![]() |
ホールにふっと明かりが戻ると、まず望月は僕を見て、すごくびっくりしたようだった。無理もない。僕は泣いていたのだ。 「ど、どうしたの?」 望月はすごく慌てた顔になって、僕の肩に触れ、顔を覗き込んできた。 ほかの観客が変な顔をして僕らを見ながら通り過ぎていく。 「……大丈夫? 立てるかい?」 僕は頷いた。望月はすごく優しい声で、「泣かないで」と言った。 プラネタリウムを出て、近くの公園のベンチに座り、望月は辛抱強く僕が落ち付くのを待ってから、どうしたのと切り出した。 「僕が……その、こんなことお願いしたの、やっぱり嫌だった、よね……」 僕は首を横に振った。平日に朝早くから駆り出されて、こんな変な格好までさせられているのに、僕は不思議と嫌だと感じることはなかった。むしろ、彼と一緒にいることが楽しいくらいだ。衣服の問題を除いて。 「え、あ……うん。じゃあどうして泣くの? 僕、変なこと言ったかな。て、手を握ったのがやだった? あ、もしかして悪い意味じゃないなら、プラネタリウムがすごい綺麗だったから、感動したとか」 僕は俯いたまま、わからないと言った。本当にわからない。涙が出るくらいのすごく強い感情があるわけでもない。ただ漠然と、なんとなくもやもやとしていて、僕には僕の感情の正体が掴めないのだ。 望月は「うん」と頷いて、「じゃあ一緒に考えてみよう」と言った。 「君が今感じていることを、僕に教えて欲しいんだ。わかることだけでいいから。僕は君が好きだから、君のことが知りたい。まず、そうだね……今日僕と一緒にいて、楽しいと感じてくれてる? つまんなかったかな」 僕はちょっと迷って、「……たのしいと思う」とぼそぼそ言った。 「……たしかに、スカートはなんとかしてくれって思うけど」 「そ、そっか。嫌じゃないならよかった」 望月はほっとしたように笑った。彼のその顔を見ていると、僕はまた胸が苦しくなってきて、咽が詰まって咳込んだ。望月は慌てて僕の背中を擦って、「大丈夫かい」とひどく心配そうに言った。 「無理しないで、ゆっくりでいいからね。僕が、ちゃんとそばにいるから……あ、僕がそばにいるのはどんな気持ち? 嫌じゃない? それとも、迷惑かな」 「……わからない」 「え」 途端に望月が不安そうな顔になった。でも、彼は慌てて笑顔を作って「そっか」と頷いた。 僕は頭を振って、「嫌じゃないとは思うんだ」と言った。 「望月がそばにいると、僕はすごくいい気分になるんだと思う。僕といて楽しいと思ってほしいって思う。でもお前の顔を見てると、たまに僕はすごく苦しくなる。なんでなのかわからない」 「うん」 望月は、目に見えてほっとした様子だった。彼は僕の背中を撫でて、「どんなふうに?」と訊いた。 「どこか痛くなる?」 「……うん。胸のあたり。この辺」 僕は自分の胸に手を置いて、首を傾げた。今もぎゅっと絞られたような感覚がある。痛いのか苦しいのかもわからない。 「ほかにもある?」 「……息が、できなくなる。咽が詰まって、」 「うん。それから?」 「……顔が、熱くなって、風邪ひいてるわけじゃないと思うけど……」 「うん、そっか」 僕はちょっと考え込んでから言った。 「……望月が嬉しそうな顔をしたら、僕はそうやってすごく苦しくなる」 「僕が喜ぶの、君はいやかな?」 「……ううん。嫌じゃないと思う」 望月は頷き、にっこり笑った。彼はちょっと照れ臭そうな顔をしている。 「ねえ、これは仮定だけどね、もしかしたら僕が嬉しくなった時に、君も嬉しいって感じてくれてるんじゃないかな?」 「…………」 僕は黙り込んだ。多分そうなんだと思う。僕は望月が喜ぶとほっとするし、嬉しいと感じる。でもなんでこんなに苦しくなるのかが分からない。 「……うん。でも苦しくなる理由になってない気がする」 「君はひとより随分不器用なんだと思うよ。悪いことじゃないし、僕は君のそういうところもすごく好きだけど。ねえ、ちょっと手を触ってみてもいいかな」 僕は顔を上げて望月を見た。なんで急にそんなことを言い出すのか分からなかったのだ。 「さっきみたいに。いやかな?」 「……べつにいいけど」 僕は困惑しながら頷いた。急に手なんて握ってどうするつもりなんだろう。 望月は僕の両手を包むように触って、「どうかな」と言った。 「なにが……?」 「嫌かな?」 「べつに、なんで?」 わけがわからない。手に触るなんて今更だ。 望月は「ちょっと申し訳ない話になるんだけどね」と言った。 「僕、君の赦しなく君にキスするようなやつなんだよ。触られていやじゃないかな」 「あれは……」 僕は口篭もって、頭を振った。確かにあれはやり過ぎだった。でも僕が何より嫌だったのは、望月がちょっとした悪ふざけみたいにして、平然とそういうふうにすることで、 「……あれ?」 急に、今までぼおっと熱く篭ったようになっていた頭の中が、逆にさあっと冷たく冷えていくような感触を覚えた。なんで僕は望月にキスされたことよりも、彼が僕に対してひどいことをしたって事実のほうが嫌だと思うんだろう。 望月はじっと僕を見て、「嫌だったよね、ごめん」とか言っている。僕は混乱しながら、「なんだか変だ」と言った。 「ん?」 「……その、嫌だったと思うんだけど、僕が一番嫌だと思ったのは、そうじゃないんだ。違うんだ」 「うん……」 「僕はたぶん、その、望月はきっと僕の嫌がることをしないんじゃないかって思ってたんだ。たぶんだけど」 「……うん。裏切られたような気持ちになった?」 「……たぶん」 「ごめんね」 謝っているくせに、望月は顔を赤くして、すごく嬉しそうだ。彼はぎゅうっと僕の手を握って、いきなりとんでもないことを言った。 「あのね、じゃあ僕が君のこと、世界じゅうどこを探したってきっと君より大事な人を見付けられないくらい大好きで、だから君とキスしたいって、そんなふうに思っててもだめかな? 君はあの時みたいに泣くかな」 「なっ」 僕はびっくりして、目を見開いて望月の顔を見た。彼は一生懸命な顔で、冗談を言っているふうでもない。 「な、そういう問題じゃ、だって僕らどっちも男なんだぞ。絶対変だよ」 「でも君が好きなんだ。ほんとに、君に嫌われたらどうしようって、僕はそればっかり心配してる。でも僕はもし君に好きになってもらえたら、まちがいなく世界中で一番幸せな人間になれると思うんだ」 僕はあんまり恥ずかしくて顔が熱くなってきた。面と向かってそんなふうに気障で恥ずかしい口説きかたをされて、しかも僕は女子じゃないのだ。男だ。 なのに、なんで望月は僕を口説くためなんかにこんなに一生懸命になれるんだろう。 「いい? ……だめ?」 「い、いや、その」 「だ、だめ、かな……」 望月はあからさまにげっそりしょげた顔つきになった。僕は慌てて「別にいやだとは言ってない」と弁解してしまって、しまったと思った。これじゃ望月の思うままだ。 彼はぱあっと顔を明るくして、すごく嬉しそうに「いいの?!」と目を輝かせている。僕は溜息を吐いた。だめだ、ほだされる。 「い……いい、けど、」 「うん」 「前みたいなのは、いやだ。その、舌入れたりする、あれ……」 「うん」 望月は顔を緩ませきって、にこにこしながら頷いた。 「ね、目、瞑って」 「……うん」 望月に言われるまま、僕は目を瞑った。頬に彼の手が触れて、僕はその手がすごく柔らかいと感じた。 彼は僕みたいに武器を取って戦うこともない、ごく普通の人間なのだ。 僕のように剣を強く握り過ぎてできた手のひらの血豆もタコもないし、手の皮が固くなってごつごつしてもいない。 僕はそう考えるとすごくほっとした気持ちになった。望月綾時っていうちょっと嗜好に問題があるものの、優しくていつも微笑んだり泣いたりしている人間が、何か得体の知れないものと戦うようなことにならなくて良かったと、とても安心したのだ。 (……あ) 唇に、あたたかくて柔らかい感触がぎこちなく触れて、僕は震えた。不思議なことに、前みたいに嫌な感じはなかった。 (やわらかい) 背中に細くて長い手が回って、僕を抱いた。触ったところから、望月の身体のぬくもりが、痛いくらいに僕の中に染み込んできた。僕らの体温はとても似通っていて、僕はまるで望月を自分の身体の一部のように感じた。 耳を澄ませば聞こえてくる心臓の音も、僕の頭の中で鳴る、早く打っている鼓動とほとんど変わりなかった。 だから、触り合っているだけなのに、僕らがまるでひとつになったみたいな錯覚があった。 (きもち、いい) 僕はひどく安心していた。唇が触りあっている感覚が、僕をすごく気持ち良くしてくれていた。 抱き合ってキスするなんて、もしかしたらちょっと大人びた子供でもすることなのかもしれないけれど、誰かにこんなふうに大事に抱き締められた覚えもない僕には、それは本当にすごいことだった。 ◇◆◇◆◇ 夕暮れ時になると、僕らは手を繋いでゆっくり帰途についた。「二十四時間じゃなかったっけ」と僕が言うと、望月は微笑んで「先にも時間はたくさんあるからね」と言った。 「まだその時じゃない。それに、どうやら君は明日からも僕にチャンスをくれるみたいだから」 「……そうだっけ」 「焦らないでゆっくり口説くよ。僕も我慢がきかない子供じゃないからね」 望月は、大人びた顔でそんなふうに言った。僕は奇妙な既視感を覚えていた。ちょっと子供っぽい望月がそんな顔をすると、誰かすごく近しい人間に似ている気がしたのだ。 「どうしたの?」 「……ん」 「もしかして、僕に見惚れてくれてた? 見込みはありそうだって期待してもいいのかなあ」 「望月、」 溜息を吐いてなんだそれと言おうとしたところで、僕は辺りの景色に妙に見覚えがあることに気付いた。確か、夏にも来たのだ。そこは、何もしていないのに岳羽に平手打ちを食らわされた、半分僕のトラウマのひとつになっている場所だった。 白河通りだ。まだ辺りは薄明るかったが、蛍光色のネオンが灯り、いかがわしい雰囲気のホテル群がライトアップされていた。カップルの姿ばかりだ。 僕はふっと望月を見た。彼はものすごく慌てて、「違うからね」と言った。 「そ、そういうんじゃないから。違うよ。た、たまたま通り道だっただけで、下心なんてほんとにないから。僕、君のこと大事にするって決めたんだ。困ることはしないよ」 「……ん」 僕は頷いた。でも望月はのろのろ歩きながら、顔を赤くして、目をぎゅっと瞑り、僕の手を強く握って、「だ、ダメだよね?」と言った。声は震えている。 ほんとに正直な奴だ。僕はちょっと笑って、「ダメ」と言った。 「……もうちょっと、ゆっくり口説けよ」 空いた手で望月の頭を撫でてやった。彼は真っ赤になって、「うん」と頷いた。 ◇◆◇◆◇ 寮まで送るという望月の申し出を丁重に断って、僕はいつもの格好に着替え、ひとりで巌戸台分寮へ戻った。彼と一緒にいるところを寮の人間に見られたら、大分ややこしいことになると考えたのだ。 考えてみれば僕の今日一日の行動はひどく痛々しいものだったので、できれば追求を受けて変態呼ばわりされることは避けたい。 それに僕は今日学校をすっぽかしていたのだ。三年生の先輩がたに間違いなく怒られるだろう。それよりも2-Fはサボリはいないのと同じとみなされるクラスだったから、明日僕と望月の席が無事であることを祈る。 寮の扉をくぐると、予想通り真田先輩がじっと僕を待ち構えていた。 「……どこへ行ってた」 「はい……」 僕はなんだか熱っぽい頭でふらふらしながら、彼の横をすうっとすり抜けた。真田先輩は慌てて僕を引きとめ、「ちゃんと聞け」と言った。 「こら、話は終わってないぞ。学校サボってどこへ行ってた」 「はい……」 僕は変な気分だった。顔が熱くて身体がぽーっとする。やっぱり熱でもあるのかもしれない。なんだかすごくふわふわするのだ。 「――おい、大丈夫か?」 「はい……」 「おいっ」 「真田さん、どうしたんスか?」 「お前も何か言ってやれ。あいつ様子が変だぞ。まったく、サボるような奴じゃなかったのに」 「まあまあ、あいつも十七なんスから、そーいう気分の時もあるっしょ」 「なんだ、今日はやけにあいつの肩を持つな。お前何か知っているんじゃないか」 「い、いやっ、そんなわけじゃあ」 真田先輩と順平がラウンジでなにか言い合っているが、それ以上構われないのは僕にはとてもありがたかった。上手く頭がまとまらなくて、多分ろくな会話もできないだろう。今日はタルタロスへ出撃する気分にもなれない。 望月のことを考えると、やっぱり僕は苦しくなる。でも嫌な気分じゃないし、また明日話せればいいなと思う。 口説かれたり手を握られたり、キスされたりするのも、べつに嫌じゃなかったと思う。望月は男なのに、僕の危機感はいつのまにか麻痺してしまっているのだろうか。 ふらふらよろめきながら部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。 唇を押さえると、さっきの感触が蘇えってきて、僕はひとりで赤面した。変だ、これは絶対おかしい、変だ。なんで僕はこんなふうになってしまっているんだろう。 望月はちゃんと家に帰れてるかなとか(子供じゃあるまいし、何でこんな変な心配をするんだろう)、夕飯はちゃんと食べているだろうかとか(だから彼は子供じゃない)、またどこかで女の子に捕まってちやほやされてないだろうかとか(それはむしろ彼の性癖の矯正のために必要なことなんじゃないだろうか)、変な心配ばかりが僕の頭の中をぐるぐる回る。 そうしていると、なんだか僕はひどく疲れてきた。目を閉じると、ありがたいことに、それ以上ものを考えることを赦さずに、まどろみが僕を深い沈黙の中に沈めてくれた。 |