――あ……の、……に、時価ネッ……ぁ〜』
 奇妙な音楽が聴こえて、僕は緩やかに覚醒した。
『み・ん・な・の、よっくっのともっ♪』
 日曜日に放送される人気通販番組のBGMだ。何のことはない、僕の携帯の着信音だった。
 それは身体の下の方から聞こえていた。鞄が僕の下敷きになっているのだ。
 何でそんなことになっているんだろうと僕は考えた。鞄がぺちゃんこに潰れてしまう。それに身体も痛い。無理矢理狭い箱の中に閉じ込められているのだ。
 しばらくするとぱっと明かりがついた。
 誰かの気配があって、ロッカーが開き、僕の身体は焼却炉に吸い込まれていくゴミ箱の中身のようにずるずると引っ張り出された。
 ふわっと身体が浮き、台のようなものの上に乗せられた。たぶん机だ。
 口にべたっとテープを貼られ、頭の上で両手を纏めて縛り上げられた。多分あんまり良い扱いじゃないなと僕は考え、そこでようやくうっすらと目を開いた。
 視界はぐるぐる回っていた。僕はぼおっと目を開けながら、「なに」と言おうとした。でも声が出ない。
「起きたんですか。少しおとなしくしていて下さいね」
 声が降ってきた。覚えがないものだ。首のリボンが解ける音がして、シャツの胸元がくつろげられた。ベルトの金具が外れる音が聞こえた。
 シャツの割れ目から、汗ばんだ手が潜り込んできた。固くて大きい。男のものだ。
 それがもぞもぞ蠢いている。なんだか気持ち悪いなと思った。
「先輩、やっぱりすごく、綺麗だ……最高です」
 耳元で、走りまわった後の犬の呼吸のような音が聞こえる。
 一体なんなんだと僕は思った。でも身体は動かない。
「先輩っ……僕もう、」
 僕のものじゃないベルトの金具が性急に外される音がする。
 何がなんだかわからないが、僕は漠然とした不安のようなものを感じていた。それは七月の満月の日に感じたものと似ていたかもしれない。頭がぼんやりしているのに、変な危機感があるのだ。
 そうしているうちに何か大きな、黒っぽいものが僕の身体の上に覆い被さってきた。
――え」
 きらっと白いひかりが煌いたと思ったら、僕に掛かる重みが急に消えた。鈍い音も聞こえた。




――大丈夫?!」




 口に貼り付いていたガムテープが剥がされ、急に僕の視界に望月の顔がアップで現れた。
「ああ……うぅ、あー」
 望月、どうしたんだと僕は言おうとした。でも上手く口が動かない。例の無気力症の人間みたいな声が、咽から零れた。
 望月は目を見開いて、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。
「う、嘘でしょ、ねえっ……ぼ、僕のこと分かるかい? 君がそんな、あんなふうになっちゃうのはいやだよ。まだ君と話したいことがたくさんあったんだ……僕、まだ君になんにも言ってないよ!」
 彼の目には涙が滲んでいた。僕の頬を両手で包んで、額を触れ合わせ、「こんなのってないよ」と言った。
 僕は不思議な焦燥感のようなものを感じていた。彼を悲しませたくはない、何でもいいから喋らなきゃと思った。
 何でもいいのだ。僕は大丈夫で、心配することなんか何もないと伝えなければならないのだ。
「……な」
「えっ」
「……あぁ、……れ、うぅ……」
 上手く言葉にならない。僕はすごく焦ってきた。何か言わなきゃならない、何か。
 望月は僕の目をじっと覗き込んできた。できれば、そこに僕の意思というものが映ってくれるといい。僕は無気力なんかじゃない。やるべきことはまだ沢山あるのだ。大事なことから些細なことまで様々だ。
「……きみ?」
「……あ、あ」
 僕はひどい労力を使って頷いた。そもそも何でこんなに身体が重いんだ。
 望月は、いくらか落ち付いたようだった。「少し待って」と伝えようと頷くと、彼は辛抱強く僕が口が利けるようになるのを待ってくれた。
――もちづき、おれ……なんでここに、おまえも?」
 僕がいたのは月光館の運動部の部室だった。僕は何故か腕を縛られて、まな板の上の魚みたいに机の上に転がされていた。
 制服がひどく乱れていて、ほとんど裸だ。何でこんなふうになっているんだか思い出そうとして、僕はさあっと青くなった。
 さっき部活に見学に来ていた後輩の男子生徒が、僕が乗っかっている机の下に倒れていた。彼の上にはパイプ椅子が乗っかっていた。僕は望月を見た。彼は具合悪そうにぼそぼそ言った。
「……順平くんから君が寮に戻ってないから、知らないかって連絡があったんだ。携帯も繋がらないって訊いて、すごく嫌な気分になって、心配になって、君は帰りに部活に出るって言ってたからここへ来たら、その、」
 彼は僕の姿を見て口篭もった。僕もこの辺りでやっと理解していた。僕は襲われていたのだ。そこまで思い当たると、僕は身体的なものとは更に別の理由で脱力した。僕が一体何をしたっていうんだ。ごく真っ当に授業を受けて、学生生活を送っているだけだ。ひどすぎる。
「……無事? ひどいことされなかった? どうして、こんなことに」
 彼は僕の身体をあちこち観察して、じっと顔を見つめて言った。僕は「無事みたいだ」と頷いた。
「……望月、悪いけど手、解いてくれないか」
 僕はようやくきちんと口を利けるようになったようだ。望月に頼むと、彼はまだ泣きそうな顔のまま頷き、縛られた僕の腕を解放してくれた。






 とりあえずわけのわからない男はそのまま転がしておいて、僕らは部室を出た。廊下と部室の電気を点けっぱなしにしておいたので、じきに見まわりの警備員が気付くだろう。弁解は僕の知ったことじゃない。
 僕はまともに歩けないせいで、望月に背負ってもらう羽目になってしまった。なんだか申し訳なくなってくる。
 彼は見た目よりも随分力があるらしく、はじめは僕を軽々と抱き上げてくれたが――お姫様抱っこというやつだ――僕が精神的なダメージを訴えたので止めてくれた。
 二人共無言だった。さっきの出来事があんまりなものだったせいだ。
 薬品を嗅がされて強姦されそうになったことに加えて、望月がさっきの男の携帯を覗いてすごく嫌なものを見付けてしまったのだ。デジカメ機能で撮られた僕の写真だった。
 いつ撮ったのか分からないものから、昏倒した僕が服をはだけられていくさまが順番に写っているものまで、データフォルダの中にいっぱいに詰まっていた。
 それを見た時は気が遠くなりそうだったが、写真を撮っている手間が無ければきっともっとひどいことになっていただろうから、もう目を瞑るしかないだろう。
 望月が来てくれなかったらと考えたら、死にそうに気分が塞いだ。
 さぞ嫌な写真集が出来上がっていたことだろう。動画まで撮られていたかもしれない。最悪だ。後日そいつをネタに強請られていたかもしれない。
 僕は丁寧にデータを抹消した後、問題の携帯を回収しておいた。後で海にでも棄てておこう。これで僕の恥部は少なくとも世間からは隠されるはずだ。
「……ほんとに、助かった」
 僕はしみじみ言った。
「でもまさかお前がいきなり人をパイプ椅子で殴るようなアグレッシブな奴だとは思わなかった」
「あ、あれはその、君に何かあったらと思ったら目の前が真っ暗になったんだ。それから頭に血が上って、僕人を殴るなんて初めてだよ」
「ん……ありがと」
 僕は顔をちょっと赤くして言った。
 おだてられて僕は本当はすごく良い気分になっていたんだと思う。そこに付け込まれたとしか思えない。念入りに用意されていたから――クロロホルムなんてどこで手に入れるんだろう。ネットだろうか――前々から計画されていたことなんだろう。シャドウなんかより人間のほうがよっぽど怖いなと僕は切実なくらい思った。もう嫌だ、人間が怖い。月光館が怖い。
「……泣いてるの?」
「……ちょっとだけ。あんまり情けないから」
「泣かないで。もし次があったとしても、君は僕が守るから」
 僕は少し笑ったと思う。こんな時にまで、望月は本当にいい奴なんだと実感してしまった。彼の声はすごく優しかった。
「次があるって考えただけで嫌だ。もう一生こんなのは嫌だ」
「うん」
「俺はこれでも強いんだ。今度は油断しない」
「うん」
「望月、絶対誰にも言うなよ。人に言ったら絶交な」
「言わないよ。それより、ほんとに無事で良かった。怖い思いしたんだね。もう大丈夫だから」
「……そういうのやめろよ。俺お前に懐きそうになるよ」
「うん」
 望月はいいとも悪いとも言わず、頷いた。
 彼の背中で揺さ振られていると、僕は変にほっとした心地になった。安心すると、身体にじわじわ疲労が染み込んできた。
「眠いなら寝ちゃって良いよ」
「でも……重く……」
「僕はこれでも力持ちだから」
 僕は懸命に睡魔を堪えていたが、やがて意識を手放してしまった。寝入りばなに何か言ったように思う。望月はそれを聞いて、「また言ってる」と笑っていた。それがこの夜の最後の記憶で、次に気がついた時には朝になっていた。
 僕は自室のベッドで眠っていた。
 望月はいなくなっていた。




◆◇◆◇◆





「身体はもういいのか」
 ラウンジに降りると、真田先輩が朝飯を食いながら僕を見て言った。僕は正直昨夜の記憶については掘り起こしたくなかったが、具合の悪い空白も多かったから、「良く覚えてないんですけど」と言った。
「なにが……」
「お前のクラスの転校生が、学校で倒れていたお前をここまで背負って連れて来たんだ。連絡を聞いてわざわざ探しに行ってくれたらしい。お前についてると言って聞かなかったが、終電が出る前に無理矢理帰らせたんだ。まったく、影時間に何をやってた」
 望月には本当に迷惑を掛けてしまったようだ。
 僕らは知らずに影時間を過ごしていたらしい。象徴化した望月に抱き付いていたのかと考えると妙な気分になった。良くシャドウに襲われなかったことだ。
「……彼は何て言ってました?」
「過労だろうとな。手を広げるのは良いが、自分の管理をできていないようじゃしょうがない」
「すみません」
 僕は素直に謝って、冷蔵庫から冷えたオレンジジュースのパックを出してコップに注いだ。のろのろとソファに掛け、口にすると、甘くて苦い味が広がった。
 真田先輩は、登校時間も間近なのにまだパジャマとスリッパでいる僕を胡乱な目で見て、「お前時間はいいのか」と言った。
「遅刻するぞ」
「……学校」
「ん?」
 僕は影時間の夜空のように陰気な声でぼそぼそ言った。
「……学校、行きたくありません」
 真田先輩が動きを止めた。





◆◇◆◇◆





 通学路を往く月光館の生徒たちが、僕らを見て呆気に取られたような顔でぴたっと立ち止まっている。
 真田先輩は学内じゃ知らない人間はいないくらいの有名人だった。その彼が片手に上着を担いで、もう片手で僕の腕を掴んで引き摺るように歩いている。
 僕は成すすべなく昼間のタルタロスへずるずる運ばれていく。
「先輩、ちょっ離してください。俺は登校を拒否します」
「馬鹿を言うな」
 僕の意見は切って棄てられた。
「いやです、今日は帰ります」
「子供みたいなこと言うな。天田でもそんなことは言わんぞ」
「大人だから嫌なんです」
 真田先輩には僕の気持ちなんか分からないに違いない。童貞より先に無理矢理処女を奪われそうな危機なんかを感じれば、彼だって部屋に閉じ篭りたい気分になるに違いはないのだ。
 でも僕はそんなことは口が裂けても言えない。これは墓まで持っていくことにしたのだ。
「先輩、俺行きたくないです」
 僕は涙目になっていた。真田先輩は僕を見て、「しょうがない奴だ」と言って、僕の頭に手を置いて顔を覗き込んできた。
「どうした? ……誰かに苛められたか」
「俺はそんなに弱くありません」
 僕は俯いて唇を噛む。昨日のことを思い出すと死んでしまいそうな気分になる。
 真田先輩は弱りきっているようだったが、後ろからやってきた順平に「どうかしたんスか」と訊かれてあからさまにほっとした顔になった。
「お前か。こいつを何とかしてくれ。……いや、お前のせいじゃないだろうな。何か言わなかったか?」
「は?」
「だから何でもないです」
「何でもない奴が登校拒否なんて言い出すか」
「はぁー? 何だそりゃ」
 順平は変な顔になって僕を見て、息を呑んだようだった。
「え、ちょ……おまっ、泣いてんの?」
「泣いてない」
「あ、悪かった……ごめん。オレその、カッとなると結構ヒドいこと言っちゃうからさ……」
「だから違う」
 僕らは通学路の見世物みたいになっていた。そうこうしているうちに、昨日僕が散々迷惑を掛けた望月がひょいっと顔を出して、「どうしたの」と言った。
「おはよう、道の真中でどうしたの? 何か変なことになってるみたいだけど……」
 彼は僕と、僕の頭に手を置いたまま途方に暮れている真田先輩と、すごく申し訳無さそうな顔になっている順平をぐるっと見回して、変な顔をしている。
「ああ、お前か転校生。昨日何か無かったか? こいつ今朝目を覚ましてから様子が変なんだ」
「……なんにもありません」
 僕は短く言って、真田先輩の隙をついて逃げ出そうとした――が、さすがに百戦錬磨のボクシング部主将だけあって、あっさり羽交い締めにされてしまった。逃げられない。
「逃がすか!」
「行きたくないんです〜!」
「幼稚園児みたいな我侭言うな! お前がそんなでシンジに顔向けできると思っているのか!?」
「俺はこれから荒垣先輩みたいなワイルドな不良になるんです。邪魔しないで下さい。かわりに夜は頑張りますから」
「あっちだけ頑張ったって仕方ないだろう」
「……夜? あっち?」
 望月がいつも白い顔色を更に白くして、順平を見た。順平は泡を食っている。
「い、いやそれよりさ! お前もなんとか言ってやってくれよ、こいつ学校行きたくねぇとかごねてるらしくてさ」
「え?」
 望月は僕をじっと見た。なんだか胸の中まで見透かされているような気分になってくる。
 僕が詰まっていると、彼はにっこり笑って、「そんな寂しいこと言わないでよ」と言った。
「君が学校に来なくなるのは寂しいな。せっかく友達になれたんだもの、もっといろいろ話をしたい。大丈夫だよ、不安なんて何もない。僕らがついてるから」
「……う」
 望月に対して後ろめたさと申し訳なさを感じている僕は、そう言われると弱い。
 僕は溜息を吐いて頭を切りかえることにした。のろのろ頷き、真田先輩に「離して下さい」と言った。
「……もう逃げませんから」
「本当だろうな」
「はい。もういいです。次があったら舌を噛み切って死んでやる」
「は?」
「何でもありません」
 僕は男だから間違いがあってもどうしようもならない事態にはならないのだ。
 なんにもならないし、ちょっと気持ち悪いだけでどうでも良いことだ。僕は自分にそう言い聞かせて、通学路をとぼとぼ歩き出す。






 どうしたのか後ろのほうで、望月が泣きそうな顔で「どういうことなの?! ねえっ!」と悲痛な声で言いながら、順平の胸倉を掴んで振り回していた。






 僕の気分は昼休みに少し晴れることになった。宮本が言うには、昨日の見学者は結局入部を見送ったんだそうだ。
「病気でしばらく学校に来られないんだとよ」
 彼は残念そうな顔でいるが、僕はひどくほっとしていた。
 後になってその男はポロニアンモールで影人間になって発見されるのだが、その時の僕には知ったことではなく、「うんそう」と頷いてそれで終わった。





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