48:「死に往くもの」




 急に激しい揺れがやってきた。はじめに強い衝撃があり、続いていくつか散発的な震動が訪れた。
「あれれ。またあいつら来ちゃったみたいですよ。僕も相当人気者ですね」
「……やはりさっきのアクマは斥候か。たった三体で来る訳ねぇとは踏んでた」
 神田は立ち上がり、アレンに言い聞かせておいた。
「絶対逃げるんじゃねえぞ」
「おや。僕を信用して下さるので?」
「信用なんざしてねぇ。ただ逃げたら承知しねぇってだけだ」
「はいはい。早く行くが良いですよ。リナリーに怪我なんかさせたら許しませんよ」
「てめぇは……まあいい、すぐに戻る」
 神田はアレンの相手をさっさと切り上げて(まともに構っていたらきりがない)足早に牢を離れた。
 長い回廊を行きながら、無線ゴーレム越しの通信に耳を傾ける。どうやら混線しているようで、様々な音が一緒に流れてきた。



『……い、早く持ち場につけ!』
『やっぱりまたさっきのノアがらみなのかな……やだなあ、疫病神だよあいつ』
――い! ユウってば! ――はそのまま――レン――ろって! 上は任せ――




「ラビ? 状況はどうなってる。おい!」
 騒音が激しくて目当ての声が上手く聞き取れない。苛々していると、何か探し物でもしているような様子で、白服が地下回廊に飛び込んできた。
「あ、エクソシスト。 大変です、上がなんかもう襲撃されてめちゃめちゃっすよ。 今元帥の命令で城内の通信整備をやってんですが、この辺はどうですか?」
 神田は頷き、「問題ない」と言った。
「混線がひどいが大丈夫だ。持ち場に戻れ」
「はーい」
 サポーターの男は、こんな状況でもどこか気楽な様子で手を挙げて頷いた。神田は思わず顔を顰めてやったが、彼に気付いた様子はなかった。
「あ、そだ。すいませーん。神田さーん? 地下水路はどっちっスか?」
「……奥だ」
「うっす」
 そのまま男はつかつかと歩いてやってくる。なんだか癖のある足音だった。よたよたと頼りなく歩いているくせ、靴音だけはしっかり整っている。
 ふいにがんと激しい音が鳴った。後ろからだ。アレンの牢屋からだった。
 また厄介なことでも仕出かしているのかと辟易して、何か言ってやろうとした矢先、アレンが鋼鉄製の扉を叩いて叫んだ。
「か、神田! 駄目逃げて、その人に近付いちゃ駄目です!!」
 彼女の言葉が終わらないうちに、すれ違った白服がひょいっと手を動かしたのが見えた。彼が気楽に上げた手には、いつのまにか濃いピンク色をしたグロテスクな固体が摘まれていた。
「今までご苦労さん。さよなら」
 急速に目の前が暗転した。一瞬だけ見えた白服の横顔は、フードに隠れていて上半分が見えなかったが、その口は耳まで裂けていた。柔らかい心臓を握り潰すぐしゃっと言う音と、アレンの悲鳴がどこかで聞こえたような気がした。






◇◆◇◆◇







「すいませーん。地下水路はどっちっスか?」
 牢獄の中で蹲っていると、懐かしい感触の声が聞こえた。耳を傾けると、どうやら神田と誰かが話しているようだった。
 それから足音が聞こえてきた。すごく慣れ親しんだものだ。アレンは血相を変えて、両手の拳でドアを叩いて絶叫した。
「か、神田! 駄目逃げて、その人に近付いちゃ駄目です!!」
 アレンの感覚と記憶に間違いなんてあるはずがない。焦燥しながら力任せに扉を破って外へ転げ出ると、最も見たくない光景がそこにあった。
 良くあるものではあった。兄弟ティキ=ミックが敵のエクソシストを殺している。今まで何度も何度も見てきた。
 でもアレンは声にならない悲鳴を上げて、まるでスローモーションみたいにぶれた世界の中で、ゆっくりと倒れていった神田に駆け寄った。
 彼に外傷は特には見当たらなかった。彼の目は開かれたままだった。
 彼の身体を抱き――まだ生きている時と同じように温かかったが、まるで石のようにずっしりと重かった――アレンは叫んだ。
「神田……神田ぁあっ、うわあああああッ!!」
 もう痛みなんか感じることもなくなったのに涙が溢れてきた。これは何かの間違いなんだと思い込もうとした。
 ティキが誰かを殺し損なうなんてことがありえないのは知っていたし、神田がエクソシスト、敵であることはもう随分前から理解していた。彼の隣にはいつも死の影があった。
 でもそんなことがありえるはずないと思っていたのかもしれない。どうだって良いものが壊れるのにはもう慣れっこだったが、身近な人間の死というものに鈍感になっていたのかもしれない。
 でもまさか神田ユウが誰かに殺されるなんてことがあるはずないと、アレンはどこかで思っていたのだった。それは矛盾していた。でもこの意地が悪くて性根が曲っていてぶっきらぼうで、そのくせ不器用に優しいところもある男がまさかいなくなってしまうなんてことは、想像もつかなかったのだ。
 蹲っているアレンに、ティキが言う。彼の声もいつもと変わらない。
「これでもうそっち側にお前の特別はなくなったよ」
 本当にいつものままだ。「夕飯のメニューだよ」や「ドレスを着なさいよ」や「お前は俺の自慢の可愛い妹だ」なんて言葉と同じ調子で言う。
 確かに、ティキはおかしくない。おかしいのはアレンだ。人間が死んだことに激しく動揺しているアレンのほうなのだ。
「公からの最終通達だ。元帥の心臓を持ってくればお前の失敗は水に流してあげるってさ」
「ティキ……」
 アレンは震え声で呟いた。神田が動かない。血も零れていないのに、彼の体重は死体の重量に変わり果てている。心音も聞こえない。さっきまで手を繋いでいた時はあんなに温かかったのに、もうそれも段々散りはじめている。
「良い結果を祈ってるよアレン」
――貴方なんか大嫌いだ!!」
 アレンは吐き棄ててばっと顔を上げた。
 でももうティキは暗い回廊のどこにもいなかった。






◇◆◇◆◇






 まず、部屋に飛び込んできた時点で、彼女はひどく焦燥した顔つきだった。まったく人を馬鹿にしきった無表情以外にそんな表情もできたらしい。
 科学班の面々は皆一様に手を止めて――こんな状況であるにも関わらずだ――乱暴に開いたドアのほうを向いて顔を引き攣らせている。彼らにとっては彼女、アレン=ウォーカーも教団外部で暴れまわっているアクマどもも何も変わりはしないのだ。
 アレンは背丈がいくらか彼女よりも高い男を背負っていた。先ほど彼女の見張りを命じたエクソシストの神田だ。外傷は見当たらなかったが、妙に生気というものが感じられない。
 アレンは忙しなく周りを見回して、クロスを見付けると、ぼろぼろに泣きながら駆け寄ってきた。
――おじさまぁっ……! 兄さんが……あの人がやって来て神田を、……たすけて!」
 クロスは理解した。似たようなことが以前何度もあったのだ。
「イェーガー元帥を殺った奴だな」
「……生き返らせてっ……!」
「無茶を言うな。お前じゃないんだ」
 だがアレンに聞き分けた様子はまるで無かった。彼女自身は理解しているはずだ。アレンはマナを看取ったし、彼の死を受け入れている。だが今はこうやって駄々っ子みたいに突っ掛かってくる。彼女はじっとクロスの目を見ながら言った。
「……僕がかわりに死にます」
「生命を分け与えることはできない」
「なら死のエネルギーを受け取ることはできるでしょう?!」
 アレンは癇癪を起こしたように叫んで、神田の身体をぎゅっと抱き締めた。彼女はひどく震えていた。顔には恐怖があった。置いてきぼりにされることを怖がる小さな子供の怯えが。
「今から二十年前に貴方がたが行っていた研究があるはずです……アクマの魂の循環システムを利用して考え出された、神の使徒の損傷をサポーターに転移させるあれですよ。機密データを見つけた時に知ったんです。完成間際にあまりにも非人道的過ぎて、実験は凍結されたんですよね」
 アレンは息を詰まらせて噎せた。まだ泣いている。唇を噛み締め、すうっと息を大きく吸って、彼女は震え声で言った。
「僕ならやれます。かわりに死ねる。お願いです、神田を助けて」
 なりは大きくなったが、アレンはまだほんの子供だった。まだ十五だ。
 伯爵にちやほや甘やかされて育った我侭な娘だ。方法次第で世界は何だって自分の思い通りに動くと信じている。
 確かに、データ自体は正しかった。でも気に入らない。「そのこと」を、アレンが理解しているのかどうかも怪しい。もし手順が全て上手く行ったとしたら、そいつが彼女の利用方法のひとつとして組み込まれてしまうのだということを。
「何故そこまでそいつに執着する。お前には人間なんてゴミみたいなものじゃあなかったのか?」
「……だってこの人、僕の初めての友達ですから。それに――
 アレンは俯き、何事かをもごもごと言った。
 クロスが何を言っても聞き分ける様子は無かった。
 だから俺はガキが嫌いなんだとクロスは考えた。マナも大概良く解らない男だ。彼はこんな甘ったれで意地っ張りの厄介な子供を、ほとんど崇拝してるんじゃないかというくらいにまで手なづけてしまったのだ。
 クロスは肩を竦めて、円算機の前に陣取っている団員を呼んだ。手は動かし始めているが、意識と視線は相変わらずノアのアレンに集中している。
「おいそこのお前、ボンヤリしてる暇があるなら機密録を持って来い。死体の保存作業も急げ。生き返った時に肉体が腐ってたら、それはそれで面白いが具合が悪かろう」
「おじさまっ……」
 アレンは顔を上げた。彼女の顔には絶望に混じって、僅かな希望が見て取れた。
 相変わらず彼女に自分の損害について考える様子は見えなかった。いつでもそうだ。マナのため、家族のため、誰かのためにはさっさと命を差し出すくせに、彼女自身はもう痛みすら感じることができないのだ。彼女は愚かだ。あまり頭が良いほうではない。だから彼女は誰かに利用され続ける。そこにアレンの意志はない。
「条件がある」
「え……?」
「この戦闘で膨大な死者が出るはずだ。サポーターもエクソシストも分け隔てなく死ぬ。お前が「こちら側」に口出しするつもりなら、そいつを背負う覚悟があるか。教団も伯爵も裏切って好きなことやってるだけじゃ、お前はただの蝙蝠野郎だ。いつまでも泣いている場合かこの馬鹿娘。どちらにつくのか覚悟を決めろ」
 アレンにはもう迷う気配もなかった。彼女は直情的な性質をしているのだ。頷く手間ももどかしいふうに、クロスの腕を掴んで急かした。
――早くやって下さい、急いで。その人がこちらに帰ってくるなら、僕は何度でも死ねる。舐めないでください。覚悟くらい僕にだってできる。そんなの全然大した事じゃありません」
「……良い返事だ」
 クロスは鷹揚に頷き、団員が持ってきた記録に目を通した。長年誰の目にも留まらずに放棄されていた表紙には、うっすらと埃が溜まっていた。紙も黄ばんでいた。だが内容は相変わらずだった。表面には赤いインクで『研究凍結指令有り』と記されていた。
「……神田は助かりますか?」
 アレンが不安そうな顔で訊いてきた。クロスは「お前次第だな」と適当に相手をしてやりながら、珍しく可愛げを見せるアレンに逆に訊いてやった。
「そんなにこの男が大事か」
 思えば彼らの間にどういった繋がりが存在するのかは知らない。アレンは面食いな性質でも無かったろう。だがどうやら彼女はかなり神田ユウというエクソシスト、敵であるはずの人間を気に入っているようだった。
 アレンはそんなふうに訊かれるのが意外だったらしく、ちょっと驚いたように目を軽く見開いたが、素直に頷き、小さな声で、まるで独り言でも呟くような具合で言った。




「……だってこのひとはこんなでも、子供の頃からずっと憧れていた――僕が初めて好きになった人に違いはないんですもの」








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