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「あ」 「え」 「ん?」 京都の路は細くて入り組んでいる。気がつくと、僕は順平と望月と一緒に取り残されてしまっていた。一緒にいたはずの皆の姿がない。はぐれてしまったようだ。 「……あっれー、あいつらどこ行っちゃったんだろうなあ?」 順平が、妙にわざとらしい様子で、きょろきょろ辺りを見回している。僕はなんだか嫌な予感がした。これは予兆だ。順平がやらかす前の、あの嫌な感じだ。 「いやー、はぐれちゃったみたいだなあ。大変だこりゃ」 棒読みだ。もしかしたらこれは順平の仕掛けた何かの罠なんじゃないかと、疑りたくなった。またナンパがどうとか言い出すんじゃないだろうか。 「あ、オレちょっと探してくるわ。お前らは適当に茶でも飲んでろよ。見つかったら知らせっからよ」 だが、予想外に順平はまともなことを言っている。僕は拍子抜けしてしまった。 僕らも行こうかと申し出たが、「こんなとこでまでお前の顔ばっか見たくねぇよ」とか言われてしまった。やはり順平は僕のことが嫌いなのだろうか。今更だが地味にショックだ。 「リョ―ジわり、そいつのこと頼むわ」 「う、うん! まかせて!」 望月が慌てて、勢い良く頷いた。順平を見送ると、彼は僕ににっこり笑い掛けて、「どこか行きたいとこある?」と訊いてきた。 「どこでも、君が行きたいとこについてくよ。僕より君のほうがきっと詳しいと思うから」 「俺だってそんなに詳しいわけじゃないけど。とりあえず歩くか? 喫茶店でも探そう。咽乾いた」 「うん」 望月はちょっと俯いて、はにかんだような顔を浮かべている。僕が見ている限り、彼はいつもどこか嬉しそうな顔をしているように思う。ちょっと羨ましくなった。 僕は望月みたいに、何でも上手く楽しむということができないのだ。 「あ、あのね」 「うん?」 「あ、あの、手、繋い……あ、いや! な、なんでもないよ。行こうか」 「……? ああ。それにしてもお前もついてないな。せっかくの旅行なのに、俺なんかと一緒に取り残されて」 「そんなことないよ!」 あんまり勢い良く言われたので、僕はびっくりして望月を見た。彼ははっとして、顔を赤くして「ごめん」と言った。 「その、でも、ほんとにそんなことないんだ。君といられて嬉しい」 「……そうか? それならいいけど」 どうやら僕が変なことを言ったせいで、必死にフォローしてくれたらしい。 僕はなんだかくすぐったい気持ちになった。そしてもう何度目にもなるが、改めてこいつはいい奴だなと思った。言葉の端々までがすごく一生懸命なのだ。 しばらく歩いて、僕らは古びた印象の喫茶店に入った。店内には学生らしい姿がちらほら見えた。照明は控えめで、すごく静かに旧い時代のジャズが流れている。港区ではあまり見ない感触だ。 席に着くなり、望月はメニューを見もせずに「クリームソーダをふたつ」と注文した。 「……え?」 「え? どうしたの? ……あ、勝手に頼んじゃって、悪かった……かな……」 「いや、そうじゃなくて。お前……なんで知ってるんだ?」 「え?」 「その、僕が」 僕の顔は急激に赤く染まっていった。これは僕の嗜好の問題だった。 「僕、クリームソーダ好きだって……お前に言ったっけ……?」 高校二年生にもなって子供っぽい味覚をしているということを、僕は自覚している。そのことは僕の恥部のひとつですらあった。だからいつもは苦いコーヒーを美味いとも思わずに飲む。 望月はきょとんとして、「喫茶店ではクリームソーダでしょ」と当たり前のような顔をして言った。 「だめなの?」 「え、いや……ちょっと子供っぽくないか?」 「そうかな。美味しいならなんでもいいと思うけど。コーヒーに変える?」 「あ、ううん。僕もそれ」 僕はなんだか気恥ずかしくて、小声でぼそぼそ言った。望月はちょっと変な顔をして、それからすごく柔らかく微笑んだ。 「どうしたんだろ。君がすごく可愛い」 「なっ」 「甘いものほんとは好きなんでしょ? それに「僕」とか言ってる。珍しいこと聴いちゃったな」 「……あ、その、……癖なんだ。たまに出ちゃうんだよ。気を付けてるんだけど」 僕は焦ってしどろもどろになっていた。望月には恥ずかしいところばかり見られているような気がする。 望月は笑って「恥ずかしいなら誰にも言わないから安心してよ」と言った。 僕は頷いた。望月の無害そうな顔を見ていると、ふっと気が抜けてしまうのだ。もしかしたらこういうところも、彼が女子に人気がある理由のひとつなのかもしれない。 「――いや、それはない」 運ばれてきたクリームソーダを、望月は口を付ける前に掻き混ぜてぐずぐずにしてしまった。僕は顔を顰めて「ありえない」と言ってやった。 「アイスがもったいない」 「そう? 僕なんでも掻き混ぜちゃうタイプなんだよね。カレーとか」 「ない」 僕は突っ撥ねて、長いスプーンでアイスを掬って口に入れた。どうやら望月と僕は派閥が違うようだ。僕はアイスをまず二/三食べる派だった。こればっかりは昔から譲れないのだ。 望月は笑って「君案外子供っぽいね」と言った。僕は望月にだけはそれを言われたくない。そう言ってやると彼は「そうかな」と悪びれもしない顔で首を傾げた。 「そう言えば僕らって、こうやって話してるけど、お互いのこと何にも知らないよね」 「……ん? 何が言いたい」 「うん、例えばすごくクリームソーダが好きだとかね。君がこんなに可愛い嗜好をしてたなんて知らなかった」 「……バラしたら怒るぞ」 「言わないよ。ねえ、ほかにも甘いものは好き? ケーキは? チョコレートはどうかな? 和菓子とか好き?」 「なんでそんなこと訊くんだよ」 「僕もね、すごく好きだ。今度一緒に食べに行こうよ。明日でも帰ってからでもいいし、君結構街のこと良く知ってるだろ? 案内してよ」 「そういうのは多分女子と行ったほうが楽しい」 望月は女子にモテるのだ。毎日放課後どこかへ行こうと誘いを受けているのを見る。でも彼は笑って「君のおすすめの店が知りたいんだ」と言った。 「君は有名人だし、人気者だからね。こうやってふたりきりになれるなんて思わなかった」 「そんな大層なものじゃない。俺はそんなじゃない。普通だよ。特別はお前だろ」 「僕?」 「女子にすごく人気がある。同じクラスだってだけで、いろんなところでお前のことを聞かれるよ。月光館のやつらは噂が好きみたいだな」 「へえ、嬉しいな。君はなんて?」 「安心しろよ。悪口は言ってない。いいやつだって言ってあるよ」 僕はにやっと笑って言ってやった。望月もにこにこしている。 僕はあまり他人と話すのが得意なほうではない。でも望月といて疲れないのは、彼が僕が時折ふっと思考に沈む空白の時間を辛抱強く待ってくれるせいだろう。 彼は僕のぼそぼそした聞き取り辛い言葉を、今まで一言も聞き逃したことがない。良く注意を払ってひとつひとつ大事に拾ってくれるのだ。 僕は、僕の言葉をそんなに大事に扱われた経験はほとんど無かったから、馬鹿に優しい望月と話していると何だか良い気分だった。 ちょっとした気遣いに漠然とした嬉しさが込み上げてきて、むずむずするのだ。 僕は望月が大好きな女子でもないのに、彼は僕にすごく親切だった。 きっとどんな人間にも分け隔てなくこうなのだろう。これが海外育ちってやつなのかなと僕は思った。紳士という言葉がぴったり当て嵌まる。 加えて、きっと大事に育てられたのだろうという気がした。彼の家庭の事情を僕は何も知らないが、間違っていないといい。 「――でもちょっと手が早過ぎるとは言っておいたけど」 「あっそれ充分悪口だよ。僕のいないとこで何言ってんの」 僕らはそれから簡単な話をした。好きな食べ物の話だったり、ちょっとした近況や生活の話、休日はどう過ごしているかなんてことだ。 望月は、僕が休日に暇をしていることを訊くと、良いことを思い付いたとでもいうふうにぱっと顔を輝かせた。 「あ、じゃあ今度映画見に行こうよ。こないだ行ったんだ、ポートアイランドのスクリーンショット。綺麗なとこだったよ」 「うん。何見る?」 「恋愛映画はどうかな?」 「……お前はそういうの好きそうだと思ったよ。なんかホラー映画とかすごい嫌いそう」 僕は苦笑しながら言った。望月はちょっと顔を強張らせたが、「へ、へいきだよ」と強がって言った。でも声が震えている。やっぱり幽霊の類が苦手みたいだ。 「じゃ、じゃあいいよ。ホラー映画。うん、ある意味美味しそうだし……」 「無理するな。いいよ、お前の好きなので。俺も来週公開の恋愛映画、見たいやつもあったんだ」 僕はちょっと迷ってから、「アイギスも連れてこようか?」と言った。望月は彼女に好意を抱いているみたいだったから、気を利かせてやったつもりだったのだが、彼は笑って首を振った。 「……ううん。気持ちは嬉しいけど、アイギスさんはきっと僕と映画なんて楽しんでくれないんじゃないかと思うんだ。まだ時期が早いよ」 「そうか」 僕は頷いて、「大変だな」と言ってやった。 望月は困ったように笑いながら「うん」と頷き、溜息を吐いて、見るからにしょげてしまった。 「……大変だよ、本当に。全然相手にしてもらえてないんじゃないかって、たまに泣きそうになることがある」 「ふうん。お前もいろいろ考えてるんだな。でも俺はそういうふうに人を好きになったことがないから、ちょっと羨ましいとも思うよ」 「え、君恋をしたことがないのかい?」 望月はぱっと顔を上げて、意外そうに僕を見た。僕は素直に頷いた。 「あ、へ、へえー、そうなんだ……」 望月はなんだかほっとしたような笑いたいような変な顔になって、僕をじっと見て、「恋するってのはすごく素敵なことだよ」と言った。 「その人が好きでいられることが嬉しくて仕方ないんだ。気持ちが届かないとそりゃあ辛いし、嫌われたらどうしようって考える。でも僕はその人に出会えて、すごく幸せなんだと思う。ずっと傍にいたいんだ。僕は死ぬまで一番近くでその人を守りたい」 望月は、すごく一生懸命な顔で言った。いつも女子に振り撒いている、あの甘い声と笑顔もない。真剣で、緊張している。 僕は望月もこんなふうに真面目な顔ができたんだと変なところで感心してしまった。彼にも本気ってものがあったのだ。 ここまでの気持ちがあれば、相手がロボットだなんて問題は些細なことなのかもしれない。僕は頷いた。 「頑張れよ、望月」 「……うん、がんばる。――ちゃんと、言うよ。僕、僕はね、ほんとは、僕の大好きなひとは――」 望月はひどく緊張しきった顔で、声を震わせながら、じっと僕の目をまっすぐ見つめて、彼の中にあるすごく大事なものを僕に伝えようとした。 僕は静かに微笑んで、もう一度頷いた。彼は本当にアイギスのことが好きなのだ。 思えば、彼女はいつも僕の傍にいる。アイギスの身体の秘密を知らない望月は、そのことで悩んだかもしれない。僕を恨んだかもしれない。居心地の悪い罪悪感が僕に訪れた。 でも僕は今まで見たことがないくらいにお人好しの望月のことが好きだったから、彼には幸せになってもらいたいと思う。僕はまだ短い付き合いながら、確かに彼に友情を感じていた。すごくいい奴なのだ。 「僕は、き――」 望月が最後まで言い掛けたところで、僕のポケットから『よっくのともっ』と気の抜けた音楽が流れてきた。僕の携帯の着信音に設定してある、例の通販番組のテーマソングだ。 「…………」 「ああ、順平か。お前今まで何やってたんだ。見つかったか? 集合? ああ、わかった。――望月、順平が皆と合流したそうだ。京阪の四条駅出口で待ってるって。これから八坂神社に向かうらしい。話の途中で間が悪いな」 「…………」 「望月?」 「……あ、うん。了解、です」 「……緊張するな。大丈夫だ」 僕は笑って、望月の肩を叩いてやった。 「お前がそこまで本気なのは、アイギスもきっと分かってくれる。彼女にはちゃんと心ってものがあるんだ」 「……え」 「心配しなくていい。上手くいくといいな。応援してやるよ」 「え、え……えええええ……そんなぁあ……」 「な、なんで泣くんだよ」 望月は急にテーブルに突っ伏してさめざめと泣き出してしまった。「ひどいよ」とか「あんまりだ」とか言っている。僕はわけがわからず、困惑しながら「泣くなよ」と望月の背中をさすってやった。 二人きりでいる以上、きっと僕に責任があるはずだったが、何も思い当たるところがない。僕は首を傾げた。望月はたまに良くわからない。 ◇◆◇◆◇ 合流したあとで順平が僕のところへやってきて、すごく聞きにくいことを聞くような感じで、目を逸らしてぼそぼそ言った。 「あー、ん? どうだったよ?」 「なにが?」 「リョ―ジだよ。決まってんだろ」 そう言えば順平は、望月に恋愛相談を持ち掛けられているらしかった。 僕が望月ならまず絶対に避けたい相談相手ではあるが、順平は意外に悪のりもなく、親身になってやっているらしかった。 望月が言っていたように『恋の素晴らしさ』という奴を分かち合えるせいだろうか。 それならある一定以上他人と距離を縮められない僕よりは、遥かに頼りになるだろう。僕は「ああ」と頷いた。 「あいつが意外に真面目な奴だって分かった」 「だ、だよなー。いやオレが見てる限りじゃさ、あーいうのは本命だけなんだぜ、ほんとに」 「そうだな――望月は、本当にアイギスのことが好きなんだな」 順平がスライディングした。 「――なんでスリップするんだ」 「いっいやっ、何でもねーよ! この空気詠み人知らずが!」 良く分からないが、身に覚えが無いのにいきなりキレられた。まただ。僕が何をしたっていうんだ。 「――怒るなよ。お前は俺の何がそんなに気に入らないんだ」 「いや、違ぇ、怒ってねぇ……つか、お前もうどっか行け! こっちに来るな! 聞くな! ちょっとリョ―ジと話があんだよ!」 ひどい言い草だ。僕は憮然として、言われたとおりに順平から離れた。後になって用事があるから来てくれと言われたって願い下げだ。近寄ってやるもんか。 「リョ―ジぃい! おまっ、あんだけチャンスがあって何やってんだ! どんな奥手くんだよ!? むしろ誤解が深まってるじゃねーか! せっかくオレがお膳立てしてやったってのに無駄にしやがって!」 「君はタイミング悪過ぎるんだよ! 空気詠み人知らずは君のほうじゃないか! あと五分、いや一分! せめて三十秒食い繋いでくれたらっ……!」 「何の話? あれ」 「さあ。あいつらは本当に仲が良いな」 それにしても望月も喧嘩をするんだと、僕はちょっと驚いていた。彼は僕の前ではまず声を荒げないし、いつも微笑んでいる。声は優しげだし、口調は穏やかだ。 もしかすると心を許した相手にだけ年齢相応の高校生男子らしい顔を見せるのかもしれないなと僕は考えて、少し漠然とした寂しさも感じた。 考えてみれば望月は僕に優しい顔を見せてくれるが、僕は気の利いたことも言えないし、冗談も上手くない。恋愛話に上手く乗ってやることにも失敗した。ただ一方的に迷惑を掛けて、親切にされているだけだ。 無理もないかなと僕は考え、肩を竦めて、歩き出した。僕は人の心というものにすごく疎いのだ。それで良く順平を怒らせている。 後ろのほうでは一応の決着がついたらしい。和解したらしく、順平と望月は「次があるさ」「そうだよね、負けないよ」と頷き合っている。 僕はアイギスを見た。彼女は望月から僕を庇うような格好で、僕の隣を歩いている。 僕はどうやったら彼女の望月への悪印象を払拭できるかなと考えていた。それはすごく難しいことのように思えたが、応援してやると決めていたのだ。 僕は望月とアイギスが仲良く歩いている姿を想像してみた。 多分望月はこの世の誰よりも幸せそうな顔をしているのだろう。彼が報われるといいなと僕は考えていた。 誰かの人間関係に首を突っ込もうとするなんて、以前の僕にはありえないことだったから、僕自身すごく驚いている。 望月綾時という男について、僕はなぜだか『どうでもいい』と考えることができないのだ。 |