03:「墓地の少年」




「伸、伸、伸、伸、シ――――!」
 どこまでも青い空が永久に続く。果てはない。
 浮遊感なんて生易しいものじゃあない、身体中にぶつかってくる空気の壁の無言の圧力を延々と感じている。
 まるで巨人に引っ掴まれて、思いっきりぶん投げられたみたいだ。
 神田は怒鳴った。
「降ろせ! 今すぐ俺を降ろせ、この馬鹿ッ!」
「なっはー、ユーウ、そんな急かさなくたってもうじき着くってえ」
 急に眩暈のような感触があった。
 視界がぐるっと反転し、空が足元へ、頭の上に遥か遠くの街の風景が見えた。
 上空から放り捨てられたのだと気が付いた時には、もう遅かった。
「ここまで送ってやりゃー、大丈夫だろー? みんなによろしく言っといてなー!」
「殺す――――!!」
 落下の心許無い感触がやってきて、背筋の辺りにぞわぞわと纏わりついた。
 落ちていく――


「……まさか上から来るとは予想外だったじゃん?」
「………」
 街路樹に引っ掛かったから良いものの、そうでなければいくら頑強な身体の神田であっても、怪我じゃ済まなかったろう。
 枝に逆さまに絡まって仏頂面をしている神田の下で、先に集合地点へやって来ていた兄弟子のデイシャ=バリーとノイズ=マリが、ぽかんと口を開けて、呆気に取られた顔をしている。
「神田ってたまに突拍子もねー時があるよな」
「それより、おい、大丈夫か。絡まってるみたいだが」
 マリが心配そうな顔で言う。
 神田は無言で六幻を抜刀し、絡みついてくる枝を払った。



 それが今日の昼前のことだ。
 じきに日暮れが訪れようとしている。街には濃い霧が立ち込めて、湿った空気が満ちていた。
『霧が出てきたな』
『いつものことじゃん。しっかし気持ち悪ィの』
 無線ゴーレムから、仲間の声が聞こえてくる。
 神田は舌打ちをして、くだらねえな、とひとりごちた。それらしい手応えもなく、アクマの一匹も出やしない。
 その頃、ロンドン近郊の公園、学校施設、住宅街において、突発的なアクマの出現報告が相次いでいた。どれも霧に紛れて、まるで気持ちの悪い夢のように、ふわっと通り過ぎると言ったものだ。
 比例して、奇怪な事件が続いていた。
 例えば幼い子供ふたりが、仲の良い友人同士であったはずが、手足を千切り合い、食らい合って死亡していた。数日前のものだ。
 検死の結果、死因は二人共が心臓発作。身体的な傷痕や、胃の内部に残留していた互いの肉塊は死後のものだった。
 死体同士で喧嘩でもしたというのだろうか?
 他にも数え切れないくらいある。あるナショナル・スクールの生徒たちが、一クラスという明確な単位でもって、ウェスト・エンドのショップに押し入る。金目のものを引っ掴んで逃げる。店員は、カエルの解剖用メスでめった刺しだ。
 ことが済んだ後、生徒たちは各々の行為を振り返って、「感想文」を書く。
 教師に提出する。教師は卒倒して入院、今では教職を離れている。
 子供、もしくは子供に近しい人間の中に、アクマが潜んでいるのだろうと予想はついたが、街はあまりに広すぎた。
 そんなある日、数多くの事件の奇妙な共通点に気がつく。
 あるナショナル・スクールの近郊で特に事件が頻発していること、その近辺でのアクマの目撃情報が非常に多いこと、怪奇事件は大体二ヶ月前から起こり始めており、件の子供の群れによるウェスト・エンド強盗事件の後、該当クラスに在籍している生徒の半数が失踪していること、そしてちょうど怪異が起こり始めた頃、今から二ヶ月前に同校に転校してきた二名の少女がいること。
 彼女らがアクマではないのだろうか?
 身辺が洗われたが、いたって平凡な情報しか出てきやしない。
 少女らの名前はキャメロットとウォーカーと言った。双子だそうだ。
「例のガキどもをぶっ殺せば終いなんだな」
『ちょっ……先走んなよ、また師匠に正座させられても知らねーじゃん?』
『そちらはサブだ。まずは、イノセンスが優先だ。――らし……反……が……』
 無線ゴーレムから聞こえてくる声に、一瞬ノイズが混じった。
 白い霧の中で、ふっと一瞬、影が落ちる。見上げても姿は見えない。
 見えないが、神田は抜刀した六幻を静かに構えた。
 けたたましい笑い声が遠くから響いてきた。
 霧に紛れているが、巨大な存在感があちこちに生まれている。
 ちょうど、日が落ちた頃だろう。夜が来たのだ。
 神田にはまだあまり実戦経験というものがない。鍛錬なら死ぬ程こなしてきたが、エクソシストの団服を身に纏うようになって、そう時間は経っていない。
 実際に破壊したものと言えばほとんどがボール型だ。レベル一。アクマの中でも最弱のものだ。
『神田、危なくなったら無理をせず引け。お前は強いが、まだ慣れていない』
 ゴーレムからマリの声が聞こえたが、返事はしなかった。面白くなかった。
 ふうっと目の前を横切った影に躊躇いなく斬り付けると、確かな手応えがあった。
 アクマ特有の、例の腕にじいんと痺れがはしるような感触だ。


◆◇◆◇◆


 びくびくしながらアレンが振り返ると、どうやら単に老朽化した壁が崩れて落ちたようだった。
 アレンはふうっと安堵の息を零して、胸を撫でた。心臓に悪いったらない。
 でもその上に視線をやって、また心臓が止まりそうなくらいびっくりした。
 霧の向こうに、何かいた。大きくて黒いものだ。
(い、犬?)
 墓場の番犬だろうか。動かないところを見ると、彫像か何かなのだろうか。それとも単に寝てるだけ?
 アレンはそおっとそいつに近寄った。
 本当ならこのまま逃げ出してしまいたいところだったが、怖いもの見たさという奴だ。
 好奇心が強い方なのは自覚している。マナに世界を見せてもらうことが好きだった。その名残が、今になってもほんのちょっとだけ、まだ残っている。
 良く観察してみると、そいつはあんまり犬には似ていない――黒い布きれのようなものを被った、どうやら人間のようだった。
 そのくせ動かない。もしかして、死んでいるんじゃないだろうか?
 アレンはぞっとしてしまった。ここは墓場なのだ。不思議なことじゃない。
 逃げよう、と思ったが、
「う……」
 それはまだ生きているみたいだ。ちょっと身じろいで、微かにうめいた。苦しそうな声だ。
 アレンはどうすれば良いのか考えあぐねて硬直していたが、結局恐る恐るそれを覗き込んだ。
 困った人や怪我をした人は助けてあげなさいと、マナに良く言い聞かされていたのだ。見捨てることはできない。
「……大丈夫ですか?」
 訊いても、返事はなかった。怖々手を伸ばして、黒くてずるずるした布をちょっとずらすと、意外にも年若い少年の顔が現れた。アレンよりも三つ四つ年上と言った風情だ。見た事がない感触の顔立ちをしていた。白くもないし黒くもない。黄色人種。でもこんなに綺麗な人は見た事がない。
 だがそんなことよりも、アレンは動揺してしまって、完全に固まってしまっていた。
 さーっと青ざめて、それからぐああっと赤くなる。男の子だ。スクールでも意地悪ばかりする「男の子」って人種だ……!
(や、やっぱり逃げたほうが良かったかな?)
 そう思って腰を浮かし掛けたが、何分そのひとは大分辛そうだった。
 意識はなく、目は閉じたままで、額に汗の玉が浮かんでいる。
 苦しそうな人をほったらかしにするなんてアレンの信条に反するし、マナを裏切ることだ。
 覚悟を決めて、アレンは彼の額に手のひらを当てた。大分熱い。風邪を引いちゃったのだろうか?
 身体のほうを見ると――わ、とアレンは小さく声を上げて、目を見張った。血だ。肩口から二の腕にかけて、布地が裂けて、鈍い血の臭いが漂っている。
 アレンは慌てて、首元に巻いてあるお気に入りの、ロードとおそろいのリボンタイを解いて、男の子が被っている布――ここで、どうやら厚ぼったいコートのようだと気付いた――をはだけて、腕の裂傷に巻き付けた。消毒薬でも持っていれば良いのだけど、アレンにはそんなもの必要ないせいで、ポーチの中には入ってない。ガーゼも包帯もだ。
「聞こえますか? お父さんかお母さんは? 兄弟でもいいけど……呼んでくるから教えて下さい」
 アレンが呼び掛けても、男の子は相変わらず目を閉じたままで、返事をくれなかった。
 こんな時にロードやほかの兄弟たちがいれば良かったのに、とアレンは考えた。でもいないものはしょうがない。
「動かないで、そこにいてくださいね? お医者さんを呼んできます。すぐ戻ってきますから――
 立ち上がり掛けたアレンのスカートの裾が、急にぐいっと引っ張られた。
 思わずつんのめって座り込んでしまった。アレンはびくびくしながら男の子を見た。
「な、なに? あ、起きたんですか?」
 目を覚ましたのかなと思ったが、そうじゃないみたいだ。相変わらず目は閉じたままで、苦しそうな息をついている。
「……――……っ」
「え?」
 男の子が、うわ言で何か言ったようだった。意味は解らなかった。聞いたことがない言葉だった。
 でももし例えるなら、多分「父さん」とか「たすけて」とか、そんな感じだろう。
 なぜならアレンがこの男の子とおんなじように、『治らない怪我』をしてひとりぼっちで寝てる時に呟く言葉があるとしたら、そのくらいしか思い付かないからだ。
 そう思うと、この男の子がすごく可哀想になってしまった。
 アレンは彼の手を握って、大丈夫です、と言った。
「お医者さんなら、こんなのすぐ治してくれますから……すぐに誰か迎えに来てくれます。だから少し待って……」
 誰かを呼びに行こうと立ち上がり掛けて、またスカートを引っ張られた。
 男の子はアレンのスカートをぎゅうっと握ったままだ。
「あの……これじゃどこへも行けませんよ」
 アレンは困ってしまって、視線をうろうろさまよわせたが、どこにも人影は無かった。墓場の中なのだ。無理もない。
 どうしよう、と途方に暮れていると、小さな羽音が聞こえてきた。
 顔を上げると、ぱたぱたと何か黒っぽいものが飛んでくる。
「……なに?」
 目を凝らしてみると、どうやら蝙蝠のようだ――けど、なんとなく違う。丸っこい手のひらに乗る大きさのボールに羽根が生えたような、奇妙な姿をしていた。
 驚いたことに、そいつはアレンのそばまで来ると、喋った。
『神田! どこにいる。生きているのか?』
『神田よぉ、おーい! おまえのことだからピンピンしてんじゃん? 返事しろってば!』
 誰か男の人が交互にがなっているのを、スピーカー越しに垂れ流しているような感じだ。ノイズも混ざっている。
 アレンはあっけに取られていたが、はっとして、ちょっとだけ勇気を出して、奇妙な蝙蝠に話し掛けてみた。
「あ、あの……蝙蝠さんは、誰ですか? この人の友達?」
『え? 誰じゃん?』
『ゴーレムは神田のそばじゃないのか。君は誰だ。人間か?』
「は、はい? いやあの、えっと、怪我してる人がいるんです。でもスカート掴んでて、動けなくって、えっと」
 アレンは詰まり詰まり話した。蝙蝠の姿をしているとはいえ、知らない男の人の声で喋るのだ。
 なんだかすごく緊張して、口の中がからからになってしまっている。
『落ち付いて聞いてくれ。怪我をしている人間とは、神田――いや、黒いコートの……』
「男の子です。黒い髪の。お、お父さん? お兄さんですか? 助けてあげてください、苦しそうなんです」
『お嬢ちゃん、今どこじゃん? 周りに何がある?』
「お墓です……霧であんまり見えないけど、多分学校のそば……」
『了解、すぐに向かう』
 ぶつっと回線が途切れる音がして、急に静かになった。忙しない羽音だけが残った。
 蝙蝠はすいっと飛んできて、男の子の頭の上をぐるぐる回って、すうっと彼のそばに降りた。心配してるみたいだ。
 アレンはほっとして、男の子の髪に触って、よかったですね、と言った。
「家族の人、迎えにきてくれるって。もうちょっとだからがんばってください」
 背中を撫でてあげると、男の子は少し楽になったようで、ふっと身体の力が抜けた。
「がんばって」
 アレンは言った。
 それは自分にも掛けられている言葉だった。
 家族と離れ離れになってしまって、ひとりぼっちのアレンへの。
 



 しばらく経って、霧がようやく晴れはじめたころ、知らない二人の男の人が現れた。
 アレンよりも大分年上だろう。彼らは怪我をしている男の子とお揃いのコートを着込んでいて、すぐに仲間だと知れた。
「神田! ……え?」
「……すごいな」
 彼らは現れた時こそ厳しい顔をしていたけれど、アレンと男の子を見ると、急にぽかんと口を開けて立ち尽くしてしまった。
 変なものを見た、という顔をしている。アレンははっとして、さっと両腕で頭を多い、ぎゅっと目を瞑った。
 アレンの白髪と左目の痣は、いつもスクール生たちの格好のからかいの的だった。
 編入してからもう大分経つのに、すごく気持ち悪いものを見るみたいな目を向けられるのには、どうしても慣れることができない。
 でも二人の男の人は、どうやらアレンの頭を見ている訳じゃあないようだった。
 そっと盗み見ると――小柄な方の男の人が吹き出したところだった。
「ぶ……か、神田が、膝枕じゃん?」
「へ?」
 言われてアレンは気がついた。さっきの男の子のことだ。
 すごく寒そうに震えていたから、なにかしてあげられないものかと考えあぐねた結果、こういうことになったのだ。膝枕だ。
 スカートは相変わらず男の子に掴まれたままだし、このくらいしかしてあげられそうになかった。
 でもそれがすごく変なことみたいに笑われてしまった。恥ずかしいことだったのだろうか? アレンは良くマナの膝で眠ってしまったものだったが。
「デイシャ、笑ってやるな。彼女が困っている」
「あ、あああ、ごめんな、べつにお嬢ちゃんがおかしくて笑ってる訳じゃないんじゃん? か、神田が、あの可愛げのない無愛想な女嫌いのクソガキんちょが、いっちょまえに色気づいてひ、ひざっ」
「……おまえは少し黙っていろ。すまない。我々は彼を拾いに来たんだ。もし良ければ、君の名前は?」
「……あ、アレ……う……か」
 ぐあっと顔を真っ赤にして、アレンは俯いた。
 怪我をしている男の子がいて、そんな場合じゃないっていうのは解っているけど、駄目だった。知らない男の人だ。しかも人間だ。あんまり話してしまったら、『また』呪われてしまうかもしれない!
「マリのおっさん、あんまり苛めてやんなって。お嬢ちゃんが怖がってんじゃん」
「……苛めていない」
「おっさん顔が幼女イジメなんじゃん。イカツイしゴツイし人相悪いし……」
「……そんなことより病院だ。神田が死ぬぞ。見たところ、怪我だけじゃない。傷は浅い様だが……」
 大きいほうの男の人が、アレンのそばにかがみ込んで、男の子を診た。
「神田の場合は傷だけなら心配ないが、神経でもやられたのかもしれない。デイシャ、探索部隊に連絡してくれ。手配を頼む」
「オッケー」
 大きい男の人が、アレンの膝に頭を乗せて眠っている男の子を抱え上げようとして――
「ぶっ」
 また小柄なほうの男の人が吹き出した。
 さっきみたいに、男の子がアレンのスカートの裾をぎゅーっと握ったままだったからだ。
「ぎゃはははは! エロカンダ!」
「……デイシャ。笑ってやるな。後でからかうのもなしだ」
 大きい男の人が、申し訳無さそうにアレンを見て、言った。
「すまないが、君も一緒に来てくれないか……彼はなんだか、その、手を離しそうにないので」





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