06:「日曜日の午前」 |
無線ゴーレム――例の奇妙な蝙蝠のことらしい――からの連絡は依然なかった。もうじき学校が始まる時間だ。ロードはもう登校してるんだろうか? 「どうした」 「……いえ、あの、学校が……」 懐中時計をちらちら見遣りながらぼそぼそ言うアレンを見て、神田は察したのだろう、呆れたように溜息を吐いた。 「今日は日曜だ」 「え? あ」 アレンは顔を赤くして俯いて、そうでした、と言った。じゃあロードは昼まで寝てるだろうし、家族が出払っているのも無理はない。ミッキーは仕事仲間とお昼からお酒を呑みに行ってるんだろうし(アレンがあまり酒の匂いが好きでないことを彼は知っていたが、男同士の付合いってやつなんだという)、『はくしゃくさま』もきっと大忙しだ。教会のミサの後には、いつもより「お客さん」が多いんだっていう。 「どうしよ、みんな僕のこと忘れちゃってたら……」 アレンは不安になってきて、ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。みんなお仕事が忙しくて、アレンのことなんか忘れてしまっているのかもしれない。 「う、うちに帰れなくなっちゃったら、どうしよ……」 「家には連絡が入ってる。余計な心配をするな」 「で、でも、あんまり迷惑掛けちゃったら、みんな僕のことなんていらないって言うかもしれない。僕だけ白いし、何の取り柄もないし」 アレンは途方に暮れてしまった。家族は大好きだ。でも、アレンだけが他の家族とちょっと違う。 そのことが、アレンのコンプレックスのひとつだった。みんな綺麗な夜色をしているのに、アレンだけが色をつけ忘れてしまったように、真っ白だった。肌も髪も、薄い眼の色もそうだ。 それに加えて、アレンだけいつも家族の「仕事」から仲間はずれにされていた。「子供にはちょっと刺激が強いよ」とミッキーは言ってたし、「アレンにはまだ早いよぉ」とロードも言った。何をしているのかも教えてくれない。 「ま、また捨てられちゃったら……」 アレンは生まれてすぐに捨てられた。気味悪い体質のせいだ。拾ってくれたマナにも置いてきぼりにされ、今度もしまた捨てられてしまったら、もうどうしようもない。本当に行く所がない。 知らずぐずぐず鼻をすすっていると、神田が面倒臭そうな顔で、つっけんどんに言った。 「――そうしたら、うちに来れば良い。確かジェリーが料理人が不足していると言ってた。お前、あれだけ食うんだから、食い物に触るのは嫌いじゃないだろ」 「……神田さんのうち?」 「の、食堂だ。働かせてやってもいい。お前くらいのガキもいる」 「はたらく?」 アレンはきょとんとして、神田の言葉を反芻した。それは、確かアレンが大好きだった言葉だった。食べるためには働かなきゃならない、とマナは良く言った。でもアレンの本当の家族は、それは違うと言った。世界には蟻のように働いて誰かのお情けで生きていく人間と、それらを搾取する人間がいる。そのどちらともアレンは違う、と言った。選ばれた一握りの存在なんだって言う。それがどういうことなのかアレンには解らなかったが、マナが死んだあの日から、食べるのに困ることはなくなった。 「僕が?」 「もし捨てられて、飢え死にしたくなきゃ働け。誰もお前を養ってくれやしねぇ。言っとくが、死ぬ程厳しいぞ。誰もお前に小遣いなんかくれない」 「…………」 アレンはぼおっと神田の顔を見た。怖そうで、鋭い人だ。すぐに人を突き離すようなことを言う。でも冷たいんじゃあない。ただ厳しいだけだ。そして、彼ほどきつく当たることはなかったけれど、良く似たことを言う人間が、昔アレンのそばにいた。 『私はおまえの本当の父親じゃあない。だから父さんと呼ぶことは許さない。おまえを生んだ人たちへの冒涜だからだ。私は本当に彼らに感謝している。アレン、おまえという子と私を出会わせてくれた恩人なんだよ』 『腹が減ったなら、口をしっかり閉じて、余計なことは考えずに与えられた仕事をこなすんだ。そして信頼を得なさい。人に親切にするんだ。困っている人を見たら、助けてあげなさい。腹が減って死にそうな人を見たら、おまえも腹が減っていたって、パンを分けて二人で食べなさい。そうしていれば、いつかおまえが本当に困った時にも、誰かがおまえを見放しはしないだろう。ただし見返りを求めてはいけないよ』 『いつか私は先にいなくなるよ。そういう順番なんだ。でもそのことで世界を恨んだり、神を呪ってはいけない。いいな、アレン』 ――マナ。 でも誰も呪うなとアレンに言って聞かせたマナは、最期に自らアレンに呪いを掛けた。 「……な、なんだよ」 神田がぎょっとしたふうに眼を見開いている。彼は具合が悪そうな顔つきをしていた。 「何で泣くんだよ。わけわかんねぇ」 言われてアレンは初めて自分が泣いていたことに気がついた。冷たい水が、目から零れて頬を濡らしていた。 うん、とアレンは頷いた。何で泣くのか、アレンにも解らなかった。もう二年も前のことだ。大概涙も枯れた頃合だと思っていたのに、まだ泣けたみたいだ。マナ、彼のために。 「神田さんは父さんみたいです」 アレンはぽつりと言った。マナを「父さん」と呼ぶことができるようになったのは、あの人が死んでしまってからだった。本当はずうっとそう呼びたかった。でも彼は許さなかった。 だけどもうマナがどこにもいない今となっては、そのことについてアレンを怒る人間もいない。 「父さんと一緒のことを言います。働けって。お腹が減ったら一生懸命働くしか生きる方法はないって」 「……勘弁しろ」 神田はすごくやり辛そうな、苦虫を噛み潰したみたいな顔で、ぷいっとアレンから顔を背けた。恥ずかしい泣き顔を見られないのは、アレンにとってもありがたかった。 しばらくそうしていた。居心地の悪い空気は流れていたが、不思議と最初に感じた神田という男の子への恐怖と嫌悪感は消えていた。 無線に連絡が入るまでは、他愛のない世間話をしていた。神田はほとんど何も喋らなかったので、アレンが一方的に話すばかりだったが、朝初めて口をきいた時よりも大分空気は和らいでいた。アレンはお喋りな性質ではなかったし、家族以外とは、とりわけ男の子相手なんてまともに顔を突き合わせたこともない。だが、話したいことは自然口を突いて出てきた。何でもないことばかりだった。それらはアレンが実の所誰かに聞いて欲しかった類のものたちだった。 「……それで、僕の妹はすごくしっかりしているんです。同じ歳なんですけど、頭が良くて可愛くて、なんでもできて、物怖じもしないし、僕は本当はあの子に生まれたかったなあっていつも思ってて。学校も、遊びに行く時もどこでも一緒なんです。兄さんや姉さんたちは歳が離れてるし、いつも忙しそうだから、僕と遊んでくれるのはほとんどあの子だけかな。そうだ、このごろは学校が休みの日には、一緒に自転車に乗る練習をしてるんですよ」 「……自転車」 神田は無感動な様子でぼそっと言った。 「走ったほうが早い」 「はあ、たしかに、転んでばかりだけど。でももう、一度に二メートルも走れるようになったんです。はじめのうちは転んでばかりで、まともに地面から足を離せなくって」 「俺が言ってるのは、そういうことじゃないんだがな」 「? ロードは……あ、妹の名前です。買ってもらったその日にもう乗り回しちゃってました。僕の入学祝いに、お揃いで兄さんがくれたんです。あれから二月になるけど、僕はまだ駄目で……玉乗りとか、逆立ちとかは得意なんですけど、速いのがなんだか怖くて」 「……なんで自転車は乗れないのに、そんな曲芸はできるんだ」 「父さんは、旅芸人だったんです。僕も一座でお手伝いをしていました。ピエロをやっていたんですよ。ナイフを投げられるのも得意です」 「投げられるのかよ」 「ええ、投げるのは危ないから、大きくなるまで駄目だって。あの頃はほんとに楽しかったです。大道芸を見に来てくれるお客さんたち、みんな僕らを見て笑ってくれて、いい人ばかりでした。父さんはいつか自分で大きなサーカスを作って、数えられないくらい沢山のお客さんを芸でびっくりさせたり、笑わせるのが夢だっていつも言ってました」 アレンはちょっと苦笑して、付け加えた。 「……もう全部駄目になっちゃいましたけどね。みんな散り散りになっちゃったし」 「……ふん」 少し沈黙が落ちた。なんだか変なこと言っちゃったなあ、とアレンは思った。誰かが死んだ話なんて、聞いたら具合悪くなるに決まっている。何か他の話をしようと口を開き掛けた矢先、 「お前は家族の話ばかりだ」 神田が仏頂面で言った。機嫌を損ねたのだろうか、眉間に皺が寄っている。アレンはぐっと詰まって、すみません、と謝った。 「お、面白くなかったですよね……すみません、どんな話をして良いのか、僕、友達がいないから解らなくて。二年くらい、もう家族としか話してないんです。学校ではみんな僕のこと気持ち悪いって近寄らないし、だからその」 「そういうことじゃない」 神田がぴしゃりと言った。 「もう黙れ。戻るぞ」 「う」 アレンは口篭もった。余計なことは言わないほうが良いのかもしれない。大体、なんで昨日遭ったばかりの人に、こんなことを話しているのだろう? アレンはそれっきり黙ることにして、口をきゅっと結んで、赤い顔で神田と並んで歩いた。変な話ばかりしてしまって、恥ずかしかった。神田は相変わらずむすっとした顔のままでいる。 もうじき昼になる。さっき無線で連絡が入った。 「お迎え来てるじゃん」と黒い蝙蝠が言った。例の神田と一緒にいた、小さい男の人の声でだ。 それにしてもすごく便利だなあ、とアレンは考えた。いつも頭の上を飛び回っていて、いつでも誰かと話ができる。しかも、可愛い。 「……神田さん、その子、玩具屋さんにいます?」 おずおずアレンが聞くと、神田は無言でかっと目を見開いた。睨まれた。すごく怖い顔だ。 「玩具じゃない」 「えっと、あの……すみません」 アレンはぺこっと頭を下げた。また変なことを訊いてしまったみたいだ。黙って歩くことにした。川沿いの道はどこまでも続いている。遠い景色はまるで変わらず、自分がどこにいるのかさっぱり解らない。重度の方向音痴のアレンは、さっきの医療施設が街のどの辺りになるのか、全く解らない。神田についていくしかない。 そうやって静かに歩いていると、急に神田が鋭く舌打ちをした。 また何か変なことをやらかしてしまったのだろうかとアレンが身体を竦めていると、ものすごく苛々した神田の声が降ってきた。 「何か喋れ」 「は、はい?」 「いいから何か喋れと言った」 「はあ」 アレンは訳がわからないまま、とりあえず頷いた。幸いなことに、どうやらアレンの話が神田の機嫌を損ねたのではないようだ。 「じゃあ自転車の話の続きとか、しても良いですか?」 「勝手にしろ」 「はあ。赤くてとても可愛い自転車なんです。でも、ちゃんとした大人用なんですよ。はじめはすごく綺麗で、ぴかぴかに光ってたんですけど、何度も転ぶからもう泥だらけになっちゃって……だからメイドさんにスポンジを借りて、綺麗にしてあげることにしたんです」 こんなの面白いかなあ、とアレンは考えた。自分の話が気に入ってもらえるかどうかなんて、そんなことを気にして誰かとお喋りするなんて初めてだ。自然緊張した。でも、なんでこんなに話しにくいのか分からない。 そんなことをぐるぐる考えながらゆっくり歩いていると、ふいに、ぐう、とアレンの腹が鳴った。 「あ」 「…………」 「……あの、神田さん。僕はお腹が減ってしまったようです」 「……あれだけ食ったろ?」 「ど、どうしましょう? 僕あんまりお腹が減ると、動けなくなっちゃうんです……」 神田が、呆れたみたいに溜息を吐いた。彼は額を抑えて、仕方がない、と言った。 「……昼飯を食ってから、帰るか」 「はい!」 アレンはぱあっと顔を明るく綻ばせて、頷いた。ごはんを食べさせてくれる人は良い人だ、という信条がある。にこにこしながらじいっと神田を見つめていると、どうしてか神田は苦い表情になって、ぷいっとアレンから顔を背けた。ちょっと顔が赤くなっている。もしかすると、人に優しくすることが恥ずかしいのかもしれない。学校で良くクラスの男の子が、女の子と一緒に遊んでいるところを見つかって、囃し立てられている時に見せている、あの具合の悪そうな顔つきに似ていた。そっくりだ。 |