37:「共生」




 日当たりはあまり良くなかった。湿気とナメクジが大嫌いな兄弟はそれがお気に召さないようだったが、最後には渋々と言った顔で了承した。最近良く機嫌を損ねることがあったが――多分反抗期なのだ――本来は聞き分けの良い性質をしているのだ。
 アイボリーブラウンの皮張りのトランクを抱えて彼女は言う、
「ティキはずるいんです。僕が勝てないこと知ってて、いつも自分の好きなことを通しちゃうんですから」
 顔には諦めと不服が見えた。どうやら言い負かされたことが余程気に食わなかったらしい。
 彼女はまだ駆け引きというものを知らない。絡め手を使うとすれば、家族の誰かの模倣だ。直情的で、言ってしまえば単純なのだ。怖いので言わないが。
「不満はないだろ? お前はもっと人間を知りたい、俺は監督係兼教師ってとこだな。人間どもの巣の中の方が具合が良いんだよね」
「別にそういうんじゃ、人間に興味を持ったわけじゃありません! ただちょっと面白いのがいたってだけ。もう、こんな小汚いところに引っ越してこなくたって良いのに。きっといますよネズミとかゴキブリとか、ナメクジも、あとムカデとか」
「お前のワーストワンはどれだっけ?」
「人間です兄弟。それと汚い時の貴方。僕絶対ティキの分まで洗濯したり、食事を作ったりそんなのしませんからね。でも綺麗にしてないと嫌いになりますよ」
「はいはい、怖いな兄弟、そうきゃんきゃん怒るなよ。可愛い顔が台無しだ」
「可愛いとか言わないで下さい!」
 街は旧くは城塞だったらしく、高い灰色の石の壁がぐるっと外を覆っていた。長い年月を経てあちこちは随分がたがきているようだったが、補修はされていなかった。触ると今にも崩れ落ちそうな石の街だった。住みついているのは主に貧民層で、後は物好きな芸術家か、隠居してきた金持ちがぽつぽつと存在するような感じだった。ここが今回のティキ=ミックとアレン=ウォーカーの引越し先だ。
 空気は大分乾いていたが、街の端にあるぼろアパートの中はかなりじめっとしていた。廊下の壁に錆び付いた水道管が無造作に巡らされていた。水漏れがひどく、廊下の床に黒い染みを作っていた。
 流れ者の顔も持っているティキにしてみれば中々上等の物件だったが、どうやらアレンは不満らしい。彼女は街に着いてからというもの、すごく不機嫌だった。
 昔はどこかの旅芸人の一座にいたらしいので、水漏れや日当たりの悪さが気に入らずにふてくされている訳でもないだろう。やれやれとティキは肩を竦めた。アレンが不満や我侭を言う時は、何か別件で拗ねていたり、甘えたがっている時なのだ。もう大分長い付合いになる兄弟なのでその程度は知っているが、どうやらアレン本人に自覚は無いようで、解りやすく甘やかしてやろうとしたら逆に臍を曲げてしまうことがままあるのだ。照れ隠しのせいもあるかもしれない。十五ってのはちょうど難しい年頃なんだなとティキは考えた。
 アレンはロードと揃いの白いミニのフリルワンピースを着込んでいて、例によって頼りないおどおどと怯えたような顔つきをしている。路上で男性とすれ違うだけでも大騒ぎだ。男物を着込んでいる時はこういった面で手間が掛からない子だったが、兄弟としては彼女にはまともに女の子らしい格好をしていただきたいというのが本音だった。折角可愛らしいのに男装なんてさせてちゃ勿体無い。
「……ティキ、せめていつもの格好でいいですか? なんか僕こんな服似合わないよ……」
「だぁめ。可愛いって兄弟、家族じゃなかったら即結婚申し込んでるね。ほんと可愛い可愛い」
「ティ、ティキ! 僕そういう変な冗談は嫌いです!」
 冗談めかして言うと、アレンは真っ赤になって食い付いてきた。彼女は真面目な性質をしているので、こうやってからかうといつも過剰に怒り出すのだ。
「やだなぁアレン、冗談じゃないってば。目一杯甘やかして幸せにするから、どうかオレと結婚して下さいお願いします、家事全般一切やります、なんならお前の名前入りの首輪を付けてくれてもいいです。どうよ?」
「……あんまり格好良く無いプロポーズです」
「ひどいなあ、そのくらい愛情が溢れてるってことだよ。と、さっさと荷物置いて散歩にでも行こうぜ兄弟。まずは美味いメシ屋を見付けなきゃな」
「賛成です。……ですがティキ? 僕こうやって普通に出歩いても平気なの?」
 アレンは自分の身体――剥き出しの二の腕、首、脚に刻まれた奇妙なタトゥーを指して、困った顔で言った。
「呑んだくれのろくでなしでマナの仇のクロス=マリアン、あのクソ忌々しいオッサンに仕掛けられてるマーキングがあるんですけど。……こないだはこれのせいでエクソシストに見つかっちゃいましたし」
 アレンは言いながら、最後の方は小声になって俯いてしまった。例の『友達』のことを思い出しているのだろう。あえてそれには触れずにおいて――アレンももう理解しているのだし、これ以上突っ込んで嫌われてはかなわない――ティキは手を広げ、まあ大丈夫だろ、と言った。
「千年公のプロテクトを上から被せてもらったろ? おとなしくしてる分には大丈夫大丈夫。たぶん。あと今クソとかオッサンとか言ったろ。やめなさいって言ってんのに」
「ううん、でも僕も何の力も使えないんですけど」
「平気平気、オレやアクマがいるよ。アレン、選ばれた者ってのは自分の手を汚さずに部下を使うことも覚えなきゃ」
「……すごく悪い人の台詞ですよ、今の」
「気のせいだよ。心配しなさんなって。それにお前の護身用にレロ貸してくれたから千年公」
「レロ? 姿が見えませんけど」
「ああ、鞄の中に放り込んどいた。後で出してやろう。ていうか今思い出した」
「それはいいですけど、千年公困りませんか? レロお気に入りなのに、それにまた雨降ったら」
「いいからいいから、お前はそうやって家族に気を遣うの悪い癖だぞ。かわいいけど。ロードを見習ってどーんと抱き付くくらいのことはしろよ」
「……僕そういうの似合いませんから」
「またまたこの子は」
 ティキはアレンの頭を撫でて苦笑した。彼女は相変わらず自分の価値を軽んじているようだった。完全な存在でなければ棄てられると考えているのだ。
「オレはお前が好きだし、可愛いと思ってるよアレン」
「……だからもう、ティキはずるいんです。怖いこと言って苛めたり、そうやって優しいこと言ったり、なんか僕もうほんとすごく困る」
 アレンはふてくされたように頬を膨らませてそう言った。子供っぽい仕草だ。







◆◇◆◇◆







「人間の習性って変なの」
 荷解きをしていると、アレンが言った。彼女は今にも壊れそうな危なっかしいベランダの手摺りにもたれかかって、頬杖をついて路地を見ていた。煙草をふかしながら仕事へ向かう男、洗濯籠を担いだ女、それから鞄を抱えた幾人もの子供たちが通り過ぎていく。朝の一時は慌しく過ぎる。
 ベッドシーツの埃を払いながら、ティキはアレンを呼んだ。じきに朝食の時間だ。
「こっち来ときなさいアレン、そんなトコいると危ないから。落っこちるぞ」
「うん、了解。ねえティキ、あの子供たちはスクール生ですよね。こんな汚い街にも学校なんてあるんだ。あれ初めに誰が考えだしたんだろう? 同じ年齢の人間を集めて均等な教育をするなんて、兵隊でも作るつもりなのかな」
「さあねえ。オレ学無いし、お前も得意分野が偏ってる。ロードは割と一生懸命学生やってるみたいだから、帰った時にロードに聞けば」
「だめですよ。学校の話題なんて振ったらまた宿題押し付けられるもの」
「……ああ、うん、そうだった。ごめん」
 ティキは頷き、嫌なことを思い出して溜息を吐いた。そう言えば先日もさっぱり訳が解らない数式を押し付けられて辟易したのだった。適当な答えすら思い付かずに渋い顔で黙り込んでいると、「この程度もわかんないバカだったのぉ? どーしようもねぇ〜」と散々馬鹿にされてしまった。兄としてのプライドがひどく傷付けられた。アレンはおとなしいので扱いやすかったが、ロードは人の弱みを容赦なく突き刺してくるし、ノア特有の残酷さと無邪気な幼児性が絶妙のバランスで配合された性質をしていてかなわない。言ってしまえば負けっぱなしだ。頭が上がらないのだ。
「……アレン、頼むからお前はいつまでもそのままでいてくれよ」
「またロードに苛められたんですか……。ティキ、いい年なのにちっちゃい女の子にやり込められてるってちょっと格好悪いですよ」
「自覚はある」
「僕を苛めてる暇があるなら、頑張ってロードに突付かれないくらいに立派な兄ってのを目指してみてはいかがですか?」
「心外だな。オレはお前を苛めたりしてない。誓って。ほんとに猫可愛がりしてるって思うもん」
「……はずかしいひとですね、もう。絶対苛めてますったら。僕昔から貴方に泣かされてばかりですよ」
「それは教育と言う名の愛の鞭のせいだよ。さ、そんな訳で、お前の根性とかを叩き直す特訓をしなきゃならない。いいなアレン?」
「はいはい、もうわかりましたよ。どうせ僕は駄目なノアですよ。人間に情は湧くし、体力はないし、弱いし」
「否定はしないけどしょうがない、まだほんの子供なんだから。拗ねるなよ。まあそーいうところもかわい……」
「可愛いとか言わないで下さい!」
 間髪入れずに怒られてしまった。ティキは肩を竦め、すいませんでした、と言った。
「はいはい、悪かったですよって。まあなんでもいいから朝メシにしよう。ベーコンエッグとパンケーキでいい?」
「鍋いっぱいの大きいのがいいです。シロップもボトルごと、ベーコンはカタマリのまま、卵もたくさんで、あとはウインナーとマッシュルームのローストとバケツのプディングも」
「……昔から思ってたんだけどさアレン、お前絶対なんか悪いのに取り憑かれてるよ。貧乏で食料が買えずに餓死した子供の幽霊とかにさ。なにその無尽蔵の食欲」
「ノアですから」
「いやオレもノアだから」
 ティキは苦笑しながら頷いた。何にしろどちらの妹にも頭が上がらないのだ。
 キッチンに入ったところで、リビングから甲高い泣き声が聞こえてきた。
「あ、あ、あ、あれんタマあ〜! もう出してもらえないかと思ったレロ!!」
 傘アクマのレロの悲鳴だった。どうやらアレンが解放したようだ。トランクに詰めたことが余程気に入らなかったらしく、相変わらず騒々しく泣き喚いている。それに混じって、呆れたような静かなアレンの声が時折混ざって聞こえてきた。
「はいはい、お前もティキに苛められたんですね、可哀想に。いつもはうざったいけど、今はちょっと同情します。だって僕も帰ってきてからまた苛められっぱなしだもの」
「あ、あれんタマぁ、暗かったレロ! 狭かったレロ! あ、でもあれんタマのお顔がまた見れて良かったレロロ……」
「そうですか? ありがとう。僕の顔なんか見たってしょうがないと思いますがね。役立たずだし弱いし、ティキみたいな駄目な男にまで苛められるし」
「あ、あれんタマ、そんなことは絶対ないレロ! あれんタマはすっごく、すっごくそのぉ……か、かわっ、かわい、かわいいいレロロ!!」
「可愛いとか言わないで下さい! ああもうまったく誰も彼も僕のこと馬鹿にして! おまえまでですか、傘! アクマの分際で!」
「あ、あれんタマぁ、ご、誤解レロぉ〜!!」
 ティキは溜息を吐き、騒がしいなあと独りごちた。まあ臍を曲げたアレンに口をきいてもらえなくなって、気まずい沈黙の中で食事をするという事態は避けられそうだったので、悪いことではないだろう。
 それにひとつ学ぶこともあった。アレンの前であまり「可愛い」という言葉は使わないほうが良さそうだ。
「おいアレン、皿出して皿。卵焼けそう」
「半熟?」
「半熟。レロ、お前はテーブル拭け。クロスも忘れるな。オレは良いけど、妹にはちゃんとお行儀良くさせとかないと千年公怒るんだよね」
「イエッサレロ! あれんタマ、お花とうさぎ柄、どっちがいいレロ?」
「……ヨッシー」
「了解レロ!」
「ティキ、千年公はティキ怒るんですか? 僕とロードはそんなのないですよ」
「あの人はレディには優しいの! 男の扱いはお前すごいひどいんだぞ。仕事押し付けられるし仕事押し付けられるし仕事押し付けられるし、年中無休だし。今回はアレンのコーチってことで長期休暇をもぎ取ってきたからこれでやっとゆっくり眠れるー」
「ふーん。なんか家族なのに会社みたい」
「そうだぞ、しかも平社員だよ平社員。なんでオレばっかこんなこき使われてるんだろ」
「それはティキが優秀だからでしょう? 僕なんて『アレンにはまだ早い』、みんなそればっかりです。僕もティキくらい強かったら良かったな。そしたらもうティキに良いように苛められることもないのに」
「……アレン、ひょっとしてお兄ちゃんのこと嫌い?」
「まさか、大好きですよ兄弟。何泣きそうな顔してんですか。もうほんとしょうがない兄さんですね」
 アレンはくすくす笑っている。久し振りにちゃんと笑った顔を見た。先日お気に入りの人間から引き離してからというもの、幾分ぴりぴりしたものを向けられていたので、ティキはなんだかほっとしてしまった。どうやらアレンはそこそこ機嫌を回復したようだ。これからまた厳しく接して嫌われることになるかもしれないが。




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