(今日も来てないし)
 今日も望月の席は空いていた。
 望月が来ていないと女子はなんだか物足りなさそうな顔をしているし(僕もそこまで惜しまれてみたいものだ)、アイギスは空席を見てずっとそわそわしている。どうしたのか訊いてみたら、わからないという答えが返ってきた。
 彼女は漠然とした不安のようなものがすごく気持ち悪いらしく、ずっと困った顔をしている。
 今日は連絡を入れても返事がなかった。あいつ死んでるんじゃないかと、僕は変に不安になってきた。
 まったく世話の焼ける奴だ。僕は友近のために毎日昼飯を作ってきているわけじゃないんだぞ。そんなふうに、頭の中で望月に言ってやりたい文句ばかりを考えながら、僕は職員室の鳥海先生のところへ向かった。
――失礼します」
「あらどうしたの? 何かやったの、学年トップの完璧超人が」
「いえ。先生に望月君が住んでる場所を聞きたくて。今日は携帯に連絡を入れても返って来ないんです。彼は一人暮しらしいので、自宅で孤独死でもしてるんじゃないかと心配になって」
「……あー、大変ねあれ。異臭騒ぎでようやく見つかったりするんでしょ? うちのクラスからそんなの出るのもあれだしねえ。ちょうど良いから見てきてくれる?」
「はい」
 僕は頷き、鳥海先生が住所録を引っ張り出してくるのを待っていた。
「あああったコレコレ……にしても君が誰かの心配をするなんて意外だわ。他の子のことなんてどうでも良い子だと思ってたから」
「…………」
「じゃ、頼んだわよ。場所分かる?」
「……はい、たぶん」
 僕はやっぱり、いつものことだが、そんなふうに冷たい奴に見えるんだろうか。






 十二月に入ると、夜の訪れがすごく早くなる。校舎を出るともう日は見えなくなっていて、高い空から弱々しい薄紫色のひかりがうっすら降りてきているところだった。
 月光館の生徒が身を竦めるようにして足早に歩いていく。制服は、冬の冷たい大気を防ぐには頼りなく、手足の先がじんと冷えてきた。
 僕は音信不通の望月のことを考えていた。
 彼はちょっと薄着過ぎるのだ。夜遅くまで僕らの寮に留まっていたから、きっと身体を冷やしたんだろうと思う。
 まず彼には制服を改めるように言っておいたほうが良いかもしれない。なにしろ望月は身体の感覚といったものにひどく鈍感なように、僕には思えた。
 怪我をしてもまるで気付いてないふうだったし、きっと寒いと感じることも気にしていないのだろう。
 まったく彼はどうしようもないなと考えていると、ちょっとくすぐったい気分になってきた。
 僕にもどうやら誰かの心配というものをすることができたみたいだ。






 住所はポートアイランド駅近くのマンションになっていたが、その場所に辿り着いてしばらく、僕は入口で呆然としていた。
 まず、敷地内に緩やかに川が流れている。自然のものじゃあなく、つるつるした石で舗装された人工の水路だ。
 中庭には――中庭と呼ぶには大分広すぎる気がしたが――整然と竹が立ち並んでいて、小さな林のようなものが造られていた。中央には巨大な水盤が設置されており、真中辺りに現代彫刻らしい奇妙な球体が無言で蹲っていた。歩道も完全に整備されていて、水盤を取り囲んで大理石のベンチが点在している。
 僕はどこかの美術館に迷い込んだのかと思ったが、住所はここで間違いないはずだ。
 入口から大分離れて聳え立っている、馬鹿に高級そうなマンションを眺めながら、僕はすでに疲労を感じていた。巌戸台分寮を見慣れている僕には、こういった場所は馴染まないのだ。うろうろしているだけで不審者呼ばわりされて、警察に通報されないことを祈る。
 とりあえず予想はしていたが、入口のロックに阻まれた。防犯対策は万全らしい。僕は困ってしまい、とりあえず暗証番号入力装置に付いているインターホンで管理者を呼び出した。
「……あの、望月綾時君に用があるのですが」
『どなたですか?』
「月光館のクラスメイトの者です」
『申し訳ありませんが、許可なく外部の方をお招きすることはできません。ご用のある方に直接許可をいただくか、もしくは生体照合にご協力をお願いします』
「いや、ご協力って」
『では、失礼いたします』
 通信を切られた。僕は溜息を吐き、余程ペルソナを使って扉を破壊してやろうかと思ったが、今度こそ通報されるだろうと思って止めた。
 しかし望月は本当にすごいところに住んでいる。さすが金持ちの帰国子女だと噂されていることはある。マンションに生体照合って何だ。銀行じゃあるまいし、こういうところに住んでいるのは桐条先輩くらいだと思っていた。
 気になって見てみると、入口の扉の中央に液晶モニタのようなものがくっついている。画面には手のひらのかたちに白い線が映し出されていた。これが照合に使う機械なんだろうか。僕は駄目元でモニタに手を触れてみた。
 アイギスみたいに『あなたはダメです』と駄目出しされるのかと思えば、意外なことに扉のロックが外れる音がする。
 怖々扉を押してみると、簡単に開いた。僕は正直拍子抜けしてしまった。なんだ、誰がやっても開くんじゃあないか。セキュリティってものはこれでいいのか。
 なんだか幻滅しながら、ちょっとした城の内部みたいなエントランスを進んでいく。装飾は派手だし噴水まである。
 多分僕と望月の価値観の違いとかいうものは、こういう環境のせいで生まれるんだろうなと、ぼんやり理解してきた。僕は庶民なのだ。






 どうやらマンションは桐条グループの管理下にあるらしい。グループのロゴをあちこちに見掛けたし、時折桐条の社員証をくっつけたスーツ姿の人間とすれ違うことがあった。社員寮のようなものなのかなと僕は考えた。こんな豪華な社員寮は見たことがないが。
 望月の部屋は十五階にあった。表札も出ているし間違いないだろうが、インターホンを押しても何の反応もない。
「……望月?」
 本当に孤独死とかしてないだろうなと、僕はかなり不安になってきた。ノックしても、中から物音ひとつしない。
「望……あれ」
 ドアノブに触ると簡単に開いた。僕は唖然とした。マンションの入口といい望月の部屋といい、こんなに無防備で大丈夫なのだろうか。泥棒に入ってくれと言っているようなものだ。
「悪い、邪魔するぞ」
 言い置いて部屋に入ったところで、妙な既視感を覚えてしまった。望月の家に来ることなんて初めてだ。
 まず入口から入ってすぐ、右側にバスルームとトイレへ分岐する通路がある。まっすぐ進むとリビングだ。まるで高級ホテルのスイート・ルームみたいに、毛足の長い絨毯が敷かれていて、良くスプリングの利いたベッドがある。本棚には僕には分からない専門書が並んでいる。大半が工学書だ。
 でもテレビの横には子供向けのヒーロー番組のDVDが大事に並べられていて、大体のゲーム機が揃っている。キッチンはほとんど使われていない。
 ――奥には、そんな光景がきっと広がっているはずだ。
 僕はまるで自分の家に帰ってきたような錯覚を覚える。でもここは望月の家で、僕は初めてここを訪れるのだ。僕は庶民なのだ。こんな馬鹿に家賃の高そうなマンションなんて知らない。
「望月……?」
 僕は、望月の姿を探した。明かりは点いておらず、部屋の中は真っ暗だ。寝ているのかなと思ったが、そうじゃない。
 彼はベッドの隅のほうで、頭を抱えて蹲っていた。
 僕は鞄を放り出して、慌てて駆け寄った。
「望月、大丈夫か?」
 肩を抱いて顔を覗き込んだところで、急に手を引かれて腰に抱き付かれた。バランスを崩して、僕らはふたりでベッドに倒れ込んだ。
「も、望月?」
「……なんで君が?」
「え」
「ここ、部外者は入れないんだよ。住人の仕事の都合上、セキュリティがすごく厳しいんだ。君、壁がすり抜けられるとかじゃないよね……?」
「は? なんか触ったら普通に開いたけど」
「ふうん。壊れてたのかな」
 望月の声は変に篭っている。泣いていたのかもしれない。あまり歓迎されている気配はなかったので、僕は居心地が悪くなり、「悪かった」と言った。
「勝手に押し掛けて。生きてて安心した。具合が悪いのにすまない。邪魔にならないようにもう帰る」
「ううん」
 望月は頭を振って、でも僕に抱き付いたままだ。邪魔っけにはされてないみたいだと、僕はちょっと安心した。そして、黙ったまま望月の頭を撫でてやった。
――女子がお前の噂ばっかりしてる。お前がいないと、すごくつまらなさそうだ。順平も心配してたし、アイギスも張り合いが無さそうだった」
「……うん」
「ちゃんと、病院行ったか? 薬は貰った? 食事は取ってるか」
 僕はちょっと間を置いてから、「どうした」と静かに訊いた。望月はびくっと震えて、硬い声で言った。
「……君に話したって、きっとわかんないよ」
「そうか」
 望月が珍しく棘のある言葉を吐いている。でも僕は、そいつが突き刺さっても痛みというものを感じられない。逆に心配になってくる。彼がそんなふうな物言いをするなんて、ただ事じゃないことを理解している。
 望月はしばらく黙り込み、大分経ってからひどく申し訳なさそうに「ごめん」と謝った。
「……すごく、苛々してるんだと思う。誰に会っても、きっと僕すごくひどいことばっかり言ってしまうと思うんだ。誰にも会いたくない。せっかく君が僕を心配して来てくれたのに、それはすごく嬉しいんだ。ほんとだよ。でも僕は、今、君だけには会いたくなかった」
「……ごめんな」
「ううん、嬉しいんだ。でも僕、こんなとこほんとに、君だけには見られたくない」
「うん」
 僕は頷き、望月の顔に触った。彼は必死に泣くのを我慢しているような顔をしている。
「だから、もう帰ってくれないかな。僕このままだと、ほんとにどうしようもないことを君にしてしまうと思う。止まらないと思う。君に嫌われてしまうことが、僕はとても怖くてたまらない。考えただけで死んじゃいそうだ。……ううん」
 望月は自嘲するようにちょっと笑って、顔に触る僕の手を握った。
「死なないかな。……なんか、僕、生きてるって感じ、しなくって」
「どういうこと?」
「わかんない。……ね、」
 望月は、急に泣き笑いみたいな顔になって、僕に強く抱きついてきた。彼の身体は震えている。まるですごく怖いことがあるみたいに。
「僕、君とおんなじものだよね」
「ん?」
「生きてるよね。身体も心臓もあって、君のことがすごくすごく好きで、だから心もあって、僕はここにいるよね。『望月綾時』っていうのは、ちゃんとほんとに僕の名前だよね」
「馬鹿、当たり前だろ」
「……君は初めてここへ来たんだよね? 僕らふたりでテレビを見たりゲームをしたり、したことないよね。ここにはそんなもの無いんだから」
 言われて僕は辺りを見回した。部屋の中はまるでホテルの一室みたいに、整ってはいたが、そこには人の生活の匂いといったものが感じられなかった。ただテーブルの上に学生鞄と、何冊かの教科書が放り出してあるくらいだ。僕がさっきイメージした本棚も、ヒーロー番組のDVDも、ゲーム機もない。
 僕は頷き、「知らないよ」と言った。
「こんなところへ来ることなんてそうあってたまるか。僕は庶民なんだ。わけもなく恥ずかしくなってくる」
「そうだよね。きっと幻を見たんだ。僕が強く望んだせいだよね。君と、もっと仲良くなりたいって」
 望月はやっと笑って、でもすぐに顔を顰めてしまった。彼の目から涙が零れて、下敷きになっている僕の頬を濡らした。
「……君のせいなんだから」
 望月はすごく悔しそうに顔を歪めて、擦れた声で言った。
「君が、悪いんだから。そんなに優しいから、綺麗だから、僕のこと赦してくれてそばにいてくれるから、僕は君がどんどん好きになってく。君のこと大事にしようって思うのに」
 嗚咽が聞こえる。望月は泣きながら僕のリボンタイを解いた。
 シャツの胸元のボタンを外されて、僕はそこで望月が泣いている理由を理解してしまった。
「望月、」
「君はたくさん僕に『嬉しい』とか『楽しい』とか『好きだ』とかをくれたのに、僕は君にひどいことしか返せないんだ。なんで、なんだ、ろ……」
 望月はたぶん、僕のせいで泣いているんだろうなという気がした。
 僕は手を伸ばし、望月の頬を拭って、「ごめんな」と謝った。僕はたぶん、望月にすごくひどいことをしたに違いないという確信があった。理由は漠然としていたが、僕はそれを理解しているのだった。
「僕、多分お前にすごくひどいことをしたんだな」
「ちがう、君じゃない。僕が」
「泣くなよ。ちゃんとそばにいるから。僕はここにいるし、僕がお前を守る。だからそんな顔するなよ。僕まで泣きそうになってきただろ」
「ご、め……」
「泣くなったら」
 望月は子供みたいに泣きじゃくっている。僕は彼をあやしながら、こんな時なのに、ひどい安堵を覚えていた。それはパズルのピースがぴったり嵌まった時のような、整った秩序を眺める感覚だ。子供は子供らしくこうやって泣いたり甘えたりするべきなのだ。でも望月は、僕と同い年の男だったから、僕はさすがに変な気がしてきた。
「……ゆ、め」
「ん?」
 涙を詰まらせながら、望月が僕に何かを訴えようとしてきた。僕は辛抱強く、彼の顔を覗き込み、耳を傾けた。
「こわい、ゆめ……見た」
「うん」
「こわくて、たまんなくて、でも夢から覚めた時に急にすごく悲しくなったんだ。僕は怖い夢のなかに、なんだかすごく大事なものを落っことしてきちゃったみたいな気がして」
「うん」
「だから、僕のせいなんだ。僕が大事に持ってたら良かった。何が起こっても手を離さなきゃ良かったって。目が覚めても、どっちが現実なのか区別がつかないんだ。ただ無性に君に会いたくなった。君の顔を見なきゃ潰れてしまうような気持ちになって、でも会えば僕は君にひどいことをするから、もう何もかもが怖くて、どうしようも――
「……うん。ひとりで怖いの、我慢してたんだな。偉いな」
 僕は望月に笑い掛けた。さっきから無性に僕は泣きたい気持ちだったが、咽が詰まったような衝動を堪えた。僕は何かを我慢するということが得意なのだ。ここで僕までわけもなく泣き出したら、望月も僕も混乱して収拾がつかなくなるだろう。
 望月は頭を振って、僕のシャツのボタンを解いていく。彼は「ごめんね」と呟き続けている。僕は両手で望月の手を握って、じっと彼の目を見つめた。
「お前は僕と寝たいのか?」
「ん……」
 望月は申し訳なさそうな顔で頷いた。
「僕、男だけど。男同士のやり方とかあんまり知らないし」
「……ごめん」
「お前がなんで僕を好きだとか言うのかもいまだに分からないし、お前は女子が大好きだし、しかもモテるだろ。それでも僕なんかがいいのか?」
「……うん、ごめんね。ほんとに、ごめん。でも君じゃなきゃ嫌なんだ」
 僕は溜息を吐いて、まだ苦しそうに泣いている望月の顔を撫でてやった。
「……とりあえず、落ち付け。泣き止めよ。僕でいいなら相手してやるから。お前に泣かれてちゃ、なんだか僕がすごくひどいことしてるみたいだろ」
「あ……! う、うん!」
 望月は慌てて目を擦って何度も頷いた。彼はとても驚いた顔をしている。
「い、いいの? ほんとに……」
「別に、僕望月その、す、好きだから。へ、変なふうに好きなのかは、その、……分からないけど。お前に泣かれると僕はどうしたら良いのか分からなくなる」
「ほ、ほんとに?」
「だ、だから何度も言わせるなって。いいから。別に僕、お前とならそういうのもかまわないかもって思ったんだ。それだけなんだからな」
「う、う、うん……」
 望月は嬉しそうな顔をしながら、また泣きそうになっている。だから泣くなって言ってるのに、と僕は思った。でもさっきまでみたいな、すごく悲しげな、不安そうな顔は今は無くなっていたから、そのことについては僕はすごくほっとしていた。







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