もう選ぶべきことを決めたんだなどと言うくせに、チェトレはしばらくだんまりのままだった。 なにか具合の悪いところを見つかったみたいな、はぐらかすような曖昧な微笑を口元に浮かべたままでいた。 彼の目は相変わらず閉じられていた。 ボッシュは、それと同じように静かに沈黙を保ったまま、目を伏せた。 そして、リュウの手を軽く握った。 もしかすると、なにか決定的な宣告をされるのが恐ろしかったのかもしれなかった。 例えば、そう、チェトレの完全な選択とやらによって、せめて残っているリュウの死骸すら、もしかすると砂みたいに溶けて消えてしまうんじゃあないか、なんてことが。 「怖い? ボッシュ」 静かにチェトレが訊いた。 ボッシュは返事をせず、目を閉じてから、ゆっくりと頭を揺らした。 怖くなんかない、という仕草だったかもしれない。 それとも、怖いのかもしれない、という仕草だったのかもしれない。それすら解らない。 俺は冷静なはずだとボッシュは思おうとした。 まだ自律がきいている。 あの忌々しいパニックの症状は、まだ訪れていない。 「……リュウの心は、世界から切り離されたところにあったよ。見付けた。彼は、サード・レンジャーで、1/64なんてD値の見たこともないエリートで、優しくしてくれる相棒といっしょにいたよ。その子の名前はね、アジーンって言うんだって」 ボッシュは軽く目を見開いて、顔を上げた。 チェトレは表情ってものが読めない顔をしていて、彼が怒っているのか、もしくは哀れんでいるのか、それともまったくなにも感じず、フラットなままでいるのかは見取れなかった。 「二人はすごく楽しそうだったよ。まるでお互いがお互いをもう一人の自分みたいに思っていて、大好きだった。でも彼らはね、それがちょっと行き過ぎていたんだ。お互いが、本当にもう一人の自分そのものだったんだ。だから二人でいるのに、いつでもひとりぼっちなんだ。ずうっと鏡に向かって話し掛けているような感じだよ。でもなんでこんなに寂しいんだろうって言いながら、それが解らないんだ」 「リュウに……会ったのか?」 喉にものがつかえたような、もどかしい苦しさがボッシュを襲った。それは焦燥に似ていた。 リュウは、彼の心はまだどこかに残っているのだろうか? あの気の抜けた、頭の悪そうな顔で、彼は笑っていたのか? チェトレは、うん、と頷いた。 「ねえボッシュ、人間どもに、竜は必要ないみたいだ。空を開いたリュウやアジーンがいてもいなくても、世界はなんにも変わらない。きっとそのうち忘れちゃう日が来るよ、自分たちが1000年土の下に閉じ込められてたことも、オールド・ディープってプログラムがいたことも、そう遠くないうちにね。 リュウがいなくなって、世界にひとりぼっちになったのは、おんなじ竜のきみだけだった。ボッシュ。 皮肉なものだと思うよ。憎めるかって、おれが訊いたら、きみは頷いてたのにね」 「…………」 「きみはそうやってリュウの手を握って、ここでしゃがみこんでるだけだけど、リュウは別にきみを呼んでるってことはなかった。ただ寂しいだけだ。わからないんだ。記憶も心も、アジーンが食べちゃったからね」 黙ったまま、頷きもしないボッシュに向かって、チェトレは良く喋った。 ボッシュに向けているように取り繕ってはいるが、それはもしかするとただの独り言なのかもしれない。 ボッシュには答えようもないものばかりだからだ。 「それでオマエは何が言いたいわけ」 まわりくどい、持って回ったような言い方をするチェトレを押し止めるように、低く呟いて、ぎろっと睨むと、存外素直に竜は黙った。 そしてじっとボッシュを見ている。その姿は、何か答えを期待しているようなふうにも見えた。 「そんな回りくどいことを言いに出てきたわけじゃないだろ、根性悪ドラゴン。何しに来たの? 俺に泣き付いてもらいたかったの?」 ボッシュはちらっとリュウの死骸を見やって、口の端を歪め、吐き捨てた。 「リュウを返してくれってさ。あいつを呼び戻してくれ、そんなふうな泣き言が聞きたい?」 「悪くないねえ。おれ、ほんとは融合するのはリュウが良かったよ。従順で、意志が強いし、ボッシュみたいにひがみっぽくもないし、なつっこいしね。でもボッシュ、おれそこまで性格悪くないよ」 「嘘吐けよ。最悪だろうが。何かにつけて嫌味ばっかり言いやがって、オマエは根暗過ぎるんだよ。大体俺はオマエに力を貸してやってるんだよ。人間に寄生しなきゃ、満足にものにも触れない幽霊のオマエにさ。オマエが大好きな兄弟をぶっ殺してやりたいって泣きつくもんだからね」 「ああもう、ほんとにほんとに、本当になんでこんなのとリンクしちゃったんだろうなあ?」 辟易しながら言うチェトレの声は、かすかに震えていた。 怪訝に思って見やると、チェトレは変な顔をしている。 口を引き結んで、顔が強張っている。まるで今にも大声で泣き出しそうな様子だ。 ボッシュは仮にも、何かの嫌がらせだろうが、過去自分がそうあった姿のチェトレがそんなふうな泣き出しそうな顔をしていることに顔を顰めた。 「……その顔で泣くなよ。自分の泣き顔を目の前で見せ付けられることほど気色悪くて屈辱的なことはないからね」 「わかってるよ! 泣かないよ。大体、プログラムにそんなのは無いんだ。泣いたりなんかさ。もしおれが今泣いちゃったとしても、それはボッシュのせいなんだよ。きみの感情表現、それからきみの中のリュウの感情表現、どっちかのデータのせいだもの。 ……そんなんじゃなくてさ、ただちょっと、わかんなくなっちゃっただけなんだ。 おれが今知りたいことは、きみの中のどこにもなかったから、ちょっと途方に暮れちゃってるかもしれない。兄弟、そんなもののことだよ。 おれはずうっとなんにも知らなかったんだ。手を引かれてるなんて思いもしなかった。だっておれたちは、全員で殺し合うように取り決められてるんだからね。 実際あれは、おれを殺したんだ。何度も何度もね。今更どうしちゃったんだろうって思うよ。変だよ。 思うんだけど、空へ出てからみんなおかしくなっちゃったんだ。リュウはオリジンに、ボッシュは取り決めを破るし、アジーンはエラーを起こすし、きっとおれもどこかおかしくなっちゃってるんだと思うよ。 手を繋いでなんて……」 チェトレはじっと手を見つめ、やがて顔を覆って、俯いた。 あまり考えたくはないが、泣いているのかもしれない。 「なんであいつ、おれを探してるの?」 心底不思議だという声だった。 だが、そこには敵意は見て取れなかった。 あのひがみっぽい殺意や、復讐してやるといった気負いは、何故かなくなっていた。 「リュウと一緒に、泣きながら探してるんだ。おれを探してるんだ。ひとりはいやだって言ってるんだ」 そしてのろのろと手を下ろし、顔を上げた。 泣いてはいなかった。そこにはいつもの、目を閉じた、静かな表情があった。 だが相変わらず口元は引き結ばれていた。もしかすると、これが竜にとって精一杯の感情表現なのではないだろうかと、ボッシュは見当を付けた。 チェトレは固い声で、ぼそぼそと言った。 「おれだって嫌だ」 ゆっくりと、チェトレが近付いてきた。 「兄弟、おれ、きみがいないと、空でひとりぼっちのドラゴンなんだ。 だあれもいない。ずうっと目指してたのに、地下のおれには、それがどういうことか、わからなかったんだ。1000年ひとりきりでいるってことが、何回死んじゃうよりもずうっと怖いことだってのが」 ボッシュの傍らで、チェトレは座り込み、死んでいるリュウに手を差し出した。 ぽうっと燐光が瞬いた。 「アジーン」 僅かに気後れしたように、チェトレが片割れの竜を呼んだ。 巨大な竜のくせに、まるで幼い子供のような仕草で首を傾げ、辛抱強く待っていた。 だが応えはなかった。 チェトレはそうなると、不安そうに眉を寄せ、本当に泣き出しそうな顔をして、俯いた。 ごめんよ、と彼は言った。 「――――え、ちゃ……ごめ……おれ、ちゃんと謝るから手、つないで」 声は掠れて、良く聞き取れなかった。 そして、彼は懇願した。 「ひとりはもういやだ」 ほどなく青い光が満ちた。 チェトレが溶けてゆく光だ。 眩しくて、ボッシュは目を閉じた。 視界が白い闇に阻まれる前に一瞬見えたチェトレの顔は、心なしか、安堵しているように見えた。 やっと長い間の探し物を見付けたような顔をしていた。 そしてボッシュが目を開くと、そこにはもうなんにもなかった。 チェトレはいなかった。 アジーンも現れなかった。 ただ死んだリュウの首筋の、奇妙な模様が一瞬強く明滅し、そして急にふっと掻き消えた。 ◇◆◇◆◇ ほどなく、誰かの心臓の音が聞こえてきた。 ボッシュは、はじめのうちは、疑り深い気分だった。 それは自分の心音じゃあないのか、と考えた。 だが、徐々に背中にあのぴりっとした痛みが還ってきた。 強い共鳴の痛みだ。 そして、信じられないことに、死んでいたリュウの唇に、僅かに呼吸の気配が訪れた。 「……あ」 ボッシュは呆然としてしまった。 どうすれば良いのか解らなかった。 こんなことがあるはずがないのだ。 きっとこれは夢に違いない、とボッシュは考えた。 今までだって何度だってある。死骸のリュウが目を覚ます。起き上がる。 そこから後は、いつも夢によってまちまちだった。 目を開けて、リュウが微笑む。もしくは、わずかな怒りの気配を含めている。ボッシュが殺したせいだ。 それとも、ボッシュを擦り抜けて、誰かに微笑み掛ける。 それはニーナであったり、他の誰かであったりした。 どれもあまり良い夢ではなかった。二度とリュウが目を覚ますはずなんてないと、深いところで理解が訪れていたせいかもしれない。 『ほんとだってば。ちゃんとやりなよ、第一印象ってやつが大事なんだよ。何度会ってる顔見知りだってだよ。もう大分時間が経ってるだろう。悪いことは全部忘れたって顔をするんだ。間違っても、苛めちゃ駄目だよ。そこから習慣になっちゃうんだ。きっとね』 良く知った誰かが、ボッシュの中で喚いている。ボッシュは、うるさいと言い置いて、じっとリュウの顔を見ていた。 呼吸を始めると、今まではただの死骸にしか見えなかった彼に、急に鮮やかな生命の色が見え始めた。 リュウは、生きているのだ。 わけがわからず、急に目の辺りが熱くなってきて、ボッシュは慌ててぎゅっと目を閉じて、その衝動が過ぎ去って行くのを待った。 『泣いちゃうの?』 (うるさい、泣くかよ) つまんないの、と誰かの声が聞こえた。うるさいチェトレ、とボッシュは声に出さずに毒づいた。 やがて、リュウが目覚める。 今まで長い眠りの中にいた彼は、ぼんやりしたふうに瞼を開けた。まだねボケているようだ。目の焦点も合わないままだ。 ボッシュはできる限り平静な顔をして――――泣いたり笑ったり、そのうちのどういった顔をすれば良いのかが解らなかった。それがまた癪だ――――じっと待っていた。 リュウの綺麗な青い目には、何にも面白いことなんかないような、仏頂面をしているボッシュが映っていた。 「――――……ボ、……シュ?」 まだ眠りを含んだ声で、リュウがボッシュを呼んだ。 うん、とボッシュは頷いた。 かつてお互いがレンジャーであったころに、当たり前のようにしてそこにあった気安さで、ただの仲の良い友達同士みたいに、なに、と返事をした。 「……ボッシュ? ボッシュ……」 リュウに僅かな戸惑いの気配が生まれた。 彼は、現実を現実として認識できていないようだった。 まだ夢の中にいるんじゃあないだろうかと訝っているようだった。 その顔自体は、ボッシュの方がやってやりたいものだ。 やがてリュウはぱちぱちと何度かまばたきをして、おずおずと自信が無さそうに、夢じゃないってほんとう、と訊いた。 「そうみたい」 いつもの少し意地の悪い調子で頷いてやると、途端にリュウの目からぽろぽろと涙が溢れて零れ、流れた。 「ボッシュ……ボッシュ、ボッシュう……!!」 リュウは弾かれたように、必死な顔でボッシュに抱き付いて、泣き出した。 まるで、ちゃんと触っていないと、また曖昧な夢に呑み込まれてしまうかもしれないと心配しているように。 彼の手を取ってやり、繋いで、背中を抱いて、頭を撫でてやった。 「バカが、変な心配なんかしなくても、離してなんかやらないよ」 そう、ずーっと離しやしないよ、とボッシュは考えた。 やっと掴まえた。 リュウの頬を舐めると、涙の塩辛い味がした。 彼は生きているのだ。目を開け、ボッシュの名前を呼んでいる。 「ほんとバカ、泣き過ぎ、リュウ」 死骸でいた頃は、ボッシュが見惚れるほどに綺麗だった人形めいたリュウの顔は、生命を取り戻すと、途端に泥臭くて情けないものに戻ってしまった。鼻水まで垂らして、わんわん泣いている。 それでも、安堵していた。 もうどこへもやらないだろう。 二度と彼を失うことがないように、手を引いてやるだろう。 今まで色褪せていた世界が、急速に鮮やかな色を取り戻し始めた。 くすんだ花々も、白っぽい蝋燭の炎も、天井の向こうに見える遠い空も、なにもかもがそうだ。 少し冷たい彼の体温がその身体に還ってきたことに安心しながら、ふとボッシュはリュウの髪を指で梳いて、言った。 「……オマエ、綺麗な色してるんだね、ほんとに」 リュウが、わけがわからなさそうな顔を上げたので、ボッシュは苦笑し、彼を抱き締めて、言った。 「――――よお、久し振り、相棒。会いたかったよ」
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