44:「また、神の使徒」




「カ……タナ……」
 血はあまり零れなかった。ただアレンのスーツに気味の悪い染みを作るだけだ。再生する肉はイノセンスに貫かれ続けていた。アレンは悲鳴も上げず、ただちょっと驚いて呆気に取られたような顔つきになって、ぼそぼそと何か呟いていた。
「イノ、センス……ムゲン……?」
 アレンは手のひらが切れるのも構わずにぎゅっと六幻の刀身を握り、おずおずと顔を上げた。神田を見上げた。でも彼女の目はあいかわらずぼやっとしていて、輪郭というものがまるで薄らいでいる。
「カンダ……?」
 アレンはすごく自信が無さそうに言った。こんなに近くにいるのに、彼女の目には神田の姿が上手く見えていないようだった。
 グレーの瞳には何も映っていなかった。
 そのくせすごく澄んでいた。
 アレンは咳込んで血を吐き出してから、震えながら手を伸ばした。
 そこに敵意や殺意は感じられなかった。幼児が庇護者に救いを求めるような感触すらあったのだ。
「神田……貴方なんですか。そこにいるの……」
 そう言って、輪郭を確認するように、すうっと神田の頬を撫でた。
 神田はちょっと驚き、目を軽く見開いて、アレンの顔を覗き込んだ。
「……お前、目が見えないのか?」
 アレンは返事に困っているようだった。しばらく考え込むような素振りを見せて、それから目を伏せて頭を振った。
「わからないんです、すみません、貴方を見分けることができない……声が聞こえない、みんなおんなじ灰色で、どれが貴方で、どれが他の人間で、どれを殺して良いのか、悪いのか、全然わからないんです。感覚が……消えたせいで、こんなふうになるなんて知らなかった」
 彼女の声は震えていた。
 まるっきり怯える子供そのものの声だった。
 例えば真夜中に怖い夢を見て、ベッドに潜り込んでくる幼い子供のようだった。
「ぼ、僕が、薄っぺらくなってく。消えちゃう……ひ、人殺しの化け物に、僕……」
 虚ろだったアレンの目に、じわっと涙が浮かんだ。透明な水滴がすうっと頬を伝っていく。
 彼女は途方にくれたような様子で、呆然としている。
 さっきまでの化け物じみた印象は、いつのまにか消え去っていた。
 だが同情はできなかった。
「……何泣いてやがる。無様な面見せんじゃねぇよ」
 神田は険しい顔でアレンを睨み付けた。彼女は存在自体があってはならないものだった。
 もう何人もエクソシストを殺していた。アクマの製造に荷担している戦争相手の敵の幹部なのだ。
「ふざけんな! スパイ野郎が、てめぇのせいで何人死んだと思ってる! 人殺しの化け物だと?! 今更ほざいてんじゃねぇ! お前はもうとっくに――!!」
 アレン=ウォーカーは、人類にとっては災厄以外の何ものでもなかった。化け物だ。
 それなのに、彼女はまるで救いを求めるように神田の団服に縋りついて、静かに嗚咽を零しはじめた。




――たすけて……」




 神田は驚いて、アレンを凝視した。まさか彼女が誰かに救いを求めるなんて思いもよらなかったのだ。
 アレンは震えていた。まるで凍えているように、すごく寒いところにいるように。暗闇が恐ろしい子供のように。
 そうしていると、初めて彼女は年齢相応に見えた。
 ノア一族で、神と世界中の人間を敵に回して戦っている。彼女は世界の中心にいる。でもまだ十五の女の子なのだ。





――……か……さ……」




 アレンは唇をわななかせ、必死に言葉を綴ろうとしていた。
 でも嗚咽が邪魔をして、うまく喋れないようだった。
 彼女はもどかしそうに喉を掻き毟りながら、悲痛な声を絞り出していた。




「……かみ、さま……っ、うっ、うぁ……ころ、……ころして、くださ、……もう死なせて、くださ……い……」




 神の敵のはずのアレンが、神に祈っている。それは厳密には違うかもしれない。人間が信じる神ではないのかもしれない。
 でもどちらにしたって同じだ。どっちも、誰も救いもしないろくでなしだ。世界が神の悪意に満ちていないと信じられるなら、そんなものはいない方が救われる。




「祝福なん、て……、いら、ない……、と、友達を殺してまで、生きていたくない!」




 その時、初めて神田はアレンに対して、ある種の感情の動きを覚えた。それは憐憫に似ていたが、少し違っているようだった。
 神に背く一族のくせに、彼女はなんだかすごく敬虔で美しいものに見えた。
 神田が最も嫌う殉教者どもに似た感触だった。でもアレンは違う。彼女は死なない。ばらばらに砕かれても再生する不死者は死ねないのだ。







「たすけて……カンダ……」






 アレンが、神田の顔のある辺りに虚ろな目を向けたまま懇願した。彼女はもう、いつものように神田を見ていなかった。
 神田は六幻をアレンの胸から引き抜き、彼女の首にすうっと添えた。
 そして静かに告げた。
「……俺が殺してやる」
 アレンは、その瞬間、すごくほっとした顔つきになった。
 また切り刻んで、今度は火にくべ、白い灰になるまで燃やし尽くして、海に流してやったらもう蘇えることはないだろうか。
 もしもそれすら駄目なら、もう彼女に救いなどない。





 柔らかいアレンの首の肉に六幻を食い込ませていく。







 ふと、微かな震動を感じた。







 遠くから地響きのような、重たい感触の震えが伝わってきた。
「ん……?」
 訝しく眉を顰めて、神田は顔を上げた。地震だ。そう認識した次の瞬間には、激しい震動の中にいた。
「なっ……!?」
 ごうっという鼓膜を突き破りそうな轟音が鳴り響いて、天井から脆い石の塊が降ってきた。壁に急速に亀裂が生まれ、あちこちに浸蝕していった。僅かなその隙間から黒っぽい水が染み出してくるのが見えた。
 神田は舌打ちして怒鳴った。予想くらいついても良かったのだ。
「このバカ! 見てみろ、てめぇがんなボロボロの地下遺跡で壁壊して大暴れするからこんなことになるんだろうが!」
「……?」
 アレンはまだ理解した様子がなかった。彼女はどうやら命の危険という事態について、普通よりも大分実感が薄いようだった。不死者だからなのか、ただ単純にぼやっとしているからなのかは知らない。
 崩壊した壁と天井から、ひどく長い年月を掛けて溜まっていた膨大な地下水が噴出してきた。






◆◇◆◇◆






 エクソシストは朝になっても戻って来なかった。そのせいで探索部隊員は憔悴していた。
 彼らは地下水路に添って進み、海岸線にほど近い合流地点までやってきていた。
 無線は通じなかった。
 だが件のエクソシストは性質として単独行動が多く、最低限のサポーターの助けしか必要とはしなかったので、彼らにできることと言えば信頼して待つことくらいだった。神田は調和や結束と言った言葉とは無縁の男だったが、非常に優秀なエクソシストなのだ。
「スペンサー隊長、神田殿と別れてからすでに十時間が経過しています。探しに行ったほうが良いのでは……」
「うむ、あの人は百戦錬磨と聞くから戦闘に関しては心配などないだろうが、今朝方の地震のこともあるしな」
 数時間前、まだ夜が明けきらないうちにひどい地震があったのだ。スペンサーは腕を組んで溜息を吐き、隊員に結界機器のチェックを命じた。
「建物の崩壊に巻き込まれたのかもしれない。地形も変わってしまっているから迷われているのかもしれない。地上のアクマの様子はどうなってる?」
「はい、五時間ほど前からちょっと様子が変です。まるで何かを必死に探しているような感じで、慌しく飛び回っています」
「身体の小さい奴が数体、比較的浅い地下エリアまで降りてきているようです。昨日までは上を飛んでるだけだったのに……」
「エクソシストが来たから、イノセンス探しに本腰を上げたのかもしれんな。照明を貸してくれ。私とあと二人で神田殿を探しに行く。残りはここで待機して無線の番をしていろ」
「了解」
 隊員が敬礼をした辺りで、スペンサーは奇妙な物音に気がついた。べちゃっとした、まるで水を掻き回すような濡れた音だ。段々近付いてきている。
「……総員結界構え」
 スペンサーは右腕を上げて、部下に命令した。アクマかもしれない。物音は足音のようにも聞こえた。すごく重苦しく、引き摺るような足音だ。
 やがて暗がりから這い出してきた「それ」を見て、スペンサーは呆気に取られてしまった。
 ずぶ濡れのどろどろだ。髪留めを無くしたようで、長い髪が解けてべったりとコートに張り付いている。おまけにぼろぼろだったが、眼光だけは変わらず鋭くぎらっと光っていた。
 そのせいで、街の上のほうで群れているアクマなんかよりも余程怖かったが、それは彼ら探索部隊が待ち続けていたエクソシストの神田だった。背中に何か黒っぽいものを背負っている。
 どうやら団服の中まで水浸しになっているようで、彼が歩く度に瓶に水を入れて振り回したような音がする。まるで地下水脈の噴出に巻き込まれて大分流されたというような塩梅だったが、そんな筈はないだろう。生きていられるはずがない。水路の深みに落っこちたってところだろう。
 神田はサポーターに顔を見せるなり、相変わらず多くを語ることはなく、「帰るぞ」とぶっきらぼうに言った。
「イノセンスは回収した。生存者は一名。後は全滅だ」
「そ、そうですか……いや、貴方がご無事なだけで我々は救われます」
 スペンサーは安堵して溜息を吐いた。エクソシストに何かあっては、探索部隊がおめおめと帰れる訳がない。
 それよりも彼が背負っている人間が気になった。見たところ完全に昏倒しているようで、ぐったりと脱力している。見回りに出ていたチャーリーとターナーはそんなに小柄じゃなかったはずだし、そもそも何より人間嫌いで有名な神田がまさか背負って戻ってくるなんて親切心を起こすはずがない。
 何も言わずに歩き出した神田を慌てて追い掛けながら、スペンサーは彼に両腕を差し出し、私が受け取りますと言った。
「エクソシストの貴方に部下を背負わせる訳には参りません。彼はこちらで――……え?」
 スペンサーは生き残った仲間――であったはずだ――を覗き込んで言葉を失ってしまった。まあ探索部隊員に変わりは無かった。確かに部下ではあった。だがこんなところにいるはずのない人間がそこにいたのだ。スペンサーは思わず大声を上げてしまった。
「う、う、ウォーカー?! バカな、死んだはずだ!! なんでここにいるんだ!?」
 それは大分前に死亡通知が来たスペンサーの部下のひとり、アレックス=E=ウォーカーという名前の少年だった。まだ新人のうちに殉職してしまった不憫な子だ。仲間内で追悼式までやったのだ。最近では性質の悪い怪談話まででっち上げられている。それが何故こんなアクマだらけの廃墟の地下にいるのか全く解らない。
 非常に混乱はあったが、ともかくエクソシストにサポーターの運搬などさせられる訳がない。ウォーカーを受け取ろうと手を伸ばしたところで、神田にひどく強烈な目つきで一睨みされて怒鳴られた。
「気安くこいつに触るんじゃねえよ!! 離れてろ!!」
「……は、はぁ。すみません」
 まったく何がどうなっているのか、全然理解が追い付かない。




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