58:「そして何も遺らない」 |
後ろ頭にすごい衝撃がきた。次に顔面と胸のあたり。数秒置いてから、かなり後ろの方で奇妙なかたちをしたボールがとんとんと弾んでいった。かたちにはすごく見覚えがあった。兄弟子の隣人の鐘だ。 「神田ぁ〜? 無事? まさか当たるとか思わんかったじゃん。どしたん、いっつも近付くものは斬るぜーって殺気立ってるくせに、ぼけっとして」 デイシャだ。任務から戻ってきていた。ここ最近の騒ぎで教団内部のことにばかり関わっていたから、久し振りに顔を見た気がする。マリも一緒だった。 「聞いた、お前ノアを倒したらしーじゃん? 戻ってくるなりみんなすげぇすげぇって言ってんの聞いたんじゃん。お前の良い評判なんか初めて聞い――」 「悪いが、任務明けでだるい。もう戻る」 「なんだー愛想悪ぃのはいつもとおんなじじゃん。ま、休みたいのは分かっけどコムイが呼んでた。なんか誰かの……えーと、アレ、アレック……? なんとかウォーカーのこととか」 「……アレン=ウォーカーだ」 「そうそれ、そいつ。誰だか知らないけど、神田が書類欲しがってたって聞いたんじゃん。なんで?」 「……あいつを覚えていないのか?」 「は? 会ったことあったっけ?」 「……いや、いい。ありがとうデイシャ」 神田は礼を言い(デイシャは変な顔になって「神田がありえないこと言った!」とひどく驚いた様子だった)、その場を後にした。 「これなんだけどね」 コムイが言った。 「なんか大分印象違うけどね」 渡された書類に貼られた写真はアレン=ウォーカーとはまるっきり別のものだった。物静かな秀才タイプで、髪の色も暗い黒だ。黒縁の眼鏡を掛けている。「写真を撮るのが嫌いな少年」だ。アレンに経歴を奪われた哀れな少年。 小さな四角い枠の中の少年は、顔中の穴から血を零して白目を剥いていた。写真はあきらかに死後撮られたものだった。撮影者の悪趣味さが嫌と言うほど感じられた。 神田は幾分げんなりしてしまった。こういうことを仕出かすアクマよりも悪魔のような人間を、神田は好きになってしまったのだ。 書類には乾いて変色した血文字でいくつかの文が記されていた。 『僕は白髪のアレン』 『僕はただの人間』 『僕は誰にも嫌われない』 『どこにでもいてどこにもいない』 『だから記憶に残らない』 『用が済んだら本物が浮かび上がる』 『びっくりした? エクソシスト!』 不気味な韻踏み歌みたいだ。名前の欄には『アレックス=E=ウォーカー』と書かれている。それからありきたりな経歴が記され、最後に署名がされている。 「なんで誰も疑問に思わなかったかな! 何かの目晦ましがあったとしてもこりゃ気付かないとまずいでしょう。と言う訳でキミには残念なことだけどアレン=ウォーカーの写真は無いよ」 「……そうか。すまない」 「このくらい良いさ。何せノアを倒した英雄サマのたってのお願いだからね。大元帥もすごく喜ばれてたよ」 「……大したことはしてない」 神田はふいっと顔を背けた。 「あいつはもう死んでた」 ろくでもない書類をゴミ箱に放り込んで、神田は執務室を出た。アレンの足跡はどこにも無かった。鞄も服も写真も何もかも全部、まるで彼女が悪い夢の住人であり、目が覚めれば綺麗さっぱりいなかったことになるかのように消えてしまった。 教団内では神田ユウを不死のノアを倒した英雄のように語るものもいる。 でもそうじゃない。神田はついに倒すべきものには一太刀も浴びせることができず、かわりに愛するものを斬り捨てた。こんなに虚しい心地は初めてだった。 廊下に出たところでちょうどリナリーと出くわした。彼女は相変わらず忙しそうだった。パッドを抱えてあちこち歩きまわっているようだ。 彼女は神田に気付くとにっこり笑い、手を振った。 「オーラ、神田。どうしたの、そんな怖い顔してたらまたみんな怖がっちゃうよ?」 「……うるせぇ。ほっとけ」 リナリーは随分アレンのことを気に入っていたはずなのに、彼女がいなくなってからは名前ひとつ口に出さない。いつものようににこにこ笑っている。 「仕事溜まってんだろ。俺に構うなよ」 「はいはい。じゃ、また後でね。後でね? ……あとでだよ。絶対だよぉ。ちょっと探し物してるから、手伝って欲しいの」 リナリーは随分ぎこちなく胸の前で手を組んで「お願い」の仕草をしてきた。なんだかあまり彼女には似合わない、媚びたような印象を受ける仕草だった。リナリーはにこっと笑ってさっさと執務室の中に消えていった。 ◆◇◆◇◆ 教団はいつもよりも更に気に食わない場所になってしまっていた。これまでは食堂で席に着くと、皆怯えたような顔になって居心地悪そうに席を立っていたのに、今は団員たちは神田を見ると「あの人が、」「彼があの」と羨望と期待を込めた眼差しを向けてくる。馴れ馴れしい人間も増えた。煩わしくなって無視することに努めても、周囲の反応はおおむね好意的だった。 まるで何かのろくでもない呪いみたいだった。嫌でもアレンの顔が浮かぶ。 『ほらせっかくのチャンスなんですよ? 今まで刀以外ろくな友達がいなかった貴方に、ちゃんと人間の友達ができるかもしれないんです。悪くないことだと思いますよ。ほら、笑って……なんて高度なことは言いませんからまずはその眉間の皺をなんとかしてください。ここで怖がられちゃ台無しですってば』 うるせえよ、と神田は空想するアレンに言ってやった。お節介焼きなんていい迷惑だ。すぐに死んでいく人間の顔なんて覚えたくもない。 『まったく、貴方僕には結構……知ってました? 最近なんですが、たまにすごく優しい顔してる時がありましたよ。貴方そんな顔できたんだってびっくりしちゃうくらい。はじめからそんなふうな顔を見せてくれたらもっと早く仲良くなれたのに、残念です』 アレンはやれやれと溜息を吐くだろう。肩を竦めて男っぽい仕草をする。彼女の少女らしい姿なんて、あまり想像できたものじゃない。――稀にクロス元帥に無理矢理女らしい格好をさせられていた姿は可愛かったが。 囁き声が陰口から賞賛する声に変わってしまうと、それまでよりもずっと気分が悪くなった。誇れることをした訳じゃないし、そうやって他人に解ったような口を利かれることが嫌いだった。 いろんな嫌な音が聞こえてくる。神田を称える音、アレンを呪う音だ。吐き気が込み上げてきた。なんにも知らないくせに勝手なことを言うんじゃないと怒鳴りたかった。 神田のことなら何を言われても構わないが、アレン=ウォーカーについての呪詛の声や下卑た冗談を聞くのは耐えられなかった。でももう何を言ったってどのみち無駄なことだ。彼女はもう、 「……でも昨日の夜、オレあいつ見たんだよ」 神田はつい、蕎麦をたぐる手を止めてしまった。 誰かの声が聞こえる。また噂話だ。でも声は震えている。 「ほら森だよ。待ち合わせをしてたんだ――だ、誰ととか聞くなよ。最近あそこ霧がすごくてさ、視界が真っ白になっちゃう時があるんだ。その時のことだよ。白髪のスーツだ、どんどん近付いてくると思ったらすうっと横通り抜けてどこかへ行っちゃったんだ。あいつが消えると霧も晴れてさ、絶対幽霊があそこにいるんだ」 神田は立ち上がった。 食堂を出しなにラビとすれ違った。彼はちょっとびっくりしたような顔で、「もう出んの?」と言った。 「どこ行くんさ。メシ残すとジェリーに怒られちゃうぞ」 「修練」 神田はそっけなく言った。 ◆◇◆◇◆ (ありゃ……あれで結構女々しいとこあるんだ) 口に出したら八つ裂きにされそうなことを考えながら、ラビは口笛を吹いた。神田ユウはあれで割合認めた仲間を大事にするところがあったが、今回はあまり似た例を見付けることができなかった。 彼は実直で真面目過ぎたので、アレン=ウォーカーというノアの少女については正直手を焼いている様子があった。彼女は敵側に立っていた。でも神田は間違いなく彼女に好意を抱いているように見えたし――彼自身自覚していたかどうかも怪しいところだが――彼なりに悩んでいたようだ。 神田は白と黒がはっきり分かれた世界で生きている。リナリーたちと同じようにだ。グレーゾーンにいるラビとしては、そういうところが羨ましくもあり、ちょっとだけ同情してしまうところもあった――これも口に出せない。ばれたら消される。 何にせよ初恋(だろう、たぶん)の女の子が死んだのだ。それも自分の手でけりをつけた。直情的な神田にはちょっときつかったかもしれない。 「……ほんっともう何とかならんのかな。世界が平和になりますように、って祈って良い?」 「ふふ、何を言ってるの、ラビ? ブックマンの後継者がそんなこと言ってたなんてばれたら、またパンダジジィに絞められるわよ」 後ろからとんとんと肩を叩かれて振り返ると、リナリーが「おまたせ」とにっこり笑っていた。 「何を食べようかすっごく迷っちゃったの。三ツ星じゃ見たことないものがいっぱいあって」 リナリーのトレイにはいつもとは大分嗜好が違うメニューが乗っかっていた。分厚いハンバーグステーキとアイスクリームと皿いっぱいのみたらし団子という、すごく偏ったものだ。 「……すっげー偏食」 「好きなものしか食べたくないから。「アレンくん」はここのみたらし団子がすごく好きだったよね? 私、おそろいも好きなのよね」 「うんそうですか。でもできれば早く御暇願いたいなぁなんて」 ラビは顔が強張ってしまわないように努力しながら、やんわり言った。でもリナリーは表情も変えない。 「ラビは優しいね。心配しなくても、ちょっと用事があるだけだから。じゃなきゃこんな人間臭いところになんて一瞬もいたくはないわ」 リナリーはいつもの彼女の微笑みを浮かべている。でも彼女じゃない。ラビは頭をがりがり掻いて溜息を吐いた。 「ホントに用事が済んだらリナリーから出てってくれんの? それより勝手したらあのー……例のおにーさんに怒られんじゃないの」 リナリー――彼女の精神に寄生した誰かはにこにこしている。彼女はつまらないことだと言いたげに首を傾げた。なんだかアレンのような仕草だった。彼女はすごく似ているのだ。 「……僕は何やっても怒られないよぉ。アレンとは違うもん。僕が裏切るなんて千年公のシナリオにはないもん。白いノアは裏切り者だって決まってんの」 「確かそれ、パンダジジイがなんか言ってた……けど良く知らない。良かったら教えてくれると、」 「やだねぇ。なんで僕が人間のお願い聞かなきゃなんないんだよぅ」 「……そうですか」 ラビは肩を竦めて、ひとつだけ彼女に釘を刺しておいた。 「リナリーを傷つけるなよ」 「お前次第だねぇ。いい働き期待してるよぉブックマンジュニアぁ?」 「……はいはい了解。ちゃんと発生場所を探して統計取るって」 リナリー、彼女に寄生しているノアのロードはまるで女王様みたいな傲慢な態度でラビに命令して、立ち去り掛けたところで、ふと思い当たったふうに「あ」と声を上げた。 「……あー、なんか僕お前嫌いかもぉ。ちょっとティッキーに似てる」 「……そりゃドウモ」 正直ちょっとショックだ。 それにしても変な姉妹だ。男装癖のある姉(アレンはすごく可愛かったが)と小さな女王みたいな妹。でも割合ちゃんと愛し合っているらしい。すごく仲が良いみたいだった。ちょっと羨ましいかもなぁとラビは考えて、最近オレは誰かを羨んでばっかりみたいだぞ、と思い当たり、似合わなくて苦笑してしまった。 リナリーが離れていくと、食堂の喧騒が徐々に戻ってきた。この間のように空間が歪められていたのだろう。 「リナリーが! リナリーがぁ! お、お、お兄ちゃんなんか大嫌いって言った! も、もうボク生きてけない!」 「落ち付いて下さい室長。どうせアンタがまたなんかやったんでしょう。リナリーのパンツ被ったりとか」 「やってないよ! この間一回だけだよ! その、ちょっと……帽子と間違えたんだ。ほんとだよ嘘じゃない、ほら白いだろう?!」 「……しょっぴけ」 「了解」 「……でもさ、ノアだけどさ、その……あいつこないだの襲撃の時に俺を助けてくれたんだ。アクマに襲われてるとこをさ」 「何言ってんだよ。化け物の肩持つのかよ」 「そんな訳じゃねぇけど……一応命の恩人なんだよ。敵味方とかは別で」 「そう言えばあいつがいる間は誰も死ななかったよな。すごい怪我人でもちょっと触るだけで一瞬で――」 「馬鹿、それ科学班機密!」 「あ」 「ちょっと、神田クンがみたらし団子なんて注文してたんだけど! めっずらしぃわね〜」 「え。甘い物嫌いなんじゃなかったんですか、あの人」 「昨日は嫌そうな顔しながらフィッシュ・アンド・チップスを食べてましたよ。偏食を治す努力でも始めたのかな」 相変わらず騒がしくて煩い場所だ。ちょっと荒っぽい。でも味は良い。 それらを一瞥して、オレはやっぱりこっちの方が好きだなあと考え、ラビは肩を竦め、作業に戻った。 最近教団周辺で妙な霧が発生するらしい。同じ場所にいても人間によって遭遇したりしなかったりする。アレンをはじめいろんな死者たちと会ったという話を聞く。でも全然知らないすごく可愛い女の子が現れて道を訊いてきたという話もある。発生場所を調べて頭の中でグラフを作るのが仕事だ。 何でオレが怪談の調査なんかしなきゃならねーのかなぁ、とラビはちょっとげっそりした。あまり幽霊とかそう言った類のものは得意じゃないのだ。 |