08:「忘れ物の傘」 |
偏頭痛の過ぎ去った後は、いつもの気だるい感覚が全身を支配していた。 ベッドサイドテーブルには冷たい水差しとグラス、それから鎮痛剤と精神安定剤が置かれていた。飲んだ記憶はなかったが、シートは開いていた。今まで誰かいたのかもしれない。誰もいなかったのかもしれない。メイドが気を利かせて持ってきただけなのかもしれない。 もう少し眠っていようかと考えたが、まどろみは去ってしまった後だった。嘔吐感がひどい。胃が痛む。薬を摂取した後の、あの重苦しい倦怠感だ。 アレンはのろのろとベッドから起き上がって、はだけたシャツの前を合わせた。どうやら上着を脱いだまま、ベッドに倒れこんでしまったようだ。寝着は皺ひとつないまま壁に掛けられていた。 少し思案して、上着を羽織り、皮の黒靴をきちんと履いた。もうネグリジェとスリッパでうろつく子供じゃあないのだ。どんな時でもきちんとした格好をすること、千年公もいつもそう言っている。 部屋を出て、アレンはぼんやりと考えた。まずは浴場だ。熱いシャワーを浴びたい。そして、気だるい身体を目覚めさせるのだ。仕事を持ってくる千年公の気配はなかったから、今日は一日オフのようだ。なら花の世話でもするか、書庫で一日潰してもいい。確か読み掛けの本があった。 「よぉ、アレンじゃん。オーラ」 ふいに呼び掛けられて振り向くと、妹のロードが分厚い本を数冊抱えて手を振っていた。アレンは小さく微笑んで、手を振り返した。 「ハロー、ロード。宿題ですか」 「うんそぉ。レポート丸々残ってんの。アレンも手伝ってぇ……って言いたいんだけどー」 ロードは肩を竦めて、ユーセンジュンイがあるんだよねぇー、と言った。彼女の手にあるのは本と、それから傘だ。ああ、とアレンは感付いてしまった。 「……忘れ物ですね」 「千年公、お天気アクマが夕方から雨になるって言ってんのに、レロ忘れて行っちゃったんだぁ」 「あれんタマぁ〜」 カボチャ柄の傘が、涙混じりの情けない声を上げた。鼻をすするような音をさせながら、ぽろぽろと泣いている。 「伯爵タマがびしょ濡れで冷たいのは困るレロ! 今頃きっとすごく困ってるレロロ〜……」 「なぁアレンー、暇してんならおつかい行ってくんねぇ〜? 僕宿題提出、明日なんだよねぇ」 「構いませんよ」 アレンは頷いて、レロを受け取った。千年公のお気に入りの傘アクマだ。 「届けるくらい、家族ですから。千年公はどこへ?」 「うーん、多分、ヨーロッパのどっか。フランス辺りじゃねぇ? レロならわかるよぉ、きっと」 「ええ、じゃ、急いでシャワーを浴びないとね。ロード、後で門を開けてもらえますか?」 アレンはぱっと手を広げて、目を閉じ、肩を竦めて溜息を吐いた。 「方向音痴なもので」 「知ってるよぉ。アレンのそいつのお陰で、何度かティッキーの奴にお尻ペンペンされてんだぞ僕」 「はは、ごめん」 笑って謝って、アレンはふとロードがじいっと自分を見つめていることに気が付いた。頭の天辺から足のつま先まで、舐めるようにだ。さすがに奇妙に思って首を傾げると、ロードはアレンを指差して、カッコイイ、と言った。 「アレン、背ぇ伸びたねぇ。まるっきり男の子みたいじゃん。その服ティッキーのお下がりだろぉ? 僕と一緒のはもうイヤなの?」 「嫌という訳じゃあありませんよ。ただ、汚れても目立ちにくいし、こちらの方が仕事に便利なんです。それに僕が可愛い格好をしたって、ロードみたいに可愛くはなりませんしね」 「可愛いってアレンはぁ。ま、似合ってるから良いけど、それぇ。今度デートしよっかぁ?」 「ええ、喜んで」 アレンは微笑んで、そろそろ行きます、と言った。 「あの人が降られてからじゃ遅いですから」 「あっりがとー、アレン〜」 ロードはちょっと背伸びをして、アレンの頬に軽くキスをした。それからぎゅっと抱いて、背中を叩いて、じゃね、と言った。 彼女が背中を向けるのを待って、アレンは歩き出した。浴場だ。新しいスーツも用意させておかなきゃならない。 「レロ、すぐに済むから少し待っていて下さい。昼前には出ますよ」 「あ、あれんタマ、そのお、それはいいんレロが、レロロ〜……」 「何です」 すごく言いにくそうに口篭もっているレロを見遣ると、傘は真っ赤になっていた。頭から湯気も出ている。 「お、お、女の子が、おフロに入ってるトコロで待つのは、レロ困るレロ。は、恥ずかしいレロロー……!」 「誰が一緒に入れると言いました。君、割といやらしいところがありますね。傘のくせに」 「あっ、あれんタマ! 誤解レロロ〜!!」 レロは泣きながら必死に弁解を始めた。聞き流しながら、アレンは脱衣所の柱にレロを引っ掛け、スーツのボタンを外し、浴場番のメイドに乱雑に預けた。それを見ていたレロが悲鳴を上げた。相変わらず騒がしい傘だ。 「あ、あ、あ、あれんタマあ! 駄目レロ! 裸なんて駄目レロロ〜!!」 「何を騒いでるんです。僕が何か? 変な傘ですね」 アレンは溜息を吐いて、シャツの前をはだけて見せた。レロは死に際の断末魔のような絶叫を上げて、真っ赤になってぷるぷると震えている。割合面白い反応だと思った。後でロードに教えてあげると、きっと大喜びで傘を苛めてやってくれるだろう。 「見ても面白いものじゃあないでしょう。僕は男ですから」 アレンはそっけなく、すぐ済みますから、と言い置いた。浴場の扉を閉じる前に、心底安堵したようなレロの溜息が聞こえた気がした。 はあああ、とレロは深い深い溜息を吐いた。沸騰しそうなくらいに赤くなった柄を俯かせて、ぽおっとなりながらひとりごちた。 「あれんタマは立派な女の子レロロ〜……」 ◆◇◆◇◆ 玄関を出ると、そこは丘の上にある、人口千人足らずの小さな村だった。ストリート沿いに家々が連なるように立ち並び、中心には大きな鐘の付いた役場がある。空にはうっすらと明るい雲が掛かり、透き通っていた。天気は良かった。だがお天気アクマの天気予報は、製造されてからこの約百年間、外れたためしがない。少し冷たく乾いた風は、やがて湿り、じきに雨雲を呼び寄せるだろう。 「こんな人、知りません?」 アレンは通りの露店で林檎をひとつ買って、果物売りの娘に似顔絵を広げて訊いた。まだ若いブルネットの少女で、頬のそばかすが殊更幼い印象を与えていた。アレンと大して歳は変わらないだろう。大きく広げたエプロンスカートに林檎を詰め、運んでいた彼女は、アレンの姿を目にするとぽかんと口を開けて、ぽっと頬を染めた。 「あっ、え、はい。朝一番にこの道を通って行くのを見ましたよ。今頃丘の天辺じゃないかしら」 「そうですか、ありがとう」 行儀良く会釈をして、アレンは傘の柄をコツコツ叩き、石畳の階段を上っていく。なだらかな傾斜が続いている。上るにつれて段々人気が少なくなってくると、傘から小さな溜息が聞こえた。 (……あれんタマ、またやっちゃったレロ。さっきの人間の女、あれんタマにメロメロレロ。女の子が女の子にお熱を上げるのはヘンレロ……) 「黙っていろと言ったはずです。僕の命令が聞けないと?」 (あれんタマは人間の女なんかに優しいのに、レロたちにはイジワルなのはどうしてレロ〜……) レロは悲しそうに俯いて、言われた通りに黙り込んだ。アレンは溜息を吐き、丘の上へ目をやった。大した高さじゃあないが、角度の緩い上り坂は一向に進んだ気分になれない。自然息が上がりそうになるが、口を結んだまま息を詰めて堪える。僅かな散策程度で疲れたなんて、情けないことは言いたくない。 (あれんタマぁ、レロが運んであげるレロ! あれんタマにこんな長い坂道は似合わないレロロ?!) 「黙れ」 (レ、レロ〜……) 最後の一段を上がりきると、乾いた空の下に静かに佇む墓標の群れが見えた。その中、一際簡素な一角に兄弟はいた。千年伯爵。アレンを拾ってくれた、二人目の育ての親のような存在だ。彼は上機嫌で鼻歌を歌いながら、『作業』が済むのを見届けていた。 伯爵は墓地の入口で佇むアレンに気付き、手を振ってくれた。アレンは一礼し、彼のそばへ歩き出した。その頃には、もう『仕事』は済んでいた。伯爵の隣には、青ざめた顔をした中年の男が放心したふうに座り込んでいた。今回の被救済者だろう。彼のことは気に留めず、アレンは伯爵に傘を差し出した。 「忘れ物です」 「いやあ助かりましタ、我輩びしょ濡れになるかと困っていましタ★」 「天気予報はきちんと聞いてから出掛けて下さい。雨に降られて風邪でもひいたらどうします」 「すみませン……★」 伯爵はしゅんと項垂れ、レロをコツコツ叩いて、言い付け口をするように囁いた。 「……我輩怒られちゃっタ★」 「伯爵タマぁ〜、もうレロ忘れてっちゃ駄目レロロ〜!」 レロは安堵したようで、大きな泣き声を上げている。良く泣くアクマだ。アレンは呆れて溜息を吐いて、また一礼した。 「それでは僕は、これで。お気を付けて、千年公」 「アレン、アレン★」 ひょいひょい、と伯爵はアレンを手招きした。訝しく思っていると、白い手がぽんと頭に乗せられた。 そのまま優しく頭を撫でられて、アレンは頬を染めた。もう頭を撫でられて喜ぶような小さい子供ではないけど、やっぱり嬉しいものは嬉しい。 「おつかい御苦労様、ありがとうございましタ、アレンはいい子でス★」 「……はい。お役に立てて嬉しいです……」 アレンは赤くなったまま、口の中で『はくしゃくさま』と呟いた。それは子供の時分に彼を呼ぶ愛称のようなものだった。もう「それ」で甘えを含んだように伯爵を呼ぶことは無くなったが、彼はアレンの大事な家族だった。それに変わるところはなにもない。 ふいに、かしゃっ、という乾いた音がした。気がつくと、伯爵が大きなカメラを手に握っている。アレンは訳が分からず、立ち尽くしてしまった。 「……せ、千年公? どこからそんなもの……というよりも、なにを?」 「いい顔が撮れましタ★ あとでティキぽんに自慢しよっト★」 「な……せっ、千年公?!」 慌ててカメラに手を伸ばしても、伯爵はひょいっと身を引いて、レロを開き、とん、と大きく飛び跳ねてアレンから離れてしまった。 「レロをありがとうございましタ、アレン★ 多分一月ほどで帰れると思いまス★ そしたらまたいっぱい遊んであげますかラ★」 「はっ、伯爵タマぁ、レロにも写真、見せて欲しいレロ〜!」 「レロは勝手に我輩のアレンとデートしたからダメでス★」 「伯爵タマあ〜」 そしてそのままぽんぽんと跳ねて、行ってしまった。 アレンは呆然としていたが、ふと我に返って溜息を吐いた。あの人は良い歳をして、いたずら好きの子供のようなところがあるのだ。 そばで砂を踏み締める音がして気を向けると、さっきのできたてアクマがのっそりと立ち上がったところだった。その顔に表情は覗えない。そいつはアレンにぺこっと事務的に頭を下げて、機械のような足取りで歩いて行ってしまった。あるべきはずだった場所へ戻るのだろう。僕も帰ろう、とアレンはぼんやり考えた。そして庭で花の世話をして、書庫の読み掛けの本を片付けるのだ。 |