「僕の鈍い人(上)」
(綾×主)
(……ああ)
チャイムが鳴る。授業終了の合図があって、僕と同じジャージ姿のクラスメイトたちが、グラウンドから校舎へ流れていく。
(やば)
僕は胸を押さえる。心臓がすごく早く脈打っていて、喉がからからに乾いている。
ここ数日良い天気が続いていたから、校庭は大分乾いていた。細かい砂が巻き上げられて、時折強い風に吹かれて煙のように舞っている。
僕はうっかり砂を吸い込んで咳込みながら、皆から大分遅れて、授業で使っていたボールの籠を押して、体育倉庫に運び込んだ。押し込みついでに後ろ手にドアを閉めて、籠を掴んだままずるずるくずおれる。口を押さえて、「落ち付け僕」と自分に言い聞かせる。
『――今日も気持ちいい天気ですね! みなさんこんにちは、月光館学園放送部員が贈る珠玉のヒットソング集、この時間たっぷり使って、次々流しちゃいますからね〜』
四限が終わった直後、昼休みの校内放送が始まる。多分この放送部員、昼飯食ってないなと僕はぼんやり考える。こいつの役割に掛ける情熱は尊敬に値するなと思っていると、流れ出した音楽の後ろで『うめえ!』『てめ、返せ! 私のカニパンッ!』とか声が聞こえてきた。感心して損した。
僕は蹲ったまま身動きが取れない。身体が熱い。さっき変なものを見ちゃったせいだ。あんまりものを考えるなと自分に言い聞かせてみても、映像は僕の記憶から勝手にリピートされる。
『きゃあっ』と女子の黄色い歓声が上がる。それに『綾時くん格好良い!』と続く。
転入生の望月綾時は、黒い髪に青い目の『エキゾチック系』とか言われる不思議な雰囲気の美形で、全校生徒の半分、すなわちほぼ全ての女子からきゃあきゃあ言われている、嘘みたいにもてる男だ。
まだ転入してきて一月にもならないのに、この月光館学園高等部のアイドル(っていうむず痒い表現がしっくり当て嵌まる)に祭り上げられている。
女子にだけものすごく優しくて手が早いとか言われているが、そんなことはない。
あの男はすべからくみんなに優しいのだ。事実、男の僕にもとても親切にしてくれる。多分モテる男にやっかんだ、ひがみ根性のある男子生徒が勝手に言っているだけだろう。
ともかく望月綾時は顔が良くて金持ちで優しいだけじゃ飽き足らず、頭が良くてスポーツまでできる。万能の男なのだ。
いつも沢山の女の子に囲まれていて、ニコニコ幸せそうに笑っているクラスの人気者だ。
僕とは、大分違う人種の男だ。
四時間目はサッカーだった。ボールを蹴って相手のゴールに叩き込むべく、僕は走っていた。そういうのは得意なのだ。駆けたり跳んだり転んだりすることなんかは。
『望月くぅん! 頑張って! 負けないで!』
女子たちが自分の授業そっちのけで望月を応援していた。あの男は学校指定のジャージまでそれらしく着こなしてしまうすごいやつだ。男の僕から見ても様になっている。日曜日の部屋着みたいになってしまう僕や順平とは大違いだ。
望月は笑って手を振る。また黄色い歓声が起きる。
男子は「すごいな」って半分感心しながら、もう半分で「あの野郎絶対女子の前で恥かかせてやる」というやっかみで団結したらしく、「テメーにゃボールは渡さねえ!」と頑張っていた。その中にはやっぱりというか何というか、順平もいた。あんなころころ敵に回る親友なら僕はいらないと思う。
「こうなりゃ最終兵器の出番だ! エージ! いやエージ様! あの裏切り者を粛清して下さい!」
「はぁ?」
僕を巻き込むなよと順平を睨んでやっても、相変わらず全然堪えた気配がない。
「黒田! 行ってくれ! オレたちのために殺ってくれ!」
「そのためなら俺たちはいくらでもお前の礎になろう!」
友近と宮本まで乗っている。僕は溜息を吐く。しょうがない。点を取らなきゃはじまらないのだ。
僕は駆ける。日頃小さいと散々馬鹿にされている身体は(僕は断じて小さくなんてないが)、こんな時ばっかりは便利だった。僕はすばしこさと噛みつきに掛けてはちょっと自慢できるのだ。
だてにS.E.E.Sのリーダーなんてやっていない。望月を抜いてボールを奪ってやるのは簡単なことだった。
そのまま相手のゴールに決めてやろうと身体を捻ったところで、奴はいきなり僕の耳元で囁いたのだ。
「きれいだね」
僕はそこで思考停止した。ボールをほったらかしにしたまま、呆けた顔でその場にへなへなと座り込んでしまった。
ボールが何度か弾み、ころころ転がっていく。
望月はボールを追うことはせずに、しゃがみこんで僕の顔を覗き込んで、首を傾げている。『どうしたの?』ってふうに。
「あ」
そうしているうちに、横から飛び出してきた順平が、ボールを攫っていく。遠くの方で、ゴールを決めて「イェッフー!」とか叫ぶ声が聞こえる。それは、どうでもいい。
「負けちゃったぁ……うちのチーム」
「……うん」
「ざんねん」
「うん」
「大丈夫?」
「うん」
「僕のこと、好き?」
「…………」
僕は勢い良く立ち上がる。そこでチャイムが鳴る。
「ボ、ボール、片してくる」
「あ、じゃ、僕も手伝――」
「い、いいから! お前はもう戻れ!」
僕は真っ赤になって、望月から離れる。これがついさっきのことだ。
薄暗い体育倉庫に座り込んで、僕は「なんなんだよもう」とぼやいている。昼休みの放送は流行りの曲をいくつか垂れ流したあと、放送部員のどうでも良いトークを挟んで、人気のコーナーが始まる。
『――お次は、恒例気になるあの子に愛を囁く、『愛の告白』コーナーです! 今日も放送部員A子が、不肖みなさんの恋のキューピッドをつとめさせていただきまーす……』
全校放送で告白されたって、ある意味公開処刑だと思うが、どうやら聞いている方にはたまらないものらしい。うちの教室でも良く「俺か?!」「いや、これはオレっちのことだッ!」とか不毛な言い争いが起きている。みんな野次馬なのだ。もしかすると当事者かもって期待を抱くのが楽しい、らしい。まあ実は僕もちょっとは期待してしまう。
「みんな気楽だな……」
僕は溜息を吐く。こっちはそれどころじゃない。
さっきから、ちらちら望月の顔が頭に浮かぶ。ゲーム中の、珍しく真剣な「負けないぞ」って顔つきが。目も口もともきゅっと引き締まっていて、ボールをゴールに蹴り入れると「やったあ!」って心底嬉しそうにガッツポーズを取って、子供みたいにはしゃぐ。
遠くからそれを見ながら、ああ、こいつすごい楽しいんだって僕は思う。いいなあ、って思う。一生懸命な人間を見ていると、「頑張るぞ」って意識は感染するのかもしれない。わけもなく前向きな気分になってしまう。
望月は多分、ちょっと頼りないけどすごい奴なのだ。誰にでも一定の心地良いテンションで話し掛けて、すぐに打ち解けてしまう。他人が苦手な僕の中に、簡単にするっと入り込んでくる。
人望がある、みんなに好かれている。僕なんかよりも、ずうっとリーダー役が似合っている。でも彼にペルソナ能力はない。世の中っていうのは上手くいかないものだ。
(なんで、僕は、――男に見惚れて、あっいいな、とか……かっこいいなとか思って、綺麗だって言われて、たまんなくなってんだ。綺麗だって言うのも、僕のことじゃないかもしれないだろ。空が綺麗だとか、応援してた女子にすごい可愛い子がいたとか、そんなじゃないか、望月のことだし)
少なくとも男に見惚れて下半身を熱くしている僕に比べたら、世界中の何もかもが綺麗だ。僕は鬱々として、また溜息を吐く。
余裕がなくてこんなところに隠れるように引っ込んでしまったが、もうちょっと我慢してトイレに篭っていれば良かった。
(ジャージってなんでこんな目立つんだろ)
僕は忌々しい心地で、下腹で柔らかい布地を押し上げているモノを睨む。お前最近良く元気になるな。前まで僕と同じく、何があっても動じない、クールフェイスの一匹狼だったのに。
急にガラガラ扉が開いて、僕はびくっと身体を竦めた。どうしよう、と焦って口の中がカラカラになって、心臓がさっきまでとは違う理由でばくばく鳴る。
こんな所誰かに見られたら、僕はこれからどんな顔をして学生生活を送れば良いんだ。「学校で一体何をやってんだ」って呆れ果てられた挙句、いろんなところで言いふらされて、「オナニー」とかあだ名を付けられて、男子には嘲笑われ、女子には顔を顰めてヒソヒソやられるかもしれない。
それとももしかしたら、弱みを握られて強請られるかもしれない。「おいパン買ってこい」や「ジャンプしろ」とか言われて搾取されるのだ。どっちにしてもいじめられっ子道を驀進しなきゃならないだろう。
どうする、いっそのこと「見られたからには生かしてはおけない」とか言ってみるか。不運なことに僕の召喚器は鞄の中だが。
そんなふうに硬直したまま葛藤していると、中に入ってきた生徒が僕を見付けて、「どうしたの?」と声を掛けてきた。
「あ、――望月」
幸いなことに、相手は望月だった。彼なら、例え僕がどんな醜態を晒しても、もしかしたら心の中では軽蔑しているかもしれないが、決して馬鹿にしたり笑ったりすることはない。
僕はほっとして、同時に申し訳なくなる。僕はこいつのことを考えて欲情(だろう、たぶん)していたのだ。
時々、なんでこいつはこんなに優しいんだろうと思う。クラスでも空気みたいに目立たない僕に構って声を掛けてくれるし、何よりすごく大事にしてくれる。それは身体のこともあるし、精神的なものもある。
多分そんなだから悪いんだと、僕は半分責任転嫁するような心地で考える。望月が、ろくに人に優しくされたこともない僕にそんなふうに構うから、僕はどんどんのめり込んでしまうのだ。
「待っててもなかなか戻ってこないから、大丈夫かなって。……あ」
望月は僕の様子に気付いたらしく、真っ赤な顔をして「ご、ごめん」と謝って、僕に背中を向けた。そういう反応をされると余計いたたまれなくなる。
「あ、あの、辛かった? ごめん、気付いてあげられなくて」
「……なんで、」
目にじわっと涙が溜まる。あんまり情けなくて泣けてきた。僕はなんでこんな惨めな姿ばっかり望月に見られてるんだろう。
「なんで、僕が格好悪い時ばっか来るんだよお前、ほんと惨めになるだろ。ばか、いつもいつも、元はと言えば今だってお前が悪いのに、お前が……」
「ご、ごめん。ごめんね?」
僕の言っていることは紛れもなく八つ当たりだ。それなのに望月は先輩みたいに怒ることも、女子みたいに呆れることも、順平みたいにキレることもない。慌てて僕の傍に座り込んで、ちょっと迷ってから、僕を抱き締める。
彼はなんだかいつもこうなのだ。帰国子女らしくスキンシップに慣れた様子なのに、僕に触る時だけ一瞬『いいのかな』というふうに手を止める。
「ほんとごめん。僕君に一体何を……」
望月が途方に暮れた顔をしている。途方に暮れているのは僕だ。僕は頭を振って、「ごめん嘘」と言う。
「……お前はなんにも悪くない。僕がその、勝手に」
「え、うん」
「……そういうことだから。悪かった」
「う、うん?」
望月は良くわからなさそうな顔で頷く。僕は溜息を吐く。
「……すまない。もう戻るよ。その、トイレに篭ろうって思ったんだけど、なんか人いっぱいいて」
「あ、出るに出られなくなっちゃった?」
「……うん。でも昼休みだし、もう」
「え。でもトイレって、ひとりで?」
僕は頷く。この場合、そりゃそうだろう。誰かを連れ込んで僕の自慰ショーを見てもらうのか。なんだその狂った空間は。
望月は心底残念そうな顔で、「もったいないよ」とか言っている。こいつの言っていることは、たまに上手く理解できない時がある。
「せっかく君の身体が「準備できました」って言ってるのに。あ、ここって人来ないのかな。僕まだあんまり詳しくないから」
「……? うん」
人は来ない。昼休みに黴臭い体育倉庫で弁当を食いたい生徒もいないだろう。
望月はほっとした顔になって、蹲っている僕をひょいっと抱き上げ、そばに積み重ねてある跳び箱の上に寝かせた。
「……え、え?」
ついていけず、『なに?』って顔をしているうちに、ジャージの下をパンツごと剥かれる。
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