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岳羽が妙に優しい声で、「何か飲みたいものある?」と訊いてきた。 「牛乳? コーヒー牛乳? フルーツ牛乳? あ、フルーツ牛乳でいいかな? その、甘いし、美味しいもんね」 彼女は子供をあやすみたいに僕の頭を撫でて、売店に駆けていった。 女子に護られるようにして、僕はホールのソファまで連れて来られ、まるで保護された迷子の子供みたいに扱われていた。理由を考えるとなんだかまた涙が出てきた。 鼻をすすって目を擦っていると、山岸とアイギスがすごく罪悪感を感じている顔でやってきて、僕に謝った。 「ごめんね、その、私変な気の遣いかたしちゃって……無理矢理あんなことされて、嫌だったんだよね、当たり前だよね」 「ごめんなさい、わたし、あなたを守れなかった……あなたのそばにいるのがわたしの役目なのに、本当にごめんなさい」 僕はふるふる首を振って、膝を両腕で抱きこみ、顔を埋め、丸くなった。僕はちょっと震えていたと思う。 「――大丈夫か。心配しなくていい、あいつらはもう二度とおかしな気を起こさないように念入りに処刑した。もう妙なことは考えないだろう」 少し遅れてやってきた桐条先輩が僕の頭を撫でて、「しばらくあいつらとは一緒になるな」と言った。 「タルタロスへ出撃する時もだ。すまないが、今は戦力を減らすことはできないんだ。辛いだろうと思うが我慢してくれ。そのかわり、必ずアイギスを連れて行って、傍を離れるな」 「はい、もう彼の傍を離れません。今回のことは私のせいです。……ごめんなさい」 「……君のせいじゃない」 僕は擦れ声でぼそぼそ言った。アイギスは何も悪いことはない。 「せんぱい、もちづき、は……」 「ん、ああ……例の転校生か。勿論氷漬けにしたが」 僕は頷いた。彼に関して、僕はすごく混乱していたんだと思う。 「彼がどうかしたか?」 「いえ……いいやつだった、んです。おれ、仲良くなりたいって、思ってて、」 僕は顔を伏せて、「あんなやつだと思わなかったんです」と言った。 言い逃れのためなんかに、好きでもないどころか同性の僕なんかに平気でキスをするような人間だなんて知らなかった。 僕もいい歳だったから、こんなつまらないことでひどく落ち込むのは多分子供っぽいのだろう。 望月を子供だ子供だと思っていた僕のほうが、ずうっと子供だったのだ。 僕も彼みたいにキスのひとつで大騒ぎしない人間なら、きっとこれも笑い話で終わらせられたのだろう。 「せんぱい、」 「ん。なんだ」 「これみんな、あいつの、悪ふざけ、ですよね……?」 桐条先輩はちょっと痛ましいものを見るように目を伏せたが、すぐにいつもの顔で「ああそうだ」と言って、僕をぎゅっと抱き締めてくれた。桐条先輩がこんなふうに優しいなんて、すごく珍しいことだ。 「大丈夫だ、君は私が守る」 「わたしも、あなたを守るのがわたしがここにいる理由だから」 「私だって!」 「私も守ります!」 みんながすごく小さい子供にするみたいに僕を抱いてくれて、なんだか僕は自分が本当に何にもできない子供のように思えてきて、情けなくてまたちょっと泣けてきた。 ◇◆◇◆◇ 翌朝僕は暗い顔をして座り込んでいる処刑組に遭遇した。 「あ、あー」 順平が何か言いたげに僕を見て、結局何も言わずに黙り込んだ。 真田先輩は、苦手な氷責めに遭って死にそうになっているくせ、僕を見て「大丈夫か」と訊いてくれた。順平はともかくこの人は本当に巻き込まれただけなのだ。僕は「はい」と頷いた。 彼らの隣には、望月の姿もあった。彼は僕を見るなり、顔を青ざめさせ、緊張しきった顔で話し掛けてきた。 「あ、あの、僕、」 「――俺は、お前が大嫌いだから」 僕は冷たく言い放った。 「二度と俺に近寄るな。お前と話すことなんか何にもない」 言い捨てて、固まっている彼からさっさと離れた。 順平の諦めたような「お前、ありゃあ自業自得だってー……」という声が聞こえてきたが、僕は構わずにおいた。もう望月に関することなんて、僕の知ったこっちゃないのだ。 ◇◆◇◆◇ 「待って! ちょっ、待って……」 寮へ帰る道すがら後ろから追いすがってくる声に、僕は気付かないふりをする。プレイヤーの音量を上げてしまえば、そんなものも気にならなくなる、はずだけど、 「ま、待ってよう……」 涙声でそんなふうに呼び止められて、僕は思わず立ち止まってしまった。彼に出会ってから今までの、僕の中の彼の記憶がそうさせたんだと思う。彼は僕にいつも優しかったし、親切だった。僕はそんな彼と友達になりたいと思っていたのだ。 「……なに」 僕は顔だけで振り返り、背中越しに望月を見た。彼は僕に追い付き、すごく怯えた顔で僕を見ている。目が赤い。さっきまで、もしかしたら泣いていたのかもしれない。泣きたいのは僕のほうだったが。 「あ……の、ごめん。嫌だったよ、ね……僕、すごい焦っちゃってて、ちょっとでもチャンスがあればがんばろうって、でも旅行の間中ずっと空回りばっかりで……」 望月は目を擦って、震え声で言った。僕は訳がわからず、「そんなことを言いにきたのか」と言った。 「悪いけど、もう疲れてる。帰る」 僕はふいっと望月から顔を背けた。ひどいことをされているのは僕のはずだった。でも僕の方が罪悪感を感じて、望月にひどいことをしているような気分になってくる。望月はこういうところで卑怯だと思う。僕は彼を上手く憎むことができないのだ。 「待って。君に聞いて欲しいことがあるんだ。どうしてもなんだ」 僕は溜息を吐き、「早く済ませろよ」と言った。僕は自分が怒っていること自体、なんだか後ろめたい心地でいた。そう、原因はつまらないことだ。たかがキスだ。 僕が順平みたいに悪ノリできる人間なら良かったのだろうが、真面目に受け取って(だってファーストキスだったのだ)、真面目に怒っている。 もし他の奴が相手ならどうしたのかなと僕は考えてみた。もしも相手がたまに変な冗談を言う友近や、ウケを取ることに命を掛けている順平だったら、僕はここまで塞ぎ込んでいなかったような気がする。多分気が済むまでサンドバックにして、後でワックでも奢らせれば、あとは念入りに歯磨きをして眠ってそれで忘れてしまえたような気がする。 僕はたぶん望月がそういうことをするのが、すごく嫌だったんだと思う。なんでこんなに凹んでしまっているのか自分でも分からない。 さっさと忘れてやるべきだと僕は自分に言い聞かせた。これでは、僕が大人げなさすぎる。望月だって、そうしたくて僕にキスしたわけじゃないのだ。 「望月、その、」 「誤解だよ」 僕が切り出し掛けたところで、望月がぎゅっと僕の手を握り、大真面目な顔で言った。 「言い逃れのためなんかじゃないんだ。ほんとに、ちょっとでもチャンスがあればいいって思っただけ。僕が恋をしているのも、君が思ってるひととは違うんだ。――僕は、君が」 望月は俯いて、ぎゅっと目を閉じ、すごく怖いことを切り出すように言った。彼の手は震えていて、それが僕に彼の切羽詰まった必死な様子を伝えてきた。 「君が、好きです」 反射的に僕は望月の頬を張っていた。乾いた音がして、彼の目が見開かれたのを僕は見た。綺麗で透明な目だ。そこには涙が浮かんでいて、それはまた僕に言い様のない罪悪感を植え付けてくれた。 「……なんだよそれ。人がせっかく許してやろうって気になってたのに、また変な冗談言って」 「冗談なんかじゃないよう……!」 望月は彼の頬を叩いた僕の手を取って、大事そうに握った。空いた手の甲で目をごしごし擦りながら、彼はすごく一生懸命に言った。 「ほんとにほんとに、僕は君が好きです。初めて見た時からすごく綺麗な人だって思ってた。気がつけば君のことばっかり見てて、でも君は有名人だから僕なんかの相手をしてくれるわけないって途方に暮れてたんだ。でも君、思ったよりずうっと優しかったから、僕はどんどん君のことが好きになってく。君に嫌われたくなくて、君の前ではどうしてもいいやつでいたかったんだ。でも君は僕が君を好きなのに全然気付いてくれないから、どんどん苦しくなってきて、どうしても、君に、触りたくなって。――でも僕君に、嫌われ、っ……!」 望月は涙で咽を詰まらせて咳き込んだ。僕は呆然として彼の告白を聴いていたが、はっとして辺りを見回した。巌戸台分寮へ続く道にはあまり人気はないが、誰もいない訳じゃない。見ると小さい子供が僕らを見て変な顔をしている。 「おかあさーん、あのマフラーのお兄ちゃん、あのヘッドホンのお兄ちゃんのことすきなんだって」 「しっ……こっちに来てなさい、あんまり見ちゃだめよ」 「も、望月。とにかく場所を変えるぞ」 僕は青くなって、望月の肩を掴んで、引き摺るようにその場を離れた。ここは僕が住んでいる寮の近所だったし、僕にだって近所付き合いがないわけじゃない。あの寮にはホモがいるなんて噂になったらと考えると、僕の顔からは血の気が引いてしまった。 望月は頷いて、僕におとなしく手を引かれるままついてきた。 「おかあさーん、あのお兄ちゃんたち、『らぶほてる』にいくの?」 「やめなさい。そんな言葉を使わないの」 僕はちょっと死にたくなった。 長鳴神社まで来るとさすがに人気はなくなった。今日も誰もいない。僕は望月をベンチに座らせて、自販機で買ってきた缶ジュースを差し出した。 「……落ち付いたか?」 彼はまだ小さく嗚咽を零していたが、頷いて、おとなしくジュースを受け取った。僕はなんだか変な気分だった。こんな時にまで、なんで僕は望月の世話を焼いているんだろう。 あんまりびっくりしたせいか、僕の中の怒りはいつのまにか消えていた。それより望月だ。彼は一体どうしちゃったんだろうと、僕は途方に暮れそうになった。 なんだか、僕のことが好きだとか言い出したのだ。それもすごく真剣な顔で言うから、余計にたちが悪い。 「大丈夫か?」 「…………」 望月は頷いた、が、どうやら泣いていたせいでまだ上手く喋れないらしい。僕は彼の背中を擦って、「ゆっくりでいいから」と言ってやった。 しばらくすると望月はすごく申し訳なさそうな顔で、「ごめんね」と言った。 「迷惑だって、わかってたんだ。君も僕も男だし、急にこんなこと言われても君を困らせるだけだろうって。……好きになっちゃって、ごめんね、でも僕もうどうしようもないんだ」 「……なんで、俺」 「わかんない。でもあのね、君のなかで嫌いなところをひとつ見付けることも、僕にはできないんだ」 「お前、女子にモテるだろ。なんでわざわざ男の俺なんか」 「わかんない」 ダメだこれはと僕は思った。僕だけじゃない、望月も大分混乱してしまっているんだと思う。 僕は溜息を吐いて、「今日はもう帰れ」と言った。 「大分遅い。旅行疲れもあるだろう?」 それを聞いて、望月はひどく不安そうな顔になった。僕は慌てて「聞かないとは言ってない」と言った。 「話はちゃんと聞いてやるよ。明日な」 「……ねえ、僕のこと、嫌いになったでしょ。なんで優しくしてくれるの……」 望月は怖々僕にそんなことを訊いてきた。僕にも分からない。首を傾げて、「さっきまではすごく気分が悪かったんだ」と言った。 「でもなんだか今お前といるとどうでも良くなってきた。別に嫌いじゃないと思う」 「ほ、ほんとに?!」 「変な意味で好きでもないけど」 望月は目に見えてがっくり肩を落とした。彼は僕に、僕の許容外のものを求めているように思えてならない。僕だって普通に女の子が好きだ。でも望月も、多分僕よりも何倍も女好きだ。そんな僕らがなんでこんなふうになっているんだろう。 「うん、まあもし俺が女子だったら、きっとお前のことが好きになっていたんだと思うけど……一緒にいて楽しいと思うし、いいやつだから。でも俺は男だから。残念だったな」 僕が苦し紛れにフォローしてやると、望月はぱっと顔を上げて、ほんとに、と言った。 「え?」 「ほんとに、もし君が女の子だったら僕のことが好きになってくれた?」 「あ、あー……うん。たぶん」 僕は困惑しながら頷いてやった。生物学的な問題はどうあっても解消できないのだ。望月も諦めてくれるだろう。まさか僕に女の子になれとは言わないはずだ。 「あ、あのね……明日、ほんとに話を聞いてくれるの?」 「うん。また学校で会えるだろ」 僕が言うと、望月はちょっと悩んだような顔を見せた。彼は気後れしたふうに、お願いがあるんだ、と言った。 「……その、僕に、チャンスをくれないかな。明日。一日だけでいいんだ。二十四時間。ほんとに君が好きだって伝えたいんだ。それでダメなら、もう変なこと言わないよ。約束する。――僕が、君を好きなのは何も変わらないけど」 「…………うん。まあ、いいんじゃないか?」 僕は困惑しながら、操られるように頷いた。望月があんまり必死な顔をしているからだ。 僕の了解を取り付けると、彼はここでやっと笑った。ものすごく嬉しそうな顔だ。僕と過ごす約束を取り付けて、なんでそんなふうに嬉しそうな顔ができるんだろう? 「よ、よかった! ね、朝はどこで待ち合わせする? どこか行きたいところある? 映画は――あ、だめだ。それよりずうっと君と話してたい。甘いものでも食べにいくかい?」 「ちょっ、待て待て待て望月」 僕は慌てて目を輝かせている望月を押し止めた。 「朝って、お前明日学校あるんだぞ。もしかしてサボるつもりか?」 「え……」 「なんでそこまでして僕なんかと、」 僕が宥めようとしたところで、望月は急に―― 「え」 僕は目を点にした。 「お願い、します」 彼は急に地面に膝と手を付いて、僕に向かって頭を下げた。 「お願いです。僕に、君の時間を下さい」 何で僕は、こんなところで望月に土下座されて口説かれているんだろう。僕はうろたえて、「やめろよ」と言った。 「ちょ、や、やめろよ。なにやってるんだよ。わかった、わかったから」 望月の腕を掴んで立たせてやると、案の定制服は砂だらけになっていた。僕は溜息混じりに彼の服についた汚れを払ってやって、「なんでそういうことするんだよ」と呆れて言ってやった。 望月はまたちょっと涙を浮かべながら、「だって君と一緒にいたいんだ」と言った。 「わかったから、そういうのやめろ。いいよ、いくらでも付き合ってやるから」 「……うん」 望月は僕の顔を見て、恥ずかしそうに頷いて、すごく嬉しそうに笑った。そういう顔をするから、多分僕は彼をすごく甘やかしてしまうんだと思う。 僕は望月が言う恋とか愛とかいう感情よりも、なんだか手の掛かる子供ができたような気分だったが、きっとそれを言うとまた望月は泣くんじゃないかなと思ったので、黙ったままでいることにした。 ――この時点で、僕も大分ほだされてしまっているような気がするのだ。 |