35:「スロウダウン」




 「アレンくんが助けてくれたの」とリナリーは言った。だがそれも「どうだかな」という感じだった。
「リナリーを餌に俺らを嵌めようとしてんだろ。お前のおかげでこっちは散々だ。今すぐ殺してやりてえが、クロス元帥の命令がある」
 神田は言い置いて、じろっとアレンを睨んだ。彼女もかなり機嫌が悪いらしく、いつもよりも更に冷たい顔つきでいる。
「力ずくでもお前を教団本部に連行する。文句は言わせねえ」
「……ふん。自意識過剰は貴方じゃあないですか。殺されないうちにさっさとお引取り願います。目障りですよ」
「ほざけ」
 六幻を向けても、だがアレンには何の気負いも見られなかった。殺すなら殺せばいいとでも言うふうに、リラックスしていた。実際彼女は死ななかった。ばらばらに引き裂いてもすぐに再生した。それは神田の再生能力なんてものの比じゃあない。異常だった。あきらかにノアは人間とは異質な存在だったのだ。
 アレンはゆったりと手を広げて、聞き分けの悪い子供をゆっくり諭すような口調で言った。
「もう一度言います。お引取り下さい。そして二度と僕の前に姿を現さないで下さいますか。今回だけは特別です、見逃して差上げますよ」
 それは傲慢な言い草だった。かっとなって、ふざけるなと怒鳴ろうとしたところで――





「そうも行かないんだなあ」





 中空から呑気な男の声が聞こえた。





 その途端、アレンの様子に急激な変化が見られた。
 不遜な態度は一瞬で消え去ってしまって、顔面をひどく青ざめさせた。彼女は微かに震えはじめてすらいた。
 訝しく周囲を見回しても、声の主はどこにも見えなかった。
 いや――





「お前が悪戯なんて珍しいな。けどここまでだ。エクソシストを生かして帰す訳にはいかないよ」





 アレンのすぐ後ろに、黒っぽい澱みのようなものが見えた。
 それは人間の手のかたちになり、アレンの肩を抱いた。澱みは少しずつ大きくなり、やがて男が一人現れた。見たことがない顔だった。アレンと揃いのスーツ姿で、額には黒い十字架の痕が浮かんでいた。





「ティキ……」





 その男の名前らしい単語を呟いたアレンの顔は真っ青だった。声には怯えと絶望すら含まれていた。





「……およ。どしたんアレン、震えてるじゃないか。ん? 怖いことでもされたか?」
 黒い男――ティキとか言うらしい――は軽い調子で頭に手を当てて、しょうがないな、という仕草をした。
 どことなく軽薄な印象があり、なんだか初めて見た気がしない。いつかどこかでこれと似たようなものを見たのだ。
「……誰お前」
 ラビが珍しく声を強張らせて、槌を発動した。ああなるほどなと神田は納得してしまった。ラビだ。いい加減に振舞う癖なんかがそっくりだった。アレンの言った通りだった。彼女の兄はラビに良く似ている。外観的なものではなく、性格やだらしない仕草なんかが。
――モヤシ野郎の仲間だな。ぶった斬る」
 神田は六幻をすっと水平に構えた。ノアのティキは身構えもしない。神田たちの方を見ようともせずに、目を見開いて俯き、硬直し、顔を真っ青にして震えているアレンの髪を穏やかな顔つきで梳いていた。
 しばらく時間が止まったようになった。熱砂の砂漠が、今は冷えきって見えた。
 沈黙が停滞していた。まず最初に口をきいたのはアレンだった。彼女は震えながら、喉の奥から無理矢理と言った感じで声を絞り出した。
「だ……め……」
 そして兄弟の手を逃れ、六幻を携えた神田の前に立ちはだかり、まるで幼い子供が内緒で拾った棄て犬を庇うような感触で手を広げた。アレンはおっかなびっくりといった自信のない様子で兄弟を見上げて懇願した。
「駄目です。約束したんです、守るって……見逃して下さいティキ」
「お前は律儀だなあ。人間どもとの口約束だろ? 気にすることないよ。はなから対等じゃないんだ。嘘吐いたって怒りやしないよ」
 ティキが笑って言った。彼は気負いのない仕草で、白い手袋を嵌めた。それを見てアレンは息を呑んで後ずさった。小さな彼女の背中が、神田にぶち当たった。
 アレンは癇癪を起こしたふうに、今にも泣き出しそうな声で叫んだ。
――に、兄さんやめて! 何でも言うこと聞くから殺さないで!!」
「……モヤシ、てめえ庇う相手が違うだろうが。向こう行けよ」
「神田は黙ってて! ティキは……殺せない人間なんていないんだから、元帥だって」
 それはほとんど泣き声だった。表情は覗えないが、アレンの目には涙が滲んでいるはずだ。声が濡れていた。
「……いやですよ、折角また会えたのに……約束だってあったんです。僕は――
「アレン、もうやめなさい」
 ティキがここで初めて渋い顔をして、アレンを制止した。彼は途方に暮れたように顔を顰めて溜息を吐いた。
「だから止しとけって言ったのに……お前は終焉まで家でじいっとしてるだけで良かったんだよ。好きなからくり触って、本読んで、薔薇育ててさ。もうそんな男もののスーツも脱ぐこと。ちゃんとドレスを着なさい、お前は可愛いんだから」
「……いやです」
――アレン。守ってやるくらいならオレがいくらでもするよ、兄弟だからな。思いっきり人間に情が湧いちゃってるじゃないか」
「そんなんじゃない! に、兄さんだって……人間の仲間がいたじゃないですか。今兄さんが彼らを殺したら、僕あの人たちがどこにいたって探し出して殺してやりますから」
「……駆け引きに関しても減点だな。もっと上手くやりなさい。脅迫をするのは、それだけの力を持ってからだよ」
 ティキはしばらくじっとアレンを観察していたが、ゆったりと両手を広げ、肩を竦めてやれやれと言った。
「しょうがない子だな。そんな気に入っちゃった?」
「……はい」
「人間だぞそいつら。しかも特にたちの悪いエクソシスト。どうせ昔みたいに、また裏切られて殺されるぞ」
 『また』というところに奇妙なアクセントを付けて、ティキが言った。その瞬間アレンはびくっと身体を震わせたが、諦めたような目つきで、首を傾げて頷いた。
「……はい、知ってます。でもいいんです。どうせ僕はこんな身体なんですから、恨まれても呪われても、殺されても死ねません」
「ま、可愛いお前がそこまで頑張るなら、見逃してやってもいいよ。見たとこ下っ端だ、特別に名指しで殺せって言われてる奴もいないみたいだしね」
 ティキは微笑した。そこに赦しの気配を感じ取って、アレンの肩からふっと力が抜けた。
 だが、次の瞬間乾いた音が鳴り、アレンの身体が、まるで体重を感じさせない薄っぺらさで吹き飛んだ。そして音もなく砂の中に倒れ込んだ。感知できないうちにすぐそばへやって来ていたティキが、アレンの頬を平手で張ったのだ。彼はそのくせにこにこ微笑んでいた。そこに怒りや咎めの気配はなかった。アレンにしても、慣れた様子だった。悲鳴も上げずに蹲っている。
「オレはお前をそんな甘い子に育てた覚えはないんだけどなあ。お仕置きだな、こりゃ」
「……初めから覚悟してやりました……貴方は怒るってわかってたし、でも僕、」
「アレン」
 穏やかなくせに寒気がする声で名前を呼ばれて、アレンは喉が詰まったように口篭もった。彼女は兄弟をひどく恐れているようだった。蛇に呑まれ掛けている鼠のような風体だった。怯えているのだ。
 ティキが呆れたように言った。
「我侭ばっかり言ってると棄てるよ」
 途端に、アレンが悲鳴のようなひゅっという音を喉から絞り出した。彼女は驚愕したように目を大きく見開いた。それまで浮かんでいた怯えとは決定的に違う恐怖が、彼女の顔に現れた。
「いや……」
 アレンは引き絞った声を上げて、緩く頭を振った。子供じみた仕草だった。まるで幼児が駄々をこねているような感じだった。何もかも思い通りにいかないことが気に食わずに癇癪を起こしているあの感触だ。そこに幾分かの恐怖と絶望を混ぜたような調子だった。
 アレンは今度こそ本当に泣き出してしまった。
 あのいつも見せていたマットな無表情も、人を子馬鹿にしたような笑いも、今はどこにもなく、跡形もなく消えてしまっていた。
「いや、いやだあっ――兄さんやめっ、やめてください棄てないで、お願い、なんでもするからお願いします。もうこれ以上棄てられるのいやなんです、いらないとか言わないで」
  アレンはふらふら起き上がって、ティキの襟に縋りついて必死に懇願した。彼女はただとても怖いもの――例えば怪物や幽霊に怯えて泣きじゃくる小さい子供のようだった。考えてみれば、大人びてはいるがまだほんの子供なのだ。少女だったことを差し引いても体格は小さいし、細く、顔だってあどけない特徴が目に付いた。
 ティキは何も言わずにしばらくじっとアレンを見つめていた。彼の目には観察の色が見えた。
 表情は無いが、彼の目は楽しそうに眇められていた。
「じゃあアレン、そいつら殺していい? お前が殺してもいいけど」
 ティキが、神田を指差して何でもないことのように言った。
「……あ……」
 アレンはよろめくようにしてティキから後ずさり、両手で顔を覆って頭を振った。
――っ、うっ、うっ……いや……です……!」
 アレンがしゃくりあげる嗚咽が響いていた。彼女はとても悲しそうに泣いていた。
 何がそんなに悲しいのかは解らない。アレンは敵で、そんなことは知りたくもない。ただ、少しのずれが感じられた。それはほころびだった。ノアのアレンが何故エクソシストの為に泣くのだ。
 やがてティキは満足したような顔になって、アレンの頭を撫でた。彼は「馬鹿だな」と呆れたように言った。そこにはふざけた気配が感じられた。そしてアレンのご機嫌取りをするふうに少し笑った。
「嘘だよ。お前があんまり強情だから、ちょっと苛めたくなっちゃっただけだ。泣くなよ兄弟。愛してるって、すごく大事に思ってるよ。嘘じゃない」
「……ごめんなさい、兄さんごめんなさい、棄てないで兄さん、ごめんなさい……」
 アレンはただ「ごめんなさい」と言い続けているだけだった。彼女にとって、「棄てる」というワードは非常に恐ろしいものであるようだった。可哀想なくらいに震えていて、歯が恐怖でかちかち鳴っていた。まるですごく寒い場所に裸で放り出されたような感じだった。ティキは幼児をあやすように、アレンの頬を撫でた。
「そんな顔をするな。美人が台無しだ。泣き止むか?」
「はい……やめます」
 アレンはびくっと震えて、すぐに頷いた。途端に彼女の顔から表情が消えた。いつもの見慣れたフラットな能面が現れた。そこにはまだ涙の筋が見えたが、アレンはもう泣いてはいなかった。
 ティキは上出来だと頷いて、それからちょっと困った顔をした。
「また育て直しか。しばらく厳しく行くぜ、アレン。おまえはどうやら甘やかすととことん甘えん坊になっちゃうみたいだから」
「……はい。我侭を聞いて下さってありがとうティキ。僕は貴方を愛しています、兄弟」
「オレも愛してるよ、アレン姫。さあ帰ろうか。まさかエクソシストについてくとか言い出さないだろうな」
「……はい。僕は貴方がたの家族です。彼ら人間の世界のどこにも僕の居場所はありません」
「うん、上出来」
「ありがとうございますティキ……」
 アレンには盲目的な追従が見えた。あの自分勝手で我侭で、気まぐれな言動は今はどこにもなく、ただしおらしくティキに従っている。その姿は神田に違和感とわけのわからない苛立ちをもたらした。そんな下らないものは見ていたくないと思った。誰かに追従するアレンなんて見たくはなかった。それは軽い失望だった。でも何故そう思うのかは解らない。アレンはノアだった。最悪で最凶の敵のひとりだ。今更彼女に対して失望することなどなにもないはずだ。
 アレンをじっと睨んでいると、彼女の肩を抱いてあやしているティキがすっと神田に目を向けた。彼は馴染みの人間に呼び掛けるように、よお、と言った。
――久し振りだな、サムライボーイ? でかくなったなお前」
「……お前なんか知るか。気安く声を掛けんな」
「うわ、やっぱお前気に食わない。うちの妹をたぶらかしてくれた礼はそのうちするよ。それにしてもアレン、お前面食いだったんだなぁ。オッサンが好みかと思ってたのに」
 話を振られてもアレンはしばらくぼんやりとした顔つきで、虚ろに宙空を見つめていたが、目を閉じ、袖で顔の涙の痕を拭って、胸に手を当てて大きく息を吸った。それはまさに今から舞台に出ようとする役者を彷彿とさせた。何か自分以外の人間を演じるための儀式のように感じられたのだ。
 次に目を開いた時は、彼女はもういつものアレンだった。何が起きても動揺ひとつしない、顔色も変えない、気まぐれで何を考えているのか解らないアレン少年。「彼」は気だるげな、だが澄みきった声で言った。
「……皆さん、お騒がせしました。では僕らはこれで。もう二度とお会いすることがないよう、祈っています――
「モヤシ!」
 神田は叫んだ。六幻をアレンに向けた。苛立ちのかわりに焦燥が浮かんできた。
 ここで別れた後はもう二度とそのいけすかない顔を見せ付けられることもないのだと思うと、意味のない怒りすら湧いてきた。こんなことが以前にもあったような気がする。それはアレンに関しての、良くある既視感だった。いつかどこかで、旧い日に同じことがあったような感触だ。だが神田はアレンなんて見たこともなかったはずだ。今まで出会ってきたものの中で最高に気に食わず、生意気で、気まぐれに人を混乱させ、どうしようもないろくでなしだ。
「ふざけるな。お前は今ここで俺が殺してやる」
 凄むと、アレンはちょっと笑った。そしてやれやれと肩を竦め、例の馬鹿にするような顔つきで言った。
「……はは、空気読んでくださいよ。貴方ほんとに馬鹿なんですから。じゃあね……お元気で、神田。できるだけ長生きして下さいよ。つまんない死に方したらアクマにしてやりますから」
「待て、逃げんじゃねぇよ! お前は俺が本部まで連れていく!」
 アレンは今度は何も言わなかった。ただ微笑んだまま頭を振っただけだった。
 そして兄弟に肩を押されて、背後に出現した奇妙な扉に向かって歩き出した。
「さようなら、エクソシスト」
 アレンは振り返らずに言った。小さい背中はすぐに闇に呑まれていく。
「アレンくん!」
 リナリーが叫んで駆け出そうとして、険しい顔をしたラビに引き止められた。
 アレンを呑み込んだ扉は閉まるなりすぐに引っ込んで、時空の彼方に消えていった。
 神田は舌打ちをして、忌々しくもう何もない空間を睨んだ。
――アレン……!!」
 アレンは消えた。おそらくもう出会うことはないだろうあのろくでなしに無性に腹が立った。アレンは結局何も言わずに、得体の知れない存在のまま消えたのだ。





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