47:「黒の教団・地下牢獄」




 目が覚めるなり、アレンは殴り掛かってきた。
「……先ほどはどうも。僕生まれてこの方飛び道具にされるなんて初めてですよ」
「良い経験をさせてやったんだ。感謝してもらいてぇな」
「ちょっと前々から思ってたんですが、貴方僕の扱い酷過ぎません? そんなに嫌いなの? 僕が何をしたと言うんです。ちょっとノアでちょっとスパイ活動をしてみたりちょっと貴方が早死にするように呪いを掛けてみたりしてるだけじゃないですか!」
「普通の人間ならそれは殺意を抱く明確な動機になるな。それよりテメエ呪いって何だ! そんなことしてやがったのか?! お前の呪いはなんだか無性に効きそうだから今すぐ止めろ!!」
 二人で取っ組み合って睨み合っていると、頭にリナリーの踵が降ってきた。アレンの頭にはクロス元帥の金槌が落ちている。
「神田、アレンくんにひどいこと言わないの」
「……言いたいことがあるなら口で言えよ。蹴るな」
「わめくな小娘。あまり目に余るとドレスを着せるぞ」
「うっ……それだけは」
 アレンが喉が詰まったように口篭もった。相変わらず女らしいものが苦手らしい。大体こんなに男らしいアレンがドレスを着たとしたら、まるで男が女装しているような姿になってしまうんじゃあないだろうか?
 医務室が静かになったところで、扉が控えめにノックされた。
 顔を出したのは、ぴりぴりした印象の二人の白服だった。彼らはエクソシストに一礼し、アレンを見遣った。その顔には明らかに嫌悪と怯えと怒りが見て取れた。
「失礼いたします。クロス元帥、コムイ室長がお呼びです。その……そこの、「それ」についてのお話を」
「ふむ。行くぞアレン」
「面倒臭いなぁ……」
「私も行くわ」
 リナリーが立ち上がった。彼女はアレンの腕を取り、にっこり笑い掛けた。
「大丈夫。ひどいことはさせないから」
「なあなあ、オレらはー?」
「特にお話は聞いていませんが……」
 白服がおずおずと言った。だが彼らはぴたっとアレンに視点を定めたままだ。猛獣の前に立ち尽くしているような感じだった。
 ラビは「じゃあいいじゃんさ」と朗らかに笑って言った。
「来んなって言われてねーもんな。面白そーだからオレも行こっと」
「しかし、我々が「それ」を連れてくるよう命令を受けていまして――
 白服はごねていたが、神田は嘆息して立ち上がり、アレンを指差して言ってやった。
「お前らの手に負えると思ってんのか? こいつは狂暴で凶悪で危険だ。腹が減ると片っ端から人間を食うぞ。死にたいのか」
「ひ……い、いえ! 是非移送をお願いいたします!」
 白服はびしっと敬礼して了承した。アレンはその遣り取りを見て、溜息を吐いている。
「まるっきり猛獣扱いですね」
「事実だろうが」
「失礼ですね。まあいいです、さあみなさん行きましょうか」
「何で連行されるはずのお前が仕切ってんだよ」
 神田はぼやいたが、アレンに聞いた様子は無かった。こういう所も相変わらずだ。彼女はまともに人の話を聞いちゃいない。






◆◇◆◇◆






 通されたのは談話室だった。既にコムイはソファに着いていて、持ち込んだ書類にサインを入れている。相変わらず多忙のようだ。
 彼は顔を上げてにっこり微笑み、「やあ」と言った。
「久し振り。君がノアくん?」
「はい。ノア一族のアレン=ウォーカーです。以降お見知り置きを、黒の教団コムイ=リー室長」
 アレンは優雅に胸に手を当てて一礼した。上等のスーツ、上等の礼儀作法、どこから見ても非の打ち所のない紳士だ。神田としては、彼女が女性であったなんてことは何かの錯覚なんじゃあないかと未だに記憶を疑ってしまいたくなるのだ。裸の身体なんて見ていなければ――あれはまぎれもない事故だった訳だが――とても信じられなかったろう。
 コムイは「うん」と軽く頷き、「こないだのアレね」と言った。
「けっこうキツかったよ」
「それは何よりです。人類の殲滅とエクソシストの討伐は僕らの悲願ですからね」
 アレンもコムイもニコニコ微笑んでいる。それは薄ら寒い光景だった。殺気だった気配もない。この狸どもめ、と神田は胸中で毒づいた。彼らは神田が最も苦手とする人種だった。何を考えているのかまるで解らないのだ。
「ところで君は千年伯爵の裏切りを受けたらしいけど、それについてはどう思う?」
「そうですね。あの方は不要なものを切り捨てることに何の躊躇いもないし、一度言ったことを覆しもしません。彼が僕を棄てるというのなら、間違いなく僕の役割は終わったってことでしょう」
「家族の人は何も?」
「ええ。彼らも自分の役割というものを良く知っている方々です。僕を切り捨てることに躊躇いはないでしょう。きっと近々イレギュラーをデリートしに来るはずです。一応忠告しておくと、さっさと僕を手放した方が良いですよ。今度は人間の死人だけじゃ済まない」
「自信がありそうだね?」
「はい。僕の兄弟は最強ですから」
「そりゃかなわないなぁ」
 コムイは「あはは」と笑った。アレンも微笑を浮かべている。
「実を言うとね、今回も伯爵側の何らかの罠なんじゃないかなって考えてみたんだ。でもこのこちら側が絶望的な時期に今更スパイなんて必要ないだろう。ボクは君が嘘を吐いているとは思わないよ。君は本当に棄てられたんだ。家族に裏切られてね」
「裏切るなんて心外ですね。彼らにとって、僕はアクマと同じ駒のひとつなんですよ。いらなくなれば棄てるのは当然のことです」
「本当にそう思うのかい?」
「ええ。これまで僕には過ぎたものを沢山いただきました。家族は優しかったし、確かに愛してくれました。感謝こそすれ、僕が彼らを恨む資格なんてありません」
「君はいつかは棄てられると知っていた?」
「はい。知っていました。僕は聖域において常にイレギュラーでしたから、いつかはこんな日が来ると理解していました。覚悟はできていました。だから全然悲しくも寂しくもありません。僕はただの道具なんだから、そんなふうに感じることがあるわけがない」
 アレンの声には相変わらず殊勝な憎たらしさがあった。人を小馬鹿にする性質の悪いものだ。わざとらしい薄笑いが浮かんでいたが、そこに感情は見えない。能面の無表情となにも変わらない。
 でもアレンの目からすうっと涙が零れた。彼女は感情なんかなんにも感じない顔のまま泣いていた。
 コムイは気付かないふうを装いながら「君の処遇だけどね」と言った。
「お偉方は非常に君を欲しがっている。団員たちは君を憎んで畏れているだろうけど、今は圧倒的にこっち側の不利なんだよね。何か戦局を覆す要素が欲しい。で、君はそれになり得るかも、て大元帥の方々は考えられたんだよね」
「僕に人間のために働けと? 冗談でしょう」
「これから何かアテはあるのかい?」
「人間に飼われる以外なら何だって構いませんよ」
「君はなんで棄てられる羽目になったんだい?」
「……べつにそんなこと貴方に関係ないじゃ」
「スピーカーから聞こえたよ。君は人間を救ったんだ。エクソシストを護った。そのせいで棄てられた。ねぇアレン=ウォーカーくん、君自身は本当は人類の終焉なんて望んじゃいないんじゃあないのかい?」
「……そんなことは、だって僕は人間なんかみんな大嫌いで」
「君は本当は人間のことが好きなんじゃないのかい? だから助けたんだ。でも他の家族に嫌われて棄てられるのが怖かったから、今まで「人間嫌い」を演じていたんじゃないのかい?」
「……馬鹿馬鹿しい話です。貴方がた人間が僕ら父子に行った仕打ちを思えば――いや、どうでも良いことだ。僕は貴方がたなんか知りませんよ。勝手に戦って勝手に死ねば良いんです。どうせどう足掻いたところであの方の物語の結末は変わりません」
 アレンはふいっと顔を背けて、不機嫌さを隠しもせずに退室しようとした。
「失礼します」
 その背中に向かって、気だるそうにソファに足を組んで座っていたクロスが声を掛けた。
――アレンよ。マナも人間だ」
「……失礼します!!」
 声を荒げて、アレンは乱暴にドアを開けた。





 談話室の外、廊下には何人もの団員が集まっていた。
 彼らは皆敵意と殺意と恨みの篭った目つきをしていた。彼らの視線は纏まってアレン=ウォーカーに向かっていた。
「化け物め!」
 誰かがアレンを詰る。それをきっかけに罵声が次々に上がり始めた。瓦礫の欠片まで投げ付けられる始末だ。
「仲間を返せよ! 俺の友達はお前のせいで死んだんだ」
「裏切り者め!」
「お前なんか死んじまえ!」
 アレンは反応しなかった。何も感じていない様子だった。それは人間を見下しているようにも見えたし、まるで大勢の人間に罵声を浴びせ掛けられることに慣れているふうでもあった。
 やがて先走った者がアレンに殴り掛かって行った。




 半分暴徒と化した団員がざわめいた。彼らは驚愕に目を見開いていた。
 アレンが何かをしたって訳じゃない。
 ただ彼らはエクソシストの神田が、ノアのアレンを護るようなかたちで、彼女に襲い掛かっていった白服を殴り飛ばしたことに驚いているようだった。




(……俺は、何をしてる)




 神田は驚いて自問した。ぶん殴ったサポーターの男は完全に伸びきっている。
 他の団員も揃って驚いたような顔つきでいるし、問題のアレン本人もそんな感じだった。彼女もまさか神田に庇われるとは予想外だったようだ。
 談話室の中のエクソシストは特に意外な顔もせず、静かに座っていた。コムイもなんだか納得がいったような表情でいる。
「エ、エクソシスト……?」
「エクソシストが何でノアを庇ったんだ?」
 先ほどとは別の種類のざわめきが生まれている。神田はまだ戸惑っていた。
 何故アレンを庇った? 彼女が激昂した団員に殴られようが蹴られようが何ということもないはずだ。どのみちノアが人間ごときに殺せるはずはない。
「……ほんとバカ……」
 アレンがはあっと溜息を吐く気配があった。彼女は肩を竦め、顔つきをがらっと見下すようなものに変えて、団員たちに向かって「見てのとおりですよ」と言った。
「ノアの能力を持ってすれば、人間ごときを操ることなんてわけもありません。今のように貴方がたの信頼するエクソシストだって例外ではない。お前たちみんな纏めてアクマにして差上げましょうか? 特にそこの今殴り掛かってきたお前。顔を覚えました。後で覚えてろ」
「ひっ!」
 団員たちは凍り付いたようになって、やがて後ずさった。彼らは怯えていた。
 そこにようやく億劫そうにソファから起き上がってきたクロスが現れ、右手に構えた金槌で思いきりアレンの頭をぶん殴った。
 彼は手早くアレンを昏倒させ、団員たちに良く通る声で告げた。
「見た目に騙されて無闇に刺激するな馬鹿者ども。こいつはこんななりだが、アクマどもより更に凶悪で狂暴だ。不死身の化け物だ。どうやっても殺すことができんから、逆に利用してやることにした。現在科学班の総力を結集して洗脳作業を行っている。成功すれば我々の対アクマ戦最終兵器になるだろう」
「ほ、本当ですか!」
「元帥がそう言われるならその通りなんでしょう」
「伯爵に殺されずに済むのか!」
 団員たちの表情が一変した。そこには戸惑いと一緒に、僅かな希望が見えた。
 クロスはすっと手を翳し、「総員持ち場に戻れ」と命じた。
「エクソシスト神田よ。こいつを地下牢へブチ込んで見張っとけ。精神操作は一瞬のものだろう、問題はない」
「…………」
 やがて団員達の姿が見えなくなると、クロスは面倒そうに顔を顰めて頭を掻き、煙草の煙を吐き出して、
「まったく馬鹿娘が手間を掛けさせる。だからここは嫌いなんだよ」
 忌々しい調子でそう言った。
 彼が教団を嫌う理由のひとつだろう、それに少しは共感したが、それよりも気に食わないことがあった。アレン=ウォーカーだ。彼女があんなふうに尖った物言いをした理由はさすがに理解出来ていたから、それが神田には余計に腹立たしかった。
 アレンは神田を庇ったのだ。






◆◇◆◇◆






 元帥の命令通りにアレンを地下牢に放り込んだ後、神田は六幻を抱えたまま牢の扉に凭れ掛かって座り込んだ。見張りは他にいない。適当に言いくるめて追い散らしてやったのだ。
 地下牢はほとんど使われた様子がない。教団が設立された当初、支部すら存在しなかった百年前ならともかく、現在は投獄されるような人間は別の施設に移送されることが多い。
 染み出してきた地下水が天井からぽつぽつと水滴を落としてくるし、不揃いの石が敷き詰められた壁には苔まで生えている。そのくせまだ時間が押し流しきれない血と糞尿の臭いが微かに残っている。
 牢屋の中のアレンは、神田と同じく扉に凭れて座っているようで、一枚の鉄板を隔てたすぐ向こうから声が聞こえてきた。
「余計なことはしないで下さい」
 相変わらず抑揚がなく、無機質な声だった。まったく可愛げというものがない。
「うるせぇ、てめぇの為なんかじゃねぇよ。思い上がるな。弱い奴らが群れてやがるのが大嫌いなだけだ。――それより何故あんなこと言った。てめぇの精神操作なんてしょぼいものに引っ掛かる間抜けはサポーターどもだけで充分だ」
「もしかしたら本当に僕が貴方の心を操作してるのかもしれませんよ。お忘れですか? 僕はノア一族。貴方の敵です」
 アレンの声には棘々したものが含まれていた。彼女の声は平坦でこそあったが、かなり気が立っているようだ。
 普段なら神田を怒らせるようなことばかり言う。だが神田としては、彼女の相手をしてやるような気分では無かった。暗くて辛気臭い地下牢で口喧嘩なんて気の滅入ることは御免だ。
「どうでもいい。どのみちお前を殺せばそれで済む。付き合ってられるかよ」
「……相変わらずそっけない方ですね。それよりもうあんな馬鹿な真似は本当に止めて下さい。迷惑です。貴方ただでさえ素行が悪くて彼らに良い目で見られてないのに、この上ノアを庇ったなんて話が広がったら大変なことになりますよ」
「てめぇに心配なんざされたくねーよ、モヤシ野郎が。他人の心配してられる立場かよ。お前は自分の心配でもしてな」
「……それもそうですねぇ。狭いしじめじめしてるし、ア……アレとか出そうだし……いや、まあ、うん、最悪ですね。地下牢なんて入るもんじゃない」
 何か思うところでもあったのか、アレンの声に震えが混じった。『アレ』とは何なのか気になったが、思い当たる所もあったので意識して突っ込むことはしなかった。確かに暗い回廊、かつて無数の罪人が責め殺されたであろう区画、湿気と人気のなさから連想するものと言えば一つしか無い。
 神田はさっさと話題を変えてやった。
――それよりもさっき言ってたのは何だ。人間がお前ら家族にした仕打ちだと?」
「あ、ああ。覚えてたんですか」
 アレンは意外そうなふうだった。少し沈黙して、今の家族の話じゃないんですよ、と言った。
「養父マナと一緒に旅をしていた頃のことですよ。……三度、火炙りに遭いました。魔女とか、悪魔とか言われてね」
 アレンは自嘲めいたふうに言って、ちょっと笑ったようだった。彼女は「随分昔の話ですよ」と付け加えた。
「その度に僕を護ろうとした父さんも暴徒の私刑を受けました。ほんとの両親ですら僕を愛しはしなかったのに……あの人も僕なんかにはさっさと見切りをつけて棄ててしまえば良かったのに、そうせずにいつも僕を愛してると言って下さいました。
あの人は何も悪く無いのに、僕が殺される度に「護れなくてすまない」って謝るんです。ずーっとそばにいてくれるって言うんです。でも僕なんかを拾ったせいで、いつも逃げるような生活をさせてしまって、結局身体を壊して死んじゃった。
クロス=マリアンのせいじゃない。あの人を酷い目に遭わせた人間たちが悪かったわけでもない。マナが死んだのは僕のせいです。彼に約束を破らせたのも。……貴方がたもさっさと僕を棄てないと死にますよ」
 アレンの声は相変わらず平坦だった。彼女は感情を抑えているわけじゃあない。ただ絶望しているのだ。
 神田は何も言わずに黙り込んでいた。具合の悪い沈黙が流れる。人間の声が無くなると、途端に静寂の中に奇妙な音が響き始める。地下水が床に落ちる音、鼠の走る音、隙間風の音、他にも正体の知れない物音たちが。
 アレンは徐々に不安になってしまったようで、ふてたようなことを言っていたくせに、おずおずと神田に呼び掛けてきた。
「……あの。神田?」
「…………」
「そ、そこ、いますよね? ちゃんとほら、見張っておいて下さいよ。貴方がいなくなったら僕逃げ出しますよ。危ないですからね。いやほんとに」
「…………」
「な、なんか喋って下さいよ」
「御免だな」
「は、はい?」
「お前を手放す訳には行かない。それに約束もある。逃がすかよ」
「はあ。でも貴方が僕をこんな不気味なところにほったらかしにしたらすぐに逃げますからね」
「怖いのかよ」
「こ、怖いわけないでしょう! 僕はノアですよ。こんなの慣れてます。家に気持ち悪いアクマなんてのがごろごろしてるし、暗いし――
「おいモヤシ。そう言えば言い忘れてたが、その部屋の天井には死刑にされた人間の顔が浮き出た跡があるぞ」
「ぎゃあああ! そういうこと言わないで下さいってば! 今晩怖くて眠れませんよ!!」
「フン、馬鹿が」
 せせら笑ってやると、アレンはどうやらからかわれたらしいと理解したらしく、静かになって、「ひどいです」とぽつりと言った。
「そういう冗談はあまり好きにはなれませんね」
「格好つけて言ったって様になるかよ。ガキが」
「ガキじゃありません。アレンです」
 アレンがふてくされたふうに言った。彼女は子供扱いされると途端に拗ねてしまうようだった。それが子供っぽいんだと思ったが、彼女は自覚というものがいささか足りないようだ。
 牢に入れてやってからしばらくして、アレンがふと思い付いたように言い出した。
「ところでそう言えば、僕貴方に貸しがあるんですけどね。さっきだってアクマから助けて差上げたでしょう? 借りを返すのは当然のことだと思うんですけど」
「……相変わらず性質悪ぃなお前は」
「誉め言葉と取ります。ちょっと手を貸して下さいませんか」
「は? 脱獄の手伝いなんざしねぇよ」
「そういうんじゃないですよ。ただ言葉通り、こっちに手を差し出せば良いんです」
 訳が解らなかったが、神田は渋々言われた通りにしてやった。面白く無いことに確かに彼女にはいくつか借りがあった。それ以上に迷惑も掛けられていたが。
 また何か企んでいるんじゃあないかと勘ぐってみたが、どのみちアレンがその気になれば地下牢を抜け出すことくらい容易なのだ。彼女はノアだ。人類最強の生物なのだ。
 アレンの言う通りに、牢の扉の下のほうに設置されている、食事を配給するための小窓から手を差し出してやると、小さくて冷たい彼女の手のひらが神田の手をきゅっと握った。
「な……何やってんだ!?」
 神田は柄にもなく狼狽して、慌てて手を引き抜こうとした。でもびくともしない。そう言えばアレンは馬鹿力が取り柄だったのだ。彼女は悪戯っぽく「離しませんよ」と言った。
「ちょっと手、繋いでて下さい。それだけでいいです。それで貸し借りチャラですよ。すごく簡単なことでしょう?」
「チッ……」
 神田は舌打ちして、色々なものを諦め、おとなしくアレンに付き合ってやることにした。
「お前は本当に何考えてるのか解らねーよ」
「光栄です」
 相変わらずアレンは可愛げのない口をきいている。そのくせほっそりとした感触の手のひらから伝わってくるのはかすかな震えだった。また虚勢を張っているのかもしれない。彼女は傲慢なくせ、妙なところで打たれ弱い印象があった。また家族のことでも考えているのかもしれない。
(……心音早えな)
 アレンの手に触りながら、神田はぼんやり考えた。手のひらを通して伝わってくる彼女の心臓の鼓動は早くて、まるですごく小さな落ち付きのない動物のものみたいだ。もしかすると人間とノアは心臓の打ち方まで違うのかもしれない。
「……神田」
「なんだ」
「僕に付き合って下さってありがとうございます」
「勘違いすんじゃねぇ。命令だ。これも任務だ」
「うん、ですよね。でも嬉しいんです」
「アホか」
 神田はふいっと頭を振り、鉄の扉に体重を預けた。アレンの手は冷たい。





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