45:「ノア捕縛」




 アレン=ウォーカーの周囲には、いつのまにか幾人かの人間らしい影があった。
 もう随分と視力が落ちているのか、それはただのぼんやりした影帽子だけだった。
 ゆらゆら揺れていて、じいっとアレンを覗き込んできているような感触だった。でも良く解らない。何せ真っ黒で個体の見分けがつかないのだ。



「ようやくお目覚めか、坊主。それなりの覚悟はできてんだろうな。ああん?」



 一番アレンの近くにいる影がぼうっと点滅しながらそんなようなことを言った。アレンは首を傾げ、あなた何なんですか、と訊いた。
「なんでそんなにゆらゆら揺れてるの? 落ち付きないですね。それよりここはどこですか。不思議の国かなにかですか」
 周り一面グレーに塗り潰されていて、あまり視界は良くない。なんだかふわふわしていて現実味ってものがない空間だった。
 アレンを取り巻いている影たちは、それぞれ一つずつ黒い巨大な十字架を背負っていた。すごく重たそうなものだ。ゆらゆら揺れているのはそのせいかもしれない。きっと重くて足がふらふらしているのだ。



「一応確認を取っておく。お前の名前は何だ」



 影が偉そうにすうっと縦に伸びながら言った。アレンはそれの頭のあたりを見つめながら、「何でそんなこと訊くんですか」と言った。
「僕の名前なんか知って、変な呪いとか掛けようと思っても無駄ですよ。死なないので」
「頭をカチ割られたいのか?」
「御免ですね。アレンです、アレン=ウォーカー。貴方はどなたですか? ここはどこ?」
「……まったく面倒な操作を受けているな」
 影はまたゆらゆらと揺れて、右腕を急速に振り上げ、アレンに向かって振り下ろした。すると急にアレンの目の前が真っ暗になった。何の感覚も無かった。







◆◇◆◇◆






「痛覚をはじめとして味覚、触覚等の感覚の欠損、加えて神経をちぐはぐのばらばらに繋ぎ変えられている。ほとんどパズル・ゲームだ。何やっても死なねえからって、盛大に弄くり過ぎたようだな」
 どこから調達したのか、白衣姿に聴診器まで首から下げたクロスが、ポインターでボードを指しながら言った。神田にはその半分も理解することはできなかった。言っていることは解るが無茶苦茶だ。
「……それでなんでこいつは生きているんですか?」
「便利な体質のおかげだ」
「……元には戻るのですか」
「知らん」
 アレンは先ほど一度覚醒していたが、良く解らないことを口走った挙句クロスに金槌で殴られて昏倒している。彼女が寝かされているベッドは血まみれだったが、アレン自身は既に無傷だった。ノアというものは本当に特殊な体質をしている。
「それよりもまずは実験体にしてやらんと気が済まん。禁酒禁煙の一ヶ月間、どうやってこの小娘を苛め抜いてやるかを空想しながら過ごしたものだ」
「……そうですか」
 神田は溜息を吐いた。もしかしたらアレンを連れ帰ったのは失敗だったかもしれない。






◆◇◆◇◆






 アレンが目を開けた。
 彼女はしばらくぼおっとした顔つきで天井を見ていたが、やがて辺りを確認する動作を見せた。
 神田を見付けるとちょっと驚いた顔になって、首を傾げた。
「……神田?」
「お目覚めか。いい気なもんだぜ」
「……あれ。なんで僕……」
 アレンは眉を顰めて、じいっと神田の顔を凝視した。あんまりにも熱心過ぎて、思わず気恥ずかしくなるくらいにだ。神田は柄にもなく焦ってしまって、アレンからぱっと距離を取った。
「な、なんだてめぇ気持ちの悪い……って、おい!」
 アレンはすっと両腕を伸ばして神田の顔に触れて、目を眇めた。すごく至近距離に彼女の顔がやってきて、作り物めいた白い顔と綺麗な澄んだ目と、柔らかそうな唇が神田の視界いっぱいに映っている。
「な、な、何のつもりだてめ……」
「どうして……僕、なんで貴方が解るの? ちゃんと顔の見分けが……て、ああ! もしかすると、今度は人間がみんな神田に見えるようになったとか?! どうしよう! 僕そんな気持ち悪い世界で生きていける自信ない!!」
「喧嘩売ってんのかてめえは?! おい、なんでもいいからさっさと離れろ!!」
 神田はものすごくショックを受けた顔つきで喚くアレンを、真っ赤な顔でベッドに押し戻した。そして彼女をベッドに押し付けたまま言い聞かせた。これ以上妙な動作をされてはたまらない。
「いいか、お前もう動くんじゃねぇ! おとなしくしてろ! 少しは俺の言うことを聞きやがれ!!」
「え? あ? あ。……い、いや駄目ですよそんな乱暴に、急に、そんな、こ、心の準備が!」
 神田に組み敷かれたまま怒鳴られたアレンは、何故か急に顔を真っ赤にして訳のわからないことを口走りはじめた。これも例の精神錯乱の後遺症だろうか。神田は静かに、アレンの反論を許さずに言い聞かせた。
「ここは黒の教団。意味解るな、ノアの化け物野郎が。てめぇは捕虜だ。敵の生態を調査する為の実験台に使われるんだってよ。は、せいぜい役に立つんだな」
「………………ああ」
 アレンはすごく長い沈黙のあと、すうっと顔から表情を消して、いつもの顔つきになった。見慣れた能面だ。
「捕まっちゃったんですね」
「そうだ。お前の負けだ、モヤシ野郎が」
 せせら笑ってやっていると、背後でぱたんとドアの閉じる音があった。振り向いてみると誰もいない。閉じた扉があるだけだ。
 しばらく経ってから、誰かが慌しく駆け去っていく足音と叫び声が上がった。




「おいパンダ、クロス元帥ー!! リナリー!! 大変さ、ユウがケダモノと化してマウントポジションでアレンの貞操の危機っていうか――!!





「おい待て眼帯――!!!!」
 神田は慌ててドアを蹴り開けて、廊下に向かって誤解だと叫んだが、すばしこい犯人ラビの姿はもう無かった。がっくり膝をついて項垂れていると――クロスに何をされるものか解ったものじゃなかったので――ベッドの上のアレンがひどく冷めた眼差しを神田に投げ掛けてきていた。
「同性に欲情するなんて最低ですね、このホモ。男色変態野郎」
「お前は女だろうが!! それ以前に誰がお前みたいな板きれに欲情なんかするか!!」
 神田は怒鳴って、なんだか虚しい心地になってしまった。アレンは相変わらず神田を怒らせ、疲弊させることに掛けては天才的だった。彼女の立位置が劇的に変わってしまった後も、そこばかりは何も変わりはしなかったのだ。
 アレンも板きれ呼ばわりに微妙に表情を凍り付かせていた。しばらく睨み合った後に、二人同時にぷいっと顔を背けた。人間、エクソシスト、ノアなんて区別を付ける前に、まず相性というものが最悪なのだ。








「何をやっとるんだ、貴様は」
 クロスと顔を合わせるなり、踵を頭に一発食らった。神田もアレン程ではないにせよ「丈夫」なほうで、頑丈さに掛けては自信があったのだが、こんなに重い踵は初めてだ。
「アレンよ、まだ処女か」
「そういう恥ずかしい単語を真面目な顔で言わないで下さい」
「なに? 相手は誰だ。こいつか。それとも誘拐犯どもの誰かか。お前次第では八つ裂きにしてやっても良いぞ」
「だからいりません。そもそもおかしいですよ、僕は男です。ああもう、エクソシストも人間も話が通じないから嫌いなんだ……って、うう、そう言えば家族もあんまり通じてはいなかった気も……」
 アレンはぐったりした様子で俯いたが、すぐに顔を上げ、肩を竦めて両手を広げた。
「さて、それで僕をどうするつもりですか?」
 彼女はふてぶてしく言い放った。居直ってしまったのかと思ったが、良く見れば手が小さく震えている。アレンは虚勢を張っているのだ。
「実験台にでも使います? 先に言っておくと、僕の身体を調べても家族の弱みなんて握れませんよ。性質がまるで違うんです。僕はでき損ないの落ち零れ。それにみんなはそれなりに覚悟のできている人ばかりなので、人質なんて甘ったるい使い方もできませんよ。残念でしたね」
 アレンは人を小馬鹿にするような顔つきでせせら笑い、クロスを睨んだ。
「……できるものなら殺してみて下さい。まあ貴方がたにノアが殺せるとも思えませんが」
 アレンは強がっている様子だったが、言葉のあちこちに諦めた感触があった。
 彼女は死を願っている。あの時もそうだった。神田に縋りついて懇願した。彼女は泣きながら殺してくれと言った。
 アレンが目覚めてからこっちぴり、ぴりしている理由はなんとなく知れた。
 敵の本拠地に囚われていることと、あともう一つ、神田がまだ口約束を守らないことに怒っているのだ。彼女を殺してやるという約束を。
「……元帥。このノアの処遇は俺に任せていただきたい」
 神田は静かに言った。アレンが驚いたように目を開いて、神田をじっと見つめてきた。
 クロスは相変わらず何を考えているのか解らない表情のままだ。彼は腕を組み、煙草の煙を口から吐き出して、「どうするんだ」と言った。
 神田は澱みなく答えた。
「殺します」
「できるのか?」
「約束があります」
「駄目だ」
「失礼ですが聞けません。決めたことを覆すのは俺の信念に反する」
 言いながらアレンを見遣ると、彼女は口と目を丸く開けてぽかんとしていた。
 間抜けな顔だ。敵の幹部がする顔つきじゃない。同じく見ていたクロスがさすがに窘めた。
「年頃の娘がアホ面晒すな。格好つけたかったんじゃあないのか」
「え? あ、ああ。ええ、うん。……あの、神田。その、もういいんですよ。なんだか、その……無理だと思うし。大体思い付くことはもう試しました。でも無理だった。貴方も知ってるでしょう? 僕は神に呪われているんです。神様が僕らとどうしても顔を合わせたくないから、こんなふうにしてるんです。人間がどうこうできることじゃありません」
 アレンはそこで微妙な表情になった。申し訳なさそうな、おずおずとした上目遣いだ。さっきまでの殊勝な顔つきを見ていた神田には意外なものだった。アレンはたまに、こうやって急に素直になることがある。実を言うと、これが最も厄介なのだ。可愛げのない生意気な性質に慣れているところにこういう反応をされると逆に困る。
「……ああ、あ、あり、……ありがとうございます。気持ちだけいただいときますから、その……無理なお願いをしてしまってすみません」
 アレンはひどくしょげた様子で頭を垂れた。だがそいつに頷いて納得できる訳がない。神田はむっつりと口を引き結んで、「そういう訳にはいかねぇ」と言った。
「なんだ、今更怖気づいたかよ」
「そういう訳じゃ……もう、なんで貴方そんなに頑固なんですか! 僕がもういいって言ってるのに!」
「うるせぇ、約束破ったらてめぇはまた泣くだろうが! 泣きながら助けてくれとか言ってやがったくせに!」
「う、ぼ、僕は……!」
 アレンがかあっと頬を染めて神田に何か反論をしようとしたところで、二人の頭に固い拳骨が降ってきた。クロスが呆れ果てたような顔つきでいる。
「ぎゃんぎゃん喚くな。幼児の初恋同士かお前らは。年齢相応の駆け引きってものをしろ。特にポニーテール、お前だ」
 何を言われているのか意味がさっぱり掴めなかったが、神田は仏頂面になって、アレンに告げた。解りやすく言い直してやってだ。
「どんな手を使っても、貴様は俺が必ず殺してやる」
「まったく馬鹿は話にならんな」
 クロスがやれやれと髭を撫でながら溜息を吐いた。アレンも溜息を吐き――クロスとは違う種類の、途方に暮れた感触のものだ――しょげた顔つきのまま、言った。
「ごめんなさい、神田」
「謝るな。大体お前がそうやって素直に――
 素直なアレン=ウォーカーなんて気色が悪い以外の何物でもないと言おうとしたところで、奇妙な感触が神田に訪れた。例によって、アレンへの既視感だ。具体性のない気持ちの悪いもどかしさだ。
 アレンは以前もこうやって神田の前で素直な顔つきを見せてやしなかったか。そしてその時はなんでか意外だなんて思わなかったのだ。
 あれはいつの話だったか。いつも顔を合わせれば睨み合っているはずだ、そんなことがあるはずがないのに、なぜそんなふうに感じるのか。
 結局答えは出ないままで、唐突にスピーカーから流れてきた音声に思考はぶつ切りにされてしまった。




『アクマ来襲! まっすぐこちらへ向かっています! 見たことがないフォルムのものが数体、レベル、能力共に不明!』




「落とし主が現れたようだな」
 クロスがなんでもないように言った。
「返還はしないんですか?」
「モヤシが、馬鹿なこと言ってんじゃねぇ」
 神田はアレンを睨んで吐き捨てた。
「お前はもう離しゃしねぇよ」
 それを聞いたアレンは何故かまた顔を赤くして、項垂れ、溜息を吐いて、
「……絶対このひと女たらしだ……」
「しかも無自覚だ。なかなかやるな」
 クロスと揃って妙な反応を返してきた。
「……? 何の話だか知らねぇが、お前はここでおとなしくしてろ。逃げんじゃねーぞ。……元帥、そいつの拘束はお任せします」
 そして、六幻を掴んで扉を開けた。





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