リュウという人間がいなくなっても、街は機能していた。
 彼はオリジンとしては、まったくもって無能だった。シェルター文字の読み書きがやっとのことで、統治学の教育とも程遠いところで育ち、世界を統治する役割には向いていなかった。
 それを本人は誰よりも良く理解していたらしく、ことあるごとに「おれは向いてないんだ」と近しい人間に漏らしていたという。
 彼が得意なのは、例えばまめな性質をしているからか、プラントで貰ってきた鉢植えを育てるのが上手かった。
 彼が植物を枯らしているところを見た人間はいないという。物珍しいせいで、慎重になっていたのかもしれない。彼はバイオ公社で造られた人工植物もほとんど目にすることはなかったろう生活を送っていたのだ。
 釣りが好きだったという。
 魚を釣りに出掛けたら、まず帰って来なかったらしい。
 彼という人間には珍しく、それを始めるとまったく周りのものが目に入らなくなり、話し掛けてもふたつ返事で、真剣な顔をして釣り糸を垂らした水面をじっと見つめていたという。
 そのくせ腕のほうはからっきしで、馬鹿みたいにへたくそだったらしい。
 ほぼ何も釣れないか、もしくは水草かグミフロートを引っ掛けるかといった具合で、稀にタコが釣れた時なんかには、子供みたいに大喜びしていたそうだ。
 ボッシュはオリジン代行者という役職に就いてから、そういったリュウの話をたくさん聞いた。
 ボッシュが預かり知らないところで、彼という人間がどういうふうに生きていたのかを聞かされた。
 彼は随分長い間死の病に冒されていたらしい。
 身体は死体みたいになって、ただ強い意志の力でそいつを引き摺りながら動かしているという具合だったそうだ。
 いや、意志と言ったって、リュウのものじゃあない。
 彼自身は安息を求めていたろう。この世界を見届け終えるまでは消えることはできないという、誰かの巨大な意志に違いない。そいつは死に掛けのリュウに、甘い餌をやって、彼を前へ進めていたのだ。
 そして役割が終わると、リュウを引き摺ってどこかへ消えてしまった。
 リュウの話をたくさん聞いた。
 だが今になっては、それもどうだって良いことばかりだった。
 耳にするのは、ただの思い出話ばかりだった。
 誰も生きているリュウを語ろうとしなかった。
 何かが視えているらしいクピトと、いかれてしまったニーナのほかは、みんなリュウを過去いたことがある人間として扱っていた。
 それについてどうと言うところもないが――――確かにもうリュウはどこにもいないのだ――――面白くはなかった。
 オマエらが簡単にあいつを語るんじゃあないよと考えたのかもしれない。
 綺麗に装飾された昔話に反吐が出る思いだったのは確かだ。
 彼は意志の力で何人も殺した。
 例えば、ボッシュの父親。家族。リュウ自身の近しい人間たち。隊長や、彼の同僚や、先輩たち。
 そして、ボッシュ。
 リュウは聖人みたいな顔をして、この街の頂点、すなわち世界のてっぺんに座っていられるような人間じゃないのだ。
 だが、久方ぶりに見たリュウは、まるで聖人そのものみたいな顔つきになっていた。
 欲はなく、何も求めず、ただ静かに人間を観察している。
 汚い世界を彼は許さず、困った人間を見れば手を差し伸べ――――まるでテレビから抜け出してきたヒーローみたいだった。
 いつのまにか彼はそんなふうに変えられていた。
 世界が開かれて、怒りを奪われたリュウは、空っぽになって、そんなふうに作り変えられてしまったのだ。世界と、彼を求める人間たちによって。






 今は彼は静かな顔をしていた。
 目を閉じて、少し微笑んでいた。もう死んでいる。安堵の眠りの中にいた。
 リュウの寝顔なんてものには、もう飽きるくらいに馴染んでいた。
 例えばレンジャー・ルームの二段ベッド。
 占領した上段からちょっと顔を出せば、ボッシュの下でだらしなく口を開けて眠っているリュウの寝顔が見えた。
 遊びも知らず、訓練に打ち込み、それが済んだらさっさと眠ってしまう。
 彼はそのくせ弱っちかった。
 いや、同世代のレンジャーの中では、剣筋はまあ悪くなかった。
 先輩にいびられたり、同年代の同僚にからかわれている時だって、リュウは絶対に相手に手を出さなかったし、殴り返すようなこともしなかった。
 ただ俯いて、誰かの怒りが過ぎ去るのをじっと待って耐えていた。
 だがこと剣のこととなると、彼は決して無能ではなかった。
 頭は空だが、一度理解したことを彼は忘れなかった。
 確か、覚えている、頭のほうはまるで駄目だが、実技に関してはあの隊長が舌を巻くほどだった。
 いい大人だって音を上げるゼノの訓練で、リュウは彼女が教えた絶命剣をマスターして見せた。
 彼が十をいくつか過ぎた頃のことだった。
 才能が無いわけではなかった。
 体格と体重が足りないところがあったが、いつか、あと十年もすれば、彼は優秀な「サード」レンジャーになっていたろう。
 リュウ自身がどれだけ強くなっても、彼には1/8192というD値がくっついていた。
 そんなふうに、彼自身には何ら落ち度はなかった。
 同世代のレンジャーでは、かなり優秀な部類に入るだろう。
 そんな彼が、いつまでも情けない、子供みたいな、頼りない落ち零れでいたのは、言ってしまえば、ボッシュ=1/64という優秀過ぎる相棒に原因があった。
 相棒の宿命か、リュウは何かにつけてボッシュと比較されていた。
 そしてローディであることや、無能であることを挙げられ、いつかきっとボッシュの名前に泥を塗るに違いないと冷やかされていた。
 そこにはやっかみや嫉妬も確かに混じっていただろう。ボッシュは、そばにいるだけで甘い汁が吸える種類の人間だった。
 リュウがボッシュの知らないところで、どんな面白くない目に遭っていたかは、なんとなく想像できた。
 だが彼はボッシュに対して、やっかんだり、逆に卑屈になったり、媚びることもなかった。
 彼はただの友人としてボッシュに接した。
 劣等感はあったろう。だがそれをリュウは表に出す事はなかった。
 そのせいか、彼の隣は心地が良かった。
 何年も過ぎて、全てが変わってしまった今になっても、それは同じことだった。
 リュウの隣にいると、何故か解らないが、安心した。
 静かな心地になり、世界が広く感じられる。音は消え、その少し冷たい手を触ると、ボッシュを煩わせていた全てのことが、ひとつずつ剥がれていくのだった。
 だが、いざそうやって広い空の中にひとりきりで座っているということを理解すると、にわかにざわざわした不安がボッシュを支配した。
 竜はもういなくなってしまった。
 ボッシュは、特別でもなんでもなくなってしまった。
 リュウはいなくなってしまった。
 世界にたった二人きりの竜。その事実も、ただの幻想になってしまった。
「リュウ」
 名前を呼んだって、リュウは返事もしない、ただのものになってしまった。
 溶けた蝋と花の匂いだけが存在していて、リュウはまるで空気みたいに、存在感の薄いものになってしまっていた。
 急な不安が――――例の、忌々しいパニックの症状に似ていた――――訪れ、ボッシュは棺の中に腕を突っ込み、リュウを抱き締めた。
 棺に一杯に満たされていた花が、ばっと散った。
 リュウのコートを開き、つるっとした奇妙な手触りのアンダーをはだけさせて、裸の胸に唇を付けると、かすかに生きていたころの彼の匂いがした。
 リュウの身体には、いくつもの傷痕が残っていた。
 アジーンを庇ってボッシュの獣剣に貫かれたもの。あの岩穴の中で付けてやった肩の傷。他にも、無数の裂傷があった。
 治癒能力は、死んだ彼にはもう残っていなかった。
 ぼろぼろに擦りきれたまま、リュウは死んでしまった。
 そのくせ微笑んでいる。何かとても嬉しいことがあったような顔をしていた。
 傷を舐めると、鉄臭い味がした。血は固まり、零れてはいなかった。
 まぐわっている最中みたいに、身体中を愛撫しても、舐めたって、リュウが声を上げることはなかった。
 死体ならこんなものだろうな、とボッシュは考えた。
 リュウの遺体が、なんとなく侵しがたいもののように感じることが、ボッシュには癪だった。
 ただのリュウの死体だ。大したものじゃない。崇拝の対象にもならないはずだ。
 だが彼の死体に欲情すると、いつもきまりが悪くなった。
 死体なんか触ったって面白くなんかないと誤魔化しながら、なんでもないふりをしていた。
 リュウの脚を開き、股座に顔を埋め、彼を抱いた時のように性器を舐めてやりながら、俺は後悔するのかなとボッシュは考えた。
 今からリュウの死体を犯したとして、ひどく空虚な気分になるのだろうか?
 もうリュウなんかどこにもいないってことを、本当の意味で理解してしまうだろうか?
 リュウの脚を支えたまま、ベルトの金具に手を掛けたところで、頭の上から急に声が聞こえた。
『やだあ、ボッシュのえっちー』
「…………」
 ボッシュは目を閉じて、こめかみを指で押さえて、俺は大分参ってるんじゃあないだろうかと考えた。
 なんでこんなところで、少し幼い自分の、いや、自分のものにしては少しばかり軽薄過ぎる声が聞こえるのだろう?
 背後に気配が生まれている。そればっかりは間違い無いし、乾いたはずの背中の傷が、じくじくと疼き始めている。
 これは最近になって無くなった兆候じゃなかったろうか?
 ボッシュがそのまま蹲っていると、咎めているのか面白がっているのか、どうとも知れない声が、再び降ってきた。
『とりあえず、どうにかしちゃってよ。このまんまじゃ、話もできないよ。そうだろう? ボッシュがムッツリでスケベなのは知ってるから、今更恥ずかしがるとかはないと思うから、うん、じゃあ終わるまでおれ後ろにいるよ。見てる。人間の生殖行為っての、割と面白いし、死骸と交尾する雄ってのも初めて見るし、なんだか新鮮だもん。これは種の中で、どう言った意味を持つ行為なのかなあ?』
「…………」
 幻聴なんかじゃあない――――幻聴であって欲しいとボッシュは一瞬考えたが、どうやらそいつは本物らしかった。
 ちゃんと現実に、ここにいるのだ。
 自分の声がどこか別の場所から聞こえてくるってことは、大分気味が悪いものだったが、そいつはボッシュなんかじゃない。
 もっとたちが悪いものだ。
 ボッシュは顔を上げ、乱れた服を直して、冷たい目でそれを見た。
「今までどこ行ってやがった……チェトレ」
 見上げた先には、金髪の、綺麗な顔をした少年がいた。
 顔ばっかりは、どこへ行ったって自慢できるものだ。色は白く、血色は良かったが、青白い血管が瞼と頬にうっすらと見える。
 その目は閉じられていた。
 少年は目を閉じたまま、ボッシュの格好なんてしているくせに、まるでリュウみたいな屈託のなさで微笑み、手を振って、やあ、と言った。
『ひさしぶり、ボッシュ。寂しくて泣いちゃってたろうね。判定中だったんだ』
「……何の。もう全部済んだ」
『おれのだよ。おれの仕事だよ。おれが選ぶんだ。アジーンにはもうその権利はない。あいつの判定を判定するのは、二着のおれの役割なんだ。それでプログラムが動き出すんだ。いや、終了って言うのかな? それは良くわかんないけど、そうなるんだ』
「オマエの言ってることはわけわかんないね。オマエも消えたんじゃなかったの? 竜はもう世界にはいないはずだ」
『それでね、やっと選んだんだ。割と手間取ったけどさ、リンク者、……』
 ボッシュの姿をしたそれ、チェトレは、少し黙り込んで、目を閉じたままの顔に哀れむような表情を浮かべて、ボッシュの腕に抱かれているリュウを指差した。
『それより、なんにもしないのなら、先にリュウの服を着せてあげたら? なんか可哀想だよそいつ』
「……まあ、そうかもね」
 実の所、混乱して、戸惑っていた。あのパニックの前兆が訪れないことだけが救いだった。
 ボッシュは目を閉じ、こめかみに指を押し当てて、深い溜息を吐いた。





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