「りょうじ、」
 僕は泣いている。ゆっくりと景色が流れていく。その人の背中におぶさって、僕は「ごめんなさい」と謝り続けている。
「泣かないで。大丈夫だから」
 その人の声は、すごく優しい。それが僕には無性に悲しかった。そうやって優しくされると、僕は余計に僕のことが赦せなくなる。
 僕は、なんて馬鹿なんだろう。僕なんか死ねば良かった。この恐怖ごと身体を焼かれて灰になってしまえば良かったんだ。
「ふたりで、どこか遠いところへ行こう。手ぶらでいいよ。何とかなるさ。まず飛行機に乗って、海を越えるんだ。そんで、君の好きなところへ行こう。カリフォルニアのディズニーランドはどうかな。遊園地好きでしょ。ロンドンに住むのもなんかお洒落だよねー。インドにカレー食べに行っても良いし。いっそのこと、世界をぐるっと一周しちゃおうか。ちびくん、僕にできないことはないんだよ」
「りょうじ、ごめんねっ、ごめ、なさ……」
 僕は泣きじゃくっていた。その人に強く抱き付いて、怖い怪物がその人を連れて行ってしまわないように、しっかり掴んでいた。
 その人の身体は影みたいに黒ずんでいた。でも笑っているのだった。いつものように、肩の向こうでは、僕が大好きなあの笑顔をきっと浮かべているだろう。
――僕が絶対に助けるから」
「でもりょうじっ、りょうじはもう……」
「だからもう泣かないで」
 僕は、必死に頷いた。泣き止まなきゃならない。じゃなきゃ、その人がずっと遠くへ行ってしまうような気がする。涙が止まるなら、僕は心をシャドウに食べられちゃってもいい。心なんか無くていい。これから辛いことしか感じられないなら、そんなものいらない。
「すきだよ。僕はこの七年間、すごく幸せだったんだ。君に出会えてすごく嬉しかったんだ」
「……さいごみたいに、言わないでよ! 僕、りょうじと行きたいよ。どこでもいい、どんな嫌なことがあって、辛くたって平気だよ。りょうじがいなきゃ、僕は、生きてたって」
 その人は「うん」と頷いて、「軽いね」と言った。
「まだまだ、君はすごく軽いよ。これからね、どんどん大きくなって、重くなって、じきにすぐ僕が背負うのも大変なくらい成長する。君には未来がある。楽しいことがいっぱいで、たまに落ち込むこともあるかもしれないけど、そこにはひかりが溢れている。だから君はこんなところでゲームオーバーになんてなっちゃいけない」
「……りょうじがいたら、僕はどこでも楽しいよ」
 僕は泣くのを堪えて、一生懸命言った。
「そうじゃなきゃ、ふたりじゃなきゃやだよ。りょうじがいなきゃ、ぼくもうどうやって『面白い』とか『たのしい』とか感じれば良いのかもわかんないんだよ」
「……うん。心配しないでよ。君が大人になるまでは、何があっても僕は死なない。僕は、君のヒーローだ。君を守る。どこまでも、君が笑っていられる場所まで連れていく。ずっとそばにいるよ」
「りょう、」
 突然僕は道路のコンクリートに投げ出された。全身を打って転がった。地面は冷たくて、氷みたいになっていた。僕らが乗ってきた車が、橋の真中でひっくり返って燃え上がっている。
 向こうでは誰かが喧嘩している。どっちも人間じゃない。片方は人間のお姉さんのかたちをしてるけど、身体中に機械の継ぎ目があって、まるで動くマネキンみたいだ。
 もう片方はもやっとした影みたいなものだった。見たことのないシャドウだ。実験で遭うやつらよりもずうっと大きいし、雰囲気も全然違う。僕を庇ってあいつに触られたところから、その人はどんどん影みたいに黒ずんでいったんだ。
 僕は起きあがって、倒れてしまったその人の腕を引っ張って運ぼうとした。でもすごく重い。大人の男のひとの身体は、僕よりいくらも大きくて、僕はなんで子供なんだろうと自分が心底いやになった。
「りょうじ、りょうじ、おきて、あいつら来るよ。逃げなきゃ」
 僕は焦っていた。でもその人の身体はぜんぜん重くて、僕はバランスを崩してずるっと滑って転んでしまった。
 二匹のかいぶつは、どんどん僕らのところへ近付いてくる。
「ぼ、僕、逃げないよ。ひとりでなんて絶対行かないから。りょうじがいなきゃ僕、」
 僕はその人の身体をぎゅっと抱いて、ぎょっとした。僕が触ったところから、影みたいに黒ずんだ身体が融けていく。どろっとしたコールタールみたいになってく。
「りょっ」
 僕は顔を歪めて、零れた身体を掻き集めようとした。でも触ったところから、どんどん融けていく。キリがない。
「あ、」
 ――気がつくと、かいぶつが僕のすぐ前に浮かんでいた。
 もやもやしたシャドウのほうだ。そいつは身体も足もなくて幽霊みたいなかたちをしていたけど、黒い影絵みたいな手を伸ばして、僕が必死に掻き集めているコールタールみたいな身体を無遠慮に鷲掴みした。
 途端、シャドウの身体がちょっと大きくなる。そのことに気付くと、頭の中が真っ赤になった。こいつは僕の大事な人を食べようとしているんだ。
「か、かえしてっ! お願い、返してええ!!」
 僕は悲鳴を上げて、その人の身体を取り返そうとして、かいぶつに掴みかかっていった。
 でも伸ばした僕の手がかいぶつに届く前に、僕のお腹に真っ白な腕が突き立っていた。
 それはかいぶつの胸のあたりから、生えていた。あのお姉さんの姿をしているほうのかいぶつが、シャドウごと僕を貫いていた。
 すると僕のお腹に開いた穴のなかへ、シャドウの身体がほどけて、黒いコールタールみたいになったものが吸い込まれていく。僕のお父さんだった黒い影と一緒に。
――ごめんなさい」
 お姉さんは僕に謝っている。力が抜けた僕の身体を抱き締めている。
 僕はそんな中で、奇妙にほっとしたような気分でいた。僕は安心していた。これで僕もきっとその人のところへ、綾時といっしょに誰も怖いひとのいない世界まで、どこまでもどこまでも歩いていけるんだという気がしていた。





◇◆◇◆◇





 相変わらず、影時間の月は目に痛い色をしている。怖いくらい大きな満月が、緑色の空に掛かっていた。
 明かりの消えた灯台を背に歩いていくと、その場所はある。ムーンライトブリッジ。昼夜問わず車の行き交いが激しく、ついさっきまでライトアップされていて、夜の闇のなかで光り輝いていたはずだ。
 今は潮風も止まり、どす黒い奈落の底みたいな海のなかに、ひどく頼りなく掛かっている。
 僕はひとりで歩いている。綾時の中に融けてしまったと思ったのに、目が覚めたらひとりでベッドの中にいた。綾時の姿はどこにもなかった。
 ただ奇妙な夢を見て、無性に不安になった。怖くてたまらなくて、子供が夜中に怖い夢を見て、枕を抱えて両親の部屋に駆け込むように、僕は綾時の姿を探していた。
 暗い蛍光色の世界を眺めていると、僕はひどい懐かしさを感じた。僕はこの場所を知っている。
 先月も僕はこの場所へ来たのだ。最後の大型シャドウ『ハングドマン』を討伐しにやってきた。でもそれよりずうっと前に、僕はこの路をこうやってふらふら歩いたはずだ。さっきまで見ていた夢に出てきた、白い怪物と黒い怪物は今はいない。
 僕の心の中で、何かが緩やかに解けていく感触がある。
 ただ僕はゆっくり歩く。不思議と静かな心地だった。今まで感じたことがないくらい。





――確信しました。普通の人間が、影時間に象徴化せず、こうして行動できるわけがない」





 耳慣れた声が聞こえて、見ると、橋の向こうにもう見慣れた姿があった。アイギスがそこにいる。
 彼女と向かい合うようにして、綾時が立っている。僕は彼の背中を見付けてひどく安心した。





「思い出したんです。私が、あなたを危険だと認識する理由。私達は十年前にもこの場所で遭っている。覚えていますか」





 駆け出そうとした足が前に出ない。なんだか異様な空気だった。張り詰めていて、僕はちりちりした不安を感じる。
 アイギスのあの様子は、完全に戦闘姿勢に入っている。僕は彼女に止めろと指示を出そうとした。人間を襲えなんて、そんな命令は誰も下してない。
 でも僕は、はっとした。綾時だ。彼もアイギスの痛いくらいの殺意を感じて、戸惑うでも逃げ出すでもない。彼はひどく当たり前のようにそこにいる。影時間の中にいるのに、象徴化もせずに立っている。
 二人は向かい合って無言で佇んでいる。まるで僕が知らない何がしかの合意が、彼らふたりの間で取り交わされているような感じだった。





「デス、あなたを倒す。それだけが、私の生きる証!」





 アイギスが跳躍する。僕は祝勝会の夜のことを思い出していた。制御が奪われた彼女は、シャドウなんかとは比べものにならないくらい恐ろしいのだ。
「綾時、逃げろ、アイギスはほんとにお前を殺すつもりだ!」
 僕は綾時に駆け寄って、彼の肩を掴んで怒鳴った。召喚器に手を掛けて、銃口を頭に押し当てる。ほんの少し乱暴になるかもしれないが、アイギス相手に手加減をすれば僕らが死ぬ。





――もう少し、なんだ。もう少しで、全部思い出せそうなんだ」





 綾時はいきなり僕を突き飛ばした。
 僕を背中の後ろにやって、綾時は僕を守るように両腕を広げた。
「下がって。大丈夫、君には傷ひとつ付けさせない」
「綾時!」
 無理だと叫び掛けて、僕は見た。アイギスの対シャドウ兵器が、透き通った障壁にことごとく弾かれているのを。彼女が召喚したパラディオンが、強い重力のようなものに圧し掛かられて、ひしゃげていく姿を。
「……お前……」
 僕は呆然と綾時を見た。彼が、やったのだろうか?
 綾時は何も言わずに佇んでいる。ひどく悲しげな顔だった。こんな状態でも僕の胸を深く抉るくらい。
「離れて!」
 アイギスの悲鳴が聞こえる。それは、僕を傍に置いている綾時に向けられるものだ。『あなたはダメです、その人に近付かないで』という、日常に良くある、彼女の駄目出しだ。そのはずだ。そうでなければ、僕の当たり前の日常はまた崩れていく。初めて影時間を体験してから、僕の中の『普通』はどんどん奪い去られていく。
「その人から離れて! 近寄らないでっ!!」
 アイギスの声はノイズ混じりになっても悲痛なものだった。「その人を連れて行かないで」という声が、微かに濡れているような気がして、僕は彼女が泣いているんじゃないかと思った。
「アイギス、」
 彼女の鋼鉄の装甲がぐにゃっと曲って、重い音がした。膝をついて、そのまま動かなくなる。僕は駆け出していた。
「アイギス!」
 彼女の肩を掴んで顔を覗き込むと、その目からはもう光が失われようとしていた。機械の身体を持っていても、彼女には心がある。意志のひかりがある。そいつが消えようとしていた。
 そうなっても、彼女は僕に必死になにかを伝えようとしていた。
――どうした。アイギス? どうして」
「ごめ……な、さ」
 アイギスは泣きそうな顔で、僕に謝っている。僕は彼女がどうして謝っているのか分からない。なんで急に綾時を襲っているのかも。
 でも僕は、彼女の『ごめんなさい』を知っている。いつか旧い記憶で、僕は確かに彼女の声を聞いているのだ。
「わたし……あなたを、守れなかった」
「……大丈夫だから。俺は大丈夫。だから心配するな。すぐに桐条先輩に連絡する。修理してもらえば、またきっといつもみたいに動けるようになるから」
 僕はしゃがみ込んで、アイギスを抱き締めて、背中を撫でてやった。彼女は消え入りそうな声で、「怖いです」と言った。
「死にたく……ない……」
「大丈夫。君は死なない」
 僕はできるだけ彼女を安心させられるように、「大丈夫だから」とゆっくり言い聞かせた。
「少し眠るんだ。次に目を覚ました時にもまた会えるから」
「……はい」
 それがきっと限界だった。アイギスの目からふっと光が消える。同時に、彼女の身体はただの機械に戻る。心がないだけで、彼女の身体はマネキンのようなものになってしまうのだと、僕は知った。





――僕、は……そうだ、十年前にもここで、彼女と戦った。ここでほんとの僕は、彼と初めて出会ったんだ」





 綾時の声が聞こえた。彼はアイギスを抱き締める僕を見ている。その顔は青ざめて、全身が震えていた。





「彼は、あの日もこうやって僕らの戦いの場所にいた。泣いてた――僕のせいで、僕が、」





 綾時はひどい衝撃を受けたみたいな顔をして、ふらふらと僕に近寄ってきた。そして今まで見たことがないくらいに辛そうな顔をして、掠れ声で、それを吐き出した。





「あの日、僕は君の父親を殺した」





 突然腕を強く掴まれて、僕は道路に転がされた。僕の身体を追うように綾時が馬乗りになって、彼は強い力で僕の首を絞めた。





「りょ……っ」
「君の中に封印され、君の胎内で育まれた。僕には君しかいなかったから、僕はいつしか君に恋をしていた」





 綾時の顔は蒼白だった。彼はぶるぶる震えながら僕の息を止めようとしている。
 そして目の前にちかちかした光が散りはじめた頃、僕の脳裏にぼんやりしたイメージが現れる。暗くて温かい闇のなかだ。僕はそこにいる。ひとりぼっちで蹲っている。寂しくて死んでしまいそうだ。
 ある時、僕は僕以外の誰かの息遣いを感じる。
 僕ははっと顔を上げ、辺りを見回す。誰か僕以外の人間がいるのかもしれないと、淡い期待を抱く。もしかしたら僕は、ひとりぼっちではないのかもしれないと。





「ううん、そんな綺麗なものじゃない。僕は君が欲しかった。ぼんやりした影に過ぎない僕に、君は手を差し伸べてくれた。はじめて君に笑い掛けられたあの時、君が僕に振り向いてくれるなら、僕は何にだってなれると思った」





 そいつは影みたいなかたちをしていた。でも不思議と怖くはなかった。
 野良の仔猫みたいに世界中の何もかもが怖くて仕方ないって顔でびくびくしていて、でもすごく寂しそうだったから、僕は手を伸ばしてそいつを撫でてやろうとした。
 ぼんやりしていたから僕の手はすりぬけてしまったけど、そいつは多分、それが嬉しかったんだと思う。それから僕らはずっと一緒にいた。





「僕はあの夜に呑み込んだ、君の最愛の人間の姿で君の前に現れて、」





 そいつはどうやら僕を『お母さん』と間違えているみたいだった。卵から孵った雛が初めて見たものを親だと思うように、いつも僕にしがみ付いて甘えていた。
 僕はいつしかそいつのことがすごく愛しく感じるようになっていた。そいつは世界で僕とたった二人きりの友達で、僕の子供なのだ。
 僕の上に乗ったまま綾時が泣いている。泣きながら僕の首を絞め続けている。
 彼はすごく苦しそうに、涙でべたべたに濡れた声で言った。




――君が一番愛する父親の姿で、君を犯した」





 僕は少し笑って手を伸ばした。綾時の頬に触って、ゆっくり撫でた。
 そうするといよいよ綾時は目をぎゅっと瞑って、口の端を引き結び、咽が詰まったような声を上げた。





――お母さん」





 僕は「泣かないで」と言おうとした。でも首が絞まって声が出ない。だからかわりに微笑みながら綾時の頬を撫でてやる。途方に暮れた自分の子供を放っておくことは、僕にはできない。





「ごめんなさい、おかあ、さん……」





 綾時は嗚咽を零しながら、僕に謝り続けている。
 ふいに遠くからいくつかの足音が聞こえてきた。呼び声も聞こえる。どれも耳慣れたものだった。





「アイギス! ――え?」
「リョージ? おまっ、影時間にこんなとこで何やって……つか、何やって……!」
「おまえっ、リーダーを離せよっ!」
「おい、生きているか?!」





 呆然とした顔で泣き続けていた綾時は、そこでやっと我に返ったらしく、僕の首を解放して、じっと自分の両手を見つめた。
 それから彼はひどく苦しそうに顔を歪めて、僕を抱き起こし、抱き締め、大声を上げて泣き出した。
――ごめん、ごめんねっ、ごめんなさ、きみを、守れなくて、こんなひどいことばっかり、僕は、僕は……!!」
 みんな呆気に取られている。僕もだった。あの子供の顔と、もう半分、僕の良く知っている顔が確かにそこにあったのだ。僕が大好きなその人の顔が。
 まさかもう一度、その人に会えるとは思わなかった。あの夜その人は影に融けていなくなってしまったはずだった。
 僕は少し不安になって、「りょうじ」とその人を呼んだ。
――りょうじ、……なの?」
「うん、うん……」
「……本当に? じゃ、僕を呼んでよ」
「うん……」
 綾時は目を擦り、息を詰まらせながら、どうにか「ちびくん」と僕を呼んだ。
 僕は驚いて、目を丸くして、でもあんまり嬉しかったから口元が緩んできた。
「……ほんとに、りょうじだ」
 僕は笑って「十年ぶり」と言った。
「もう一度あなたに会えるなんて、僕はなんて幸せなんだろ」







戻る - 目次 - 次へ