僕の世界は、一度壊れたことがある。
 お父さんとお母さんが離婚した。離婚ってのは、お互いがお互いのことを嫌いになっちゃった夫婦がすること、らしい。
 正直なところ僕はすごくショックだった。
 それまで家族三人ですごく仲良く暮らしてたのに、まるで写真を半分に切り取るみたいに簡単にばらばらになってしまった。
 お父さんとお母さんは今じゃもうただの他人同士だ。
 お母さんはお父さんが悪いって言う。お父さんは自分が悪いって言う。
 だったらお父さんが悪いんだろうけど、僕はそんなでもやっぱりお父さんのことを嫌いにはなれなかった。
 ただちょっと、いやかなり、ううん、すごく怒ってはいる、けど、僕はもう子供じゃなくて物分りの良い大人なので、そんなことは口には出さない。
 お父さんとお母さんは僕を取り合って、『サイバン』とか言う喧嘩をしたことがあるらしい。
 僕は何でもできるお母さんよりも、放っておくと餓死したり、家を火事にしたり、コンセントで感電しちゃいそうな(あるいは寂しくて死んじゃいそうな)お父さんと一緒に暮らしたかったけど、お父さんはお母さんにサイバンでやっつけられたから、もう僕と一緒には暮らせないんだそうだ。





◆◇◆◇◆





 多分疲れていたせいだと思う。僕は声を掛けられるまで、うとうととまどろんでいた。
「こんにちは。いいかい?」
 相手は僕が目を開くまで辛抱強く待っていた。
 僕は現実に適応するまで、しばらくの時間を必要とした。
 ヘッドホンは耳に掛けられたままだった。音楽は鳴っていない。丸みを帯びたプラスティックの軽い感触が耳に触れていると、静かな心地で過ごすことができた。もしかするとこれは僕にとってのお守りのようなものなのかもしれない。
 僕は、図書室にいる。カウンターの中だ。扉は開け放たれていて、冷えた空気が流れ込んできている。少し寒いくらいだ。
 もう生徒の姿は無かった。掛け時計を見ると、時刻は十七時半になろうとしていた。
――あ」
 そうして僕はやっとはっきりと目を覚ました。
「良く寝てたね」
「……そうみたいだ」
 ちょっとばつが悪くなったけど、弁解するようなことでもないから、苦い顔で頷き、顔を上げて相手を見た。
 同じクラスの転校生だった。これで今年に入ってうちのクラスは僕を含めて三人の新入りを迎えたことになる。
 その少年は今までも色々なところを点々としていたらしい。僕もそいつに関しては共通していたから、ちょっと同情した。何度住む場所を移り変わっても、馴染むまではどこでも大変なのだ。日常ががらっと変化してしまうことに、僕は毎回簡単に慣れることができない。いまだに。
「悪い、何か用か」
「貸りたい本があるんだ。寝てるとこごめん」
「いい。助かった。お前が来なかったらこのまま夜まで落ちるところだった」
 僕は彼に礼を言い、差し出された本を受け取った。
 転校早々派手な噂をばら撒いている男だから、どんな本を読むのかと思えば、料理のレシピ集だった。本格的なものじゃなく、初心者向けの簡単なものだ。
 巻末のカードに日付と返却日、それから『望月綾時』と書き込む。
 僕が作業を終えて本を渡すと、望月はなんだか変な顔をしていた。
「あれ……何も言わないの?」
「自炊始めるんだろう? 別に珍しいことでもない。俺も一人暮しだから」
「え、そう? それより、良く僕の名前覚えてたね」
「順平から良く話を聞いてる」
「うん、僕も。……じゃなくて、字。珍しいって言われるんだ。いつもひとつひとつ教えなきゃならない。望む月、それから下の名前は大体書いて見せなきゃならない。良く知ってたね?」
 そう言えば、珍しい名前だ。多分クラス表か何かを見て気に留めていたんだと思う。
 そう言うと望月は「へぇそう」と気の抜けた返事をした。
 それから納得がいったように僕とカウンターを見比べて言った。
「君、図書委員だったんだ。良く似合ってるよ」
「そう言う訳じゃない。自習に来たら、委員が今日は用事があるって帰って行った。かわりに手伝ってるだけ」
「寝てたけどね」
「……暇だったんだ」
 僕はぶすっとしていたと思う。立ち上がってカードをゴムで纏め、カウンターに掛かっている鍵を取って、望月に「もういいのか」と訊いた。
「お前の用事が済んだのなら、俺ももう帰るけど」
「済んだよ。悪いね、ありがとう」
 望月はそう言ってからちょっと考える素振りを見せて、「一緒に帰っても良いかな」と言った。
「買い物をしたいんだけどね、僕この辺りの地理なんてまるで分からないし、食材はスーパーってところで売っているんだろう? 良かったら教えて欲しいんだ。君も自炊してるみたいだしね」
「……『ってところ?』」
 僕はちょっとした疑問を抱いて、反芻した。望月は照れたように笑って恥ずかしそうに言った。
「……実はね、僕まともにひとりで買い物したことがないんだよ」
「いつもはどうしてたんだ」
「外食だね。ああ、コンビニには行ったことがあるよ。いろんなものが置いてあって面白いよね」
 僕は一瞬唖然としたが、そう言えば望月は確か、すごい金持ちらしいという話を聞いたことがあるような気がした。
 外国暮らしが長い、金持ちのお坊ちゃんという奴だ。箱入りという奴なのかもしれない。どうやら噂は本当らしい。






 さっきから望月は真剣な顔をして料理のレシピを広げている。歩きながら、道の真中でだ。
「帰ってから読めばいいのに」
「それじゃ間に合わない。ね、これはどうかな。ロールキャベツのトマト煮。すごく美味しそうだ」
「……初心者にはちょっとレベル高すぎないか?」
 僕が何を言っても、望月は「これに決めた」と聞かない。僕はなんだか、初めてキッチンに立った時のことを思い出していた。出来上がった一品とレシピ集の写真が一致するとは限らないのだ。
 結局僕はスーパーまで付き合ってやることにした。今までまともに買い物もしたことがない人間を店の中に放り込んだまま帰るわけにはいかないだろう。そこまで薄情な人間ではない。
 ポロニアンモール近くのスーパーに着いてからも、僕は望月の奇行に何度も呆気に取られる羽目になった。
 彼はすごく珍しそうに、まるで水族館で水槽に張り付いて目を輝かせている子供のように、積まれた野菜や調理用品の棚をじっと見つめている。
 お菓子の箱を勝手に開けに掛かる。牛乳パックをシェイクする。
 ちょっと目を離した隙に姿を消したと思ったら、まるで食材とは関係ないコーナーで興味深そうにぽけっと口を開けて突っ立っている。四角いビニール・パックがいくつも積まれていて、赤ん坊から大人用のおむつから、女性用の――僕は真っ青になって、望月のマフラーを掴んで、すごい勢いでその場から離れた。
 レジまでこぎ付け、ようやく済んだと思ったら、望月はポケットから無造作にくしゃくしゃの札束を引っ張りだし、目を丸くしている店員に差し出した。
「お釣りは、いら」
 僕は慌てて彼の口を塞ぎ、一枚を残して札束を望月のポケットに戻し入れた。そして唖然としている店員に「すみません」と謝った。なんで僕が謝らなきゃならないんだ、くそ。
 店員はなんだか馬鹿な子供を持った母親を見るみたいな目を僕に向けて、変に甘ったるい優しげな声で「お釣りになります」と言った。






 望月は「じゃりじゃりする」とすごく不満そうな顔だ。彼のポケットからは硬貨が擦れ合う音が、歩く度に鈴のように鳴っていた。
 どうやらそれが我慢ならなかったようだ。望月はポケットから小銭を引っ張りだし、僕に差し出した。
「あげるよ」
「……いらない」
 僕はちょっとかちんときて、「募金でもしろよ」と言ってやった。
 すると望月は不思議そうな顔になって、手のひらの硬貨をじっと見つめ、「うん」と頷いて、スーパーの端っこに設置されている『世界の恵まれない子供たちに愛の手を』と書かれている募金箱に小銭を投げ込んだ。
「ほんとにするなよ……」
 これだから金持ちというやつはわからない。僕はびっくりして、それから呆れて、溜息を吐いて、望月に言い聞かせた。
「お前はいくつだよ。今度からは、お釣りを貰ったらちゃんと家に持って帰ること。『お釣りはいらない』は日本じゃ逆に迷惑なんだよ。邪魔臭くても我慢しろ。みんなしてるから。持ち歩くのが嫌なら貯金箱にでも入れとけ」
 自然僕の口調は小さい子供相手にそうするようになっていた。望月は真面目な顔で頷いて、「わかった」と言った。
「じゃあ貯金箱を買わなきゃならないね。どこで売ってるんだろ。スーパーにはないのかい?」
「べつに空き箱でいいだろ、わざわざ買わなくても……」
 僕のくたびれきった様子を見て、望月は急に不安そうに顔を歪めた。彼はすごく恐ろしいことを切り出すような感じで、僕の肩を掴んでまっすぐ顔を覗き込んできた。
「……その、呆れたかい? 僕が煩わしくはならなかった?」
 それが妙に真剣だったから、僕はちょっと気圧されてしまった。
 操られるように首を振って、「そんなことはないけど」と言った。
「海外暮らしが長かったんだろ。仕方のないことだ。……少し、いやかなり、呆れたのは確かだけど」
「あ」
 望月は落ち付きを無くして、視線をうろうろさ迷わせている。まるで今から棄てられる子犬みたいな目だ。僕は溜息を吐いて、「悪いことじゃない」と言った。
「馴染まないなら慣れればいい。じきに嫌でも慣れる。分からないことがあれば聞けば誰でも教えてくれるし、四月にここへ来たばかりだから、あまり頼りにならないかもしれないが、俺もここにいるから」
「……うん」
「嫌いじゃない」
 望月はなんだかまだ泣き出しそうな顔だったが、頷き、それからほっとした顔で「嫌われなくて良かった」と言った。
「なんでそんなこと思うんだ」
「……君は有名人だから、まさか僕なんかに構ってくれると思わなかったから、」
「……どこからそう言う話が出てくる。俺は有名人なんかじゃない」
「もっと冷たい人なのかなと思ってたけどすごく優しい人だったから、また一緒に遊びたいと思って、だから嫌われたら嫌だ」
 僕は何とも言えなかった。こんなふうに純粋な口の訊き方をする人間は初めて見た。
 望月はまるで、小さな子供の身体だけを急に引き伸ばして大人にしてやったような感じだった。
 多分、自分に素直なんだろう。すごくいい奴なんだろう。
 話をしてると自分がひねくれている人間みたいに思えてきて、ちょっと凹みそうだ。
 僕は望月の肩を叩いて「一人で帰れるか」と訊いた。
「家はどこだ?」
「……近く。だいじょうぶ」
「一人で夕飯作れるか」
「頑張る。だいじょうぶ」
 僕は「そっか」と頷き、「頑張れ」と言ってやった。
「いつでも付き合うから。また明日な」
「うん。じゃあね」
 望月は名残惜しそうに僕を見ていたが、やがてのろのろと帰って行った。
 背中を見送りながら、僕は彼に関しての噂を思い浮かべていた。
 人畜無害。なるほど、そうかもしれない。
 僕は今日大分迷惑を被った気もするが、不思議と腹は立たなかった。






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