28:「神田とアレン」 |
夢を見た。そこでは時間がとてもゆっくり進んでおり、空気がどろっと澱んでいた。身体中に纏わりついてきて呼吸がままならない。だが不思議と息苦しさはない。 神田は人ごみの中にいた。人間だらけだ。人間の群れに紛れたアクマに背後を取られ易く、普段ならまず足を踏み入れないエリアだった。 一人じゃない。幼い子供が一緒だった。まだ十にも行かないように見える幼い少女だ。赤毛で、白い仮面を被っている。表情は見えない。どんな顔をしているのかも知れなかった。彼女は仕立ての良いブラウスを着て、黒いミニスカート姿で、ストライプのニーソックスを履いていた。兎の財布をポシェットのように肩から掛けていた。神田は彼女と手を繋いで歩いている。 そうしてそこで気付いたのだが、神田の身体は大分縮んでいた。幼い少女よりも頭ひとつぶん背丈が高いくらいだ。 周りじゅう人間だらけなのに何の音もなかった。喧騒もない。罵声や売り込みの呼び声もない。あるのは静寂と、ただ一方向に向かって歩き続ける人間たちの群れだ。 神田と少女はゆるやかに彼らに逆行していた。灰色の人間たちはうっすらと透き通っており、二人にぶつかることもなく、静かに通りぬけていく。 「×××、こいつらは何だ」 神田はふと疑問を覚えて少女の名前を呼び、訊いた。それは今更のような気分があった。少女もそう感じたらしく、小さく首を傾げた。 『ニンゲン、です。生きて死に往くもの。その魂。呼び戻されなかったもの。どうしたんです?』 「……いや、そうだった。しかしお前は何でそんな変な仮面なんて被っているんだ。外せ」 『はい』 少女はあっさり頷いて、仮面を取っ払った。そこには見覚えのある顔があった。透き通った銀灰色の瞳、それから特徴的な額の星型の痣だ。それはまるで顔半分を縦に切り付けたようないびつなものだった。 『……気持ち悪くないです? 絵描きさんは僕の傷を見て、怒って絵の顔をぐちゃぐちゃにしちゃったんです。もうあの絵が完成することはないって』 「それよりも、俺はお前の食欲が気持ち悪い。何とかしろ」 『ご、ごめんなさ……が、がまんしますね、じゃあ、がんばります』 少女は申し訳なさそうに俯いた。居心地悪い空気が流れ、神田は舌打ちし、別の話をした。 「それはいい。それより何でこいつら、俺達と逆の方向に向かって歩いていくんだ」 『……僕とちがうからです。みんな死んじゃうひとだからです』 「当たり前だ。人間てのはいつか死ぬもんだ」 『神田さんは……そうかもしれないけど、なんで僕と一緒に歩いてるんですか? へんなの』 「迷子を保護してやってるんだよ。めんどくせぇ」 『手を離さなくてもいいんですか? みんなあっちに向かってるのに』 「うるせえ。ガキが口出しするんじゃねえよ」 『でも』 「うるせえ。いいからいいんだ」 神田は顔を顰めて言い捨てて、この話はここで終いだと言った。少女はまだ何か言いたそうにしていたが、結局口篭もったままで、神田の手をぎゅうっと握り返した。そして神田を見上げた。その顔はいつのまにか随分大人びていて、髪の色も一瞬で抜け落ちていた。少女はいつのまにか白髪の少年の姿に変わり、面倒そうに眉を顰めていた。 「面倒臭いイノセンスに接触したんですね貴方……うわっ気持ち悪い。僕じゃないですか。なにこれ。小突きたい」 「……え?」 「だからこの街は嫌いなんだ……貴方も貴方です、僕のこと忘れてるんなら潔く忘れたままでいて下さい。面倒臭い。いいですね?」 「え? え?」 面食らっていると、「アレン」の手が神田の頬を強い力で引っ張った。彼は有無を言わせない鋭い目つきで不機嫌に言い放った。 「起きて下さい!」 「……あ?」 「「あ?」じゃないです。貴方僕が折角りんごを剥いて差上げたのに、寝こけてるなんてどういうことですか。サポーターにちゃんとサポートさせるのもエクソシストの仕事でしょう」 「何だその理不尽な言い草……おいなに人の顔抓ってんだ性悪モヤシ!」 いつのまにかうたた寝していたらしい。知らない間にアレンがベッドサイドの椅子に腰掛けて、神田を覗き込んできていた。頬まで抓っている。彼にはサポーターとしてエクソシストを敬うという気配が微塵も感じられなかった。 「ほら、食べてください」 ベッド脇のテーブルには、可愛く兎のかたちに揃えられたりんごが乗っかっていた。はちみつが掛かっていて、見るからに甘そうだ。神田が顔を顰めると、アレンは首を振って、我侭言わないで下さい、と言った。 「貴方蕎麦ばかり食べてるから脳にまで糖分が回らないんですよ。いいですか? 糖分さえ取っていれば何とかなるんです。僕も昔教育係の兄に一月ほど狭いお仕置き棚に閉じ込められ、外から溶接されたことがありましたが、こっそりポケットに隠してた飴玉のおかげで生き延びることができたんです」 「……お前はそれで何で生きてるんだ」 「一月後に育ての親が仕事から帰ってきて助けてくれました。まったく僕の兄ときたらひどいことばかりで――ベッドに茨のツルで縛り付けられて、刺さった棘のせいでシャツが真っ赤になったこともありました。痛くて暴れると更に刺さるし、ひどいと思いませんか?」 「お前の兄は犯罪者か」 「そうですね。あとは真性のサドですね。僕が泣き叫んで許しを乞う姿が世界で一番好きだと言っていました」 「……お前の性格がねじくれた理由が解る気がする」 「心外ですね、ねじくれてなんていませんよ。それより早く食べて下さい。リナリーの看病に行かなきゃならないんですから、ああ可哀想なリナリー、あんな美しいひとがどうして」 アレンは急に痛ましい顔つきになって、胸に手を当て、目を閉じ、まるで悲劇の主人公のような調子で嘆いた。 「……あいつらの様子は?」 「おや、彼らが心配ですか。貴方が、珍しい」 「……お前は俺を血も涙もない奴だと思ってるんだろうが、腐れ縁だ。いくら俺でもそのくらいする」 「ふうん。では僕はどうです? 心配してくれます?」 「お前は知らん。勝手にどこででもくたばれ」 「むかつく……」 アレンは聞こえよがしに呟き、恨みがましげに神田を睨んだ。だがそれも一瞬のことで、すぐにいつもの無表情に戻り、皿の上のうさぎ型の林檎をフォークで突き刺して、神田の口元に押し付けてきた。 「はい神田、あーん」 「……お前の嫌がらせは何かと得体が知れなくて気持ち悪いんだよ」 「ひどいですね、僕はただ親身になって貴方の世話をしているだけです。はい口を開けて下さい。神田、あーんは?」 「知るか」 神田はそっけなく言い捨てて、ベッドの上からサイドテーブルを蹴り倒した。アンティークのテーブルは容易に転倒して、皿と林檎をぶちまけた。床に蜂蜜が飛び散り、アレンは驚愕したふうに目を見開いて罵声を上げた。 「あー! なんてことするんですか! 僕の折角の自信作が! ああもう勿体無いな、食べ物を粗末にする人はキライですよ、神田」 「うるせえ。わめくな」 「もういいです、貴方なんか知りません。好きにすれば良いですよ、そのままくたばれ人の親切を無下にする豚野郎が。僕は綺麗なリナリーの寝顔を眺めながら至福の時を過ご――じゃなくて、いたましい彼女に付き添って看病を続けなければ。待っててくださいねリナリー……」 「待て。さりげなく豚がどうとか言ったことは聞き流してやるから待ちやがれ。お前にリナリーを任せるのはものすごく危険な気配がする」 「なんですか。僕のサポートなんか必要ない完全完璧なエクソシスト様がまだ何か?」 「……ラビ、ジュニアの様子でも見に行ってやれよ」 「もう、貴方彼らにはすごく優しいのに、なんでそれを他の人たちには向けられないんです。まあいいですよ、とりあえず片付けますから動かないで下さいね。雑巾借りてきます」 アレンは溜息を吐いて、部屋を出て行った。彼の背中は妙にしょんぼりして見えた。なんとなく珍しい感触だ、あの傲慢不遜な男が。 床にはかわいらしい兎のかたちをした林檎が散らばっている。割合芸が細かく、ひとつひとつに表情まで付けられていた。確か妹がどうとか言っていたが、確かにアレンなら女兄弟なんてものがいれば溺愛しそうだ。 しかし彼の家族なんてものの想像が付かなかった。どうやら兄弟が多くいるらしい。盥回しにされたらしく、養父が何人かいることは聞いていたが、そのどれもが曖昧なものばかりだった。病気で死んだという男、顔も見たことがない貴族の男、それからかのクロス元帥、彼らとアレンの繋がりといったものが上手く思い描けない。アレンに家族なんてものが存在することが、なんだか現実味がない浮ついた話のようだった。 アレンの顔つきや容姿は人形めいていた。整っているだけではなく、生命力と言ったものが感じられないのだ。 このところしばらくの間彼と行動を共にしていると、どうやら時折ふっと感情の断片らしいものが見え隠れすることはあった――そのどれもが怒りや恨めしさと言ったようなものだったが。なにしろ彼の口から聞かされる家族の話のどれもに現実味というものが欠けていた。 何か大事なものを持っている人間の譲れない一線が、意思の光が、彼の銀灰色の瞳の中には見付けられなかったのだ。アレンという人間について、最も気に食わない点がそこだった。彼に大事なものはないのだ。そのくせそこに歪みは見えない。彼は清澄と言っても良かった。極めて純度の高い水のように、なにもかもが透き通っているのだ。 神田は重い身体を起こし、顔を顰め、床へ手を伸ばし、変に可愛いかたちをしたりんごを摘み上げて口の中へ入れた。 思ったとおり甘過ぎた。付着した埃のせいで舌触りはざらざらしていた。神田はそれを無理に飲み込んだ。 「……失礼しま――は? 貴方ちょっと、何やってるんですか」 扉が開いて、顔を出したアレンは変な顔をした。ぽかんと口を開けて目を丸くしているかと思えば、一拍置いてわめきだした。相変わらず行動が読めない男だ。 「床に落ちたものを拾って食べないで下さい! 貴方のご家族はどういう教育をされたんですか?! ああもう吐き出して下さい、お腹壊しますから、大体ただでさえ蕎麦しか受け付けなさそうな身体なのに!」 「甘かった」 「当たり前です、林檎なんだから――て、そうじゃなくて! もう貴方訳わかんないんですよ、ほんとにもう……」 アレンは首を傾げ、怒ったような顔のまま無理に口元を歪めた。それは苦しそうな苦笑だった。見たことがない顔だった。 「無神経なのかと思えば急に気を遣ってくれて、ほんとにバカなんですから」 そして意識的だとわかる仕草でやれやれと肩を竦め、床に飛び散った蜂蜜を端布で拭いはじめた。汚れを取り去ってしまうと、彼は神田にベッドでじっとしているように『命令』し(彼はこれでも間違いなくサポーターなのだ)、椅子を引寄せて座り、スーツの内ポケットに手を突っ込んだ。 「なんだ?」 「ちょろまかしてきちゃいました。本当は全快するまでブックマンが預かっているはずだったのですが」 「なにを――」 言い掛けて、神田は目を見張り、口を噤んだ。まるで手品のように、アレンの懐からするすると見慣れた刀が現れたのだ。 「む、六幻?! どっから出してんだテメエ! 物理法則無視しやがって、お前のスーツは何製だ?!」 「エクソシストなら死んでもイノセンスを手放さないでいただきたいものですね。まあサポーターに格下げされた貴方も面白いとは思いますけど」 アレンはそこで悪戯でも仕掛けるように微笑み、 「そんなの見たくはありませんからね」 と言った。 神田は口篭もってしまった。確かに彼の言う通りだ。イノセンスが壊された時点でエクソシストは資格を剥奪される。後には何も残らない。せいぜいサポーターとして、それまで仲間だったエクソシストたちをサポートすることしかできない。 「……すまない」 「ここで言うべきことは謝罪でしょうか?」 「――いや……ありがとう。感謝する」 「まあ僕に言われても仕方ないんですがね。それはイノセンスを回収してくださったブックマンに仰って下さい。イノセンスが戻ってきたからって、鍛錬なんてもっての他ですからね。宿にも迷惑です。大人しく眠っていて下さい。じゃなきゃ一晩中枕元で子守唄を唄いますよ」 「……勘弁しろ」 「あはは。じゃ、僕はラビのところへ行きます。彼は貴方よりも症状が軽いですよ。怪我らしい怪我もないから安心して下さい」 アレンは機嫌が良さそうに笑いながら、立ちあがり、部屋を出ようと背中を向けた。神田はそれを見送り、彼が扉を開けたところで引き止め、言った。それは確認の色が濃い命令だった。 「モヤシ野郎、お前はくたばんじゃねぇぞ」 アレンは振り返り、首を傾げ、微笑んだまま言った。 「ご安心下さい。僕は死ねませんので」 そこには何故か落胆と自嘲めいたものが含まれていた。 |