33:「砂漠の花」




 見渡す限りなんにもなく、地平線の果てはそのまま透き通った濃い青空に溶けていた。人気は全くなく、生き物の姿もろくに見えない。強い日差しの下を、リナリーとアレンは二人きりで歩いていた。
「……砂漠なのは、何か深い考えがあってのことなのね? アレンくん」
 リナリーが手を翳して気休めにもならない日除けを作っている横で、アレンは俯きがちに力なく歩いている。彼はひどく落ち込んだ様子で、すみません、と謝った。
「それは何に対しての「すみません」なのかしら」
「……僕、本当はゲートを上手く使えないんです。とりあえず深海や成層圏でなくて良かったけど、今回こそ大丈夫だと思ったのに……というかもう、もうごめんなさい、僕駄目なノアですみません」
「い、いいのよ。気にしてないわ。逆に見つからなさそうで良いと……でもほんとに誰にも見つからないと、野垂れ死にかしら……」
 あんまりに気落ちしているアレン――彼はどうやら完璧主義なところがあるようだった。落ち度があると、急に塞ぎ込んでしまうタイプだ――を放ってもおけず、リナリーは彼を励まして、そっと手を取った。
「そう言えば、アレンくんはイノセンスって平気なの? アクマみたいに壊れたり、嫌な感じがするとかはない?」
「え? あ、ええ……僕はこれでも一応人間ですから、平気だと思います……たぶん」
「たぶん? ほんとに?」
「発動状態のイノセンスに触るのは、ここへ来て初めてでしたから」
 そう言うアレンの顔は、日差しにやられて既に青い。何年も何年もまともに日の光を浴びたことがないような、彼の白い肌には辛いものだろう。
「手を繋いで」
「? はい」
「繋いだままでね。離さないで」
 リナリーはきょとんとして困惑しているアレンの手をぎゅっと握り、イノセンス『ダークブーツ』を発動した。
「ちょっと乱暴になっちゃうけど許して」
「……へ?」
 アレンの手を強く掴んだまま、リナリーは乾いた砂の海を蹴り――






 青い空にアレンの悲鳴が落ちて行った。






◆◇◆◇◆






「冷えてきたさあ」
 ラビが団服の前を合わせて背中を丸めた。砂漠地帯の昼夜の温度差はひどいもので、日中の高温とは打って変わって、日が沈んでからというもの辺りは冷えきっている。
「うーさみ……アレンどうしてっかな……リナリーも一緒かなあ」
「さぁな」
「「寒いわアレンくん……」「大丈夫ですリナリー、こういう時は人肌を合わせていれば、寒くなんてありませんよ」「でも少し恥ずかしいわ」「大丈夫、僕に任せて下さい、優しく――」っ痛ぁ!」
 神田は、声真似をしながら悪ふざけをはじめたラビに石を投げ付けて黙らせた。まったく騒がしい男だ。ラビは頭を押さえて、涙目で「瘤ができたさ!」と抗議してきた。
「なんもいきなり石投げんでもいいじゃん! 重ーい空気を和らげてやろうってオレの心遣い……」
「バカなこと言ってんじゃねぇ。んな事あるわきゃねーだろ」
「いや、どーしてわからんもんさ。アレンの奴絶対手、早い。オレと似た匂いを感じたさー、好みのタイプには押せ押せ! みたいな! それでこそ男!」
「…………」
「……いや、ユウちゃーん? もう怒鳴ってもいいからさ、まあなんか話してくれよー……。あいつに会った時にどういう顔すりゃ良いのかどーしても思いつかねぇんさ」
 神田はラビを相手にせず、目を閉じた。クロス元帥から預かったティム=キャンピーはずうっと北を向いている。どうやらアレンに付けたマーキング――例のブービートラップまがいの手紙に仕込まれていたもので、アレンの身体中に刻印を刻んでいた――をサーチしているらしい。
 ラビが何やら『どんな顔をすれば良いのか』とか嘆いているが、そいつは神田の方が言いたい。次またアレンと遭遇したとして、どんな顔をすれば良いのだ。ただ任務に徹して、敵を見る目を向けるべきか。それは楽でいい。向こうもそうしてくれればどんなにいいだろう。
 困るのは、また顔を真っ赤にして涙目で睨まれた時に神田はどう対処すれば良いのか、ということだ。







◆◇◆◇◆






「寒いね」
 神田とラビが近付いていることを微塵も知らないリナリーとアレンは、太い岩盤の窪みに入り込んで、凍えた空気をしのいでいた。
 リナリーはちらっとアレンを見た。彼はリナリーから微妙に距離を置いてしゃがみこみ、ぼうっと顔を上向けていた。何か考え事をしているみたいだ。きっと家族のことなんだろうなとリナリーは見当を付けたが、あえて聞かないでおいた。これ以上踏み込むと本当に彼と戦えなくなってしまうし、彼に脅迫まがいで家族に後ろめたいことをさせているのはリナリーなのだ。
「……どうしてそんな端っこに寄ってるの? もっとこっち来なよ。寒いよ」
 できるだけ明るくそう言って――気まずい沈黙が流れるのは避けたかった。またアレンに気を遣わせてしまう――手招きをすると、アレンはちょっと驚いたような顔になり、それから微笑みながら首を振った。
「……いいえ、ここで。紳士たるもの、そう気安くレディの身体に触れることなどできませんよ」
「何言ってるの、風邪ひいちゃうよ。ほらこっち来なさいってば」
 ついまるで弟に接するようにそう言ってしまってから、リナリーは変な気分になった。少なくとも宿敵同士と言った感触じゃない。アレンは教団にいた頃と、本当になにも変わらなさ過ぎるのだ。その静かな微笑も穏やかな口調も。
 手を伸ばしてアレンの肩に触れると、彼は敏感に反応した。びくっと震え、蹲ったのだ。
 それはただ単純に「驚いた」だけというふうには見えなかった。
「……アレンくん?」
――くっ!」
 アレンの様子がおかしい。確認しようと肩を掴むと、彼は苦しげに半身を折った。
「アレンくん?! ど、どうしたの!?」
「……へ、へいき、です。リナリー……」
 アレンは顔を上げて、無理に微笑もうとした。だけど、それは引き攣った顔にしかならなかった。
 彼は左腕を押さえ、歯を食いしばり、目をぎゅっときつく閉じていた。そして微かに自分に言い聞かせるように、小さな声で何か呟いている。
――落ち付けアレン=ウォーカー、痛くない、僕は強い男だ。痛みなんてなんてことない……」
 彼は大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出して、ようやくいつもの微笑を形作った。額には脂汗が浮いていたし、顔は真っ青だった。
「……なんでも、ありま、せん。心配してくれてありがとうリナリー、僕は平気ですよ。なんともない」
 リナリーは目を伏せた。アレンの左手には、いつのまにか奇妙な刺青が彫られていた。教団で談笑していた頃には見受けられなかったものだ。リナリーは口を引き結んで、アレンの左手をぎゅうっと掴んだ。
「っあああっ!」
 彼は悲鳴を上げた。そう言えばさっきだって、ずうっと左手をリナリーに触れさせようとはしなかった。差し出したのは、綺麗な右手だ。
「……どうしたの、その手。刺青はなに?」
「あ……はなして、リナリー、お願いです、じゃなきゃ僕っ、またいつもみたいに――貴女の前ではそれだけは、」
「スーツ、脱いで。上着よ。腕を見せて。隠そうとしないで、怪我してるんでしょ?!」
 アレンの顔に、急速に恐怖に似たものが上った。彼は怯えるように後ずさろうとしたが、リナリーは許さずに彼の手を引いた。
「いいから言うこと聞いて! 私今、ううん、この前からあなたのことすごく怒ってるんだから!」
「やめ……っ、」
 アレンは抵抗らしいものを見せたが、それは弱々しいものだった。彼は女性には手を上げないことを徹底しているようだった。上着を取り払って、シャツのボタンを外し――






「え」






 リナリーは目を丸くした。






 アレン、フェミニストで面白くて割と格好良いところがある美少年、そんなふうに認識をしていた彼の胸には、少女特有の未成熟の膨らみがあった。



「えっと」



 それだけじゃあない。骨格、体格と言ったものも、彼の身体はすごく女性的だった。丸みを帯びて曲線で構成されている。






「……女の、子……?」






「ち、違います! 僕は男です!」






 アレンは右手で胸を隠して、必死になって叫んだ。
 でも叫んだところで、その身体が変わるわけじゃあない。







◆◇◆◇◆







 どうやらアレンの身体を覆う文字だか図形だかは、クロス=マリアン元帥の仕業らしい。彼はノアの能力を事実上封じられているのだ。
「……使えるには使えるんですけど、かわりにひどい激痛が生まれます。……正直なところ、実は僕あまり痛みに耐性と言ったものがないんで――
「痛いの、嫌い、でしょ?」
「……はい。痛いのがほんとに駄目なんです。パニックを起こしてしばらく戻って来られない。できれば誰にも内緒に――あ」
 アレンははっとした顔になって、そうでしたね、と言った。
「敵同士なんでした。ごめんなさい」
「どうして男の子の格好なんか?」
「……僕が本当に男だからです。混じりっけなしの、紳士たるべく努力する男です。男が男の格好をするのは普通だと思いますが」
「……まあいいけど。なんか、アレンくんって不思議な子だね」
「それはノアだからですか?」
「ううん、そうじゃなくって……なんかね、変わってるね。スカートは嫌い?」
「……はは、僕には似合いません。男ですから」
 彼は意地でも認めないようだった。本当に不思議な子だ。でも面白い子だ。教団にいた頃もそんな感じだった。アレンは頭が良くて、気がきいて面白い子だ。彼がノアじゃなかったら、きっとすごく仲の良い友人になれただろう。そう空想すると、少し悲しくなった。
「もう寝よっか。明日も随分走らなきゃ」
「……リナリー」
 アレンは頷くかわりに、少し気後れしたふうにリナリーを呼んだ。彼は困ったような顔をして、ごめんなさい、と言った。
「こんな砂漠なんかに放り出される羽目になったのは、僕の責任です。貴女を教団までお連れすると約束したのに、結局貴女のイノセンスに運んで貰ってしまうし……僕はまるで役立たずだ」
「そんなことない。……私こそアレンくんに家族を裏切らせるようなことして、ごめんなさい。私が兄さんを裏切るとして、そんなことは想像するのも辛いのに、ごめんね」
 そして、今晩のことはお互い忘れましょう、と言った。
「次に別れた時に忘れちゃおう。その次出会うことがあったら、ちゃんと戦おう。アレンくんも手加減なんかしてちゃ駄目だよ? 私も家族のために負けないから」
「……はい、リナリー。貴女が望むなら」
 リナリーとアレンは頷き合って、少し微笑んだ。二人はお互いの戦争の中にいるのだ。






◆◇◆◇◆






 翌日には運良くオアシスを見付けた。空を駆けるリナリーに掴まったアレンが、遠いうっすらした点を指差して叫んだ。
「リナリー! 水の匂いがします!」
「匂い? アレンくん、そんなの解るの?」
「はい、水場の見付け方はマナが教えてくれたものです。良かった、干乾びなくて済みそうですね」
 アレンが指した先には、確かにオアシスがあった。透明な地下水が涌き出て、湖を形作っている。
 まだ人間の気配はどこにも見えないが、どうやら一時の休息は取れるようだった。





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