14:「狂おしい信仰」 |
霧が立ち込めている。あたりは真っ白い闇だった。眩く、だが視界は遮られている。先を往く靴だけが、今のアレンにとっての道標だった。あれを見失ってはいけない。でも、あれについていけば、どこまでも道を間違うことはない。 「……ね、もうちょっとゆっくり歩いて……」 靴音は緩まらない。ただ同じ一定の間隔で響き続ける。彼は立ち止まらない。随分昔から、それは彼の口癖だった。立ち止まるな、歩き続けろ。アレンはそれに従って生きてきた。どんな時でも立ち止まらない。世界の終焉まで、歩いて歩いて歩き続ける。道が無くなったってもがき続ける。 「顔を見せて」 ねだるように言って、アレンはふとその疑問に思い当たった。彼は、彼の顔は一体どんなふうだったろう? いつもきちんとした身なりをしろと――いや、それを言っていたのは千年公、アレンの二人目の養父だ。彼じゃない。 どんな顔だったろう。目だけを器用に眇めて笑うのは彼だったか。いや違う。アレンは彼の顔も思い出せない。誰よりも愛しているのに思い出せない。鮮明な彼の記憶を辿ってみると、ひとつきり引っ張り出してこられた。ぞっとして、アレンは足を止めた。思い出した。彼は、マナは確か―― 『呪うぞアレン!』 振り返ったマナの顔は、奇妙な光沢がある金属でできた頭骨だった。落ち窪んだ眼窩にはなにもない。空洞だ。アレンが愛していたはずの穏やかな目は嵌まっていない。じっと恨みがましそうな闇がそこにあるだけだ。 『呪うぞ! 殺してやる!! 腹を引き裂いて血を啜って、皮を剥いで内臓を吊るしてやる! 呪うぞ、憎い、拾ってやった恩を忘れたのか? よくもアクマに! アレン、よくも!』 「……ナ……」 アレンは唇をわななかせて、蹲り、震えていた。マナの呪詛はどんどん甲高くなり、そしてアレンにとって最悪の言葉を吐き出した。 『お前に関わるんじゃあなかった。悪魔の子め……! 生まれてきたことを、神を呪うがいい! 呪ってやるぞ、アレン!』 マナだけはアレンを「いらない」と言わないことを信じていた。それはアレンの耳に現実感なく響いた。だが同時に、昔から本当は解っていたことだった。アレンは項垂れ、力なく懇願した。 「――そんな……いわ……いで……僕いい子になる、がんばるよ……! だから捨てないで――」 そして、マナに縋った。赦しが欲しかった。もう一度あの温かい手が頭を撫でることを切望した。そのためならどんなことだってする。誓ってそうする。人殺しも共食いもなんでも平気だ。 だがかわりにマナがくれたのは、振り上げられた刃物と、絶望的な痛みだった。そう、痛みだ。マナがアレンを呪っている証だ。醜い痣になって、ノアの再生能力でさえも癒えないひどい―― 「うわああああッ!」 顔の左半分に焼かれたような熱さが生じた。アレンを裂いた腕は、再度振り上げられた。マナはアレンを殺すつもりだ。脅しなんかじゃない。愛なんてどこにもなかった。マナは本当に、一欠けらの愛情もなく、アレンを―― ◆◇◆◇◆ 「やめて、殺さないで……! やめてマナアアアアッ!!」 声を振り絞って、叫んだ。ぐるっと視界が白から黒へ反転する。酩酊したような感触がふっと遠ざかると、目の前には見知らない天井があった。 「――――!!」 アレンは酸欠を起こしたまま喘ぐように息を吸った。荒い呼吸の音が石造りの壁に反響している。ぐるぐると回って、脳髄に突き刺さった。それすら怖い。胸を掻き毟って枕に額を押し付けると、頬がひどく濡れていることに気がついた。アレンは泣いている。恐ろしくてたまらないせいだ。恐怖は依然としてアレンの元を去らず、背後から心臓を鷲掴みにしたままだ。 「……アレン! アレン、おい大丈夫か?!」 「アレンさん!」 声が聞こえる。男の声だ。アレンはぎゅっと目を瞑り、助けて、と消え入るような声で囁いた。 「薬……薬! にいさ……っ! くすりを、苦し、たすけて……!」 救いを求めるように、アレンは手を伸ばして懇願した。薬が欲しい。安定剤と鎮静剤はこの恐怖からアレンを救ってくれるはずだ。兄の手もそうだ。アレンを救ってくれるはずだ。 でもどうして、今日は誰もアレンの背中を撫でてくれないのか? 抱き締めて、もう心配ないよとあやされることは? 「薬?! どこだ、おい!」 「アントンさん! アレンさんの鞄……!」 「あ、ああ、チャック、お前は水を汲んでくれ!」 「了解!」 誰もいない。身体に触れてくれない。あるのは痛みだけだ。呪われた傷が疼く、熱い、痛い。マナはまだここにいる。今もじっと息を殺してアレンを呪っている。アレンを殺そうと、ずうっと酷薄に監視を続けているのだ……! 「……こわ……怖い、怖い、兄さん、父さんが僕を殺しに来る……」 身体を丸めて肩を抱き、膝に顔を埋めて、アレンは恐ろしい寒気にガタガタと震えていた。 「――うあっ、来ないで、来ないでマナァア……!」 今もあのひやりとした刃の感触を、そこにあるもののように思い起こすことができる。アレンを引き裂いた刃の光を。涙が零れるのは彼に与えられた痛みのせいだ。激痛と、呪詛の痛みだ。 「……してる、愛してる父さん、いい子になる、がんばる、……からもうやめて……痛いいぃ……」 哀願と一緒に、嗚咽が訪れた。ひどく恐ろしく、虚しく、そして悲しかった。こんな身体に生まれなきゃ良かった。傷が塞がらなければ良かった。あのまま、マナに殺されてしまえば良かった。口から金属の骨格を押し込まれて、アレンがマナになってしまえれば良かった。そうすれば、何も感じないでいられる。こんな恐怖も感じない。悲しくもない。マナの呪いを聞くこともない。おまえなんて救わなきゃ良かったと、突き放す最後の言葉も聞くことはなかった。 「ごめんなさ……ごめんなさい、ごめんなさい……」 アレンはぎゅっと自分の身体を抱き締めて縮こまり、虚ろに目を見開いて、じっと虚空を凝視したまま謝り続けた。いつもすぐそこにいるマナに赦しを乞うた。マナは正しい。本当にその通りだ。アレンなど神に呪われてしまえばいい。生まれて来なければ良かった。マナの手が触れる前に、どこかでのたれ死ねれば良かった。 虚脱感がアレンを覆った。何も考えられずに蹲っていると、頬に冷たい感触が当てられた。水滴が頬を濡らす。冷たい水だ。 「アレン、薬! これでいいのか、お前の鞄の中に――」 「い、医務室ッス……て、誰か呼んで……なきゃあ!」 誰か知らない人間の声が、どこか遠いところから聞こえる。アレンは目の焦点が合わないまま、それを認識した。そうだ、薬だ。それを飲めばいつも少し楽になるのだ。 アレンはぶるぶると震える指先をぎこちなく伸ばして、白い錠剤を摘んだ。それから鮮やかなオレンジ色のタブレット。青いカプセル。瓶から、手のひらから零れるくらいに注いで、一気に飲み干した。冷たい水の感覚が喉を潤し、熱に浮かされたような頭をほんの少し冷ましてくれた。 「ギャー! ちょ、何だその量やばいって吐き出せ! 死ぬぞ!」 肩を掴まれて揺さ振られた。誰だろう? 兄じゃない。彼なら抱き締めてくれる。アレンが暴れたって、気にも留めずにゆっくりと背中を撫で続けてくれるのだ。兄はアレンの師と言っても良い存在だった。普段はいい加減でニヤニヤしている男だが、まともにやり合って勝てたことは一度もない。 「がっ……」 喉の奥の方から、熱く苦い、鉄臭いものが逆流してきて、アレンはたまらず咳き込んだ。 ぬるっとした感触が唇を汚し、おびただしい量の血液が零れて、アレンのベッドを盛大に汚した。血はいい。痛まなければ良い。このくらいなら慣れている。マナに腹を串刺しにされた時はもっとすごかった。 薬は痛みを麻痺させてくれるから、恐怖は徐々にアレンから離れつつあった。ようやく周りに目を向ける余裕が出てきて気付いたのだが、そこはホームのベッドじゃなかった。石造りの建物の中だ。設えは貧相だった。人間の少年が二人いる。何故だろう。解らないが、とりあえず殺しても良いのだろうか? 「――これ……これは、アレンさん、知ってて飲んだんスか?!」 栗色の頭の人間が、激昂した様子で顔を真っ赤にしてまくしたてている。何が原因なのかは知らないが、かなり怒っているようだ。もう一人、金髪の方は訝しい顔で栗毛を見ている。 どくん、とアレンの心臓が鳴った。腹が減ってきた。 この際また人間で我慢するか? ティキはまた悪趣味な料理を披露してくれるのか? 食欲と衝動が沸いてくる。 そう、ティキに「仕事」を教わるようになって、それまで大好きだった食べることよりも楽しいことを知ったのだ。すごく簡単で、満たされることだ。 「こっちは麻薬製剤……これは致死製剤! 自殺でもするつもりなんスか?!」 殺したい。すごく殺したい。あんまりにもうずうずして、下腹の辺りがたまらなくなってくる。子供二人で収まるだろうか? もっと沢山欲しい。ショーの出し物と観客の両方が必要だ。どのくらいいれば足りるだろうか。 「アレン?!」 「――……あっ」 そこで、アレンは我に返った。辺りには人間のにおいが濃い。ひどいものだった。 そのせいかもしれない。いつもよりもずっと鮮明なマナの夢を見たような気がする。 僕は誰だ、とアレンは自問した。 アレン=ウォーカー。今は『アレックス=E=ウォーカー』。ノアの一族。 忌々しいエクソシストの動向を調べる為に、偽名を使って敵の本拠地に潜り込んだ。 目の前の二人は同期の同室者。まだ殺すのはまずい。だから殺しちゃいけない。 栗毛――怒った顔でアレンに薬の瓶を突き付けているのが、……名前は何だったろうか。金髪も、顔はなんとなく覚えたが、名前は忘れてしまった。朝が来れば思い出すだろうか? 「こんな劇薬どこで……いや、今はそんな場合じゃねッス。医務室に行きましょう。アレンさん、解るッスか? ここはどこッスか? 君の名前は?」 「……『アレックス=E=ウォーカー』ですね。ここはエクソシストのホーム。すみません」 アレンは顔を上げないまま、力なく呟いた。いつもの倦怠感が訪れている。 「迷惑を掛けてしまったようですね……」 身体が鉛よりも重く、ひどく気だるい。何故か見慣れた薬瓶の蓋が開いていて、飲んだ記憶はなかったが、中は半分減っていた。冷たいじとっとした感触が気持ち悪くてふと見ると、シャツは赤黒く染まっていた。血の匂いもひどい。口元も汚れていた。何かあったようだが、どこも怪我はしていないようだ。 「おい、歩ける……わけないか。んじゃオレが背負うよ。アレン、喉詰まってないか? 息できるか?」 「…………」 アレンは黙って頷いて、頭をゆっくり振った。 「一人で行けます。寝ているところを本当に申し訳ないことをした」 「……ちょ、おいアレン!」 汚れたシャツとシーツはどうすれば良いのだろうか。後で自分で洗うか? メイドがいないのだから、そうするしかないようだ。 ベッドの横に掛けておいたスーツの上着を引っ掴んで羽織り、多少ふらつきながらもアレンは立ち上がった。いつもより少し具合が悪いようだ。人間たちの巣になんて潜り込んでいるせいだろう。 「馬鹿言うなよ、死人みたいなひどい顔してるぞ! 連れてってやるってば!」 「結構。眠っていて下さい。迷惑ですから」 「んな……!」 金髪が鼻白んだ。アレンは溜息を吐き、彼が何か言いたげに口を開ける前に、ぱちんと指を鳴らした。 「眠れ」 人間がベッドに倒れ込む軽い物音の後、それらは静かになった。アレンはくしゃくしゃの髪をかき上げて、顔を顰め、忌々しく窓の外に見える景色を睨んだ。とても高い空の上だ。月が大きく見える。無数の蝙蝠が飛び交っている。全て敵の監視用機械だ。 「僕は本当に駄目ですね……敵地の真っ只中で何をやっているんだって、またティキにお小言を食らいそうだ」 肩を竦め、ベッドで死んだように眠る二人を残したまま、アレンは部屋を出た。外気が吸いたい。冷たく新鮮な空気をだ。もう一度眠る気分にはなれなかった。眠るという行為に強い抵抗があった。まるでそれがすごく怖いことみたいに。 |