57:「ひかり」




 はじめのうちは目の錯覚だと思った。
 倒れたアレンの顔が、ちょっと笑っているみたいに見えたのだ。
 あの木偶人形みたいな姿を見てしまった今はうまく信じられなかったが、どうやら見間違いの類ではないようだった。
 アレンの唇がうっすら開いて、意志のある言葉を吐いたからだ。
「……そんな顔をしないで下さい。こんなの平気です。もう慣れているんですから」
 ひどく眠そうなぼんやりした声だった。神田は微かに安堵したが、さっきからずうっと決定的な間違いを犯したような気分がぬぐえなかった。何かがおかしくなってしまっているのだ。
 アレンの身体に付いたいくつかの傷は、今でも新しい血液を零し続けていた。かすり傷から確実に致命傷になるものまで全てだ。神田はアレンの肩を掴んで、低い声で唸った。
「何故再生しない。お前はノアなんだろう。不死者だろうが! なんで治らねぇんだ!!」
「いっぱい死んだんです。ちょっと疲れちゃったのかな」
「何言ってやがる!」
 怒鳴ってやっても、アレンは微笑んで首を傾げるだけだ。滑稽なくらいにいつもと同じ反応だった。それが余計に物悲しかった。
「おや神田、僕がいなくなると寂しいですか? 悲しい? なんででしょうね?」
「俺、は――お前が、」
 もしかしたら、全部アレンの茶番なんじゃないかという気分にすらなった。『その言葉』をどうあっても神田のほうから絞り出してやろうという彼女の打算だ。非常に性質が悪いものだ。でもそれでもいい。彼女の悪ふざけであったほうがずっと良い。
 アレンを失うよりも。
「……好き、だ、クソガキ」
「最後のはいりませんよ。まったく、僕のがずうっと先に好きだったんです。そのくらい言ってもらわなきゃ割に合いませんよ」
 アレンはくすくす笑って、そしてふいに目を閉じ、穏やかな顔で「貴方が大好きです」と言った。
「残念ですよ……僕が先にいなくなっちゃったら貴方の泣く顔が見られませんねぇ」
「……馬鹿、いい大人が泣くかよ」
「いいじゃないですか、一回くらい僕の為に泣いてもバチは当たりませんよ」
 傷だらけなのに、アレンはとても嬉しそうな顔をしていた。にこにこ笑っていたし、死に臨む人間の顔つきじゃなかった。
 でも彼女の身体はもうぼろぼろだった。
 あの絶対的な再生能力はいつのまにか消え失せていた。
 アレンは「別に気にするようなことじゃないですよ」と言った。
「ふふ、僕は感謝しているんです。いつか死ぬことができる日に憧れていました――その時に僕を殺すのが、貴方で良かったと思うんです。日頃ろくでなしの神も、まあ……たまには気のきいたことをしてくれるもんですね」

 アレンの声がすごくクリアに聞こえる。彼女はここにいる。
 でもすぐに消えようとしている。

 神田はアレンを抱き締めた。
 アレンはまだ温かかった。
 血の匂いに混じって、ふわっとした柔らかいいい匂いがした。
 アレンの匂いだった。
 紳士を気取る男に相応しい匂いなんかじゃ決してなかった。
 彼女は女の子なのだ。すごく可愛くて細くて小さい。泣き虫だ。そして信じられないくらいに大食いだ。
 彼女の本質は子供の頃から何も変わっちゃいない。

「名前、ちゃんと呼んで貰えるようになって……嬉しいです」
 
 アレンがすうっと手を伸ばし、神田の頬に触り、唇を合わせ、「すごく好きなんです」と言った。「嘘じゃない」
 それからまたちょっと微笑んだ。
 なんだか泣いているみたいな顔だった。

「貴方が貫く道に、光があることを祈っています。
さよなら、正義の味方……醜い怪物が貴方を好きになって、ごめんなさい」

 そしてアレンは目を伏せ、自分に言い聞かせるように小さな声で呟いた。

――僕も……人間に、なりたかっ――










 一瞬の幻を見た。
 幻覚なのか白昼夢なのか、それとも彼女の魂といったようなものがそれを見せたのかは分からない。
 刃の軌跡はアレンの心臓を正確に傷付けていた。
 即死だったろう。もう血は止まっていた。
 かわりに罅割れのようなものが彼女の全身に広がっていった。
 それは、アクマのウィルスに感染した人間の反応に良く似ていた。
 神田の腕の中でアレンの身体は急速に風化していった。
 砕けて、白味がかったグレイの細かい灰になり、指を擦り抜け、やがて空気に溶けて消えていった。




 あとには彼女が存在した痕跡は何も残らなかった。





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