32:「Sense of incompatibility」 |
目を開けてすぐに視界の中に飛び込んできたアレンは、 「ああ、リナリー! 目が覚めたんですね、よかった!」 心底すごく安心したふうに胸を撫で下ろした。 ――その後ろには、侍女の姿のニ体のアクマがかしずいていた。 ◆◇◆◇◆ リナリー=リーが今押し込められている部屋は、真っ白で極端にシンプルだった。家具らしい家具もない。人の匂いというものがなく、寒々しい印象があった。ただベッドのそばに置かれている水槽の中に、金属製のアクマの頭骨が入っていることを除けば、変わり映えがない画一的な病室と言ったって良いくらいだった。 あちこちに亀裂が入ったアクマの頭は、どうやら大分昔に破壊されたもののようだった――額の部分には『mana』と記されていた。このアクマに内蔵されている魂を縛る名だろう。 ふいにノックの音が聞こえた。だが、来訪者は部屋に入って来る気配が無かった。許可が降りるのを待っているのだ。ここは彼の部屋だというのに、律儀なものだ。 「……はい」 「失礼します、リナリー」 扉が開いて、見知った顔が現れた。アレン。彼は教団にいた頃と何も変わらない顔で、おはようございます、と言った。 「こんな所では眠れたものじゃあないとは思いますが、お許し下さい。お腹空いてないかなと思って、フレンチトーストとお茶をお持ちしたんです」 「…………」 「……少しで良いです、食べて下さい。もう二日も何も食べていないじゃないですか。人間は食事を採らないと死んでしまうでしょう?」 「…………」 何も答えずに目を逸らすと、アレンが落胆した気配が伝わってきた。彼は卑怯だとリナリーは思った。こんな状況なのに、まるでリナリーが悪いことをしているような気分にさせてしまうのだ。 「リナリー……」 「…………」 「……その、ごめんなさい」 アレンはしょげた様子で肩を落とし、部屋の入口で突っ立っている。彼はリナリーが「入って」と言わない限り、ずっとそうしているのだ。律儀なのか礼儀正し過ぎるのか、リナリーは呆れてしまって、溜息を吐きながら彼を呼んだ。 「……入って」 「あ、はい」 アレンはふいを突かれたふうに少しの間硬直していたが、やがて慌てた様子でやっと部屋に入り、テーブルにトレイを置いて、ドアを閉めた。 リナリーは彼をまっすぐ見つめて、できるだけ声を荒げないように努力しながら言った。 「それは何についての「ごめんなさい」なのかしら?」 「……嘘を、ついていたことです……」 「それは私に言うことかしら? 他にも、きっともっとショックだった人がいるはずよ」 「……はい。ラビにも謝らないと、折角僕のことを……」 「違うでしょう? 神田のことよ。彼があんなふうに――」 「あの男のことは言わないで下さい!」 神田の名前を聞くと、アレンは急に大声でリナリーの言葉を遮った。驚いて押し黙ってしまっていると、アレンははっとした顔つきになって、ひどくしょげた顔で謝った。 「……すみません。貴女に向かって怒鳴ってしまうなんて……。でも、今はお願いです。彼の話はしないで下さい。ほんとに駄目なんです」 「……何かあったの?」 「う……い、いいえ。なんにも、なんにもないです。ほんとです。なんにも……」 アレンは言い訳をするような具合で、口の中でもごもごと言い募っていたが、徐々に顔を赤らめて、頭を抱えて「ああああ」とうめいた。間違いなく『なにかあった』顔だが、これ以上突っ込むと泣いてしまいそうだ。 「そ、そう。まあいいけど、後でちゃんと謝るのよ?」 「…………はい」 「うん、いい返事。ねえ、アレンくん。ここはどこなの? どうしてこんなことになったの。アレンくんは何者なの。私をどうするつもり?」 「……ごはん、食べてくれますか?」 「? ええ……」 気は進まなかったが、リナリーは頷いた。どういう状況下であるとしても、体力は保っておかなければならない。まだ見えないチャンスのためにだ。どうやらここは敵の城らしいと見当はついたが、なぜここにいるのか、そしてなぜアレンがリナリーを生かしておくのかがまだわからない。 「そうですか、良かった。じゃあ食事のついでにでも聞いていてください。ここはノアの聖域。千年公……貴女がたが千年伯爵と呼んでいるお方と、僕らノアの居城です。そしてここは僕の部屋です。不便を掛けて申し訳ない」 「……ノアがどうして教団に? チェックは万全だったはずでしょ。教団員は家族や親類にまで遡ってチェックが入るはずだもの」 「ちょうど名前が似ている少年がいたので、利用させていただきました。まあその辺ははしょりましょう。聞いても面白くないと思いますし、食事中にするような話でもありません」 「殺したのね」 「さあ。リナリー、貴女は僕の妹と遭遇して精神にダメージを受け、今までずうっと寝込んでいたんです。結局クロス=マリアンは見つかりませんでした。多分今頃入れ違いになって、教団へ戻っているんじゃないでしょうか。エクソシスト達の行方は知れませんが、貴女は僕がお守りする旨を伝えてありますので、安心下さっているでしょう」 「……アレンくんはどうして私を殺さないの? 敵なんでしょ?」 「リナリー、僕は貴女を殺せません。死んだ父の言いつけで、僕に優しくしてくれたひとは殺すことができないのです」 アレンはそう言って、寂しそうな顔で笑った。 「……お父さん?」 「そこにいますよ。僕の父マナ=ウォーカー。世界で一番優しかった人間です」 アレンが指した先には、例の壊れたアクマの頭骨があった。 「……亡くなられたのね」 「はい。僕は彼を呼び戻そうとして、ひどい叱られ方をしました。今は彼の呪いを甘んじて受けている身です。誰からも気味悪がられて棄てられた僕を、拾ってくれた唯一の人間でした」 「好きなのね」 「はい」 リナリーは、苦笑しながら俯いて居心地悪そうに頷いたアレンの頬をひっぱたいてやった。乾いた音がした。一瞬アレンは何かを堪えるようにぎゅっときつく目を瞑った。閉じられる前に、その目の中に僅かに恐怖の気配が感じられた。 「人間が好きなら、なんで全部壊そうとするのよ! 千年伯爵は世界を壊そうとしているのよ。あなたもでしょう、ノアのアレン! 私のことも、兄さんもラビも……神田も、私の家族も仲間もみんな……」 リナリーは両手で顔を覆った。目が熱い。アレンに歪んだ顔を見られたくなかったのかもしれない。 「……そんな顔をしないで。みんな殺そうとしてるのに、アレンくん、敵なのに、そんな優しい顔してたら嫌いになれないよ……!」 「……ごめんなさいリナリー。でも僕には、ここしかないんです。僕は貴女がたの側にはいない存在なんです。家族に棄てられたら、僕はどこにも居場所がなくなってしまう。一人きりで、でもどうしても、どうやっても死ねなくて――僕には怖くて、貴女の為に何もすることができない」 「ここから出るわ。道を教えて。ホームに帰るの」 「リナリー……」 アレンは困りきった顔をして声を上げたが、それにほだされそうになるのを堪えて、リナリーはじっとアレンを睨んだ。 そしてトレイの上の銀のフォークに手を伸ばし、自分の首もとに突き付けた。 「リ、リナリー!」 「敵に情けを掛けられるくらいなら、潔く死ぬわ。あなたが私のことをほんのちょっとでも好きなら、みんなとの約束を守る気があるなら、言うことを聞きなさい」 アレンは呆然とリナリーを見つめてきていた。彼は敵だった。ずるくても何でも、ここから逃げなければならない。ホームへ帰るのだ。愛する兄のために戦うために。 「……少し時間を下さい。今は無理です、ホームには家族がいる」 アレンは居心地が悪そうにぼそぼそ言った。彼の目は揺れていた。 「うちの家族は、良くみんな出払ってしまうんです。みんな仕事があるから。特に日曜日は忙しいみたいだから、その時なら貴女を連れ出したって誰も引き止めないでしょう」 「アレンくん、」 「多分貴女が死んだら、僕は貴女をアクマにするでしょう。それがとても怖い」 「……アクマが、怖いの?」 「……はい。愛しているけど、恐ろしいです」 見ると、アレンの手は小さく震えていた。彼の中には、リナリーが窺い知れないものがあるのだろう。 「僕が必ず貴女をホームへお連れします。ですから今は少し休んでいてください。きちんと食事も採ってください……貴女はきっと僕を恨みますが、僕にもそれを受ける覚悟はあります。僕はノアですから」 「教団は……どうなったの?」 「ですから、貴女は僕を恨むと言ったのです」 アレンは目を瞑り、静かに言った。 「ごめんなさいリナリー」 ◆◇◆◇◆ 傷痕はひどいものだった。まるで局地的な嵐にでも襲われたように、半分瓦礫の山に変わっている区画もある。 年代ものの壁には巨大な爪で抉られた窪みや、砲撃を受けて焼け焦げた痕が見て取れた。団員の遺体が詰まった棺は安置ホール内部では収まりきらず、地下水道の空洞にまで積み上がっていた。それらは焼いても焼いても無くならず、腐臭と死臭を放っていた。 だがエクソシスト総本部、「黒の教団」の機能はまだ死んではいなかった。 室長コムイ=リーは健在で、敵軍勢の襲撃時に集結していた四人の元帥の尽力もあり、被害は地上部分と火攻めにされた地下水道近辺が主だった。サポーターに数百人にも上る死者が出たが、エクソシストに欠員は無かった。本部は守られたのだ。 問題は壊滅的な被害を受けている各支部と、敵に居所をサーチされてしまった失敗だった。 今日も曇り空に向かって黒く太い煙が昇り続けていた。人の焼ける嫌な臭いが大気中に立ち込めていた。それが途切れる気配はまだ見えなかった。 ひどい人手不足のせいで、総合管理班だけでなく頭脳労働者の集団である科学班まで、挙句エクソシストまで駆り出されて本部の補修に当たっている――現場監督は元帥だ。室長のコムイは怪しげな巨大メカで瓦礫の撤去作業を行っている。 教団に帰還した神田とラビも例に漏れずに、持ち前の体力を最大限に利用され、材木を担いで階段を往復する羽目になっていた。これと言うのもあの忌々しいスパイ、アレンのせいなのだが、教団内部では件の人物は長期任務中に死亡とされていた。大元帥方が「ノアがやすやすと教団内部に入り込んでいたことは、教団員に余計な不安と混乱を与える」と判断を下したせいだ。 保護者の名目でのノア監視に失敗したクロス元帥は、何がしかの罰則を下されていたそうで、ここ数日すこぶる機嫌が悪かった。苛々している。クラウド元帥が言うには、どうやら一ヶ月の禁酒と禁煙を課されたらしい。それはアルコール中毒者には、健常者には理解できないが地獄らしく、彼は常にむっつりと口元を引き結び、幽鬼のような顔をしていた。良く見ると手が小刻みに震えている。典型的な禁断症状だった。神田はそれを見た時に、俺はこの先酒と煙草には一生手を出さないでおこうと心に決めたのだ。 「ユウ、どしたんぼっとして。今は考えててもしゃーないさ。手ェ動かそうぜ」 ラビは無理に笑っている。神田は溜息を吐いて、別に大したことは考えてない、と言った。 「おいラビ。……女が、女の事を好きだってのはどういうことなんだと思う?」 「はぁ? まあそういう趣味の子もいるだろうさ。花があって可愛いとは思うけどさー。勿体無いかなー」 「そうか。それじゃあ、例えばありえないような奴が――ブックマンなんかが実は女だったりしたら、どうする」 「いやジジイがババアになっても皺くちゃで見分けつかないし。ユウもパンダのオスメスの区別とかつかねえっしょ」 「じゃあ……そうだ、コムイが実は、」 「どーしちゃったんさユウちゃん! アレンがスパイだったっての、そこまでショックだったんか?!」 ラビが慌てふためいたような顔で喚いた。彼の口から「アレン」の名前を聞いて、神田は瞬時に顔を赤らめ、材木をぶちまけて蹲って頭を抱えて「うあああ」とうめいた。 「ち、違う! あいつは敵だ、敵だし俺は何も見ていない、見なかった!」 「ユ、ユウ?」 「金輪際俺の前であの――「男」の、話はするな! 思い出したくもない! 虫唾が走るんだよ!」 神田は素早く材木を抱え直して大股で歩き出した。ラビは一瞬ぽかんと呆けていたが、はあ、と曖昧に頷き、ついてきた。そう、アレンは敵だ。男だった。あんなあるのかないのか解らない胸なんかに惑わされるなんてことはない。男だ。そう考えれば少しは冷静になれる。『アレンは男だったのだ』、まじりっけなしの、女好きな、紳士の中の紳士だったのだ。 「――そうだ、迷いよ消え去れ!」 「お前ちょっとわけわかんねぇってば……」 ラビがいくらか引いた様子でぼそぼそ言った。 クロス元帥は例によって今日も不機嫌だった。彼は偉そうに室長の椅子にふんぞり返り――コムイは廊下でバケツを持たされ立たされていた。どうやらメカが暴走する不手際があったらしい――濃い紫色の液体が注がれたワイングラスを傾けていた。葡萄の匂いが微かに神田の鼻先をくすぐった。だがそれはワインじゃあなく、ただの葡萄ジュースなのだ。 「甘い」 クロスが、口に含んだ液体に忌々しそうに顔を歪めて吐き捨てた。 その珍しく自制がきいていない彼の態度に、ソファに腰掛けて本を読んでいるクラウド元帥――どうやら表紙から察するところ、フィクションの冒険もののようだった――がくすっと笑った。オヤジ――いや、ティエドール元帥は相変わらず無心に絵を描いている。ソカロ元帥は仏頂面で彼らから離れてそっぽを向いていた。元帥が集合する図など、普段なら見れたものじゃあない。神田は見たいとも思わなかったが。 クロスを除く元帥たちは一様に無関心を装っていた。何も聞こえない、と言った風体だ。どうやら今回は非公式の呼び付けであるらしかった。 「……何かご用でしょうか、元帥」 神田は目を閉じ、静かに頭を下げた。 クロスはあからさまに苛々した顔でワイングラスを床に投げつけ、あいつのことだと言った。 「悪戯者のうちの娘のことだ。どうやら妙な動きをしているようだ」 「……彼が妙な動きをしているのはいつものことだと思いますが」 神田は無表情のまま、そう言った。打算なしにアレンが動くのは、考えてみれば見たことがなかったような気がする。クロスは頬杖をつき、その様子ではもう知っているようだが、と前置いて、 「あの小便垂れの乳臭いメスガキ、どうやら伯爵の野郎に拾われてからというもの、ノア姫だなんだとちやほやされていい気になっているらしい。実質今回が対教団の初任務だったようだが、おかげでこのザマだ。禁酒禁煙だと――ふざけんじゃねぇボケ」 「……俺に言われても困ります」 「その件は良い、あのバカ娘をお前らに任せた俺のミスだ。確かにな。まあこれを見ろ」 クロスはそう言って、投げやりな動作で壁のマップをポインターで叩いた。広大な黄土色で示された地域だ。 地図の上には英語で『ブラックロック砂漠』と記されていた。 「ノアの奴らの城はこの世界には無い。バカ娘にくっつけておいたマーキングは、アレがこっち側にのこのこ出て来た時にしか点灯しない。そのはずが、さっき急に反応があった――この、ブラックロック砂漠の端っこだ」 「彼がまた現れたと言うのですか。そんな砂漠なんかで何を企んで――」 「一つは、伯爵側の何らかの基地が存在する」 クロスは指を立て、言った。 「もう一つは、迷子のプロの名に掛けてただ単純に迷子になった。どちらでも構わんからとりあえずあのガキを連れ戻して来い。あいつが大好きな拷問に掛けた上で、きちんと洗脳しようと思う。無理なら、とりあえずあれの左腕だけでも切り落として持って帰って来い」 「そんな無茶苦茶な指令を受けたのは初めてです」 「コムイはしばらく使い物にならん。ブックマンジュニアも同行させて構わない。とにかくさっさと行け。そして帰りに酒買ってこい。酒だ。樽でだ。煙草もだ。このままではアルコールとニコチンが抜けて俺は死ぬ」 有無を言わせない口調でクロスが言った。 |