友達と遊びに行くと言って、僕は家を出た。
 お母さんは今日も仕事なんだっていう。出掛けしなにはもう起きて化粧を済ませていた。僕はウエストポーチに携帯ゲーム機を突っ込んで、「いってきます」となんでもないふうに声を掛けた。
「いってらっしゃい」
 お母さんは忙しそうにカレンダーに予定を書き込んでいたけど、ちょっと僕の方を見て、「気をつけて、大事な身体なんだからね」と言った。
 僕はお母さんにそう言われると、まるで宝石や骨董品を「気を付けて運んでね」と言われているような気がして、無性に悲しくなる。こうなったのは家族が別々に暮らしはじめてからだ。
 たまに僕は全部あの人に話してしまおうかと思うことがある。あの人は自称僕のヒーローなのだ。きっと助けてくれるだろう、けど、きっとたくさんひどいことになる。
 僕は怖くてなにも言えない。
 口から出てくるのはいつもどうでも良いことばかりだ。
 僕は自分の、大事なことは何一つ言えないくせに、余計なことを言ってしまいがちな性質が嫌いだった。ものを言わずに暮らしていくことができたらどんなに良いだろう。
 僕のポケットには大事に折り畳んだ手紙と一枚の回数切符がある。





 家の近くの駅から回数切符を使って、電車に乗って少し行ったところに、その約束の場所はある。
 一見普通のファミリー・レストランだ。中身もふつう。でも一緒にいるところを見つかるとひどく怒られる僕らにとっては、そこは大事な秘密基地だった。
「やあちびくん、こんにちは」
 その人はもう先に来て、店の一番奥の席に座って僕を待っていた。僕は転がるように駆けて行って、彼の腕に抱き付いた。
「りょうじ!」
 僕はその人を名前で呼ぶ。いつからかは覚えていないけど、気が付いたらこうだった。
 僕とその人は一番の親友で、僕は彼と過ごす時間を何より大切にしていた。
「いつものかい?」
「うん」
「すみません、クリームソーダをふたつ」
 その人は近くにいたウエイトレスを掴まえて、にっこり笑って注文した。ついでに「君可愛いね」と付け加えるのも忘れない。
 ああまたやっちゃってる、と僕は呆れ顔になった。これは彼のすごく悪い癖だ。
 どうやらお母さんに愛想を尽かされちゃってもまだ懲りてないらしい。
「……綾時、女の人見たら口説くのよしなよ。子供じゃないんだから我慢しなよ。そんなだからお母さんにふられちゃうんだ」
「うっ……だって今の子あんまりかわいかったから」
「綾時」
「うう……ごめんなさい」
 その人は目に見えてしょげた。僕は腕を組んで、「まったくどーしようもないね」と言った。
「……チーズケーキ食べさせてくれたら、見なかったことにしたげる」
「あ、うん。何でも食べて。ケーキでもアイスでもパフェでも! あ、ごはんは? ちゃんと食べたかい?」
「食べた。トーストに苺ジャムつけて」
「身体のほうはどうだい? 風邪とかひいてない? 怪我もしてないかい? あ、学校は? 月光館の初等科だよね。友達はいるかい? いじめられてない? 勉強にはちゃんとついていけてる……?」
「綾時、質問ばっかり」
「だって心配なんだよ、前みたいに毎日僕がついててあげることはもうできない。君に何かあったらって考えるだけで目の前が真っ暗になってしまう。ほんとに、何かあったらすぐに言って。携帯に電話してくれたらいいから、朝早くでも夜中でも、いつでも気にすることはないからね」
「僕のが綾時よりも大分しっかりしてると思うから、大丈夫だよ。元気だし、学校でも困ったことなんかない。それより綾時のほうが心配だよ。ごはんちゃんと食べてる? ちゃんとベッドで寝てる?」
「うん、うん……ちゃんとしてる、だいじょうぶ」
「寝る時窓閉めてる? ガスの元栓は? 綾時料理できないでしょ、包丁触って手を切ってない? 毎日お風呂入って着替えてる? 寂しくなかった?」
「うん、気を付けてるし、清潔にしてる……けど、寂しかったよ! 夜中にひとりでね、昔のアルバム読んでたら、ああもう僕はひとりなんだって、昔は帰ってこないんだってすごく悲しくなってね。思わず泣いちゃった」
 その人はその時のことを思い出したみたいで、今にも泣き出しそうな顔になった。
 なんだか可哀想だったけど、それもこれも元はと言えばその人の自業自得ってやつなんだ。前も自分で「僕が悪いんだ」って言ってた。
「もう、泣かないでよ……会えないわけじゃないんだから。毎日は遊べないけど、日曜日は一緒にいられるでしょ?」
「ほんとは毎日一緒にいたい」
「子供みたいなこと言わないの。僕だって毎日綾時と遊びたいけど」
 そう言うとその人はぱっと嬉しそうな顔になった。僕が一緒にいたいって言ったのが嬉しかったみたいだ。それくらいで見て分かるくらい喜ぶなんて、ほんとに子供っぽい。
「もう……」
 呆れたけど、ちょっとくすぐったい感じがする。僕はその人のことが好きだったから、「一緒にいたい」って言ってそうやって嬉しそうにされると、僕もちょっと嬉しい。
 それって僕の事を好きでいてくれてるってことなんだ。
 そうしているうちにクリームソーダが運ばれてきた。僕の大好物だ。
 僕がご機嫌でアイスを口に入れているところを、その人はすごく嬉しそうな顔でニコニコしながら見ている。
「綾時は食べないの?」
「あ、うん」
 言われて慌ててその人はグラスをスプーンでグルグル掻き混ぜはじめた。『混ぜて飲む派』なのだ。
 僕は『アイスを二/三先に食べる派』だったから、クリームソーダの飲み方に関しては、僕らの意見はいつも平行線だ。
 考えてみれば小さいことでは僕らの主張はいつも合わない。
 カレーだって『混ぜて食べる派』と『崩さずに食べる派』だ。派閥が分かれている。
 もちろん、混ぜるのは僕じゃない。その人は何だって混ぜこぜにしてしまうのだ。
 でも僕らは些細な食違いを抱えながらも上手くやっていると思う。仲が良いのだ。
 初等科のクラスメイトたちの中で、いや、学校中、世界中を探したって僕らよりも仲の良い親子はいないだろう。
 でも僕らは一緒には暮らせない。
 多分この世界に神様ってものがもし本当にいるとしたら、そいつはすごく意地悪でひがみっぽい性格をしているに違いない。
「きょ、今日はこの後何をして遊ぼうか? 実を言うとね、いくつかプランを考えてきたんだ。まず一つ目、遊園地のヒーローショー。二つ目、山にハイキング。三つ目、川に釣り。四つ目は僕んちでゲーム。あ、君の好きなヒーローもののDVDもいっぱいあるよ。五つ目は――
「ちょっ待って、いくつあるのそれ」
「六つ。一日ひとつ、次の日曜は君と何をして遊ぼうかってのを考えるんだ。一日中君と一緒にいられるところを空想してね。そうやって一週間過ごしてたんだ。そうすると辛いことがあってもなんとか乗り切れるんだよ」
 ほんとにこの人は僕がいないと全然だめだと僕は考えた。
 なんだか心配になってきた。こんなでちゃんと生活できているのだろうか?
 僕は「もうちょっと頑張ってね」と言った。
「大人になって家を出られるようになったら、僕綾時のとこで暮らすよ。家事とか全然できないでしょ? それまで孤独死とかしないでね」
「ほ、ほんとかい? いいの? ほんとにほんとに待ってるからね、僕」
「だって綾時、僕がいないと全然ダメだもん」
「うん、ほんとにダメだ。君のことばっかり考えてる」
 その人は嬉しそうな顔で「早く一緒に暮らしたいな」と言った。
 僕はその顔を見て、やっぱり変な相談なんかしなくて良かったなとほっとした。
 その人の悲しそうな顔を見るのは、僕にとって何よりもつらいことだったんだ。






◆◇◆◇◆





 授業の終わりを告げる鐘で目を覚ました僕は、「なんだそりゃあ」と口の中だけで呟いた。
 ほんの十数分の浅い眠りの中で、僕は夢を見た。変な夢だったと思う。確か望月が出てきたんだった。彼は今よりも随分大人びていて、反対に僕はほんの子供の姿をしていた。
「居眠りなんて珍しいね」
 まだ頭がぼんやりしているところに、望月本人がいつもの人好きのする顔で話し掛けてきた。
 彼は僕の顔を覗き込んで、ちょっと心配そうな顔をした。
「ひょっとして寝惚けてる? 大丈夫かい」
「……ああ、大丈夫だよ、お父さん」
 彼があんまり夢の中と同じ調子で話すから、僕は咄嗟に妙な受け答えをしてしまった。
 望月と、傍で話を聞いていた順平と岳羽が目を丸くして、次の瞬間爆笑した。
「……あ」
 僕はようやく我に返り、失言に気付いて赤面した。気恥ずかしくて死にそうになったが、今更無かったことにはできない。
「ぎゃはははは! おっおと、おとーさん! だってよ!」
「あはは、か、可愛いとこあるじゃない……」
「ふふ、二人共悪いよそんなに笑っちゃ」
「……わ、笑うな」
 僕は彼らから顔を逸らした。どうやら聞かなかったことにしてやるという気遣いは、彼らには無いらしい。
 順平と岳羽はにやにや笑いながら僕を小突いて、さっさと準備しろと急かした。そう言えば、次は移動教室だ。
「じゃっおとーさん、お子さんは頼んだぜ」
「……もういいだろ。やめろよ」
「あはは。先に行くね」
 彼らが笑いながら出て行くと、ぬるい表情でいる望月と取り残された。
 僕は渋い顔で彼に弁解した。
「……悪い。夢見がおかしかったんだ。たぶんそのせい」
「家族の夢?」
「いや。……なんか、お前が出てきた」
「僕? どんなの?」
 望月は興味をそそられたふうに、じっと僕を見詰めてきた。僕はちょっと考えて、「何でもない夢だよ」と言った。
「二人でジュース飲んでた」
「それだけ?」
「うん」
 望月は良く分からないと言った顔でふうんと頷いた。
「そうなんだ。実を言うとね、僕も良く君の夢を見る」
「俺の?」
 僕は首を傾げた。夢は記憶から作り出されるもの、らしい。
 望月の中には僕に関しての記憶ってのは、どんなふうに詰まっているんだろう。ちょっと気になった。
「おかしな内容なんだけどね。僕と君がひとつになる夢なんだ」
 突拍子もなかった。僕は動揺したんだと思う。
 纏めた教科書が腕から滑り落ちて、ばさばさと床に落ちた。
 望月は僕の反応を見て、慌てて顔を真っ赤にして「誤解だよ」と言った。
「あっ、ち、ちがうんだ。変な意味じゃなくてねっ……夢の中で僕は君に触るんだ。君が呼んでも僕に気付かないでいるから肩を叩こうとしてね。君に触った途端、僕の手は君にくっついて離れなくなる。君も振り向いて、「どうしたんだ」とか「何だこれ」とか驚いて、僕らは離れようとするんだけど、お互い触り合ったところからまたくっついてって、どうしようどうしようって言ってるうちにずるずる溶けてって、最後に僕らはひとつになっちゃうんだ」
「……面白い夢を見るんだな。ひとつに纏まると、俺たちはどうなるんだ?」
「それが覚えてないんだよ。どうなったんだろうね」
「……ふうん」
 僕はちょっと感心して溜息を吐いた。おかしな夢を見るのは僕だけじゃないのだ。
 そう思うとちょっとほっとした。
 散らばった教科書を拾って、僕は望月に「行こうか」と言った。






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