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寮に戻ると順平が僕を見て「入れ違いになったな」と言う。 「リョージだよ。もちっと早かったら話できたのに残念だったな」 「そうか」 僕は頷く。ここ数日、望月とはほとんど話をしなかった。 例のアイギスに関しての話題以来、望月はあまり僕に近寄ってこない。気まずいと感じているのかもしれない。変なこと言わなきゃ良かったなと僕は少し後悔した。誰でも知られたくないことがひとつやふたつはあるのだ。 今日もレシピ・ブックを広げて自炊を続けているのだろうか。だとしたら彼の両手が心配だ。傷薬と絆創膏をきちんと使っていると良いのだが。 僕はそう考えて、変な気分になる。これじゃまるで子供を心配している親みたいだ。 「あなたが彼と話す必要はありません」 アイギスは相変わらず望月の話題になるとつんけんした顔で斬り棄てるみたいに言う。彼女は僕の傍に来て、「絶対に近寄ってはダメであります」と言った。彼女も彼女で、言い方がなんだか母親みたいだ。僕には母親はいないが。 「ああ、君が勘違いなんかするはずないって分かってる。でも僕には、」 「はぁ? ボクぅー?」 つい昔の癖が出て、僕は一瞬口篭もった。アイギスと話をしていると、たまにすごく昔から馴染んだ人間といるような奇妙な気分になってくる。予想通り順平が食い付いてきたが、何でもないふりを装って続けた。 「……俺には彼が危険だと思うことができないんだ。いい奴だと思うし――」 「……! 彼と、接触したのですか」 「あ、いや」 「あの人は、絶対にダメであります!」 「……わかったわかった」 彼女はすごく真剣だった。望月も報われないことだ。僕は両手を上げて降参して、ソファに掛け、帰り際に買ってきたブラックの缶コーヒーを開けた。 僕らの遣り取りを順平が面白がるようににやにやしながら見ていた。いつものように横槍のひとつくらい入れて欲しかった。 「さすがのお前も形無しだな」 「……そうみたいだな」 僕は素直に頷いた。順平は缶コーヒーの『無糖』の文字を嫌そうに見ていたが、さっさと興味を無くし、アイギスに笑って言った。 「まあまあ落ち付けって、アイちゃんそんな喋り方してたらさ、こいつみたいになっちゃうぜ」 彼は僕を指差して言う。アイギスは僕の方を見て、「望むところであります」とか言っている。何とも言えず、僕はコーヒーを啜った。苦くてあまり美味くはない。 「望月が来てたのか。なんだか意外だ」 「ああ、最近ちょくちょく遊ぶようになってな。何つーか、ウマが合うっつーか、割とダベったりしてんだよ。あいつ面白いしな」 「……確かに面白いかもしれない」 僕は望月の奇行を思い出しながら、間を置いて頷いた。微妙な顔をしていたと思う。確かに、人によっては面白いと感じるかもしれない。 「だろ? こう狙い目の女子とか、口説き方のテクについてレクチャーしてやったり……」 「……どう見てもお前よりあいつの方がモテてる上に経験豊富だと思うが」 「う、うるせぇな!」 順平は赤くなってぐっと詰まった。彼もどうやら自覚はあるらしかった。 それにしてもすごく健康的な話題だ。いつもは影時間関連の話ばかりだったから、そろそろ自分が高校生だってことを忘れそうになるところだった。 順平は屈託無くて取っ付き易く、面倒見の良い人間だから、望月も彼といると居心地が良いのだろう。 何しろ望月は転校してきたばかりなのだ。一人暮しで不安になることもあるだろう。僕も四月頃は多分そうだったと思う。 「いや、でもな、あいつもこう軽いじゃん。見境なしって感じで。でも一目惚れした子がぜんぜん振り向いてくれねぇらしくてさ、相談に乗ってやってるんだよ」 僕は溜息を吐いた。転校したてで不安だとか、そういうのは僕の想像だけだったのかもしれない。単純にバカ二人で妙に波長が合うだけなのかもしれない。 もしかすると彼らは顔を突き合わせている間、女子の話しかしてないんじゃないだろうかと僕は予想した。多分間違っていない。 「その相手って子がさ、あ、名前は教えてくんなかったけど! これがまたすげー有名人で、美人なんだと。男女問わず人気があって頭も良くて、性格も良くて……あ、すげー優しい子らしい。でもなんだか近寄りがたいオーラとか出てて、アプローチしても全然本気に取ってもらえないんだと。あのリョ―ジがだよ? いまだに手も握れてないらしいぜ。どんな子なのかなー」 僕はちらっとアイギスに目をやった。彼女は望月の話題が出ていると、急に不安になるらしく、コロマルとぼそぼそと話している。相談や悩み話の類なんだろうが、あいにく僕らにはコロマルの言葉は分からないので、内容は知れない。 僕はなんだかちょっと望月が可哀想になってきた。いくら一人で盛り上がってみても、アイギスは人間じゃないのだ。無理だとは言わないが、普通よりも大分難しいだろう。 「どんな子かな、桐条先輩みたいな女王様タイプかな……いやいやもしかして先生とか? 障害多そうだもんなぁ。な、お前なんか知ってる? 噂とかさ」 順平は興味津々だ。僕はこの先彼には何があっても悩みを相談しないでおこうと心に決めた。共有する秘密ってものは墓まで持って行ってやるくらいがちょうど良いのだ。 僕は肩を竦めて「知らないよ」と言った。 ◆◇◆◇◆ 「やあ、今日もいたね」 放課後、僕はまた図書室で望月と出くわした。彼は静かに微笑んでいた。そこに気まずさを表しているものはなかった。 彼は例のレシピ・ブックを抱えていた。 「今日がね、期限なんだ。返そうと思って」 僕は「そう」と頷いた。それから少し間を置いて「この前はすまなかった」と謝った。 「どうして謝るの?」 「……望月、あまり人に知られたくなさそうだったから」 「ああ、アイギスさんのことかい? なんだ、気にすることなかったのに。本当のことだよ。確かに彼女はすごく可愛いもの。僕は好きだな」 僕はなんだか拍子抜けした。「なんだよ」と肩を竦め、ちょっと気が抜けてしまいながら、「変に気まずくなったんじゃなかったら良かった」と言った。望月は笑っている。 「手は大丈夫か?」 「え?」 望月はぱっと自分の手を見て、ちょっと不思議そうな顔になって、「ああ」と頷いた。 「まあね。怪我をするとすごくみんなに気を遣わせてしまうみたいだからね。注意してるよ」 「……そうか」 相変わらず言いかたに不思議なところがあるが、ちょっと見ないうちに望月は以前よりも大分大人びたように思う。いや、単純に慣れただけなのかもしれない。彼は上手く月光館に馴染んでいるように見えた。 「偉いね、自習してるんだ」 「別に、帰ったらやる気が起きないだけ。もう帰ろうと思ってた」 「あ、そうなの」 望月はほっとしたような嬉しそうな顔になって、「じゃあ一緒に」と言い掛けた――ところで、扉が乱雑に開いて、順平が図書室に顔を出した。 「……お、いたいたリョ―ジ! 帰ろうぜ。いやーもう、小テストがさんざんでさぁ。今までたっぷり絞られてさ、たまんねんだよホント」 どうやらテストのことで、職員室に呼び出されていたらしい。順平はげっそりした顔になっていたが、だからと言って彼がこの先勤勉になることはないだろうというのは、半年くらいの付き合いだが僕には良く分かっていた。言うだけ無駄なのだ。 順平は僕に気付いて、「お前ももう帰り?」と訊いてきた。僕は頷いた。 「じゃ帰ろーぜ……つーか、あ、お前はまた怪しげなとこに用事があんのか?」 「……怪しげってなんだ。今日は別に用事はない」 順平は日頃の僕の行動について、いつも「お前のやってることは良くわからん」とうさんくさそうな目で見てくる。僕も否定はできないので、黙っておく。弁解はあまり上手くないのだ。 「メシ食って帰る? あんま金ねーからワイルダック・バーガーに発射かねー」 「あ、いやあの」 望月は妙に慌てたふうに僕を見た。変なところだけ生真面目な奴だ。僕は肩を竦めて、「あんまり力み過ぎるなよ」と言った。 「また手を切るぞ」 「も、もう切らないよ。ほんとだよ」 「……何の話よ?」 順平は訳が分からないと言った顔だ。僕らは口を揃えて「なんでもないよ」と言った。 駅前で食事を済ませて少し歩いたところで、天田に出会った。彼は寮のそばにある川のほとりの土手を歩いていた。ぴかぴかの首輪を着けたコロマルを連れている。 「あれ、おかえりなさい。珍しいメンバーですね」 相変わらず大人びた顔で、天田が言った。この少年の中では、見慣れた顔ぶれでも僕が混ざっていると『珍しいメンバー』になるらしい。 「散歩中なんです。土手を思いっきり走り回るのが好きみたいで」 「ふぅん、元気で良いねぇお前は……毎晩あんなに走り回ってるのに良く、」 ここで天田は、コロマルの頭を撫でながら下手なことを言い掛けた順平の脛を、靴のつま先で思いっきり蹴っ飛ばした。 「いってええ!」 「大丈夫ですか? 蚊がとまってましたよ」 天田は平然としている。 順平はしゃがんで蹴られたところを押さえて涙ぐんでいる。それからはっとして望月の顔を見た。 「ん? なんだい? 僕の顔になんかついてる?」 「いいいいいや、何でもないんだ、うん。良かったなー、気持ち良い風だな、コロちゃん……」 いささかわざとらしさが鼻についたが、どうやら誤魔化せたようだ。影時間の活動は、普通の人間には秘密になっている。だが順平はこの様子だと、どうもどこかでうっかり漏らしてしまっているような気もする。 昨晩降った雨で川の水かさは増していた。濁った水が、ゴミや木の枝を巻き込んで勢い良く流れていく。 「でも下が大分濡れてて、今日はもう帰ったほうが良さそうですね。脚汚れちゃったなコロマル。帰ったら綺麗にしてやるからな」 コロマルは天田に応えるようにワンと鳴いた。この犬は非常に賢い。きっと順平よりも頭の出来は良いのだと僕は思う。 「コロー!」 ふいに、子供の呼び声が聞こえた。コロマルが応えて「ワン」と鳴く。 見ると、小さな女の子がすごく慌てふためいた具合で駆けてくる。彼女は僕らのすぐ横を、コロマルを素通りして、すうっと通り抜けていく。 「……なんだありゃ?」 順平が首を傾げている。コロマルは悲しそうにくぅんと一声鳴いた。 「……あ、あれです犬が!」 天田が慌てて指差した先には、濁流の中を流されていく犬の姿があった。流れは速く、今にも沈みそうな様子だった。 僕らが呆然としていると、大きな水音が上がった。水の中に重たいものを放り込んだ時みたいな音だ。 そして見遣ると望月の姿がない。 最初に我に返ったのは順平だった。彼は呆気に取られた顔で叫んだ。 「りょ、りょーじぃい?!」 望月が川に飛び込んだのだ。彼は大分不器用な動作で川の半ばまで泳いでいき、 「リョージ!」 頭が沈んで、見えなくなった。 僕は衝動的に上着とMP3プレイヤーを順平に投げ付けていた。 「あとはまかせた!」 「まかせたって、えっちょ、リーダー!」 天田が慌てて止めようと手を伸ばしてきたが、そこにいろと言い置いて、僕はそのまま川に飛び込んだ。 十一月の川の水温は低く、ひどく冷たく、身体を芯から冷やしてくれた。 水中の視界は悪く、目を開けていられなかったが、僕は懸命に水を掻いて前へ進んだ。 犬を助けようとして川に飛び込んだ高校生二人が水死なんて、明日の朝刊に載るのはごめんだ。 不思議なことに、濁流の中でも僕には望月の姿をうっすらと見ることができた。いや、視界はまるであてにならなかった。ただ感覚的なものだ。分かるのだった。 ごうごう唸る泥水の中へ沈んでいく。ほんの僅かな時間なのに、手足の感覚はもうほとんど失われていた。だが、伸ばした僕の手は、指先に触れた望月の手の冷たさを確かに感じとることができた。 そこから先はあまり覚えていない。気がつくと、僕は荒れ狂った川の岸辺で、大事そうに犬を抱えた望月を抱いてへたりこんでいた。 濡れた髪が顔中に張り付いてきて気持ちが悪い。上手く動かない手で前髪を上げ、僕は望月をじっと観察した。大丈夫生きてる。そんなに長い時間じゃなかったから、多分あまり水も飲んでいないだろう。 「――おい、生きてるか!」 「大丈夫ですか?! まったく無茶して!」 順平たちが駆けてくる。どうやら大分川下まで流されてしまったようだ。 僕の仲間たちは傍へくると、顔色を悪くしたままだったが、見るからにほっとした顔つきになった。 「リョージ、まったくお前ってやつは何て無茶しやがんだよ! そういうのはそこの鬼太郎もどきに任せときゃ良いんだよ!」 順平が僕の肩を掴んで、すごく真剣な顔で言った。誰が鬼太郎もどきだと返す力も残っていない。それになんでそれを僕に言うんだ。 「リーダー、しっかりして下さい! なに寝てんですか、あなたこれくらい何ともないはずでしょう?!」 天田が望月を揺さ振って喚いている。二人共混乱しているのは解るが、相手が違うだろうと、僕は怒るべきなのだろう。それにいくらかひどいことを言われている。彼らが僕をどう思っているのかはともかく、僕は超人でもロボットでもないのだ。 「とりあえず、無事……だけど、死ぬかと思った。まったくこのバカは……」 僕は溜息を吐いて望月の頭を叩いた。 すぐに、僕の頭に天田の拳が落ちてきた。 小学生だが、さすがペルソナ使いだけあって、それなりに痛い。彼はかなり憤慨しているようだった。 「バカって何ですか、バカって! バカはあなたでしょう? それもこれも考えなしに川に飛び込んだあなたが悪いんでしょう?!」 「えっ、ちょ……え、待って」 僕はひどく困惑していた。何で僕が怒られなきゃならないんだ。 「りょ、リョ―ジ?」 「……なんで俺が望月なんだ?」 「え……お、おまっ、大丈夫か? 頭打ったか?」 二人共、なんだか変だ。コロマルだけが僕を慰めるように顔を舐めてくれている。 何で僕が望月と間違えられてるんだ。僕はまだぐったりしている彼を見下ろした。 そして唖然とした。 そこには目を閉じてじっとしている僕の姿があったのだ。 「え?」 僕は更に困惑して、望月をじっと見つめた。いや、僕だ。毎朝鏡の中に見る顔がそこにある。 でも左目の下に見覚えのない特徴がある。泣きボクロだ。 僕は震える手で彼の、整髪剤が溶けて顔にべったりと張り付いている前髪を上げた。 望月綾時の顔が現れた。 逆に、のろのろと自分の前髪を下ろす。顔を上げる。順平と天田はぽかんと口を開けている。 「……ほくろ」 順平が呆然とした顔のまま、自分の顔の左目の下を指した。 僕はゆっくりと手の甲で顔を拭う。ホクロに間違えられたらしい黒い泥の粒が付着する。 きっとひどく全身汚れてしまっているのだろう。 順平と天田は、この時点になると、完全に固まってしまっていた。 僕は、たぶん彼らと同じように呆然としながら、震え声で言った。 「……ペルソナ、喚ぼうか?」 順平と天田はしばらく間を置いてから、呆けた顔のままで「結構です」と首を振って言った。 溺れていた犬の飼主の女の子が息を切らしてやってくると、昏倒していた望月がやっと目を開けて、身体を起こし、抱いたままだった犬を離した。 「もう目を離さないで」 少女に優しくそう言った後、彼は硬直したままの僕達を見て首を傾げた。 「どうしたの?」 「いや……」 「今見たことについて、深く追求するべきか、忘れてしまうべきか考え中なんですよ」 「うーん……あ、でもあんま似てねぇかも……思ったよりは」 順平が僕と望月を見比べて、うん似てない、と言った。 「目ェ閉じてたせいじゃね? 体格もおんなじくらいだしさ。似たような顔なんて、世の中に三人いるって」 「そ、そうですよね。うん、似てません。リーダー、こんな垂れ目じゃないし」 順平と天田はどうやら無理矢理納得してしまったらしい。望月は訳が分からなさそうな顔でいたが、僕の方を見てびっくりしたみたいに目を見開いた。 「うわっ、君どうしたのそれ、びしょ濡れじゃないか!」 「お前もな」 僕はなんだか疲れてしまって、溜息を吐いた。後でまた風邪を引いてしまうかもしれない。 「あなたが後先考えずに飛び込むからですよ。うちのリーダーがあなたと犬を助けてくれたんです。ちゃんとお礼言ってください」 「え、あ、うん。ありがとう……君、リーダーなの?」 「天田……さっきオレのこと蹴ったくせに……」 「ごっ、ご近所探検隊のリーダーなんです! この人一番偉いんです」 「へえ、君は子供にも人気があるんだね」 望月はなにも知らずににっこりしている。 天田は、いつもなら「子供扱いしないで下さい」と拗ねているところだが、今日は自分のミスを自覚しているせいか、「リーダーは虫採ったりするの得意なんです。ゲームも強いし」とか言って微笑ましがられている。「都合が悪くなると子供の特権振りかざしやがって」とぶつぶつ言っていた順平は、また脛を蹴飛ばされていた。 望月は苦笑して、静かに言った。 「水の中で息ができなくなって、すごく苦しかった」 「そりゃあな。俺も死ぬかと思った。もう無茶はするんじゃない」 「でも放っておけなかったんだ」 そしてすごく真面目な顔で言った。やっぱりいい奴なんだと思う。 アイギスは彼の何をそんなに危険だと感じているのだろう。 僕にはわからない。 |