49:「幻影の行進」




 白い霧が立ち込めている。薄明るくて、噎せ返りそうになるほど湿気が濃かった。辺りには大して特徴のないものが並んでいた。高い塔、閉鎖された商店街。ともかくすごく陰気で気が滅入ってしまうところだった。周りの人間は一言も口を聞かずに背中を折って俯き、あるものは群れて蹲っていたり、あるものはぼんやりした様子で歩いていた。
 なんだか見覚えがあるところだった。神田ユウは、気が付いたらその場所にじっと立ち尽くしていた。それまで何をしていたのかは上手く思い出せなかった。
「……ここはどこだ」
 独り言だったが、意外なことに返事が返ってきた。
「ロンドンですよ。遠くにすごく特徴的なものが見えるでしょうが。ほら、あれ、ロンドン塔。ボケてるんですか?」
 耳慣れた声で、神田は思わず顔を顰めて声のした方を睨み付けた。彼女、アレン=ウォーカーは階段上の石の柵に凭れ掛かっていた。気安い様子で身を乗り出して神田を見下ろしている。
「てめぇか、モヤシ。何をやってる。今度は何を企んでる?」
「貴方僕が常になにか良からぬことを考えてるとか思ってません? まあいいですけど」
 アレンは呆れたような顔つきになった。彼女は鉄柵に上り、飛び降りて、いささか行儀悪く神田のそばまでやってきた。そして身体の後ろで腕を組んで、首を傾げ、何をそんなにぼんやりしているんですか、と言った。
「一人で先々行かないで下さいよ。追い掛けるほうはたまったもんじゃないんですから」
「ならついてくんな」
「ほら、サポートしてあげますから」
「信用ならねぇ」
 神田はそっけなく言い捨てて、アレンを置いて立ち去ろうとした。彼女に関わると大体がろくなことにならない。だが、うしろからぎゅっと手を掴まれて、それは叶わなかった。
「駄目」
「……は? ふざけんなよ、何が駄目なんだ」
「駄目です。行っちゃ駄目」
 アレンは俯いて、お願いですから、と言った。彼女はいつものように冗談を言っているふうでも無かった。
「死んだら許しませんから」
「……何を言ってる? 大体、てめぇはなんでいつもそんなふうに俺に馴れ馴れしく纏わりついてくるんだよ。相手して欲しいなら他の奴を当たれ」
「……貴方じゃなきゃ……」
「……あ?」
「……からかっても面白くありませんし」
「それかよ」
「まだ一度も名前を呼んでいただいてませんし!」
 アレンは意地を張るように言って、ふいっと顔を背けた。
「ともかく、帰りましょう。みんな待ってる。貴方のお友達のラビもリナリーも、他のエクソシストも、室長のコムイさんも。団員の中には貴方を笑う者もいるでしょうけれど、そいつらは後で僕がシメといて差上げますから。こんなところをうろうろしてるほど貴方は暇ではないでしょう? 人間に与えられた時間は少ないんです」
「こんなところ……」
 神田はぐるっと辺りを再度見回した。どこかで見たことがある風景だ。何度か来たことがあるような気がする。神田が外出するなんて任務以外の理由では考えられなかったから、おそらくいつかのアクマ討伐の時のことだろう。





 遠くから駆け足で子供がやってくる。彼らは周りの人間のように沈み込んだ様子がなかったが、その存在自体がうっすらと透き通っていた。
 どれも見慣れた顔つきで、今神田が良く知っているものよりも随分若かった。まだ子供と言っても良かった。
『オレが一番!』
『てめーは卑怯なんだよ! 槌使うんじゃねぇよ!』
『うー……ま、まって……』
『リナリー! お前もモタモタしてんじゃねぇよ! ったく、だから女はイヤなんだ――
『アホ! ユウコラリナリーに何てこと言うんさ! リナリー? だいじょぶか? ちゃんと見てるからはぐれないってば、だいじょぶ。おいユウ、リナリーになんかあったらオレら生きて明日の太陽拝めないさ……コムイ的なもののせいで』
『ごめんね、ふたりとも……』
『……ぐ。し、仕方ねぇな。一分待ってやる。さっさと来い!』




 子供たちはすうっと神田とアレンの横を通り過ぎて行った。随分昔の光景だった。
「皆さん可愛いですねぇ、特にリナリー。僕今ちょっとほんとに昔の貴方の首をへし折りそうになりましたよ」
 アレンは朗らかに冗談じゃあないことを言ってのけて、それからちょっと羨ましそうな顔で、「貴方がたほんと仲良いんですね」と言った。
「ふたりのこと、すごく好きでしょう? 何だかんだ言って、貴方ラビとリナリーにはすごく優しいもの」
「ふ、ふざけるな。別にそんな訳じゃ……腐れ縁だ、別に俺が望んだわけじゃねぇんだよ」
「そんなこと言って神田、すごく顔赤くなってますよ」
「な……も、モヤシ野郎! てめぇ喧嘩売ってんのか?」
「いえいえ、誉めてるんですよ。ちょっと妬けてしまいますね」
 アレンはふわっと微笑んで、「彼女のことが好きなんですね」と言った。神田はアレンの言いたいことが読めず、顔を顰めた。
「何のことだ?」
「貴方にも一人前に女の子を意識する機能があったんだって感心してるんですよ。いいですか? リナリーは非常にデリケートなんです。ちゃんと大事にしてあげて下さい。他の子に――確かに女性という美しい花に囲まれていては目移りするのは理解できますが――思わせぶりな態度も取らないこと。それにしても少し安心しました。貴方あんまりにも女性に興味を示さないから、剣しか愛せない無機物愛好者か同性愛者かどっちかじゃあないかってちょっと心配してたんですよ」
「……お前もしかして物凄い無礼なことを言ってないか?」
「はは、まさか。僕が貴方にそんな失礼なことなんて言うはずないでしょう。馬鹿じゃないんですか?」
 「失礼なことなんて言うはずない」という口で無礼な暴言を吐く。アレンらしかった。






『おーい、神田よい! ったくあのこまっしゃくれたクソガキャア、どーこ行ったんじゃん』
『日が暮れる前に見つかれば良いが――





 兄弟子がすうっと通り過ぎていく。彼らも先ほどと同じく、意外なほどに若く、まだ子供っぽいとさえ言っても良かった。でも彼らの遣り取りは現在と大して変わらなかった。そういうものなのかもしれない。




 過去から現在まで、神田に関わった全ての人間が一方向に通り過ぎていく。彼らは生気に満ちているくせ、ほとんど透明人間みたいだった。
 そろそろ思い当たることがあって、神田はアレンに静かに問い掛けた。
「……俺は死ぬのか」
「いいえ」
 アレンは「何を馬鹿なことを」とでも言うふうな呆れた顔つきで、頭を振った。
「させません。ずるい」





『……か、神田さんはずるいです。男の子だからって、そんな怖い顔したってだめです! ぼ、僕なんにも悪いこと言ってないです。ただ名前を呼んで欲しいって――
『うるさい。おまえなんか白髪かガキで充分だ』
『ううっ、なんでだめなの……?』
『うるさい。駄目だから駄目だ』




 随分若い神田が幼い白髪の少女を連れて歩いていく。少女の顔の左半分には特徴的な痣がある。神田はふっとアレンを見た。彼女は特になにも感じていない様子だった。
 その顔の左半分には特徴的な奇妙な痣がある。





『あの……絶対だめですか?』
『駄目だ』
『う……理由くらい教えて下さい』
『俺は初めて顔を合わせた人間に馴れ馴れしくされるのは嫌いなんだよ』
『あ……はい、ふつうそうですよね……すみませ、ぼくいつもはこんなんじゃ』
『次に遭えたら』
『……え?』
『……だから、次に遭えたらお前の名前を呼んでやっても良いって言ってるんだよ』
『え、ほ、ほんとに? ほんとですか!』
『嘘なんかつかねぇよ。ま、もう二度とお前みたいなチビとは関わらないだろうけどな』
『だいじょうぶですよ、自転車に乗れるようになったら教えてあげるって約束しました! だからきっとまた遭えます』





『あの子お前のこと好きだったんじゃん? 賭けてもいいね』
『そ、そんなことあるわけ――
『顔真っ赤じゃん』
『デイシャ、やめてやれ』





「あれれ、知ってました?」
 アレンが面白い演劇でも鑑賞しているような顔で、白髪の少女を指差して微笑んだ。
「この子、貴方が初恋の相手なんですって。貴方あまり人に好かれるような感じじゃないのに、意外ともてるんですねぇ」
 まだ幼い少女はすれた様子もなく、綺麗な目をしていた。暖かい感触があった。生きている人間の目だ。そこには未来への希望があった。純粋だ。少女らしい柔らかな光がある。
 今のアレン=ウォーカーにはあまり似ていなかった。
 アレンは肩を竦め、過去そうあったはずの自分の姿を馬鹿にするように見遣って、つまらなさそうに言った。
「ま、今は違いますけどね。まったく子供ってのは気楽ですね。現実ってものがさっぱり見えてない。――誤解されては困りますから言っておきますけど、僕は家族に嫌われようが棄てられようが、誇り高きノア一族の超人です。エクソシストなんか死んでも好きにはなれませんから」
 アレンは固くて無機質な声で言った。
「貴方などもうこれっぽっちも好きなんかじゃありませんから」





 神田は静かにアレンを観察した。面影はあったが、彼女にはあのふわふわした少女めいた印象と、引っ込み思案な性質はなかった。凛として、まっすぐ立ち、少年らしいシャープな存在感があった。でも彼女は少年ではない。
「……お前、あのガキか」
 アレンは黙り込んで答えなかった。ただつまらなさそうな顔つきをしていた。





 やがてアレンは気だるげに溜息を吐いた。肩を竦め、ちょっと笑い、「全部今更のことでしょう」と言った。
「忘れましょう」







BACK ・ TOP ・ NEXT