09:「悪い夜の夢」




 神田ユウは十八になる。日本人である。身近な血縁者はおらず、異国の地で一人きりだ。同僚の中には職場のことを愛情と畏敬を込めて『ホーム』と呼ぶ者もいたが、神田自身はそれに倣う気分にはなれなかった。循環の激し過ぎるシステムのせいかもしれない。神田自身に擬似家族というものに愛着が薄いせいかもしれない。大事なものはそう多くは必要ないのだ。
 神田は黒の教団に在籍する正規のエクソシストだった。仕事はアクマ祓い。人間と機械の微妙な融合物を破壊することだ。それから世界中に散らばるイノセンスと呼ばれる物質の探索だった。今回も室長のコムイから指令を受けて、探索部隊を伴い、遠い北フランスくんだりまで出向いてきたのだ。





 ある地方で奇妙な噂が流れる。小さな村の役場の鐘の話だ。鐘は錆び付いていて、もう鳴りはしない。ただのシンボルだ。お飾りだ。鐘が鳴る時、良くないことが起こるという、どこの村にもありそうな言い伝えもくっついている。
 ある時、今まで朽ち掛けた静寂を保っていた鐘が鳴り出した。それはもう盛大に、高らかに鳴る。村人たちは気味が悪く思い、警察に相談する。普段なら相手にされそうもない話題だが、鐘はあきらかに鳴っている。ニ、三人の警官が鐘の調査に当たる。ひとりの警官が鐘に触ると、鐘はふいにぴたっと鳴るのを止めた。それから何の音もしない。
 不思議に思っていると、昔その鐘の手入れをしていた老人が、ちょうど鐘が鳴り始めたその時刻に亡くなったらしいことが分かる。まるで、無機物が老人の死を悼んで泣き喚いていたような調子だ。
 そうして鐘は鳴り止んだが、時折、ふいに前触れなく鳴り出すことがあるという。そういう時は間違いなく誰かが死ぬ。やがて死人送りの鐘と呼ばれるようになり、それまでシンボルとして愛されてきた鐘に近寄るものはいなくなった。
 その鐘が、最近また鳴るのだという。それも毎日、決まった時刻にだ。午前九時と正午、そして午後六時の三度、とても規則正しく、ぴったり一分間村じゅうに鳴り渡る。そしてぴたっと鳴り止む。後はしいんと黙り込んだままだ。だが村に死人は出ていない。誰も死んでいない。なら何故鐘は鳴るのか?
「あの鐘だな」
 鐘は村の中心にある建物の天辺に収まっていた。今は静かに佇んでいる。探索部隊に確認を取るまでもなく、怪異の元は見つかった。
 村は高台にある、人口千人足らずの小さなものだった。立ち並んだ古びた家々が見える。その足元に、いくつも露店が出ていた。果物や野菜を並べている。
 太いメインストリートは途中で参道らしい石畳の階段に変わり、ゆっくりとした傾斜が続いている。ちらほらと子供が遊ぶ姿も見えた。
「神田殿、宿舎への手配は済んでおりますが」
「荷物を先に運び込んでろ。俺は実物を見てから向かう」
「はい」
 探索部隊に言い置いてから、神田はストリート沿いの露店を覗いた。鐘が鳴るのは村じゅうの人間が聞いているんだっていう。
「おい、あの鐘の話が聞きたい」
 硬貨を放ると、露店の果物売りの娘が、籠の中の林檎を寄越した。それから不躾な物言いに怪訝な表情の顔を上げて、何故だか知らないが、顔を赤くした。
「……今日は綺麗な男の人が良く来るわね。さっきの紳士さんのお知り合いですか? こんな田舎で、そんなふうに真っ黒な、お葬式の格好してる旅人なんてそういないもの」
「知らん」
「そう、ごめんなさい。気を悪くしないでね」
 娘は神田よりもいくつか年下に見えた。頬にうっすらとそばかすの痕が残っており、あどけない印象を受けるブルネットだった。
「役場の鐘のお話ですか? 物好きですね、あんなものを見にくるなんて。お話を聞きたいなら、私の父が役場勤めなんですよ。彼に話を聞けば……でも墓地へお参りを済ませたら、お昼前には店に顔を出すなんて言ってたのに、どうしたのかしら……」
 少女は頬に手を当てて、困ったふうに溜息を吐いた。
「また母さんのお墓の前で動けなくなってるのかもね」
「…………」
 他愛のない世間話に興味は無かったが、ふと引っ掛かることを聞いて、神田は眉を顰めた。墓地。死人。愛する家族に残されたもの。思い当たることはあったが、今は鐘だ。さっさと真相を突き止めておかなければならない。敵はどこにでもいるのだ。
 礼を言って店を離れ、村の中心へと向かう。さっきまで乾いていた風は、いつのまにか湿り気を運んできた。空は相変わらず透き通っていたが、近く雨が来るのかもしれない。




 予想は的中した。




 夕刻過ぎから降り出した雨は、景色を霞ませ、空を鈍い色に染めた。雨降りを何かの合図にしたみたいに、村の中にぽつぽつと人影が現れはじめた。どれも特に目的がなく、ただ雨降りの中に突っ立っているといったふうで、うすぼんやりとした存在だった。そこにそれらの意志はなかった。
 そんなことだろうと思った、と神田は胸の内で毒づいた。宿舎へは足を向けていない。探索部隊は、変異にはまだ何も気付いていないだろう。間と運が良ければ生き残るだろう。そうでない場合は知らない。
 夕立ちの雨にずぶ濡れになりながら、神田は六幻の腹を指でなぞった。鈍い黒色の棒きれのようだった刀身が、鋭い光を宿し、輝く。抜刀。あちらも教団と同じように、鐘の怪異を聞き付けて、調査用のアクマを造り出したのだろう。材料は現地で調達したのかもしれない。村を見張っていたのだろう。先ほどストリートで通り過ぎた誰が人間で、誰がアクマなのか、神田には判別しようがない。ただ向かってくるものをみんな壊すだけだ。
 結局、例の鐘は何の反応もなかったのだ。
 斬り付けてやるとあっけなくまっぷたつになって、長年の歴史の重みを背負いながら、静かに沈黙した。そこには青銅の重量しか残らなかった。無駄足だったのだ。神田は舌打ちした。そのくせ、敵はいた。数は分からないが、あちこちの街角に、路地に、街灯の下にぼんやりと佇んでいる。どれが人間でどれがアクマなのか、神田には分からない。
 やがて日が沈みきると、村のあちこちから奇妙な声が一斉に響き始めた。




『エクソシストだ』
『エクソシストが来たぞお!』
『ノア姫さまに玩具を横取りされた、ぐずのエクソシストだ!』
『ノア姫さま万歳!』
『伯爵さま万歳!』





 虫の羽音を無数に重ねがけたような、耳鳴りと悪夢の狭間にいるような不協和音が、神田の周りで鳴り狂っていた。何を言っているのかは分からない。途切れ途切れの単語が拾えるだけだ。
「うるせえ」
 六幻を胸の前で横一文字に構え、静かに支えると、慣れた硬質の感触が神田の内に静かな空白をもたらした。余計なことはもう考える必要はない。あとは斬るだけだ。神田は水滴を叩き付けてくる濁った空を一瞥し、長い夜になりそうだと考えた。





◆◇◆◇◆





 雨はどんどん勢いを増していく。全身に叩き付けて、こびりついた血液を奪っていく。もう何体壊したかは覚えていない。知り合いに何でも記録を採る癖の男がいたが、こんな時は悪趣味だといつも思うのだ。
 アクマは際限というものがなかった。きりがない。そして悪質だった。
 レベル一のボール型ばかり目に付いたが、肉食の動物が獲物を追い込むように、均整の取れた連携行動を行っている。どこかにレベルアップした兵器が紛れ込んでいるのかもしれない。
 路地に身を潜めてメインストリートを覗うと、うっすらとした影が、奇妙な行進でも行うようにいくつも浮いていた。幸い人間の姿は見えない。いや、人間が村に生存しているのかも怪しい。一匹のアクマは、無数の仲間を生む。人間を食い殺して、餌の家族を間接的にアクマにする。村はどこまで浸蝕が進んでいるのだろうか?
 舌打ちをしかけて、神田はふと口を引き結び、耳を澄ませた。背後から足音が聞こえる。硬い靴の底が石畳に打ち付けられる音。軽やかな感触で、そう体重のないことが知れた。神田は六幻を握り締めた。柄が血で滑る。これで何体目だろう?




「ハロー?」




 歯車と関節が回る機械の音しかない中で、それは意外なものだった。人間の声だ。涼しく、気だるげで、不自然なほど感情というものが篭っていない。
 神田は振り返った。アクマどもは、次はどんなろくでもない手を考えついたのか?
「傘もささずに、風邪をひきますよ」
 そいつは安っぽい傘の柄を、気楽に肩に掛けていた。傘の影から、かたちの良い白い顎と唇が覗いていた。表情は見えない。色の抜け落ちた白髪は老人のようだったが、声は若々しく、澄んでいた。おんぼろ傘とは反対に、仕立ては相当値が張るものだろう、糊のきいた黒いイブニングコートには皺一つなかった。雨の染みも見えない。
 少年らしいほっそりした体つきで、声変わりもしていない。神田よりもいくつか歳は下だろう。
 彼はふと息を呑む気配を見せて、傘を傾けた。少し驚いたようだった。
「ああ、驚いた。神田さんじゃないですか。お仕事お疲れ様です」
「……誰だ?」
 少年は、まるで神田を知っているような口振りだった。だが神田には全く覚えがない。同僚がぱたぱた死んでいくことに慣れた頃には、死者を忘れることが上手くなっていた。何度か遭ったきりの人間の顔などは、はなから覚えていない。
 神田の無関心の表情を見て取ると、少年は少し残念そうに肩を竦めた。
「……覚えてないか。しょうがない、一度会ったきりでしたしね。期待はしていませんでした」
「アクマか」
 六幻の切っ先を向けても、少年に怯えの気配はまるでなかった。彼はとてもリラックスしているように見えた。まるで買い物の途中に、偶然仲の良い友人を見付けたような様子だった。
 だが何かが決定的におかしかった。村は今やアクマの密集区と化していた。無数のアクマが徘徊し、人間の姿はまるで見えない。
 そうしているうちにストリートから、ぬっ、と巨大な顔が突き出してきた。極端に大きく造られた、ぜんまい仕掛けの人形のような風体だった。目ばかりぎらぎらと光り、肩のあたりに仮面めいた人間の顔が張り付いている。
『エクソシストみっけ!』
 それは気に触る甲高い声で叫び、神田に向かって手を伸ばそうとした。
 だが、途中で凍り付いたように止まった。伸ばされた腕の手首のあたりに、軽く棒きれのようなものが触れていた。
 さっきの少年だった。華奢な左手に、携帯用の伸縮警棒のようなものを握っていた。良く見ると彼の傘にも、粗雑な字で村の駐在所所有であることが記されている。警察関係者だろうか?
「僕が今、話をしているんです。邪魔をしないでいただきたい」
 少年はいたく機嫌を損ねたようだった。無機質な声の中に、僅かな苛立ちが混じっていた。彼は警棒で、コツコツと奇妙なリズムでもって、アクマの腕を軽く叩いた。
 変化はすぐに訪れた。
 ぼうっと白い燐のような光が生まれ、アクマの身体に触れるなり恐ろしいスピードで浸蝕した。まるで人間に、アクマのウィルスが回るようにだ。やがてアクマはさらさらとした砂のように崩れ、雨に溶け、消えた。後にはなにも残らなかった。
 神田は目を見張った。少年の「左手」の警棒が、物理的な暴力を伴わず、ただ触れるだけでアクマを消滅させたのだ!
 アクマを壊せるのは、神が人間に与えたイノセンスのみだ。
 ならば――



「……お前、エクソシスト?」



「まさか」



 少年はあっさりと首を振った。そしてゆったりとした動作で腕を上げ、路地の奥を指した。
「帰るなら路地裏へ潜り込むよりも、このまま進んでください。最もアクマの包囲が薄い」
「信じられるか」
「どちらでも良いです、君が望むように。差し出がましいとは思いましたが、どうやら怪我をしているようでしたから」
 相変わらず、その口調と声に感情は篭っていない。だが、それはどこか奇妙な既視感を神田に抱かせた。いつか昔どこかで、似たようなものを聞いたことがあるような――



『エクソシスト! エクソシスト! いた!』
『あーっ、ずるいぞぉ、俺が先だって!』




 ストリートの街灯の明かりを背に、二体のアクマが現れた。どちらも不気味な異形だ。それぞれが、まるで悪夢の中から這いずり出してきたような姿をしている。醜い球体じゃあない。
 さっきの人形と同じく、レベル二、自我と特殊能力を備えた、能力はまったくの未知数の進化したアクマだ。
 緊張が悪寒に変わり、背筋を走り抜ける。厄介なことになってきたものだ。神田は六幻を一層強く握り締めた。だが、
「やめなさい」
 身じろぎもしない少年の気だるげな声が制止する。途端に、アクマの間に流れていた浮ついた空気が、一瞬で凍り付いた。
「用事は済みました。帰りますよ。遅くなるとみんなにいらない心配を掛けてしまう」
『で、ですが……お腹が空いて……』
 アクマの一体が、気後れしたふうに少年に嘆願した。少年は肩を竦めて、しょうがないですね、と言った。
「そこの貴方」
『は? 俺っスか?』
 少年は頷き、壁に貼り付いていた一体に、先に声を上げたアクマを指差した。
「こいつを壊しなさい」
『えっ、ええええっ?! そんなぁ……』
「我侭な兵器なんて必要ありません。早く」
『イ、イエス、サー!』
「ああ、抵抗しても構いませんよ。君たち二体のうちで、残ったものはまだ使ってあげます」
 アクマが、アクマの喉笛に噛みついた。アクマ同士の殺し合いが始まった。
 少年は興味もなさそうにそれらを一瞥すると、差していた傘を神田に被せるように押し付け――神田は動けなかった。どうしたのか、何故か指一本動かせない。喉がからからに乾いている――初めて少しばかり感情を込めて、言った。
「さよなら神田さん。また会えますように。今度は僕のこと、覚えておいて下さいね」
 そしてやっと硬直が解けた頃には、その少年の姿はどしゃ降りの村のどこにも無かった。ただ壊れた二体のアクマの残骸が残っているだけだ。
 神田は舌打ちして、傘を石畳に勢い良く投げ捨て、六幻を掴んで先ほど少年が指した方角とは逆に向かって歩きはじめた。あの少年が何であれ、どのみちアクマどもを壊さなければ戻るつもりはないのだ。





 最後の一体を破壊した頃、ようやく東の空が白みはじめた。





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