しいよ」 リュウはニーナの心を読んだみたいに、困った顔をした。 相変わらず逆光でリュウの顔は見えないが、彼がどんな表情でいるのかは、ニーナにはわかった。 リュウのことだったら、なんだってわかるような気がするのだ。 「楽しそうに笑ってることに悪いなんて思わないで。おれはもう笑えないからってことにさ、変に悩んだりしないでくれよ。ニーナがやりたいことをするんだ。友達ができたろう? ほんとは遊びたいでしょ。行ってきなよ。おれはニーナが楽しそうにしてるのを見ると、とっても嬉しいんだ」 「リュウ?」 「少し出掛けてるだけだって思ってよ……リンもいるし、みんないるからさ。ひとりじゃない。いつかまた会える。その時には、ニーナがどれだけたくさん楽しいことがあったかってのを聞かせてよ。いっぱい話をしよう。おれはそれまでには、お茶の美味しい煎れ方も覚えておくからさ」 「リュウ」 ニーナはリュウのコートを掴んで頭を振った。 「どこにも行っちゃやだよ……」 「どこにも行かないよ。おれはどこにでもいるんだ。ニーナの世界にならね。ね、泣かないでよ……きみがおれのせいで泣いちゃうと、おれは悲しくて、また死んじゃいそうになるんだ」 リュウはニーナを抱き締めてくれた。 そして静かな透き通った声で、ごめんね、と言った。 そしてふっと顔を上げた。 「……あ、来た」 リュウはちょっと気後れしたみたいな顔で、彼の名前を呼んだ。 「ボッシュ」 ◇◆◇◆◇ 目を開くと、枯れかかった花畑に埋れたニーナのすぐそばに、ボッシュがやってきていた。 彼は何も言わず、面倒臭そうな顔をしていた。 花々は瑞々しさを失い、茶色くなって、老人の腕のような茎を風に晒していた。 ニーナは目を擦って、ボッシュを呼んだ。 「……ボッシュ。リュウが来たよ」 ボッシュはびっくりしたみたいにぱちぱちとまばたきをして、呆けていた。 彼のそんな顔を見たのは初めてのことだったので、何だかおかしい気分だった。 ニーナは少し笑って、静かに言った。 「泣かないでって。ごめんねって。わたしが泣くとリュウは悲しいんだって。だから泣かないことにした」 「なんだ……病気治ったの。良かったね」 ボッシュは肩を竦めて、くるっと背中を向けた。 ニーナは彼の背中に向けて、だからもう大丈夫だからね、と言った。 「リュウのかわりにわたしを守ってくれなくたって、だいじょうぶだよ。わたしはリュウが心配しないくらい強くならなきゃ駄目だから、ボッシュがリュウに悪く思うことない」 「――――オマエ、なんかすごい勘違いしてない? 誰がオマエなんかに構うかよ、うぬぼれ屋のディクが」 「ボッシュじゃリュウのかわりはぜんぜんだめだよ。リュウのほうが強いもん」 「しつこいね。俺のが強いに決まってるだろ、この積荷」 ボッシュは救い様がないというふうに溜息を吐いてから、さっさと来た道を戻ってしまった。 彼はなんだか、多分だけど、ニーナのことが少し羨ましそうだった。 リュウの姿をもう一度見て、彼の声を聞くことができたニーナが。 彼はそれがただの夢だって思っているかもしれないが、ニーナには解っていた。 リュウはほんとにここにいたのだ。今、すぐさっきまで。 ◇◆◇◆◇ 「あれ、ニーナお姉ちゃん!」 店の中へ入ると、ニーナよりも年下の艶やかな黒い髪の少女が、びっくりしたように叫んで、椅子に座って広げていた絵本をぱんと閉じた。 「ど、どうしたの? ひさしぶり……あ、だ、だいじょうぶなの? その、ここに来て。怒られない?」 「わたしを怒る人なんてどこにもいないよ。良い子にしてるもの。ね、メアリ、ちょっと、どうしても教えて欲しいことがあったの。お願いしてもいい?」 「う、うん」 「あのね、綺麗な花輪の作り方を教えて欲しいの。眠ってるリュウも嬉しくなっちゃうくらいの」 顔を紅潮させて頷いたメアリに、ニーナはにっこり笑った。
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