39:「黄色い本」




(あれ)
 アレンは目を眇めたまま、腕で顔を擦った。眼球が痛む。まるですごく強い光に焼かれたみたいだ。
(眩しいな)
 うっすら見える視界には濃い霧が掛かっていた。一面真っ白だ。なんだかもやっとしていて、息がしにくい。
 アレンはひとりでぽつんとそこにいた。そばには誰もいなかった。ジャンがいない。あの本まみれで変ながらくただらけの家はどこにもなかった。
 ただシンプルな肘掛け椅子に腰掛けて、ぼうっとしていたのだ。良く見ると、どうやら曖昧に浮かんだ風景には見覚えがあった。とても馴染んだものだった。ノアの聖域のアレンの自室だった。飾り気のない白い壁と、シンプルな白い洋服棚とベッドが、あまり使い込まれた様子もなくうずくまっている。
(なんで僕部屋に? いつの間に帰ってきたんだっけ)
 さっきまで着込んでいたブレザーは、いつのまにか薄手のドレスに変わっていた。ぐるっと部屋を見回すと、ベッドのそばにマナの頭骨の姿がない。
「マナ?」
 アレンは気だるい声で養父を呼んで、椅子から起き上がろうとした。
 でもまるで全身が石にでもなったみたいに重くて、じっと座っていることしかできない。気だるい。重苦しい。息ができない。
「どこに行っちゃったの」
 ひとりごちてからアレンは馬鹿なことを言ったものだと自嘲した。マナは死人だ。もう物だった。彼はどこへも行かない。
 ふいにふっと影が差した。顔を上げると同時に、後ろからぎゅっと抱き締められた。
「……もしかして、マナ……なの?」
 肯定の返事はなかった。そうだ、そんなはずはないのだ。アレンは苦笑して、当たりをつけた。こんなことをするのは家族の誰かに決まっている。
「……ロード? ティキ? 誰ですか?」
「ご挨拶だな」
 その声にはすごく聞き覚えがあった。あのつんと澄ました感のある無愛想な声だ。でもこんなところで聞こえるべきものじゃないはずだ。
「……え?」
「何だよ、その顔は。俺がここにいるのがそんなにおかしいかよ」
 彼は神田ユウと言った。アレンの敵のエクソシストだ。






◇◆◇◆◇






「てぃきタマ! 門限まであと六十カウントレロ! 五十九、五十八……」
「うるさいな。わかってるってば。すぐに支度しますよ」
 ティキはだらしなく着込んでいたシャツの上にジャケットを羽織った。『白い』今は堅苦しい格好でいろと誰に咎められることもなかった。千年公にも、自分にもだ。
「あれ? 眼鏡眼鏡、おいレロ、オレの眼鏡ドコ行ったか知らない?」
「てぃきタマは目がいいレロ。眼鏡なんかいらないレロ?」
「いや、見るために掛けてんじゃないの。逆だよ。あんまりはっきり見えてるといろいろ殺したいものが見えちゃうもん」
 残念だが眼鏡は見つからなかった。引越しのごたごたでどこかに紛れ込んでしまったのかもしれない。ティキは溜息を吐いて、眼鏡に関しては諦めた。アレンを連れ帰ってから探すのを手伝ってもらおう。
「まったく初日から門限破りか、うちの姫さんは……後でたっぷり絞ってやんなきゃ」
「あのう……お手柔らかにお願いするレロ。またあれんタマ泣いちゃったら可哀想レロ……」
「はいはい、んじゃ行くか。友達んちだっけ?」
 ベランダから傘を放り投げ、飛び降り、レロの柄を踏み付けて、ティキは空の上からきょろきょろと街を見渡した。それらしい気配は見つからず、通信も上手く繋がらない。余程遠くまで遊びに行ってしまったか、何かが混線しているのか、そのどちらかだろう。居場所が解らないんじゃあゲートも使えない。
「……まさかなんかややこしいことに巻き込まれてたりしないよなあ」
 ティキは溜息を吐いた。あの子は本当に手が掛かる子だ。大体は自分で何とかなるロードとは違う。放っておくと心配でしょうがない。







◇◆◇◆◇






 間違いなく神田ユウだった。人形みたいに綺麗な顔(そのくせすごく馬鹿)に艶のある黒い髪(あの人間を呪いそうな日本人形のようだ)、気だるさなんてどこにもない真っ直ぐな声(罵倒の言葉しか出て来ないが)、アレンの記憶する神田の姿だ。でもなんだか違う、変だ。
「……か、神田? ですよ、ね……」
 神田は椅子の前に跪く格好で、アレンの右足を取り、ヒールのスナップを外して、踝にキスをしている。あの神田がこんなことをする訳がない。アレンはしばらく思考が硬直していたが、はっとして、足を引っ込めてわめいた。
「なっ、ななな、なんですか?! なにやってんの?! ちょっ、どこかで頭のまずいところでも打ったんですか? その、だ、……大丈夫?」
 敵の心配なんてしたらきっと後でティキに絞られるだろうなと考えながらも、アレンはおずおず神田に気遣わしく聞いた。だって絶対おかしい。
 神田は答えず、ちょっと笑って――信じられない、神田の笑った顔なんか初めて見た――手を伸ばし、アレンの頬に触った。あんまりにも見慣れないものを見たせいで、ついぞっとして鳥肌を立てているアレンを、彼は面白がるようにじっと見ていた。あんまりまっすぐ見つめられ過ぎて居心地が悪くなるくらいにだ。
「アレン、あまり可愛いこと言うな」
――え、ええ?! あれ、あの、いつものあれはどうしたんですか?! モヤシとか白髪とかノアとか、貴方僕の名前なんて一度も……」
 アレンはばたばた両腕を振り回して『とりあえず離れて』という意志を向けた。なんだか良くわからないが、ちょっと距離が近過ぎる。なのに、神田は馬鹿にするようにちょっと笑って、顔を引き攣らせているアレンの額に軽く唇を付けた。
「ぎゃあああ!!」
「もう少し可愛げのある声上げろよ。なんだそれは」
 アレンはたまらず悲鳴を上げた。神田は呆れたような顔をしていたが、だって額にキスだ。普通じゃない。家族でもなきゃこんな親密な触れ合いはない。
 アレンは顔を真っ赤にして、神田に罵声を浴びせた。
「ほ、報復ならもっと他の手を使って下さいよ! 何でもあるでしょう?! どうしちゃったんですか、貴方はこういう種類の悪趣味な嫌がらせはしないって思ってたのに!」
「嫌がらせでこんなことするかよ」
 見た感じ、神田はすごくリラックスしているように見えた。いつも散々向けられていた、敵を前にしている時のぴりぴりした気負いってものがない。そのくせいつも通りの冗談なんか言わなさそうな生真面目な顔つきだ。アレンは混乱して、どういうことなんですか、と言った。
「ぼ、僕貴方の敵ですよ。僕はノアのアレン。貴方がたのアジトに入り込んでスパイ活動をした後で、アクマに襲わせた裏切り者です。こ、殺さなくて良いんですか? この前みたいに……ま、まあ貴方ごときにこの僕が殺せるとも思いませんけどね!」
 なるだけ神田の機嫌を損ねるように、いつものように彼が怒り出してくれることを期待しながら、アレンは言った。激昂して怒鳴ってくれるほうがこんな妙な状況よりはよっぽど良かった。でも神田は怒り出すどころかふっと微笑んだ。アレンは息を呑み、目を見開いて悲鳴を上げた。
「お、お前絶対神田じゃないいい! 違うひと! その顔やめてええきもちわるい!!」
「随分な言われようだな」
 アレンが罵声を浴びせても、神田は声を荒げもしなかった。ゆっくり手を伸ばしてアレンの胸に触れ、そのままぎゅっと掴んだ。
「ぎゃあああああ! どっ、どこ触ってんのお前ええ! バカあああ!! も、離れてお願い、やだあああ!!」
 信じられない、アレンがほとんど泣き叫んで懇願しても、神田は聞いたふうもない。ここだけがいつものままだった。人の言うことを全然聞いてない。
「静かにしろ」
「んんっ」
 今度は唇にキスされて声を塞がれた。アレンがひどいパニックを起こしていることなんてお構いなしに、神田はアレンの胸に好きに触っている。いや、もう揉んでいる。何が起こっているのか解らない。
 息ができないのに、口の中に舌まで入ってきた。ドレスのボタンが外されていく。じきに裸に剥かれる。裸の身体を触られる。その間にアレンが感じていたのは、強烈な違和感だった。神田ユウ、あの愚直で生真面目で無愛想で好意の欠片も向けてくれなかった人間がこんなことをするなんて考えられない、これは神田じゃない。
 でももし彼が本当に神田だったらどうしよう、アレンはそう考えて真っ赤になった。
「……っカンダ、」
 キスの合間に、アレンは彼を呼んで、頬に触り、確認した。
「ほ、ほんとにほんとに君なんですか?」
「俺が俺じゃなきゃ誰に見えるっていうんだ、モヤシアレン」
 彼の顔は間違いなく神田のものだった。他の何にも見えなかった。アレンはじわっと浮かんできた涙を擦って、僕のこと嫌いじゃないんですか、と訊いた。
「その、これ、僕が嫌いだからしてるとかじゃないですよね?」
「嫌いな奴にこんなことするかよ」
「じゃ、じゃあその、なんでですか、とか、聞いても……」
 神田が何か言った。でも何を言ったのか、しばらくアレンは上手く理解することができなかった。
 アレンの耳がいかれてしまったんじゃなければ、今彼はこう言わなかったろうか。
「……聞いてんのかよ。好きだって言ったんだよ、アレン」
 やっぱり聞き間違いではなかったらしい。「好きだ」だ。今度は「すまなかった」じゃない。
 神田はアレンの耳を舐めながら、呆けてぼんやりしているところに脚を開かせて、無造作に性器を撫でた。
「うぁっ……あ、うわああ! ど、どこ触って……ですか!」
「ドレスが似合う」
 神田は静かに囁いた。
「スーツなんかよりよっぽどいい」
 彼の声には冗談めいたものが微塵も無かった。
 アレンは不本意ながらぽーっとなってしまった。鼓動が早くなっているし、顔が熱い。まさか神田がそんなこと言うはずないという違和感はまだ消えてはいなかったが、もし幻覚や幻聴だったとしても、神田に口説かれて落ちない自信がない。
 なにせ彼は再会してからのろくでなしの言動と仕打ちにかなり幻滅していたところはあったが、まあ振るまいと容姿に関しては格好良いと言ってやっても良かった。あとは割と優しいところもあったのだ。本当にちょっとだけだが。




「さあ、俺がお前を女にしてやるよ」





 何言っちゃってるんだ、このちょんまげ。





 アレンは硬直し、耳を疑い、それから顔を真っ赤にして暴れ出した。本気でだ。貞操だか何だかのいろんなものがピンチだ。危機感はアレンを陶酔から呼び戻してくれるのには充分だった。
「うわああああ! や、やっぱりでもこんなのだめえええ! まずはそのっ、もっと精神的なところから――ほら、お友達からとかライバルからとかもうなんでもいいから!」
 好きとか嫌いとかは置いといて、いきなりこういうのはさすがにないと思うのだ。神田はストイックな男だと信じていたのに、なんとなく裏切られたような気分だ。アレンは悲鳴を上げ、そして、




「あれんタマあああああ! 起きるレロおおお!!」





 光を見た。






◇◆◇◆◇






――わあああああ!!」
 悲鳴を上げながらアレンは飛び起きた。周りには書棚から落下した本が山のように積み上がっていた。何故か天井の向こうに空が見える。隣には倒れているジャンと、泣き喚いている傘が――
「……レロ?」
「あ、あ、あ、あれんタマあああああ!! 起きたレロ! ど、ど、どうしようかと、起きなかったらどうしようかと思ったレロ!」
「……はれ? 僕なんでこんなところで寝てるんですか」
「うん、そいつはオレのが聞きたいね〜」
 アレンのそばに座り込んでじっと見下ろしている男がいる――確認を取る間でもない、ティキだ。
「げ。なんで貴方がこんなとこに……」
「いや、門限過ぎたから迎えに来たんだよ。おまえ呼んでも応えないし、こりゃなんかまずったかなあと」
「……僕は確か、本を読んでたんです。黄色い表紙の本で、手書きの。そしたら急に目の前が真っ白になって」
 アレンはそこで急激に顔を染めた。
「……なって、あとは……その、おぼえてないでス……」
「なんでそこで赤くなるかなあ。恥ずかしい夢でも見てたの?」
「なっ! そ、そんなことある訳ないでしょう! 怒りますよ!」
 茹でられたように真っ赤になって、アレンは喚き、頭を抱えて「ああああ」とうめいた。もう嫌だ。どうしちゃったって言うんだ。
 夢だろうか、それとも白昼夢かもしれない。なんにしろ現実じゃなくってよかった。危うく流されていろいろ持って行かれてしまうところだった。レロの目覚ましがなければと思うと、もう怖くて後は考えたくない。
「アレン、こっちのジャリはなに?」
 ティキがふと思い出したふうに、倒れているジャンを指差して訊いた。男でしかも子供なんて、彼のうちでは小便小僧の噴水か誰だかわからない英雄の彫像くらいどうでも良いものなのだ。風景のひとつに過ぎないのだ。ノア一族の千年公による女尊男卑の教育の賜物である。
 アレンはどうにか胸を落ち付けて、気だるく頷いた。なんだかものすごく疲れてしまっていた。
「ん? ああ、友人ですよ。今日できた。機械弄りが好きな子供です。ヒトが造る機械ってものに興味が湧いて、色々見せてもらったんですよ」
「ふうん。ま、いいけどとっとと退散しようぜ。明日も学校あるんだから」
「はい。ああちょっと待って下さい、この子ちゃんとベッドに運びますから。いろいろ困らされたお礼もちゃんとしないとね」
「何すんの?」
「悪夢を見せてやります」
 アレンはティキに涼しく笑い掛けて、首を傾げた。
「もうとびっきりスプラッタでバイオレンスでホラーな目に合わせてやる」






◇◆◇◆◇






 翌朝教会へ行くと、教室でジャンがげっそりした顔で突っ伏していた。アレンは構い付けず、彼の机に腰掛けて黄色い古書を気軽に叩いていた。
「それで余命いくばくもない科学者が、彼の妻にいつまでも二人でいた頃の美しい思い出を忘れずにいてくれることを願って書き綴った魔術書らしいのです。まず性別に反応して作動し、視覚に直接映像を送り込む。幻覚を見せる魔術がありますよね、あれを無害化したものです。男性には特にそう言った作用はありません。その為君のお爺さんのレポートには実際に体験した効果の程は書かれていないのですが、かわりに彼の妻――君のお婆さんですね――に読ませた際の記録が残っている。ほら、レポートの三ページ目です。『目覚めるなり妻は悪鬼と化し私に殴り掛かってきた。「この変態!」と彼女は私をひどく罵った。ひどい。私は悪いことなんにもしてないのに』……ジャン? 聞いてます?」
「聞こえない……」
 ジャンはどうやら余程重傷らしい。顔は真っ青だ。例の子供特有の無邪気な表情も今は消えていた。
 アレンは解っていることだが知らないふりで、肩を竦めてやった。
「どうしたっていうんです? 昨日はあんなに元気だったのに」
「も……夢見が、最悪でさ……街じゅうの人間がでろでろの怪物になって共食いを始めるんだ。オレ逃げようと思って……地下室に逃げ込んだら、棘がびっしり生えてる天井が落ちてくるんだ。串刺しにされたり押し潰されたり、虫に食われたり、火事になって火あぶりにされたり、とにかくありとあらゆるスプラッタとバイオレンスとホラーがごたまぜになって襲ってくるような感じなんだよ。最後の方なんか赤毛で変な仮面被った殺人鬼が金槌持って追い掛けてきたり、白い着物着て頭に蝋燭くっつけたポニーテールの兄ちゃんが、五寸釘と藁人形持って「見られたからには生かしちゃおけねえ」って、こう刀振り被って」
 ジャンは話しながら未だに怖気を感じているようで、腕を合わせてぶるっと震えた。アレンはおやおやと肩を竦めた。ちょっと怖がらせ過ぎたかもしれない。いい気味だ。
「魔術当たりしたのかもしれませんね」
「も、何がなんだかわかんない。目が覚めたら天井に大穴開いてるし……」
「あれは君の自慢のメカがやったものだったでしょう?」
「……そうだっけ?」
「そうですよ、嫌だな、忘れちゃったんですか? 天井の穴も、僕に本を預けたのも、みーんな君がやったことですよ。間違っても空から何か変な生き物が降ってきたり、原因究明のためにちょろまかしたりしてはいません」
「そうだっけ……良く覚えてないけど、もう何でもいいや……」
 ジャンはそう言うとぐったりと萎れた。まあこのくらいで赦してやってもいいだろう。アレンは黄色い本をジャンの机の上に置いて、ぐっと背伸びをした。人間を苛めてやったらちょっとすっきりしたようだ。




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