「望月……」
「うん?」
「あの、な。確かに今日付き合ってやるとは僕も言った。でもこれはちょっと……」
 翌日僕は律儀に望月の相手をしてやっていた。
 ポートアイランド駅前で待ち合わせをしたのは、大分早い時刻だった。寮の仲間たちに見つからないようにこそこそ出てきた時は、僕はほんとに何をやっているんだろうと首を傾げてしまったものだ。
 望月は僕が約束をすっぽかさずに現れたことが相当嬉しいらしく、にこにこしている。僕のなかの何に彼はそんなふうに嬉しいって感じるんだろう。
 今日一日付き合って遊んでやって、なんとか望月をなだめきって、明日からはまた普通の友人にと考えていた僕は、ここへ来て予想外の展開に頭を抱えていた。
「なんだこれ」
 僕は今、何でだか女の子の格好だ。ミニスカートなんて初めて履いた。
「うん、昨日君が、もし自分が女の子だったら僕のことが好きになってくれるって言ったから」
「お前は俺をオカマにしたいのか? どんな格好したって俺は男だからな。それよりも、どうしたんだこんな服」
「君にはどんなのが似合うだろうって、頑張って考えたんだ。サイズは大丈夫かい?」
「うん、大丈夫。……じゃなくて、そうじゃないんだ。そういうことじゃないんだ」
 僕は頭痛を感じながら、必死に望月を諭そうとした。言われるままに着てしまっている僕も確かに悪いが、だってまた土下座でもしそうな勢いで頼み込まれたのだ、しょうがない。帰国子女のくせに、そういうのをどこで覚えてくるんだろう。
「お前だって嫌だろう。女装した男と歩くなんて」
「なんで? 君はすごく可愛い。いつもの姿も格好良いけど、そういうのもいいね」
「……お前は変だよ」
「変かな」
「変だよ」
 僕が文句を言ってやっても、望月はにこにこしている。言うだけ無駄だなと、僕は考えた。
「……ね」
「なに」
「あの、そろそろ、僕のことが好きになってきた?」
「…………」
 そういうことをすごく真面目な顔をして訊かないでいただきたい。おかしな格好をしてたって、僕は男なのだ。
 望月は僕の微妙な反応に、自分を勇気付けるように勢い込んで頷いた。
「そ、そうだよね。まだ朝だ。今日はがんばるよ、僕」
「無理するな」
「あのね、いくつかプランを考えてきたんだ。遊園地、水族館、美術館、動物園、植物園、夜はマンドラゴラかシャガール、あ、クラブ・エスカペイドでちょっと大人っぽく過ごすのも――
「望月、一日じゃ足りない」
 僕は呆れて、望月が取り出したメモをひょいっと覗き込んだ。一瞬だったが、僕は『夜のプラン』という欄に『白河通り』と『僕んち』という項目をしっかり認めていた。目がいいのだ。
「わ! み、見ちゃだめ!」
 望月は真っ赤な顔になって、慌ててメモを僕から隠した。
 ――僕は面と向かってこんなあからさまな下心を抱かれるなんて、多分初めての経験だと思う。
 それにしても、僕にはなんで望月がそんなに急くのかがわからなかった。休日はすぐに迫っていたし、わざわざ学校をサボってまで僕なんかを口説くことはないのだ。
 そう言うと、望月は「ほんのちょっとでも長く君と過ごしたいんだ」と言った。
「僕、いつまでここにいられるかわかんないから」
「……ああ。お前んちは良く引っ越すんだったな」
「うん。でもそういうのとは別にしても、僕はきっと長生きできないと思うんだ。なんだかそんな気がする」
「何を言ってるんだか」
 僕は望月の頭を叩いて、「そんなふうに言うな」と窘めた。
「大丈夫だよ。お前は長生きするよ。そういう顔をしてる。きっとボケても色欲だけは残ってるようなじいさんになるよ」
「うわっ……ひどい」
 望月は傷付いた顔をした。僕は笑って「変なこと言うのが悪いんだ」と言ってやった。
「どこかへ行くとか、死ぬとかさ。さっさと行こうぜ。こんな格好知り合いに見られたりしたら、それこそ俺が死にそうだ」





◇◆◇◆◇





 僕らは港区から少し離れ、隣街のプラネタリウムまで足を運んだ。少し遠いが、時間はたくさんあった。
 望月は「ロマンティックだねえ」とうきうきしている。僕と彼の間にロマンティックもなにもあったものではないと思ったが、望月があんまり嬉しそうにはしゃいでいるので、僕はあえて黙っておいた。
「ドームに星を映すんだろう? 聞いたことがあるよ。君は行ったことある?」
「まあ、何度か。子供の頃の話だけどな」
「へえ、家族で?」
「たぶん、そうだと思うけど……良く覚えてない。もしかしたら遠足かなにかで行ったのかもしれない。俺、昔この辺に住んでたから」
「へえ。そう言えば君も転入組だったよね。じゃあ昔はうちの初等科にいたの?」
「たぶん。この辺学校なんて月光館しかないし、そうじゃないのか」
「アバウトだなぁ」
 望月は笑っている。僕は憮然として、「しょうがないだろ」と言った。
「子供のころ、家族で交通事故に遭ったんだ。十年くらい前かな。頭を打ったらしくて、それより前のことは何だかぼんやりしてるんだ。だから両親の顔もあんまり覚えてない……あ」
 僕はしまったと思った。人に話すようなことじゃない。思った通り望月は顔をさっと青ざめさせている。
「悪い望月、忘れ」
「ご、ごめんね」
 彼は僕の手をぎゅっと握って、額を押し当てた。また泣きそうな顔でいる。僕は溜息を吐いて、悪かったよと言った。
「……気を遣わせるつもりじゃなかったんだ。変な話をしてすまない。大体もう十年も前のことだから。家族のことも覚えてないし、ぼんやりしてるから、僕にも何とも思えないんだ。だから大丈夫だよ」
 この手の話題は相手に具合の悪い思いをさせるだけだと、僕はもう知っていた。
 岳羽じゃないが、誰かに可哀想だと言われると、僕はなんだか自分に何らかの落ち度があるせいで蔑まれているんじゃないかという気分になってくる。そしてそういうふうにひねくれたものの考え方しかできない自分が嫌になってくる。
 望月はまるで自分がすごく悪いことをしたような顔で、「ごめんね」と言った。
「ごめん。……なんだか君が、家族の顔も覚えてないって言うと、すごく悲しい気持ちになったんだ」
「きっとそれはお前が家族のことを好きだからじゃないか? そんな気がする」
「そうかな……よく分からないよ。僕んち、ほとんど家族がいないんだ。家に帰ってもいつもひとりで、いつ帰ってきてるんだかもわかんない。ご飯を作ってくれる人もいない。子供の頃からきっとずうっとそうだったんだと思う。だから僕、上手く家族の顔が思い浮かべられないんだ」
 僕は「うん」と頷いた。ちょっと意外な感じだった。僕は望月は多分すごく家族に甘やかされて育ってきたような印象を持っていたのだ。誰かに大事に抱かれて今まで生きてきたような。
 しばらく無言で僕らは歩いた。
 吹き抜けになっている回廊を抜けてエントランスホールへ進むと、望月は僕に微笑み掛け、「チケット買ってくるよ」と言った。
「ちょっと待ってて」
「……うん」
 望月が観覧券売り場へ駆けて行くのを見送って、僕はホールの壁にもたれてぼおっと待っていた。
 多分ここへ来るのは初めてじゃないだろうが、既視感のようなものも感じなかった。僕は上手く過去を思い出すことができない。きっと、人よりも大分忘れっぽい性質をしているのだろう。
 四月に月光館へ転入してくる以前の出来事も、僕には真っ白の絵本を繰るような感触しかなかった。すっぽり抜け落ちているのだ。
 ヘッドホンから流れてくる音楽、雑踏、目まぐるしく変わるスクリーン広告、電車の震動、それから薄気味悪い濃緑色の夜。考えていくと、僕は徐々に得体の知れない不安のようなものが、身体の芯のほうにすっと染み込んでくるのを感じた。
 この街へ来て僕は影時間というものを体験した。あの日、巌戸台駅を出てすぐにだ。
 だが、あれが初めてのことだったのだろうか? その前の夜はどんなふうだったろう? なんで何も思い出せない?
「ねえ、ちょっといいかな」
「あ、悪い、望――
 声を掛けられて、僕は慌てて顔を上げた。でも望月が戻ってきたわけじゃない。
 僕の前に立っているのは、見たこともない男だった。ブランドもののスーツを着ていて、見た感じ大学生だろうと思う。
「彼女、学生だろ。サボリ? まぁオレも人のこと言えないけど。実はさ、待ち合わせしてたのに相手にすっぽかされちゃってさ。君は?」
「え……はぁ? なんだお前」
 僕は面食らってしまった。一瞬僕の格好のせいで、私服警官に職務質問をされているんじゃないかと思ったが、そういう訳でもないらしい。
「うわ、見た目可愛いのにハスキーで色っぽい声してるんだねー。ギャップがすごくいいね。あのさ、良かったらこれから待ちぼうけ者同士一緒に飯でも食いに行かない? 奢るからさ」
「え、わ、わけがわから……離し」
 いきなり手をぎゅっと握られて、僕は背中がぞわっとした。これは男にそんなことをされて、なんだか熱烈な目で見つめられた時の正常な反応だろう。
 僕は混乱しながらも、心の中で首を傾げていた。同じことをされたのに、いや、もっと手酷いことまでされたのに、なんで僕は望月に対しては「気持ち悪い」と感じないんだろう?
――ちょっと」
 急に険悪な声を掛けられた。
「あ、望月――
 僕はちょっとほっとして振り向いた、が、そこにいたのは望月じゃない。
 悪鬼のような形相の男の群れだ。知らない顔ばかりだった。
 彼らは僕の手を取っている男の肩をぽんと掴んで、僕から引き剥がした。




「おいてめええっ! 彼女に何をしてるっ!!」
「俺が先に目ェ付けてたんだよ!」
「薄汚え手で気安く触るんじゃねえっ!!」
「ひいいい! すんませんでしたぁあ!!」




 目の前でいきなりボコスカ総攻撃が始まった。
 僕が呆然としていると、急に手を強い力で引っ張られた。
「は、早くいこ!!」
 今度こそ望月だった。やっと戻ってきたのだ。
 望月に手を引かれ、僕らはほとんど駆けるようにして足早にその場を離れた。
 彼は休憩所まで来ると僕の手をぎゅうっと握り、「ほんとにもう君は!」とかなり怒った様子で言った。
「僕から離れちゃダメだよ、危ないでしょ?!」
「え……いや、離れたのはお前が、」
「言い訳しない!」
「は、はい」
 僕はひどく理不尽だと思ったが、望月の今まで見たことがない怒った顔と声に気圧されて、慌てて頷いてしまった。
「『ごめんなさい』は?!」
「ご、ごめんなさい」
「よろしい。……まったくもう、あんまり心配させないでよ。だいじょうぶ? 怖かったよね」
 望月はそう言って、僕の頭を撫でた。僕は正直訳がわからず、「なんだったんだ?」と彼に訊いた。
「キャッチセールスかなにかかな」
「……なに言ってんの?」
「いや、こんな格好だから職質でもされたのかと思ったけど、違うみたいだし」
「……君ってやつは……もうちょっと自分のことを知って、気を付けて欲しいね。心配で胃に穴が空きそうだよ」
「……? ああ、悪い……」
 僕は訳がわからないながら、これ以上望月を怒らせるわけにもいかないので、とりあえず頷いておいた。
 そしてふと気付いた。望月は僕にかなり親密に触るが、僕は彼に手を握られても頭を撫でられても、やっぱり全然嫌じゃないのだ。
「あれ……?」
「うん? どうかした?」
「あ、ああ、いや。なんでもない」
 僕は慌ててふるふる首を振った。望月は訝しそうに僕の顔をじっと見つめてきたが、僕にだって良くわからないのだ。





 プラネタリウムドーム内の座席に着くと、じきに辺りが暗くなり、天井に秋の星座が映し出された。港区の空だ。
 ちょうど頭の天辺のあたりにアンドロメダ座があり、ケフェウスとペルセウス、ペガサスがその周りをぐるっと取り囲んでいた。
 残念なことに夜じゅう街の明かりが消えないこの場所では、ろくに星も見えない。
 ちらっと横を見遣ると、薄い暗がりのなか、望月がぽかんと口を開けてスクリーンに見入っているのが見えて、僕は思わず微笑んでしまいそうになった。
(……子供かよ)
 良くも悪くも彼は裏表のない人間で、思ったことや感じたことを隠そうともしない。
 嬉しいことも不満も全部何も言わずに飲み込んでしまう僕とは大分違っていて、僕は望月のそんなふうな馬鹿にストレートなところが好きだった。ちょっと羨ましい、かもしれない。僕自身は、顔を見るだけで考えていることが筒抜けになってしまうような奴にはなりたくないが。
 彼は好きなものは好きだと、少々くどいくらいに主張しているように思う。女の子が全般的に好きだ。女子を見るとすぐに口説く。甘い物が好きだ。あとは、なんだか僕のことが好きだと言う。恋をしている、らしい。
 僕はそれをまた思い出して、微妙な心地になる。望月のことは嫌いじゃないが、僕は男だし、嗜好は普通と変わりない。でも振ってやって(これも変な表現だ)、彼との付き合いにぎくしゃくした変化が出るのは嫌だ。
 僕はきっと望月に嫌われたくないんだと思う。仲良くなりたいし、一緒にいたいかと言われれば、僕は迷わず頷くだろう。
 こんなふうに感じるのは初めてのことだった。僕にとっての人間関係というものは、これまではゆるやかな川の水のようなものだったのだ。身体のまわりを巡り、流れ、過ぎ去っていく。新しい水の流れが止まることなくやってくる。でもそこに停滞はない。
(……あれ。どうしたんだろ、僕)
 僕は分からなくなってきた。僕は望月のことが好きで、友達になりたい。そして、それと同じふうに彼にも感じてもらいたい。
 彼が恋をしてるなんて言うから僕は混乱してしまったのだ。大体こんな女の子の格好なんかしてまで僕が望月にくっついてきていること自体が、既に大分おかしいような気がする。
 ふいに、ぎゅっと手が握られる。びっくりしたが、僕の手を触る望月の手はちょっと震えている。
 僕は溜息を吐いて、しょうがないなと考え、彼の手をゆっくり握り返す。横を見るとうっすらした人工の星の明かりの下で、望月がすごく驚いた顔でいた。彼はしばらくその顔で固まっていたが、やがてひどく幸せそうに笑って僕の手を握る力をぎゅうっと強くした。
(なんだこれ)
 男同士の友情からは随分逸脱しているのに、なんで僕は気持ち悪いとも思えず、例の露天風呂の一件のようにすごく嫌な感じがすることもないんだろう。
(……なんで顔こんな熱いんだろ)
 風邪でもひいたかなと僕は考えた。胸が締まって、咽がつっかえたような感じがして息がしにくい。でもあの特有の悪寒は感じない。
 望月が僕を見て嬉しそうに笑っていると、僕はなんだか変な気分になって、すごく苦しくなる。僕なんかを見てそんなふうな顔をするのは、――




 頬の辺りに冷たいものを感じて、僕は自分が泣いていることに気が付いた。
(なんで泣くんだろ)
 理由なんか思い当たらない。誰かにひどいことをされたわけでもないし、痛い思いをしたわけでもない。
 子供の頃からほとんど感情を表すことがなかった僕が、たまにこんなふうにいろんな感情がぐるぐる巡っている渦に飲み込まれるような感じになったのは、多分望月と出会ってからだろうと思う。
 彼が優しくて僕を甘やかすせいじゃないかと、僕は考える。
 誰かにここまで親身に優しくされるなんて、誰も彼もが「君なら心配ない」と突き放す僕には、ほとんど初めてと言って良い経験だった。
 気恥ずかしく、なんだかすごく小さい頃に戻ったような気分になる。僕の中の子供の頃の記憶はほぼ空白でがらんとしていたが、あのころの僕も少しは誰かに対して愛情や慕情のようなものを感じることができていたのだろうか。
(なんで僕はこいつといると、すごくいい気持ちになるんだろ)
 僕には馴染まないせいで、どんな刺激が僕にその感情をもたらしたのか、上手く判別をつけることができない。それはいろんなことに関してだった。泣くのも、笑うのもそうだ。








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