27:「ノア姫ロード」 |
「――お話は以上です。楽しんでいただけましたか?」 「大いに。感謝する、姫」 ブックマンが目を閉じて頷いた。正直なところあまり面白いものではないとは思ったが――アレンは公の物語の中でも、喜劇の方が好きなのだ。愚かなエクソシストの滑稽な失敗話。 鍼術のおかげか、大分身体は軽くなっていた。あの熱っぽい気だるさが消えている。 「時に姫、貴女はクロス=マリアンの行方をご存知だったと見受けるが?」 「ああ……」 アレンは嫌そうに顔を顰め、頷いた。別段隠し事をしているつもりもない。ただティム・キャンピーという厄介な存在に始終監視されていたせいだ。下手なことも言えやしない。そのせいで、大分神経が擦り減らされた。まずい言動はすぐに大怪我へと繋がるのだ。 「言付けは聞いています。……できればブックマン、あのティムをあまり僕に近付けないようにお願いしたいのですが。苦手なんですよ」 「あれにも意思はあるだろう。厄介だろうが、出来る限り善処しよう。して、あの男は本当にこの街にいるのか?」 「ええ、墓参りに行くと言ってました。僕の父のね」 ブックマンが訝しそうな顔つきになったので、アレンは肩を竦め、大した事ではありません、と言った。 「僕の養父――不本意ですがクロスの友人で、マナ=ウォーカーと言うのですけれど、彼がこの街で亡くなったんですよ。墓もここにある。千年公に保護されたのもここでした。色々と思い出深い街なんです。あまり好きではないけれどね」 「ほう」 「もう大分経つのに全く変わっていなくて、変な気分になりますね。雪も、街も、この宿も、まるであの人がまだ生きてるみたいな」 アレンは俯いて苦笑した。だが知っている。マナはもうこの世界のどこにもいない。 ◆◇◆◇◆ 鐘が鳴っている。重苦しく、だが高らかに響いている。薄く開いた視界には光が見えた。柔らかい光だ。弱々しく、冷え冷えとした街灯の光。薄明るく燃えて、降りしきる雪に反射してきらきらと輝いている。 さっきまで寒くて仕方が無かったのに、もう何も感じなくなっていた。ただ背中は冷たかった。冷え冷えとした石の感触だ。それが恐ろしい。 (……恐ろしい?) 神田は自問した。何かとても怖いことがあったのだという認識があった。だが、それは神田の認識ではない。 では誰のものだろうか。 さっきからずうっと身じろがない足のつま先は、小さく、子供用の靴が嵌まっていた。ぼろぼろの、どう見積もっても値の張らない品だ。ずっと旅を続けてきたせいもあるし、大分長い間使い古したせいもあった。所々に穴が開いていた。でもパンもスープも飲めないのに、新しい靴が欲しいなんて言い出せやしなかった。 ――まただ。 誰かの意識が混在している。いや、感触から言って、神田が誰かの意識に混在していると言ったほうが良い。相手は余程小さな人物のようで、視界に映る街は恐ろしく大きかった。ついさっき見た街、気にも留めずに通り過ぎたベーカリー・ショップ、古びたバー、家々の灯り、大きな雪のかたまりのようになっているモミの木。さっきとは、大分見え方が違っていた。全てが灰色の海に沈んでいた。 『……と……ぉ、さん』 自分の口から出た声は、ひどく弱々しい、死を前にしたような、か細い少女のものだった。虚ろで、空気を震わせもしない。 『声の主』はそのまま、いくつか誓いを立てた。例えば良い子にしていること、そしてその具体例を挙げた。そして譲歩案をいくつか出した。『肩を叩いてあげる』と少女の声が言った。『お酒呑んでも嫌な顔しない』 それらが誰に対するものなのかは解らない。神なのかもしれないし、自分自身に対してなのかもしれない。誰かもっと別の人間になのかもしれない。近しい家族や友人へのものなのかもしれない。 『かえろうよ』 少女が言った。 『ずーっとずーっといっしょだって、約束守って』 少女が言った。だが誰も答えない。風の音ももう聞こえない。身体中絶望と虚無で染まっていたが、まだ僅かに理不尽なものたちへの怒りが燻っていた。それはこんなようなものだった。この世界は間違っていて、あっちゃいけないものだということ。『彼』が死んだのに、自分を含めたすべてが生きていることへの怒り。破られた約束への怒り。ずーっといっしょだぞ、なんて言う、優しい声。穏やかで、少し擦れ声だ。そして言う、お前が大人になるまでずっと守ってやると。彼は言った、お前は愛されているもので、これからこの先ひとりぼっちになることなんてありえないのだと。 間違いなんだと少女は考えていた。それは記憶が呼び覚ます愛情や思慕の感情と言うよりも、憎悪に近かった。 神を呪った。みんな『あの人』のかわりに死んでしまえば良いと思った。 『あの人』を選び損なった未来など壊れてしまえと願った。 それは子供らしい狂暴な破壊衝動だった。 ふと、誰かが近づいてくる。足音もなかったが、少女には解った。なんだか懐かしい感触がした。でもそれが何なのかわからない。 顔を上げると、奇妙な、真っ黒な、なんだか良くわからないものが、 あれは、 ……なんだ? 笑っているのだろうか? ◆◇◆◇◆ 「――――!!」 冷たい水を全身に浴びせ掛けられたような感触があって、神田は一瞬で覚醒し、飛び起きた。目を見開くなり、すごく間近に異形の顔があった。アクマだ。目が合うとにたっと笑い、そのままぐうっと引っ込んでいった。 「ロード様ぁ、エクソシスト一匹起きやがったみたいですよぉ」 紐みたいに長い首を、伸びきったメジャーを巻き戻すような調子で戻して、アクマが浮ついた声で言った。流暢に喋るということは、レベル二以上だ。戦慄し、重苦しい身体を叱咤して起き上がろうとするが、動けない。見ると粘々した蜘蛛の糸のようなものが、全身に絡みついていた。引き千切ろうと腕を上げても、まるで鋼鉄のような硬さでびくともしない。 手の中に六幻はなかった。焦燥して辺りを見回すが見当たらない。まさか、と神田は最悪をイメージした。破壊されてはいないだろうか。 「あっそぉ。どーでもいー、今はコッチが面白いんだよねぇー」 「では我らが……」 「みーんな纏めて僕の玩具。お前ら勝手したらどうなるかわかってんだろぉ?」 「は、はっ! 申し訳ありません……」 急にアクマに険しい緊張が見て取れた。目を眇めると、子供が一人いる。黒い髪、黒い肌、額には黒い十字架の痣があった。少女だ。 彼女はニヤニヤ性質の悪い笑いを――どこかで似たものを見たような気がする――浮かべながら、首を傾げて、神田を見た。 「オハヨー、カンダぁ。ちょっと待ってなよぉ、すぐに遊んであげるからぁ」 「……?!」 「キャハ、なんで名前?って顔してるぅ。お前馬鹿ぁ? ボタンの裏に書いてあっだろぉ」 少女はくすくす笑いながら、手に何かを抱いている。ぬいぐるみのようだが、そうじゃない。小さな子供だ。赤毛で、赤い洋服を着た、白い仮面の―― 「ん? コイツ? いいだろぉ、すっごく良い見っけものしたんだぁ。ずーっとねぇ、あいつあんまりカワイイからぁ、一回殺してみたくってウズウズしてたんだけど、ティッキー怒るだろぉ? コイツなら壊したって怒られないし」 黒い少女はすごく機嫌が良いふうにニコニコ笑いながら、掴んだ子供の首に尖った爪を食い込ませながら、ぎりぎり引き絞っている。赤毛の仮面の子供は、ひどく苦しそうに身を捩っていた。ばたばた暴れ、少女の腕に爪を立てている。でも腕はびくともしない。 小柄な少女のものとは到底信じられない力で、彼女は子供の首をじわじわと潰しながら、更に力を入れていく。やがて小さな骨の砕ける音と共に、子供の頭が身体から離れ、ごとっと地面に落ちた。 「キャハハハハ! あぁあ、カワイー! 大好き!!」 少女は残った子供の身体を抱き締め、すごく嬉しそうにはしゃいでいる。異様な光景だった。彼女は異常だ。異質ななにかだった。 驚くべきことに、殺された子供は一滴の血液も零さなかった。ただ花瓶のように転がっているだけ。 やがて、子供の身体は淡く光り始めた。傷痕からぱりっと乾いた石くれのようになり、砂へ変わり、地面に溶けていく。最後に光り輝く見慣れた物体が姿を現した。 神田は息を呑んだ。イノセンスだ。 だが少女は大した関心も見せずに、イノセンスを靴の底で踏み躙り、潰してしまった。 一瞬強い瞬きがあり、それが済んだ後にはもう何も無かった。イノセンスが消滅してしまった。 「テメエも……アクマか……!」 神田が吐き捨てると、少女は肩を竦め、心外ー、と言った。 「あんな玩具と一緒にすんなよぉ」 ……どこかで誰かが言っていたような台詞だ。 神田は舌打ちした。例の『敵』と、外見的な特徴は一致している。 「……お前、ノアか」 「あったりぃー」 「あいつらは、どうした!」 「お友達ぃ? それなら」 少女がすっと指差した先には、同じく糸に絡め取られたラビと、アンティーク・チェアに座ったリナリーの姿があった。彼女の目は開いていたが、ぼんやりと虚ろで、そこに意思の光は見えない。 「リナリー! ラビ!」 いくら呼んでも彼らは応えない。状況は絶望的だという実感が、神田に染み込んできた。イノセンスは奪われ、全員行動不能に痛め付けられている。 「日本人形ってのも悪く無いねぇ。でもお前、もう『姉さん』のお手つきなんだよねぇ……残念だけど、こっちのカワイイ子で我慢するよぉ。あのこ、玩具取ると怖いんだもん。いろんなもの投げてくるしぃ。こっちはリナリーってんだぁ、カワイイ名前☆」 「っざけんな!!」 激昂して怒鳴っても、少女はケラケラ笑うだけだ。まるで檻のなかで珍獣が暴れているのを見て、笑いながら宥めているような調子で、怒らないのぉ、と言った。 「ヘボエクソシストぉ、お前が弱いから捕まっちゃうんだろぉ? 今更吼えたって無駄無駄ぁ。んー、今のうちにお人形にしといたら、あいつ喜ぶかなぁ? 自分でやりたかったって怒ると思う? なぁ傘ぁ」 「う、そ、それは……というかもう、もう、許せないレロ! あんなかわいくてきれいでまっさらなお姫タマをこんな人間なんかがたぶらかしてぇえ」 「およ、傘嫉妬ぉ?」 「は! い、いやレロ、ち、ちがうレロ! ろ、ろーとタマ、みんなには内緒レロ! そ、それよりまたレロ勝手に持ち出して、エクソシストと遊ぶなんて! 伯爵タマにペンペンレロ! ペンペンレロおお!!」 「千年公僕のこと怒んないもん」 「じゃあティキたまにおしり百ペンペンレロ!」 「……うっわー、それヤダぁ」 少女は、げえ、とあからさまに顔を顰めている。彼女はある人物に非常に良く似ていた。どこか気だるい仕草や、人を食ったような――いや、人間そのものを見下した態度が。 「……アレックス=E=ウォーカー」 神田は目を眇め、静かに彼の名を呼んだ。 「――あの男はお前の仲間か、ノア」 だが予想に反して、返ってきた反応はぽかんとした感触だった。わけがわからない、と言ったふうな。 少女は首を傾げ、誰それ、と言った。 「知らねぇー。レロ知ってる? アレックスなんとかだって」 「知らないレロ」 少女が持っている喋る傘――アクマだろう――も、ぷるぷると首を振った。彼らに嘘を言っている様子はなかった。本当に知らないのだ。神田は舌打ちして、アレンの顔を思い浮かべた。 彼は「違った」のだ。 確信に近い疑惑を持って接する神田を、彼は減らず口を叩きながらもサポートしていたのだ。 熱に浮かされた弱々しい笑みが浮かんだ。ありがとう、と彼は言った。 もしもここで件のイェーガー元帥のように神田が殺害されてしまったとして、彼はどうするだろうか。ああ最期まで嫌な奴でした、と言うだろうか。それともまた笑って何の根拠もないことを言うのだろうか。いいえ、彼は本当はとても良い人だったんです。水差し運んでくれましたしね。 「――アレン……」 すまなかった、と神田は口の中だけで囁いた。間違いは正されるべきだった。ただの雑魚どもならどうでも良い。誤解も畏怖も嫌悪も慣れていた。 だが彼に関しては、何か得体の知れない具合の悪さが残っていた。もしかすると、知らないうちに、彼を数少ない友人の一人として認識していたのかもしれない。それは後暗さを誤魔化すための言い訳だったかもしれない。まあどうでも良いか、と神田は考えた。今になってそんな下らない感傷を引き摺っているわけにもいかない。考えなければならないのはもっと別のことだ。 どうする、どうすればいい、それを必死に考えなければならない。どうやったらここを切りぬけられる。ノアとアクマと蜘蛛の糸。絶望的だが、まだこんな所で死ぬ訳にはいかない―― 「……アハハ、お前なにぃ? ×××のこと××なのぉ?」 ノアが笑いながら何か言った。だがわからない。急に思考が曖昧になって、ひどい眠気が襲ってきた。 目の前のノアはまだ笑っている。誰かの名前を呼んでいる。痺れた頭蓋の中で幾重にも響いて、まるで哄笑のように聞こえる。そして遠い靴音、ぎいっと軋む扉の音、この得体の知れない空間の中へ、誰かが、―― 「×××、オーラ。ねー聞いたぁ? このエクソシストお前のこと××なんだってえ! キャハハハ!」 「あ、×××タマぁあ!! お久し振りレロ、ご機嫌麗しゅうレロ〜!! 今までひとりぼっちで寂しくなかったレロロ?! まさかこの変なポニーテールと間違いなんてことは無かったレロロ……!」 ◆◇◆◇◆ 「ハロー、ロード。へえ、初耳ですね。それホントですか?」 「ホントホントぉ、今言ってたもん、名前呼んでさぁ! すきだぁーってぇ」 「ええ? すまなかった、じゃなかったレロ?」 「なんでもいいよぉ、にしてもひっさしぶりー! んん、ちょっとおっぱいおっきくなったぁ? こいつに揉まれたのぉ? いっやらしいー」 「……ロード、久し振りに会っていきなりセクハラ発言ですか。神田はそんなことしません」 「ロートたまぁ、な、なんてこと言うんレロ〜!」 「それよりあまり彼らを苛めてやらないで下さいよ。まだ仕事は済んでいないのですから。そうだ、僕の記録を取りにきてくれたんですよね。おつかれさま、ありがとう」 「いいってえ。それよりまだ帰らねぇの? みんな心配してたよぉ? アレンヨッシー連れてかなくってちゃんと寝れてるのかってえ」 「もう! 僕も子供じゃないんですから、ちゃんと上手くやってますよ。もうちょっとだけ、仕上げを済ませたら戻ります」 「総攻撃はいつごろがいぃ?」 「もうすぐ。ホントは早く帰りたいんですよ、ややこしいおっさんも出てくるしね……」 「アレーン、大変なんだぁ」 |