34:「Innocent Water




 「一緒に水浴びしようよ」と誘っても、アレンは頑なに頷こうとはしなかった。
「お誘いは嬉しいのですが、僕は男ですからそればかりはレディとご一緒する訳には参りません。見張りをしていますよ。安心してどうぞ、このアレン=ウォーカーの名に掛けて、リナリー、貴女に危険は近付けません」
 彼女は言った。アレンが男の子だと思い込んでいた頃はそんな台詞がとても様になって見えたものだが、今になってみればちょっと具合の悪い違和感を覚えてしまうのだ。
 アレンのそれ、『僕は男です』と言った類の言葉は一種の意地のようにも見受けられた。そこには何がしかの暗示のようなものも含まれているようだった。
 たとえば似たような例として、リナリーの兄コムイが嫌いな食べ物を無理に食べさせられた時に見せるあの感触に似ていた。脅迫観念めいたものだ。リーバーや班員たちにリナリーを引き合いに出されると、コムイは兄としてのプライドがそうさせるのか、普段できるはずのないことをやり遂げてしまうのだ。もしかするとアレンにも物凄く恐ろしい何かがあって、それを克服しようとしてのことなのかもしれない。なんとなく似ているのだ。
「……でもアレンくんも暑いでしょ? 砂が気持ち悪いし……」
「何てことはありませんよ。昔旅をしていた頃は、もっとひどいことが沢山ありました。でも、そうですね。折角だから貴女のあとに、少しだけ砂を落とさせていただいても良いでしょうか? 女の子の前で砂だらけなんて格好がつきませんからね」
「うん……」
 リナリーは変な気分になってちょっと笑って、じゃあ先にごめんね、と言った。アレンは微笑んで頷いた。その仕草をはじめ、アレンは何もかもが礼儀正しい男の子そのものだった。少なくともリナリーのホーム――黒の教団で、アレンよりも紳士に振舞う男はいない。






◆◇◆◇◆






 気分が沈んでいるのは、リナリーがアレンを責めない為だった。裏切り者呼ばわりも罵声もない。それが余計にアレンの気分を重くした。
 リナリーをはじめとしてエクソシスト達は、ホームにいた頃に家族たちに教えられたエクソシスト像とは微妙に食い違っていた。





『どうしようもない馬鹿』
 ロードが言った。
『アクマを見たら、人間も巻き込んで大暴れだよぉ。あいつらそのくせ「人間を守ってやってる」ってエラそうな顔してんのぉ。あいつらなんかどーでもいいけど、やっぱバカな奴見てるとむかつくよねぇ』





『救いようがない奴らさ』
 ティキが言った。
『お前も知ってるだろう、アレン? いいか、お前はまだ絶対に近付いちゃ駄目だ。覗き見も、からかうのもなし。ロードと違って、お前は年期ってものが無いんだよ。間違いなく騙されて利用されるのがオチだから、家の外ではオレら一族のことは黙ってなさい』





 アレンは大して何も考えずに頷いた。疑問はなかった。そういうものなんだ、と思った。どっちにしろ、それはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。千年公の寝物語と同じくらい現実味が無かった。アレンは城を出る気なんて無かったし、この先人間と出会うことなんてもうないのだと思っていた。
 だが今こうして一緒に行動していると、リナリーは聡明で、芯の通った自分の意思というものを持っていたし、馬鹿ではなかった。優しかったし、家族を大事にしていた。それは特別のはずのアレンと何ら変わりは無かった。
 思っていたよりも世界は愚鈍なものばかりで構成されている訳では無かったし、薄汚いはずの人間たちにもすごく綺麗な者が幾人かいた。それは外見的なものであったり、内面的なものであったりした。
 リナリーは美人だし、美しい精神を持っていた。神田は馬鹿だが顔ばっかりは綺麗だったし――昔出会ったあの頃と変わらずにだ――ラビだってすごく格好良くて綺麗な顔立ちをしている。それに皆優しかった。少なくとも、昔みたいにアレンの白髪をからかって苛める男の子はどこにもいない。
(……僕は騙されているのかな)
 アレンは溜息を吐きながら砂だらけのスーツを叩いた。せっかくの兄のお下がりは真っ白に汚れてしまっていた。メイドアクマが後で洗濯に苦労することだろう。
 この服を着ていればいくらかは兄のように割り切って振舞えるように思っていたのに、それは錯覚なのだろうか? やはりアレンはアレンのままか? ティキのように何でもできて、笑って人を殺せる大人の紳士にはなれないのだろうか?
「……駄目だな僕は……最弱なんてみんなに笑われるわけだ」
 裸のまま水溜りに座り込んで、頭まで水に浸かって、そしてどうにか思考を切り換えることにした。今回だけだと割りきろう。帰ったらティキに全部話そう。またろくでもない折檻を受けるかもしれないが、もう二度とこんなことはないだろう。中途半端に情を抱いたってどうしようもないのだ。アレンは家族を愛していたし、彼らを裏切るなんて考えもつかなかった。リナリー達には確かに親愛の情を抱いてしまってはいたが、アレンのホームと比べることはできない。
 もしかしたらいつか彼らの死骸と対面するかもしれない。その時は、アレンは彼らをアクマにするかもしれない。だがそれらは未来のことだ。今は知りようがないし、アレンが考えたってどうしようもないことだった。何でも知っている千年公やティキならきっとアレンを子供扱いして、ミルクを飲んでベッドに入るんだ、と言うだろう。それでも構わない。アレンが考えるべきことは、どうすれば家族の役に立てるかということだ。それだけだ。自分について考えることは、マナが死んでしまった時に棄てた。
 アレンは濡れた髪を纏めて、ぎゅっと絞った。そろそろ戻らなければ、あまりリナリーを待たせる訳にはいかない。砂漠を越えて彼女を教団に護送しなければならない。どこかに街があれば、忌々しい黒の教団員が必ずいるはずだし、もしかしたら彼女の仲間もいるかもしれない。とにかく人間がいる所まで――





「……ん?」





 アレンは首を傾げた。水辺の周りに群生している緑の中で、何かが擦れる音がした。
 動物が水でも飲みに来たのかと見当を付けて、何とはなしに顔を向けると、





「あっちぃー! こんなとこにほんとにあいついるんさぁ?」
「うるせぇぞ、黙ってろ。 余計暑苦しい」
 植物の葉を掻き分けて、強過ぎる日差しにかなり苛々しているらしい男が二人出てきて、





「……え?」





「あ?」
「はれ?」





 人がいるとは――アレンがそこにいるのだとは予想もしなかったのだろう。ぽかんと口を開けて、唖然とした顔で硬直し、





――す……すまな、」
「え? あの、あれ、あの……あー! じゃ、お前があの時のノアちゃ」





「っわああああああ! またかよこの変態いいいいい!!」
「ちがっ」
「おおおお落ち付くさ。とりあえずそんなでかい岩なんか降ろして、なっ?」





 オアシスの中央に、太く、高く水柱が上がった。






◆◇◆◇◆






「アレンくん?! 何があったの!」
 リナリーが慌てて駆けつけてくれた。アレンはばっと振り返って、





「リナリー!」





 涙声で彼女の名前を呼んで飛び付いた。縋るように彼女の腕を掴んだ。そうすると、安堵と一緒にわけのわからない焦燥がやってきた。それは悔しさと憤りの混じったものだった。
「こわっ……こわかったんです……ふたりともいきなりっ……ひどい、」
 裸で心許無い思いをしていると、リナリーが安心させるようにアレンをぎゅっと抱き締め、水辺の木に引っ掛けていたシャツを羽織らせてくれた。
 彼女はアレンを安心させるようににっこり微笑んで、それから別の種類の微笑みを、アレンの癇癪にぶっ飛ばされて目を回している神田とラビに向けた。
 そしてアレンに向けるものとは違う、とても冷ややかな声を掛けた。
「……何をしたの二人共」






◆◇◆◇◆






 彼女は濡れた身体の上に砂まみれの服を着込んだせいだろう、すごく気持ち悪そうに身じろいでいた。だが相変わらず恨めしい目を神田に向けている。さっきのような、か細い泣き声はもう無かった。いつものアレンだ。いつもと同じ、それはいろんな意味で具合の悪い感触をもたらした。空気がこれ以上ないって程重い。
「一度ならず二度までも……お前、絶対わざとやってるでしょう。この間なんて、貴方が乱暴するから裸で家に帰る羽目になったんですよ。 人を辱めるのがそんなに気持ちいいんですか? そういうのは痴漢とか変態って言うんです。兄が言ってました」
「ちがっ――不可抗力だ! 人聞き悪ぃこと言うんじゃねえ! 大体テメエが勝手に見せたんだろ?! お前みたいな男と変わりねぇ幼児体型なんざ見せられてもどうとも思わねーよ! むしろ目が腐る。自意識過剰も大概にしやがれ、この貧弱なモヤシ野郎!」
「……なっ、僕ばっかり一方的にダメージを受けて、なんで僕のせいなんですか!」
「……いや、どうせコレもまたテメエのお得意の悪ふざけなんだろうが! 何考えてんだ、こんなモンくっつけやがって――!!」
 神田は怒鳴り、勢いに任せてアレンの胸を掴み上げた。根性悪の彼のことだ、神田をからかう為ならこのくらいやる。フェイクだ。アレンが女のはずはない、女好きで紳士を貫く女なんて、今まで聞いたことがない。
 だが絶望的なことに、そこにはきちんと肉の感触があった。柔らかいものだ。ようやっと掴めるくらいの小さい隆起だったが、確かに存在した。
 硬直していると、アレンは呆けた顔になって俯き、ぶるぶると震え始めた。だが彼女はもう泣きはしなかった。恥ずかしがって悲鳴を上げる訳でもない――さっきの反応は一体何だったのだろう?――彼女は怒りに顔を真っ赤に染めて静かに怒気を孕んだ声でぼそぼそ言った。
「自前……です」
 彼女は相当怒っているらしかった。目元が赤くなっている。アレンはついに怒りを抑えきれなくなったらしく、怒鳴りだした。
「自前なんです、しょうがないでしょう?! なりたくてこんな身体な訳じゃない! 僕だってすごく嫌なんです、こんなののせいで兄さんみたいに格好良くなれないんだもの!!」
「神田」
 静かな声と一緒に、リナリーのかかとが神田の頭に降ってきた。硬質のダークブーツがだ。幸い発動はしていなかったが、エクソシストの彼女の一撃は屈強な男のものよりも堪える。
「……何で俺を蹴る。蹴るならそっちの裏切り者のスパイ野郎だろうが」
「今のは敵とか味方とか、そういうの関係なく、神が造ったすべての生き物の代表として許せないものに対する抗議よ。言わば星の意志でもあるわ」
 彼女はどうやらノアのアレンの肩を持つつもりのようで、アレンを神田から遠ざけるように間に入り、だいじょうぶ、と言った。
「これ以上失礼なことさせないから、ごめんねアレンくん」
「……神田が無礼なのはいつものことだってのは知ってます。もういいです」
 アレンはそう言って、深い溜息を吐いた――溜息を吐きたいのは神田の方だ。リナリーがアレンについた上に、ラビもどうやらアレンに悪意を抱いてはいないようだった。本質的なところでは知らないが――彼は割合上手く思考を隠す性質だったので――あてになりそうにない。敵の幹部と馴れ合うなんて、二人共まったくどうかしている。
「アレンほんとごめん、オレらも悪気があったわけじゃないんさー。ユウも今の内に謝っときぃさ……オレ知らねーぞ」
「誰がノアなんかに」
「それにしても、二人共驚かないね。私はすごくびっくりしたのに」
「んー? いや、驚いてるって。まーアレンくらいキレイなら、あんまり細かいことは気にならねぇんさ」
「いや、しろよ」
「それになんか運命的なもんとか感じちゃってるもんオレ。な、ノアちゃん?」
 ラビがにっと笑ってアレンの手を取り、ちょっと低い声で囁いた。好みの女を口説く時に良くやる手口だ。ほんとに良くやる、と神田は内心考えた。ノア相手にご機嫌取りなど、神田なら死んだってごめんだ。
 だがアレンは逆に渋い顔になって、嫌そうに言った。
「……嫌なことを思い出させないで下さい。無様な僕を笑うつもりですか」
「なんでさ。すっげえ可愛かったのに」
「いいからその話はここでは止めて下さい。あれは僕の一生の不覚のうちのひとつです」
 アレンが固い声で言った。




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