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翌朝、望月の傷だらけの手を見て、僕はひどい後悔と倦怠感を覚えることになる。 まがりなりにも僕らは高校生で同年代の男だったから、心配するのはともかく、何でこんなに出来の悪い子供を見守るみたいにハラハラしなきゃならないんだ。なんだか逆に腹が立ってくる。 僕の心が伝わっているのだろうか、それとも単純に睨み付けられて具合が悪いのか、望月は「おはよう」を言い掛けた笑顔を強張らせてちょっと後ずさった。 「ちょ、怖い……君怖い、顔……」 「……手」 「うん? ああ」 望月は言われて初めて気付いたというふうに、自分の両手を広げてじっと見つめた。 「思ったより相手がすごく手強くてね。このザマさ」 「……手当ては? してないな」 僕は溜息を吐いて望月の手を取る。意外に綺麗で、白い滑らかな手だ。 そこには赤い線がはしっていた。いくつか深いものもある。血は止まっていたが、処置をされた痕跡をそこに見付けることはできなかった。最近では自分や他人の怪我なんてものに慣れっこになってしまっているのだ。それくらいは分かる。 僕は制服のポケットから絆創膏と消毒薬を取り出して、望月に押し付けた。 「ほっとくと化膿するし、治るのも遅い」 「え、いつも持ち歩いてるの……良く怪我するの?」 「……たまたまだ」 すごく不思議そうに見詰められてしまった。僕は苦しい弁解をする。 本当の理由を言ったところで、隠された時間に出現する『シャドウ』という存在と戦っているせいで生傷が絶えないからなんて、そんなことは誰にも信じてもらえないだろう。下手をすると頭がいかれていると思われかねない。 ちょうどその時、いつも望月にべったりな女子たちが彼の両手の惨状に気付いて悲鳴を上げて、僕を突き飛ばすようにして彼の席に群がった。 「きゃああっ、綾時くんの綺麗な手に傷がっ!」 「綾時くんだいじょうぶ? 痛くない?」 「あ、うん」 「すぐに手当てしてあげるからね!」 すごいな、と僕はやっかみめいたものを通り越した気分で思った。女子に人気があるとは思っていたが、その人数が半端じゃない。気がつけば女の子を口説いているような奴だが、ここまでやられるといっそ尊敬できる。 でもちょうど良かった。望月も男よりは、女子に丁寧に手当てをされた方が嬉しいだろう。僕が怪我をした時もできればその方がいいのだが。 「あれ……君は? してくれないの、手当て」 「お前、俺はお前の母さんじゃないんだぞ。そこまで面倒は見ないし、女子のほうが器用だろ。何でもしてくれるとか思うなよ」 僕は言ってしまってから、ちょっと冷たい言い方だなと気付いた。またやってしまったようだ。 僕の話し方は、すごく冷たい、らしい。剣でバッサリ斬られるようだと順平が言っていた。「お前は絶対ロボットだ」と彼は言った。「きっとアイギスの兄貴なんだ。耳はネズミに食われちまったんだ」とも言われた。――良く分からない。 僕は望月にちょっと笑い掛けて、「またな」と言った。 別に突き放したような言い方をしたかった訳じゃないと伝えたかったのだが、僕には上手い言葉を見付けることができなかったのだ。変な愛想笑いのようになっていないと良いなと思う。 望月はびっくりしたような変な顔をして、「うん」とまた気の抜けたような返事をしてから、「またね」と言った。 ◇◆◇◆◇ 生徒会室を出たところで、どこか途方に暮れた顔をして教室に戻ってきた望月と遭った。 「あ」 彼は僕の姿を見付けるとぱっと顔を明るくして、ほっとしたように微笑み、「やあ、こんにちは」と言った。 「どうしたの、生徒会室なんかで?」 「手伝い。雑用」 「はあ」 望月はまた気の抜けた顔で頷いて、「頑張り屋さんだね」と言った。 「君はいつも誰かを助けてあげてるね」 「……そんな大したことじゃない」 僕は顔を赤くした。あまり人に誉められるのは慣れていないのだ。 望月は昨日の帰り道と同じように本を抱えていた。例の初心者向けのレシピ・ブックだ。 「図書室に行ってたのか?」 「え? あ、うん。でも君がいなかったから、そのまま……」 彼はシャツの胸の辺りをぎゅっと握って、居心地悪そうにぼそぼそ言った。 「その、せっかく仲良くなれたんだから、また君に会いたいと思って、でも君はいなくて、委員の子に聞いても知らないって」 「……俺は図書委員じゃないからな」 僕は呆れて、「じゃあ声を掛けてくれれば良かったんだ」と言った。 「同じクラスだし……あ」 望月がなんとなくぎくしゃくしているわけに思い当たった。 アイギスだ。彼女はいつでも僕の傍にいる。望月は転校初日から手酷い駄目出しを食らって、常に睨まれているのだ。僕には正直なところ、この望月綾時という男を警戒するべき理由は思い当たらなかったが、アイギスの警戒の仕方は尋常じゃなかった。 彼女はいつも僕と望月が近付くと、僕の手をすごい力で掴んで彼女の身体の後ろへやるのだ。 まるで誘拐犯から子供を守ろうとする母親みたいだと僕は思ったが、アイギスはタルタロスでも見ないくらい真剣な顔をしていたから、それも言い出せなかった。 「……そうだった。すまないな望月、アイギスが迷惑を掛ける」 「ううん、そんなことない。彼女は美人だし、面白いと……」 望月は笑ってそう言い掛けて、ちょっと口篭もり、「君はすごく彼女と仲が良いみたいだ」と言った。 「えーと……もしかして君達、付き合ってる……?」 それがすごく信じられないことみたいな顔で、望月が言った。 女子を見たらアプローチを掛けるのが当然という顔をしている望月は、確かに軽い印象もあったが、顔立ちは整っていたし、どこか不思議な感じがする。 ミステリアスな美少年だと騒がれていて、女子にはすごく受けが良いみたいだ。 加えてわりといいやつみたいだから、会うなり「駄目です」なんて言われた経験は無いんじゃないかと思う。僕もない。 彼からしてみたら、アイギスはすごく目新しいタイプに映るんじゃないかなと僕は想像してみた。ロボットだけど。 「別にそんなんじゃない。ただ寮が同じだけだ」 「え、同じ寮……ってことは、一つ屋根の下で、お風呂もトイレも……」 「馬鹿、どんな寮を想像してる。巌戸台分寮だよ。四階建てで割と広い。順平も一緒だ。聞かなかったのか?」 「あ、いや、うん、そうだよね。はは……まさか朝まで一緒に部屋で過ごしたりなんて、」 「当たり前だ。ピッキングでもされなきゃそんなことはない」 「されたの?!」 「……あ、いや」 僕はまずったなと思った。説明しても誤解を深めるだけだろう。目を閉じて、「そんな訳ないだろ」と誤魔化しておいた。 「安心しろ、彼女とそういうことはない」 「あ、安心? うん」 望月は目に見えて赤くなってうろたえたが、素直に頷いた。 彼の気持ちも分かる気がする。アイギスは可愛い。初めて遭った時、僕が彼女に見惚れてぽーっとなってしまったのは、確かな事実なのだ。ロボットだけど。 「望月、アイギスのことが好きなんだろう?」 「え」 望月は石みたいに硬直し、さあっと顔を青ざめさせた。 彼は海外での暮らしが長かったらしいから、多分女の子の扱いも洋画の主人公たちみたいに様になっていて、上手いのだろう。 教室ではいつも彼の気障ったらしくて恥ずかしいささやき声が耳に入ってくるから、急にこんなにストレートな反応が返ってくるとは思わなくて、僕はちょっと驚いた。黙っていた方が良かったろうか? 「なんだよ、お前その顔」 「え? あ、いやっ違っ」 望月は慌てて、顔を真っ赤にして「そうじゃないんだ」と言った。 「そっ、そうじゃないんだ! 僕が、僕は、」 「大丈夫だよ」 望月があんまり必死な顔をしていたから、僕は堪え切れずに吹き出した。 まるで小学生を――いや、最近の小学生は大分しっかりしているのだ。それよりも小さい子供が臍を曲げてしまったのをあやしているような気分になってきた。 僕は笑って言った。 「誰にも言わないよ」 「……ほんとに、違うくて。だから、」 「わかったわかった」 望月の肩を叩いて、宥めて、僕は彼が抱いている本をとんと指で叩いて、「どうするんだ」と訊いた。 「自炊。ギブアップ?」 「……まだ負けない」 臍を曲げてしまったみたいだ。僕は苦笑して「あまり無理をするなよ」と言った。 「最初は卵焼きが作れるようになれば充分だから」 「いつか君に『綾時くんはプロのコックさんみたいだ』と言わせてやる」 ほんとに臍を曲げてしまったみたいだ。 |