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目を覚ますと、今日は頭とお腹に包帯が巻かれていた。僕が覚えているのは昨日の夜ベッドに入ったところまでで、その時はそんなものは無かったはずだ。 これが初めてのことって訳じゃないけど、僕はこうして自分の知らないことが僕の身体に起こると、すごく不安になる。怖くなる。 でも僕はしっかり口を閉じて、服を着替える。いつのまにか着ていた病人着(昨日ベッドに入った時は、きちんとしましまのパジャマを着てたはずだ)を脱いで、シャツを羽織って、互い違いにならないように注意深くボタンを嵌めて、ズボンを履く。サスペンダーを取り付けて、胸元のリボンを結ぶ。この頃になると、僕はようやく少し落ち付いている。 僕が怖いと感じたことは、どうせ誰に言ったって変な顔をされるか、もしくはお母さんのように怒るかするだけだから、僕は黙ったままでいる。 僕はもう七歳なので、「怖い」とか「不安だ」とか言ってちゃいけないんだってお母さんが言ってた。 学校の皆はまだ良く泣いたり騒いだりしてるけど、僕は「選ばれたもの」で、「統率する人」になるから、他の子達と一緒のことをしていたら駄目なんだそうだ。最近では、学校でもあんまり友達を作らないようにしなさいって言われている。 ベッドの脇に掛けてあるカレンダーを見ると、今日はまだ火曜日だった。楽しい日曜日は終わったばかりで、一週間はまだ全然残っている。 部屋を出て、僕は社員食堂へ向かう。ここは僕のお母さんが働いている研究所だ。僕は大分前から、確かお父さんとお母さんが離婚してしばらく経ってから、ここに住んでいる。お母さんが仕事がすごく忙しくて、ほとんど一日中研究室に篭っているせいだ。 周りは大人ばかりだけど、たまに僕と同じくらいの子供もいる。でもなんでか、僕はその子たちと話をしちゃいけないらしい。みんなには親がいないから駄目なんだそうだ。 変なのと思ったけど、僕は黙っておいた。何か言うと、ここではすぐ子供はうるさいって怒られるのだ。 廊下を歩いていると、眼鏡のおじさんに声を掛けられた。 「やあ、貌無しくん。具合はどうだい」 「はい、ドクター。問題ありません」 僕は決められた言葉で挨拶をする。どこも痛いところや、気持ち悪いところがなければ、こう言うんだと決められているのだ。 おじさんは「うん、よろしい」と頷いて僕の頭を撫でた。 「順調だね。まあ君は王子様なんだ。このくらい当たり前のことかな。他の孤児たちとは全然出来が違う。素晴らしいよ」 「はい、ドクター。ありがとうございます」 考えてみれば、この眼鏡のおじさんと話をするようになってから、お母さんはなんだかヘンになったんだ。でも僕は何も言わず、礼儀正しくお辞儀をする。余計なことを言うと、またすごく怒られてしまう。 お母さんの仕事仲間の白衣の人達は、僕のことを『貌無しくん』と呼ぶ。あだ名のようなものみたいだ。僕にはちゃんと頭がついていて顔もあるのに、みんなそう呼ぶ。 変なふうに呼ばれて嫌だなと感じることもあるけど、ほかの子供たちみたいに番号で呼ばれるのも嫌だったから、僕は黙ったままでいる。みんなは身体のどこかに数字の刺青を入れられていることを、僕は知っていた。 「今から朝食かい」 「はい、ドクター」 「薬はちゃんと飲んでるかい」 「いいえ、ドクター。実験前なので控えるようにお母さんに言われています」 「おっと、そうだったね。次も楽しみにしてるよ。今度のはわりと大規模なものでね、いろんな実験が連動している大事なものなんだ。まあ君のことだからまた素敵な結果が出ると信じているけどね。……ところで、君は『シャドウ』という存在をどう思う? 怖いかい?」 「いいえ、ドクター。怖いと感じることはありません」 「……まったく君は素晴らしいよ。大したものだ。あの役立たずの孤児たちに、君を少しは見習って欲しいものだ。これからも期待しているよ」 「はい、ドクター。ありがとうございます」 正直なところ、僕はいろんなものが怖くて仕方なかった。この研究所にある機械、実験用具、働いている人々、そんなものがいろいろみんなだ。でもそれは僕には求められていないものだ。求められていること以外しちゃいけないんだとお母さんが言っていた。 僕は、みんなに求められるものでいるから、ここではすごく大事にされているらしい。だから背中がぞっとするような怖さも、そう感じているんだってことも、絶対に外に出しちゃいけない。 他の子たち、それもあんまり出来が良くないと大人に判断されてしまった子供は、本当にすごくひどいことをされているのだ。僕はいつかこっそり見てしまった。僕より随分小さい子供が、まるでお菓子の包装紙や空き缶を棄てるみたいにして、ダストシュートに放り込まれていく光景を。だから僕は絶対に役立たずになっちゃいけない。 「――では食堂へ行きなさい。学校に遅れるんじゃないよ」 「はい、ドクター」 僕はこうやって何でもないふりをしながら話している間だって、本当は怖くて仕方なかった。そのまま座り込んでしまいそうなくらい怖かった。泣き出してたすけてと叫びたかった。 でも必死に我慢する。それは僕に求められていることじゃないからだ。 僕は心の中で、日曜日に『あの人』と遊んだことを思い出していた。 できるだけ楽しかったことを思い浮かべるようにした。 実験の最中もそうだ、どれだけ怖くて仕方なくても、僕は『あの人』と一緒に過ごした楽しい時間のことを思い出すと、ついおかしくなって、にやっと笑ってしまう。 ドクターたちはそんな僕を見て、すごく嬉しそうに「笑ってるぞ!」と大喜びをする。「異常なくらい素晴らしい精神力だ!」と手を叩きながら僕を誉める。 『あの人』は自称僕のヒーローだから、僕は彼が僕を助けてくれるところを想像する。 でも僕はもう子供じゃないから、上手く現実に適応できるようになっていた。 ヒーローなんてほんとはどこにもいない。 彼らは空想の中にだけ住んでいて、現実に生きている僕からすごく遠いところにいる。 誰も僕を助けてくれない。 僕は全身がぐしゃぐしゃに潰れてしまいそうなくらい重たい怖さと、なんとか折り合いをつけながら、ここで望まれる僕を演じていくことしかできないんだ。 ◇◆◇◆◇ その人は僕が待ち合わせの場所へ着くと、いつもみたいに笑って手を振った。 「やあ、こんにちは。勉強してる?」 「……うん」 僕は頷いた。学校の勉強なら大丈夫、問題はない。中学や高校へ上がると長いテスト期間があって大変らしいけど、僕は小学生だ。まだそんなものはない。 僕は今より大きくなって、中間テストや期末テストを受けている自分の姿を想像してみた。でも上手く思い浮かばない。 それはすごく遠い未来のことのような気がする。僕にはそいつがやがて僕の身にも降りかかってくるということを上手く理解出来ない。 最近僕は漠然と考える。もしかしたら僕は大人になるまで生きられないかもしれない。僕のまわりの、僕と同じ子供たちと同じように。 実験中に死んだ子達は、いなくなった後も誰にも心配してもらえない。みんなは事故とか病気とか言う。じきになかったことにされる。 きっと僕がいなくなってもそうなるだろう。僕らに特別とか特例とか言ったものはないのだ。 「どうしたの? なんか元気ないな……熱は……ない。うん? おなかでもいたいかい?」 その人は僕とおでこを合わせて、心配そうに言った。僕は優しくされると、どうしていいかわからなくなる。泣き出してしまいそうになる。そして最後には全部ぶちまけて「おねがいたすけて」と叫ぶだろう。 でも僕の周りにあるものはあんまりにも大き過ぎた。喋ったりしたら、その人にきっと悪いことが起こる。僕はそれだけはいやだ。 「……りょうじ」 「ん?」 僕はその人にぎゅうっと抱き付いた。その人の身体は大きくてあったかくて、随分気持ちが良くて、僕は大好きだった。離れ離れになってしまった今はもう、触るだけで泣き出しそうになるくらい。 「りょうじはげんきだよね? ちゃんとひとりでごはん食べれてるよね? 困ったこともないよね?」 「ど、どうしたの?」 「……うん。すごく心配になったんだ。僕がいなくて、綾時ちゃんとできてるのかなって」 「ちびくん、君はすごく心配性だなあ。できればそういう心配は、大人の僕にさせて欲しいな。僕だって君が心配で心配でたまらないんだ。いつも君のことを考えてる」 「うん。だよね。へんだよね」 僕は沢山の言いたいことを飲み込んで、「今日は何をしよっか」と笑って言った。思っていることと別の顔をかぶることは、僕にはもう慣れたことだった。怖い時に得意げな顔をしたり、今みたいに「たすけて」と泣きたい時に、「たのしみだね」と笑うことなんかだ。僕は貌をたくさん持っている。でも僕の顔はどこにもない。 「どうしたの?」 でもその人はすごく弱りきった顔になって、僕の顔を覗き込んできた。僕はちょっと不安になって、でも平気な顔で「なにが」と言った。 「へいきだよ、僕は元気だよ。友達もいっぱいできたし、いつも楽しいから、綾時、心配しなくて大丈夫だよ。そんな顔しないでよ。僕はもう子供じゃないんだから」 僕はほんとの心を掴み取られるのがすごく怖かった。僕が怖がっていることなんか知れたら大変なことになる。臆病者は役立たずだっていつも一番先に切り捨てられる。僕はダストシュ―トのあの小さくて狭い穴の中へ放り込まれるのはいやだ。 「……ちびくん、僕はずうっと君に言い続けてたはずだよね。どんなことがあっても嘘は吐いちゃいけない。何か怖いことがあったらすぐに僕に言いなさいって」 「なにいってんの。怖いことなんてなんにもないよ。お母さんもちゃんといるんだから」 僕には怖いものがたくさんある。最近のお母さん、眼鏡のおじさん、ドクターたち、白い部屋、手術台。あの小さな四角い嫌な臭いがする穴。でも僕が一番怖いのは、いなくなった子供がみんなに忘れ去られてしまうように、その人が僕を忘れることだった。 僕がシャドウに呑み込まれたら、きっとその人は僕を忘れて無かったことにするだろう。僕が病気や事故で死んでしまったことにするかもしれないし、離婚してすごく遠くに行ってしまって、もう会えないことにするかもしれない。最悪僕が生まれなかったことになるかもしれない。 「ちびくん」 その人は僕の頭に手を置いて、「ちゃんと僕の顔を見なさい」と言った。こうやって具合の悪い時には、その人はいつもの情けない顔じゃなくなって、すごく厳しい、お父さんの顔になる。ずるいと思う。 「僕が大好きな君は、嘘なんか言う子じゃない。そうだね?」 「うん……」 僕は頷いて、ほんとになんでもないんだと言った。でもその人はどうあっても信じてくれないみたいだ。どうして僕が嘘を吐いているってわかるんだろう。最近じゃお母さんでも気付かないのに。 「ただ、ちょっと……いろいろあったんだよ。それだけ」 「いろいろ?」 「うん。あの……お母さんが、『再婚』するとかで、それで、」 「さ、再婚? ママが?」 その人はびっくりした顔になった。僕は慌てて「僕が言ったって絶対言わないでね」と言った。 「う、うん……いっしょの、お仕事のひと。びっくりしたでしょ。ごめんね。そのひと、眼鏡掛けてて、やさ、やさしく――」 僕は口の中がからからになっていた。『優しくて、僕にすごく良くしてくれるんだ』と言わなきゃならない。いつもみたいになんでもないように言えばいいだけだ。 でも言葉が出て来ない。 あの眼鏡のおじさんのことを思い浮かべると、僕の身体はすごく冷たくなった。背中がぞっとして、手がぶるぶる震える。いつも掛けられる声が蘇える。『結果は良好だよ、貌無しくん』『君は王子様だ。あの無能な孤児たちとは違うんだ』『あまり失望させないでくれるかな。君にはすごく期待してるんだ。これ以上我侭言うとどうなるか、わかるね』―― 震えちゃだめだ。いつもどおりに振舞って――まず表情を消すこと、心と身体を切り離して、僕は僕の中に閉じ篭って、僕のものじゃないたくさんの貌をかぶること。声を震わせず、望まれたことだけ口にすること。 そう考えて、僕は違うんだと自分に言い聞かせた。今日は日曜日で、僕が週に一度だけ、すごく楽しみにしている日だ。 僕はその日だけ、みんなに内緒でお父さんに会う。一緒に遊んで、たくさん楽しいと感じる。そうすればまた僕は頑張れる。変なこと言ってその人を心配させちゃったら、台無しになってしまう。僕は、望まれたことだけを、 「――怖いんだね」 その人は静かな声で、僕の頭をひどく優しく撫でながら言った。僕を見つめる目はいつもどおりに穏やかだった。まっすぐで、僕は嘘をつけなくなってしまう。 「……こ、……わ……」 僕は震えた。絶対駄目だ。そればっかりは言っちゃいけない。 言っちゃいけない。 言っちゃいけない。 「……こわ、い……」 僕は震えている。その人のマフラーの裾を、手が白んでしまうくらい強く、爪を立てて握って、 ――そして、僕は吐き出してしまった。それから先の未来が、どうなるかもわからなくなるくらい、きっと僕はあんまりに怖すぎておかしくなっていたんだ。 「……たす、け」 ◇◆◇◆◇ 奇妙な夢を見ていた。 まったく僕の現実に触れないくせ、変に懐かしい感じのする夢だった。でもそれは僕に特に何の感慨をもたらすこともなかった。僕には懐かしい過去も未来を望むこともない。 少し前に街の真中に奇妙な塔が顕れるようになった。それは同じ時期に出現するようになった、一日と一日の狭間の時間にしか出てこない。どうやらどこかの部署が起こした実験事故が原因らしいが、詳しいところを僕は良く知らない。 僕を含めて沢山の親がいない子供が集められ、塔の探索に向かわされることになってから、もうじき半年近くになる。 百人近くいた子供の数は、はじめの十分の一程度に減ってしまった。 きっともうじき誰もいなくなるだろうと僕は漠然と考えていたが、そのことに対して怖いとか逃げ出したいとか言う気持ちを抱くことはできなかった。どうでもいいのだ、もう、全部。理由のない倦怠感と無気力が僕をいつも支配している。 目を開くと、仲間達は僕と似た様子でエントランスに座り込んでぼんやり過ごしていたが、「お目覚めですか」と感心した様子で言った。 「気分はどうです?」 「こないな気色悪い場所で寝れるんは、あんたぐらいのもんやで。どんなぶっとい神経しとんねん」 僕は応えず、入口を見遣った。外から誰かが侵入してきたのが気配で分かる。僕らは立ち上がり、さも今までもそうしていたふうに直立し、背中で腕を組んで敬礼した。 「もう揃っているな。メンバーは君ら四人か」 やってきたのは、桐条グループの探索隊のメンバーだ。でも実質この滅びの塔を探索するのは彼らじゃない。僕はできるだけ事務的に「はい」と頷いた。 「本日の影時間は、ナンバーファーストが指揮を取り、サード、フォース、シックスと共に探索を行います」 「よろしい。バックアップはこちらで行う。では四人、向かえ」 「フォースのサポートが必要です。彼女はエントランスで待機させます」 サポート能力を持っているフォースに目をやって僕が言うと、探索隊員は頭を振って「必要ない」と言った。 「言っただろう、バックアップはこちらで全て行う。君らは言われたとおりにすればいい」 「機材でのバックアップは不確かで効率的ではありません。特別製の通信機もすぐにノイズが混じります。昨日は『特別製通信機の電波障害のため』、散開した際にナインがシャドウの襲撃に遭い、破壊されました。探索に使えるペルソナ使いはあと七体です。確実なエリア攻略を目指す場合、ペルソナによるサポートを提案します」 「ああ、わかっている。その為にペルソナ使いがこちらにいらっしゃる。君らできそこないとは違う、本物のな」 探索隊に案内されてやってきたのは、まだ若い少女だった。綺麗な顔立ちをしていて、意志の強い目をしている。 たぶん歳は僕と同じか、少し上くらいだ。彼女は僕ら孤児とは違って、とても大事に扱われていた。 「――お嬢様、どうかご無理をなさらないよう。万一何かありましても、彼らは使い捨てが効くのですから」 「……そういう言いかたはやめろ。私なら問題はない――はじめまして。桐条の者だ。本日から君らのバックアップを行うことになった。慣れないところも多いが、君らは優秀なエージェントだと聞く。よろしく頼む」 彼女は言って、僕に右手を差し出してきた。 僕は応えず、「行くぞ」と短く言って歩き出した。仲間達が黙って僕に続いてくる。 探索隊員は僕の無礼な対応にしどろもどろになって、少女に謝罪している。桐条の名前といい、多分かなり上の人間なのだろうが、そんなことは僕の知ったこっちゃない。 「す、すみません、お嬢様……なにぶん兵器のすることですので、」 「構わないが、少し興味がある。聞かせてくれ。彼らは人間なのか? 何故貌のない仮面を?」 「個人を表すものはありません。彼らを構成するのは、剥ぎ取って与えられたものだけです。お嬢様と違い、彼らは自力で覚醒したのではないのです」 僕らは無言で滅びの塔の扉を、開いた。 |