07:「幼年時代の結末」




 ドアを開けると、白くて大きなものが飛び付いてきた。そのままふわっと持ち上げられる感触、ぐるっと景色が回転して、ほっぺたにジョリジョリしたものが当たった。
「アレーン! アレンちゃーん!!」
 続いて、派手な泣き声が耳のそばで鳴った。大音量だ。耳の奥がきぃんとして、たまらず目を閉じていると、ぎゅーっと強く抱き締められた。そっと瞼を上げると見慣れた顔があった。兄のティキ=ミックだ。迎えに来てくれていた。
「あああ、よかった。お兄ちゃんホントもう心配で心配で軽く何回か死ぬかと思った。迷子になって泣いてやしないかとか、怖い人に攫われてやしないかとか……おまえはお菓子をくれる人には誰にでもついて行っちゃいそうなんだから!」
 ここで、め、と額を小突かれた。確かに置いてきぼりを食らって帰れなくなって、困り果ててはいたけど、これはいくらなんでも大げさかなあ、とアレンは考えた。ミッキーは本当にアレンに甘い。
「ミッキー、そんな、あんまり心配しないでくださいよ。僕だって子供じゃあないんですから、へいきです。さっきなんて、ひとりで買い物にだって行けちゃったんですよ。……ね?」
 アレンは振り返って、ドアの前で立ちんぼうの神田に笑い掛けた。まあな、なんて言ってくれることを期待したのだが、彼はひどい仏頂面で黙り込んだままだった。額には青筋が浮かんでいる。
「うっ……ごめんなさい、やっぱりできなかったです……助けてもらって、わっぷ!」
 また潰れてしまいそうな勢いで、ミッキーにぎゅーっと抱き締められた。外で、しかも人がいる前で小さい子供みたいにされて、ちょっと恥ずかしい。アレンは手足をばたばたさせて、僕は子供じゃないです、と言った。でもまるで聞いてくれちゃいない。ミッキーは今度はアレンの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
 思わず首を竦めて目を瞑ってしまったが、一瞬、ちょっとだけ、彼の怖い顔が見えたような気がした。でも、次に目を開いた時にはいつもの顔でいた。気のせいだろうか?
「……あっ、それにミッキーったら、汗臭いです。フケもすごいし……もう、ちゃんとお風呂に入ってくださいっていつも言ってるでしょう? 不潔なひとはキライです」
「あっはっは。この子はもー、あっは、しょーがないねー!」
 ミッキーは今度は大笑いして、はー、と溜息を吐いて、「安心した」と言った。
「無事で良かったアレン。もー、ロードも心配してたんだぞー。ちょっと目を離して、迎えに行ったらいなくなってたって言うんだもん。探しても見つからないし、あの意地っ張りで天邪鬼なロードちゃんがさー、「アレンもバカじゃないからそのうち帰ってくるよぉ」とか言いながら、お前の部屋から帰ろうとしないんだ。きっとすごく心配だったんだなぁ。帰ってくるまで待ってるつもりだったんだろうな。後でちゃんと謝っとけよ、アレン」
「……うん」
 みんな心配してくれていたんだ、と考えると、アレンはなんだか目が熱くなってきた。ぎゅっとミッキーに抱き付いて、ごめんなさい、と言った。
「……ミッキー、兄さん、また捨てられたかと思った」
「何言っちゃってるのこの子は……家族だろう? そんなこと言うもんじゃありません」
 また、め、と額を小突かれた。そしてやっと解放された。ミッキーは迷子のアレンを置いてくれていた人たちにぺこぺこ頭を下げて、ほんとにどーもスミマセン、と謝っていた。
「おまわりさん、うちの妹がご迷惑を掛けました……どうも方向音痴な子でねー、今度から絶対目を離さないようにしますから、いやホントありがとうございました。このご恩は忘れません。うちの妹はもう可愛くて可愛くてねー、何かあったらほんともうどうしようかと……」
 ミッキーが例の二人の男の人と話し込んでいる間、アレンは兄を擦り抜けて、ドアに凭れかかって面白くなさそうな顔をしている神田のところへ行って、ぺこっと頭を下げた。
「神田さん、兄さんが迎えに来てくれました」
「……そうだな」
 神田はあからさまに顔を顰めて舌打ちをした。そしてミッキーの背中をぎろっと睨んで、ぷいっと横を向いてしまった。アレンはなんとなく居心地が悪くて困ってしまったが、何か言わなきゃ、と口を開いた。
「ありがとうございました。おまわりさんだったんですね。知らなかった」
「……おまわり?」
「ごはん、とても美味しかったです」
「そうか」
 神田はなんだかさっきよりも大分そっけなかった。でも、嫌な感じはしなかった。
 アレンに向かってぱたぱた虫でも追い払うように手を振って、さっさと行けよ、と言った。
「アレン、帰るよー」
「はい、ミッキー」
 ちょうどミッキーの話もお終いみたいだ。アレンは返事をしてから、もう一度神田にぺこっと頭を下げた。
「自転車に乗れるようになったら、きっと教えてあげますね!」
「ふん……」
 神田は何とも言わず、またぷいっと顔を背けた。でも「いらない」も「迷惑だ」もなかった。
「すぐに乗れるようになっちゃいますよ」
「さっさと帰れ」
 にこにこしながらアレンが言うと、神田はまた追い払う仕草をした。
「神田さん、お世話になりました」
「……それは、こちらの台詞だ」
「え?」
 神田の口からなんだか変なことを聞いた気がして、顔を上げたところで、ぽん、とミッキーの手がアレンの頭に乗せられた。
「もう迷子になんかなるんじゃないぞ。ロードがどっか行っちゃいそうな時は、気合いでついていきなさい。スカート掴んでもいいから。それか傘借してもらい」
「はい」
「そして少年、妹が世話になったねえ。礼を言うよ。でもいくら恩人でも、うちの可愛い子はあげないよー」
「ばっ……いらない! ふざけんな!」
「キャ、怖い! さ、かえろかえろ、アレンちゃん」
 噛みつきそうな顔の神田に、冗談めかして怯えたようにぶるぶる震えて、ミッキーはアレンの手を取って、ドアを開けた。彼に手を引かれて歩き出しながら、アレンは振り返った。相変わらず神田は怖い顔をしている。後ろの男の人は、二人揃って苦笑している。バイバイ、と手を振ると、神田は振り返してはくれなかったが、照れたみたいな顔でちょっと頷いてくれた気がした。






「ミッキー、迎えにきてくれてありがとう」
 アレンはミッキーを見上げて、はにかんで礼を言った。家族が迎えにきてくれたことが、素直に嬉しかった。神田の家で働くという選択肢も多分に魅力的だったが。
 アレンは労働が好きだった。大事にされ過ぎると、ちょっと居心地悪くなってしまう。でも家族は大好きだ。
 ミッキーはくしゃっとアレンの頭を撫でて、ちょっと困ったみたいに笑った。
「水臭いこと言うなよ、寂しいじゃない。可愛い妹の為なら、世界中を探し回る覚悟をしてた。お前はウチの中だけでも迷子の常習犯だからなぁ……。それにしてもややっこしいのに捕まってたな、アレン」
「ええ、その……少し、緊張してしまいました。おまわりさんって、いつも悪い方を捕まえてらっしゃるんですよね? なんだか格好良いですね、そういうのって」
 胸の前でぽんと手を叩いて、笑った。ミッキーはどうしてか微妙な顔で苦笑している。
「……まあ、ホントはそういうのとは、ちょっと違うんだけどね……」
 彼は変化を始めていた。白い綿のシャツは闇色に染まり、かたちを変えていく。大きくて分厚い眼鏡も空気に溶けるように分解されていく。段々色を失っていく。最後に現れたのは、どこもかしこも真っ黒の、いつもうちで見るミッキーだ。
「ミッキーって変ですね」
 アレンは正直な感想を述べた。ミッキーはきょとんとして、心外そうに手をぱたぱたした。
「あ? えっ、なに? 俺格好良くない?」
「部屋着のほうがちゃんとしてるんですもん。いつもその格好でいたほうが、ずっと格好良いのに」
「ああ、やっぱり格好良いかぁ。参っちゃうなあ、いやホント」
 彼は照れたように笑って、お前はホントに正直で可愛いなあ、と言った。そしてちょっと真面目な顔になって、アレンに顔を近付けて囁いた。
「お兄ちゃんはね、黒いまま外に出るだろ? そしたら格好良過ぎてみんなほっとかないんだなぁ。ま、白いオレもすごく格好良いんだけどね」
「? ふうん」
 やっぱり変なの、とアレンは思った。でもこれだけは注意しておかなくちゃならない。
「でもミッキー、ちゃんとお風呂には入ってくださいよ。きたないのは駄目です」
「はいはい、アレンちゃんの仰せのままに。お前は綺麗好きだなあ」
「お風呂は気持ち良いと思います。なんでキライなの? 洗うのが面倒臭いんですか?」
「キライって訳じゃないんだけどね……オレの出稼ぎ仲間は、みんなろくに水浴びもできないんだ。綺麗とか汚いとか言ってらんない仕事だしね。ま、薄汚れてても楽しくやってるよ――あ、これみんなには内緒ね」
 しい、とミッキーは唇に指を当てた。アレンも頷いて、おんなじように唇に指を当てた。秘密は守らなきゃならない。家族って言ったって、家の外のことはみんなあんまり話さない。ちょっと寂しいけど、それはしょうがない。その分、家族の話をたくさんしたい。
「お仕事……ねえミッキー、僕も働きたいな。だって僕だけなんにもしてないもの」
「いいのいいの、お前はいるだけで和むから。どうしたんだ急に、いつもは家から出るのも嫌そうなのに」
「うん、なんだか……いろいろ考えてみたんですよね」
 アレンは頬に手を当てて、溜息を吐いた。
「僕ももう子供じゃないもの。僕と同じくらいの歳の子たちは、もう働いてるって。ロードだって『はくしゃくさま』のお手伝いをしてるみたいだし、僕もなにかできたらいいな」
「うーん……」
 ミッキーは額に手を当てて、頭を痛めたみたいな難しい顔をしている。しばらくして彼は溜息を吐き、ぽんぽんとアレンの頭を撫でた。
「じゃあ帰ったら、千年公にお願いしてみ。みんなが言うとおり、オレは過保護なんだろうからな。あんまり家族に苦労は掛けたくないと思うんだよ」
「? ありがとうございますミッキー」
「うん」
 ミッキーは頷いて、それからアレンをひょいっと抱っこした。
「もう子供じゃないなら、抱っこは嫌か?」
「……おんぶのほうが好きです」
「そうかそうか」
 ミッキーが笑う。アレンは彼の肩までよじ登って、くるっと身体の向きを変えた。そうやって広い背中にぎゅーっと抱き付いた。彼はあたたかかった。父さんと同じように、人間のぬくもりがあった。
「お前、すごくバランス感覚良いよなー」
「……でもまだ自転車には乗れないんです」
「あれはしょうがない。だってペダルまで足が届いてないんだ。そりゃ無理だろう。だから子供用のにしなさいって言ったのに」
「だってあの赤いのがすごく気に入ったんです。でも、ロードは乗ってますよ。僕とおんなじ背丈なのに」
「あー、あれはちょっとずるっこしてるからな。見えない「支え係」と「加速係」、あと「ブレーキ係」もいるんだよ」
「えっ、そうなんですか? ロードったら、さんざん僕のこと運動音痴だってバカにしたのに!」
 話し込んでいるうちに、古びた屋敷に着いた。今はもう廃棄されて、使われていない建物だ。朽ちてあちこち罅割れ、崩れ、無数の蔦が四面の壁を覆っている。
 ミッキーが玄関の扉を開けると、その先の空間はなかった。なんだか渦巻きみたいに歪んでいる。ゲートだ。むやみに門を出せない、人の多い街の中なんかでは、こうやって『家の玄関』がカムフラージュされていることが多い。正しい道順を辿らないと、どこへ抜けるかわからない。たまに人間が入り込んで、迷って出られなくなって、『アクマ』に食べられちゃうこともあるらしい。
 『アクマ』っていうのは、絵本や聖書に出てくる悪魔とは違うもので、『はくしゃくさま』が造った玩具の名前だ。家のメイドさんたちもそう、マナもそう、なんだかいっぱいいるみたいだけど、顔を合わせることは少ない。アレンの最近の人見知りする性質のせいだ。喋って動くなんて、人間みたいでちょっと苦手だ。
「アレン、人間は好きか?」
 耳のすぐそばで、ミッキーの声がした。アレンは首を傾げて、頭を振った。
「大嫌いです。どうしてですか?」
「なら大丈夫だろうな」
 何が、と聞いてもミッキーは答えてくれなかった。かわりに「少し眠りなさい」と言った。
「これから忙しいだろうから、オレみたいにね」





◆◇◆◇◆





 ばたんと扉が閉じた。しばらく居心地の悪い沈黙が落ちた。デイシャはニヤニヤし、マリは視線が泳いでいる。まずはじめに口を開いたのはデイシャだった。
「デート楽しかったじゃん?」
「そんなものじゃない!」
 神田は目を見開いて怒鳴った。顔が熱い、認めたくないが耳まで熱い。なんでこんなふうになるのか、納得がいかない。デイシャは調子付いたように含み笑いまで始めた。後ろでマリは頭を抱えている。
「うわあ、知らなかった。神田にも女の子を意識する機能があったんじゃん。異様に親切だったじゃん? あーいう子が好みなわけねえ、面食い〜」
「違う、女なんか嫌いだ! 弱いし、すぐに泣くし甘ったれで、あいつだって」
「顔真っ赤じゃん」
「デイシャ!」
「デイシャ、あまりからかってやるな」
 デイシャはたちの悪い顔のまま「悪い悪い」と謝ってから、まあ冗談はこの辺にして、と言い置いて、
「あの子、神田のことが好きだったじゃん、きっと。惚れちゃったんだ。賭けてもいいね」
 と言った。
「は?」
 神田は胡散臭げに目を眇めて、徐々に頬を赤くした。さっきの白髪女、あいつが?
「は、え? あいつが? 俺を? いや……」
 思わず間の抜けた声を出してしまった。そんな素振りがあったろうか? 訝しんでいると、デイシャは堪え切れなかったふうに吹き出して、大笑いを始めた。またからかわれたのだと気がついて、神田は怒りに目を吊り上げて怒鳴った。
「からかうな! もしそうだとしても、そんなの俺の知ったことじゃない!」
「はいはい、神田ちゃんはストイックなんだからぁ。で、どうだったじゃん。楽しかった?」
「別に……普通だ」
 神田は、歯切れ悪く言った。取り立てて言うところも見つからない。ただ飯を食って、少し話しただけだ。あとはほんの少し、遠回りをして帰ってきただけだ。それも兄弟子と顔を突き合わせているとこうやってからかわれることが多いので、面倒臭かったせいだ。別に、もう少し相手をしてやって良いかもしれない、なんて気まぐれを起こしたわけじゃない。他に理由なんてない。
「あの子は、どんなふうだった」
 今まで黙っていたマリまで口を出してきた。神田は苦い顔になって、別に、と言った。デイシャの軽口はいつものことだが、マリまで口を出してくるのは珍しい。面白くなかった。
「普通だ。変わったところと言えば……白髪と例の顔の傷だけだ。あとは……」
「……あとは?」
 マリが、厳しい顔で訊いた。神田はそっけなく言った。
「ものすごく良く食う。教団宛ての請求書が、とんでもないことになってるぜ」
「……はあ」
「食事をするのか……それは人間の食事か?」
「ああ」
 妙なことを聞くなと神田は思った。マリは神田が頷いたのを見ると、ほっと一息吐いて、見るからに安堵した様子になった。
「ならいいんだ」
「……? どういうことだ?」
「神田よお、あの子の名前、聞かなかったじゃん?」
 デイシャがちょっと呆れたように言った。神田はむっとして、反論した。
「白髪で充分だ。迷子のガキの名前なんて、知る必要はない」
「ウォーカー」
 マリが静かな声で言った。
「アレン=ウォーカー。セントメアリ校の生徒だ。今回我々が目星をつけていた目標でもある」
 神田はぽかんとして、目を瞬いた。そう、ウォーカーとキャメロット。アクマかもしれない、例の双子。あの白髪の少女は同じ歳の妹の話ばかりしていた。でもだからって、まさか――
「はあ? 歳が違う!」
 神田が聞いていた情報では、目標の年齢は自分よりも三つ下の少女たちとあった。だが、さっきの白髪は、どう見積もってみても、もっと幼く見えた。幼年学校生じゃあなかったのか?
「お前とおんなじじゃん。歳より随分子供に見える。良かったじゃん、三年くらいじゃロリコンにならねー」
「しつこいぞ! だから違うって言ってる!」
 正直なところ、五つ六つは歳下だと見ていた。あの子供っぽい仕草で、神田と大して違わないんだっていう。甘ったれた性質があった。おそらく、今はかなり良い所に住んでいるんだろう。兄とやらは胡散臭くて小汚かったが、生活に不自由しているということはないだろう。
「それにしても、自転車って何のことじゃん?」
「……知らねーよ。関係ねえだろ」
「ともかく双子は除外して良いかもしれないな。大食らいのアクマなんて、聞いたことがない」
 マリが言った。
「まあ、用心に越したことはない。敵がどこに潜んでいるのか、相手側から仕掛けられなければ、我々には知る術がない。我々には、最も悲劇的な事態を想定することしかできない」





◆◇◆◇◆





 悪い空想は割合良く実現した。数日後、レベル二のアクマの存在が確認された。張っていた例のスクールの生徒が数名。
 戦闘の結果、民間人、探索部隊に多数の死者が出た。大半は子供だった。当時授業を受けていたスクールの生徒たち。
 事が終わった後、神田は教室だった部屋の崩れた瓦礫の中に、見覚えのあるウサギのコインケースを見付けたが、持ち主の姿はどこにも無かった。
 任務の資料に記載されていたアレン=ウォーカーの名前は、一時行方不明者リストに移され、やがて死亡者リストに加わった。彼女の妹も一緒だった。それが今回の事件の顛末だ。




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