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柔らかい手が僕の身体に纏わり付いてくる。その手は震えている。ほんとに手を伸ばして僕に触っても良いのかどうか不安に感じているみたいに、怖々僕に触る。 僕は腕を広げる。「いいよ」と言う。 その誰かはうすぼんやりした影みたいなかたちをしている。お化けみたいだけど、不思議と僕は怖いとは感じなかった。 そいつがびくびくしていて、可哀想なくらい震えていたせいかもしれない。もっと他に理由があるのかもしれない。 ともかくそいつが近付いてくると、僕はひどく安心した。静かな心地になり、なにも考えられなくなる。うとうとした寝入りばなの時みたいだなと僕は思う。 『……おかあさん』 そいつは僕の胸にしがみ付いて、そうやって必死に僕を呼ぶ。呼び声はびっくりするくらい僕の声に似ている。どうやら僕をお母さんと間違えているみたいだ。 僕は、子供のころ飼っていたカナリヤの子供のことを思い出していた。生まれてはじめて見た僕のことをお母さんだと思って、いつも後ろにくっついてきていた。 僕はそう思い当たると急に、そいつのことがすごく愛しくなってきた。 こいつは僕の子供なんだ。 ◇◆◇◆◇ その日の授業が終わってすぐ、望月は鞄を抱えて僕のところへやってきた。彼は慌しく僕の手をぎゅうっと握って、にっこり微笑んで言った。 「ね、いっしょに帰――」 「ダメです。この人に近寄らないで」 そして僕の隣のアイギスに、またしても駄目出しされている。今のはちょっと迂闊だったなと僕は冷静に分析した。望月はどうやらとても浮ついていて、前しか見えない状態だった、らしい。 彼がどうしてそんなふうになっているのか考えると、僕は恥ずかしくて蹲りそうになってしまうので、あまり考えないでおく。最近の僕はなんだかおかしくて、僕じゃないような気さえするのだ。 なんでこんなふうになっちゃったんだろう、と僕は望月を見ながら途方に暮れていた。なんで望月のことになると、僕はすごく馬鹿みたいな奴になってしまうんだろう。 「アイギスさんー、後生だよぉお、できればマフラーを離して下さい死ぬっ……ああでも美人に殺されるならそれはそれで本望かも……!」 「あなたはもう全然ダメです」 望月とアイギスがじゃれているのを、僕は肩を竦めて見ていた。望月はと言えば、アイギスにマフラーで首を絞められながらも必死に彼女を口説いている。 こいつはいつかどこかで修羅場を経験するなと僕は考えた。きっと嫉妬した女子か、逆恨みした男子に刺されるに違いない。 気が多過ぎるし、思わせぶりだし、誰にでも好きだとか言うのだ。加えてそれらが嘘じゃないところがたちが悪い。 まあ僕も望月が好きな大勢のうちのひとりなのかもしれないなと思って、僕はなんだか憂鬱になった。なんでこんな奴なんか、僕は、 「……ん」 耳慣れた通販番組のテーマ音楽が聞こえて、僕はポケットから携帯を取り出した。メールが届いている。送信者の名前はないが、本文を開いて、僕は顔を強張らせた。 「アイギス、やめろ」 「……了解です」 他の誰かが見ても分からないような僕の表情の変化も、アイギスは気付いてくれる。前に望月にも悟られてしまったが、これはどうしてなのかは分からない。 ともかくアイギスは頷いて、望月のマフラーを離した。解放された望月は、息ができなくて余程苦しかったようだ。蹲って咳込んでいる。 「――ふう、助かった……あ、ね、今日」 「あっ、綾時くん! 今日約束忘れてないよね? 帰りにカラオケ行くって!」 「うん、もちろんだよ!」 教室の後ろから聞こえてきた女子の呼び掛けに、望月は甘い笑顔で応えた。それから僕のほうを見て、女子向けの優雅な微笑とは一転してなんだか情けない顔つきで、「い、いっしょに……」とかぼそぼそ言っている。 僕は肩を竦めて「約束は大事にしろよ」と言ってやった。 「う、うん。あのね、みんなで行くんだ。順平くんも一緒だよ。友近くんも……きっ、君もどうかな? 来てくれると、きっと僕はすごく楽しいと思うんだけど」 「――悪いけど、今日は帰る」 僕はできるだけ突っ撥ねた言いかたにならないように注意を払って、望月の誘いを断わった。 「急用ができた。良ければまた誘ってくれ。じゃあまた明日な」 「う、うん。じゃあね」 望月は残念そうな顔でへらっと笑って、女子たちのところへ行ってしまった。 「あちゃー、カリスマに振られちゃったね。やっぱ綾時くんでも無理なんだ。難攻不落よね、やっぱ」 「でも綾時くんまだ優しくしてもらえていいほうだよ。ちょっと私びっくりしちゃったよ。あの人ちょっと笑ってなかった? いいなあ、こないだなんか友近がさぁ」 「あたし酔ったフリしてカリスマに膝枕してもらおうと思ってたんだけどなー」 「美形ふたり並べたかったんだけどねえ。絵になるよね、ふたり」 「……『難攻不落』、らしいです」 「……? なに言ってんだ、アイギス」 僕は、急に望月たちのほうを見ながら訳のわからないことを言い出したアイギスに首を傾げた。でもそういえばそんなことをやってる場合じゃない。 「それよりアイギス、付き合って欲しいんだけど」 僕が携帯を弄りながら言ったところで、教室がどよめいた。何故かは知らないが、すごく視線を感じる。 そんな中でも、アイギスは冷静に「どこへ行かれるのですか?」と言った。 「呼び出し。あまり良い予感はしないから、君がいてくれるととても心強い」 「了解です。ご一緒します」 アイギスが頷いたところで、教室の空気は急にほっとしたような、和やかなムードになった。何だったのかなと、僕はちょっと顔を上げて辺りを見回したが、もう何でもない雰囲気だ。 「よっ、良かったぁ……! あいつ、とうとう人のものになっちまうのかと」 「馬鹿、友近! そんなことあるわけないだろ! カリスマはなぁ、俺らのフェアリーなんだぞ」 「でもあの二人並べてるとすげぇ絵になるよな……ちょっと見たかったかも。どっちも人形みたいでさ、二人でメイド服とか着て、「おかえりなさいませご主人様」とかどうよ?!」 「ばっ、やっべそれ、やっべそれ、萌えるっ……! オレ絶対大事にする!」 「……『おかえりなさいませご主人様』、らしいです」 「……? なに言ってんだ、アイギス。行くぞ」 僕はまた良く分からない事を言い出したアイギスに首を傾げた。何か変なデータでも拾ってしまったのだろうか。 ◇◆◇◆◇ 僕はアイギスを連れて、ポートアイランド駅の広場のはずれへやってきていた。指定された場所はここで良かったはずだ。 駅裏は相変わらずさびれて荒れていた。六月にも一度潜入捜査で訪れたことがあったが、不良に絡まれてさんざんな目に遭った。できればもう二度と近寄りたくはなかったなと考えながら、僕は辺りを見回した。相変わらずあまりお近付きになりたくない人種の人間が溜まっている。 「どうしたんだよボウヤぁ〜、可愛い彼女なんか連れちゃって、デートする場所間違えてない?」 できれば何事もないことを祈っていたが、さっそく絡まれてしまった。ニヤニヤしながら、髭面の男が僕らに近寄ってきた。他にも座り込んでいた暇そうな奴らがぞろぞろ集ってきて、あっという間に僕らは取り囲まれてしまった。彼らにしてみれば、制服姿の僕らなんて恰好のカモだろう。 「このガキ、こないだも来てなかったかぁ〜?」 「ねぇ、イタズラしちゃおっか。この子けっこーカワイイ顔してるしぃ、女の子の格好させてさぁ、こっちの金髪の子と絡ませて写真撮んの。あそこに持ってったらきっと高く売れるよぉ」 好きなことを言われている。僕は腕時計を見た。そろそろ時間だ。さっさと用事を済ませて帰りたい。 「スカしてんじゃねぇよこの――」 僕に無視されたと思ったのだろう、急に彼らのうちのひとりが殴り掛かってきた。 でもその腕が僕に届くことはなかった。アイギスが僕を守るように前に出て、男の腕を掴んでいる。 「この人は、私が守ります」 「え? ちょっ……女? ウソだろ……」 対シャドウ用戦車の馬力を、人間がどうにかできるものじゃない。次の瞬間、近寄ってきていた男は軽々と宙を舞った。 「な、なにこいつ……ロボコップとかターミネーターとかそんなの?」 「鉄腕アトムかもしれねぇぞ」 不良たちがざわめいている。僕はもう一度腕時計を見た。ジャストだ。 遠くから足音が聞こえてきた。特徴的で、僕らはそれを知っていた。アイギスが怪訝な顔つきになった。彼女も理解したのだ。 「――よお。悪いけど、そいつわしらの客や。ゆっくり話させてもらいたいねんけどなぁ」 現れたのは、少し前に僕らの前に再び姿を現したストレガだった。 大型の刑死者型シャドウを討伐に向かう最中に死んだと思っていたが、どうやら生きていたらしい。彼らが来ると不良たちはあからさまに動揺した様子になって、こそこそ散って行った。 「……随分人気者みたいだな、ここでは」 「そんな大したことないねん。にしても、わしあんた一人で来いて言うたよな? 女連れでデートかいな。そりゃーあいつらに囲まれても文句は言えんで」 「一人だ」 僕は目を閉じてそっけなく言った。 「武器を持ってくるなとは言われてない」 ストレガの一人、ジンはアイギスを見て「ああ」と頷いた。 「なるほど、武器な。あんたも随分偉なったもんや。わしらだけ逃げてもたこと大分気にしとってんけど、あんたのことは心配するだけ無駄や言うの忘れとった」 「……? それより、なんで俺のアドレスを知ってる」 「知ってるに決まってるやろ。今更なに言うてんねん。つれへんなぁ」 なんだか知り合いと談笑しているみたいに馴れ馴れしく話し掛けられて、僕は顔を顰めた。同じペルソナ使いだが、僕は彼らを敵だと認識している。能力を悪用して、平気で仲間を殺すような奴らだ。そういうのは好きじゃない。 「ジン、彼が困惑しています。再会を喜ぶ気持ちは分かりますが、少し落ち付きなさい」 もう一人のストレガがジンを窘めた。確か、タカヤとか言う男だ。彼は僕を見て頭を下げ、「お久し振りです」と言った。 「元気そうでなにより。もう少し早くにゆっくり話がしたいと思っていたのですが、また会えて嬉しい」 「何の用で俺を呼び出した?」 「相変わらずせっかちですね。別に今日は争うために呼んだのではない。逆ですよ。あなたの力を借りたいと思うのです」 「……何を企んでる」 僕は目を眇めてタカヤを睨んだ。彼らの目的は知れない。想像もつかない。 「ご存知の通り、我々はまた数を減らしました。チドリが死に、もう残っているのは我々だけだ。私もジンも戦闘特化型です。できればこれからの目的のためには、サポート能力を有するペルソナ使いが欲しい。あなたは優秀だ。その能力を借りたい。我々と共に来てはいただけませんか?」 「いきなり何を言い出すかと思えば……仲間を殺すような奴らと一緒に行く気はない」 僕が突っ撥ねると、ジンは変な顔をした。驚いたように目を見開いて、「何言うとるのん?」と心底不思議そうに言った。 「なぁ、前会った時から思うとってんけど、お前なんか変ちゃうか……?」 「得体の知れないお前に変だと言われる理由はない」 「……ああ、おかしい思た。あんた妙にええ子ちゃんやと思とってん。わしらのこと覚えとらんのやな」 ジンがすごくくたびれたふうに溜息を吐いて、肩を落としている。僕には何のことだかわからない。 「タカヤ、どうする? こいつあかんわ。一旦無理矢理にでも連れてくか?」 「難しいでしょう。彼の優秀さは良く知っているし――」 「させません」 アイギスが僕を庇って前に出た。ストレガはお手上げの仕草をして、僕らを変な目で見ている。 「戦車と正面から喧嘩をするつもりも今はない。残念ですが、今日は帰りましょう。いずれ彼も、時が満ちれば理解するはずだ」 彼らは二人だけが理解できる会話をしている。 でも本当に戦う気はないみたいだ。満月の夜や、あのチドリという少女が死んだ時のような、薄気味悪い殺意が感じられない。 「ジン」 「了解」 ジンが拳大のボールのようなものを地面に叩き付けた。途端に白い煙が溢れ、視界を閉ざす。一面白の世界で、僕はストレガの声を聞いた。 「――その気になれば、会いにきてください。あなたとまた共に戦える日を楽しみにしていますよ」 「なああんた、死人の言うこと律儀に聞いたることあらへんねんで……じゃあ、またな」 「待て! 訳が分からない、一体何のつもりなんだ?」 こんなところに呼び出して、訳の分からないことを言われて、僕は困惑していた。それに彼らに戦闘の意志がないことも理解できない。彼らのまるで僕を知っているような口振りもわからない。 「くそっ、アイギス!」 「反応消失。間に合いません」 「……そう、か」 僕は頭を押さえ、目を閉じ、溜息を吐いた。僕は混乱していた。なんで彼らはあんなふうに、可哀想なものを見るような目で、僕を見るのだ。 |